Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

告解(悔悛)の秘蹟ー天主の無限の愛と全能の前では私たちは一粒の塵ほどにもなりません!

2020年10月03日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2020年10月4日は聖霊降臨後第十八主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第十八主日の説教」の動画をご紹介いたします。

今日の主日を聖として良くお過ごしください。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

【説教全文】

兄弟たちよ、あなたたちがキリスト・イエズスにおいて賜わった天主の恩寵のために、私は絶えず天主に感謝している。あなたたちは、かれにおいて、全てのこと、つまり全ての言葉と全ての知識に富んだものとなったからである。それほど、あなたたちの中に、キリストの証明が固められた。こうしてあなたたちは、霊的なたまものにも欠けることなく、主イエズス・キリストのあらわれを待っている。かれはあなたたちを、主イエズス・キリストの日に、咎なきものとするために、終りまで固め守られるだろう。

そのとき、イエズスは、舟にのって海を渡り、ご自分の町においでになった。すると、人々が、床に寝ている中風の人を、みもとにつれて来た。イエズスは、かれらの信仰を見て、中風の人に向かい、「子よ、信頼せよ。あなたの罪は、ゆるされた」とおおせられた。そのとき、ある律法学士たちは、心の中で、「この人は、冒涜のことばを吐いた」と思った。イエズスは、その人たちの考えをみぬいて、「なぜ、あなたたちは、心の中で、よからぬことを考えているのか。あなたの罪はゆるされた、というのと、起きて行け、というのと、どちらがやさしいか?人の子が、地上で、罪をゆるす権力をもっていることを知らせるために……」。そういって、中風の人に向かい、「起きて、床をとって家に帰れ」とおおせられた。病人は、起きて、家へ帰った。群衆はこれを見ておそれ、これほどの権力を人間にお与えになった天主を賛美した。

 

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は2020年10月4日聖霊降臨後第十八主日です。一緒に今日の福音を黙想ましょう。

【1:今日の福音に出てくる床に寝ている中風の人】

天主は愛である。天主は私たちを愛し、私たちを三位一体の愛のまどいに招いておられます。私たちは、天主との愛における一致、いわば霊的な婚宴に招かれています。

今日の福音では、イエズス・キリストはご自分が罪を赦す力をお持ちであることを証明します。つまり、罪を赦すことも、中風をたった一言で癒すことも、天主にしかできません。イエズス・キリストはこの天主の権能を持っていることを証明します。

イエズスは、舟にのって海を渡り、ご自分の町に来られます。ここで「ご自分の町」とはガリレアの中心地であるカファルナウムのことです。イエズス・キリストはベトレヘムでお生まれになり、ナザレトでお育ちになり、カファルナウムをご自分の町として公生活を過ごされます。

福音の中風の人は「床に寝て」いましたが、人々が彼らを主の前に運んできます。主は奇跡の前に頻繁に信仰を要求しますが、今回は、中風の人の信仰というよりは彼を運んできた「かれらの信仰を見て」これを嘉(よみ)し、ご自分の天主としての力を見せます。「子よ、信頼せよ。あなたの罪は、ゆるされた」と。

自分では体を動かすことさえできなくなっていた弱弱しいこの男はおそらく人々の軽蔑の対象だったことでしょう。このような病気で苦しむのは、この人の罪の罰であると人は考えていたかもしれません。しかし、私たちの主は彼にこう言います。「子よ!」「私の大切な子供よ!もう大丈夫だ!Confíde, fili !」

ところがそれを見ていたある律法学士たちは、イエズスのことを天主御父と等しい天主御子とは考えていませんでした。つまり「人間となった天主の御言葉」であるとは思っていませんでした。そうではなく単なる人間でしかないと思っていたので、心の中で「この人は冒涜のことばを吐いた」と思いました。

天主だけが人間の心の秘密を読み取ることができます。イエズスは律法学士たちの心の考えを知り、ご自分が天主であることを示そうとします。ご自分の言葉を目に見える奇跡で確認させます。霊魂は肉体よりも偉大です。罪の赦しは肉体の癒しよりも偉大です。イエズスはこの両者に健康を与えます。

一瞬のうちの、霊魂の癒しと肉体の癒しというこの両者は、天主だけができることです。ただし、罪の赦しに関しては罪を赦した人しかそれを知ることができません。しかし立って歩くことができたか否かは、周りの人にもわかります。

そこで「人の子が、地上で、罪をゆるす権力をもっていることを知らせるために」、ご自分が聖父と等しいことを証明するために、中風の男にこう命じます。「起きて、床をとって家に帰れ!」すると、見てください!病人はムクリと起きて、そのまま家へ帰ったのです。群衆は正しく理解しました。イエズスは天主の子であると。御父と等しい力を持っている天主であることを。

聖ヒラリオによれば、神秘的な意味で、イエズスは、舟にのって海を渡り、ご自分の町に来られますが、御自分の町とは天主の国であり、天主の国に行くための船は教会です。

聖グリソロゴは、キリストが船を必要としていたのではなく、船がキリストを必要としていた、何故なら天主なる船長が教会という船を導かなければ、この世の荒波の海を通って天の港にたどり着けないからだ、とも言います。

聖ヒラリオは、この中風の人において、全世界の人々に癒しが提供されていることが示されている、人類の復活の力も示されている、中風の人はイエズスに「子よ」と呼ばれたが、それは人間が天主の創造の愛の御業であるから、と言います。

「床に寝ている中風の人」は、何世紀もの間、罪のために動けずに横たわる人類のイメージでもあります。彼は最高の医者であるイエズスのもとに運ばれます。彼が「起き」たのは、霊魂が肉体の情欲を捨ててたことのイメージ、「床を取った」のは肉体が地上の欲望を捨てて霊的な楽しみを求めることのイメージでもあります。「家に帰った」のは、天国に行くこと、あるいは罪に対する警戒をすることのイメージです。大聖グレゴリオは「床」は肉体の快楽を意味していると言います。

【2:現代の床に寝ている中風の人】

天主は愛である。天主は愛し続けます。天主は永遠の昔から永遠の未来まで愛します。天主の愛とは天主ご自身です。天主にとって愛することこそが天主の生命であり喜びです。全ては天主の愛の洪水に飲み込まれています。

天主は、愛によって人間を創り、天主に逆らって罪を犯した人間を赦すために、愛によって人間となりました。人となった天主の御言葉は、私たち人類に、ご自分の愛の神秘を証ししようとされます。人となった真の天主なるイエズス・キリストは、様々な教えと奇跡をもって、天主のあわれみの愛の神秘を教えます。

今日の福音の奇跡もその一つです。イエズスにとって体の健康が最も重要なのではありません。そうだったなら、全ての病の人びとを癒されたことでしょう。そうではなく、この癒しを通して、私たちを愛する天主である神秘を教えようとするのです。

天主は、罪を犯して一人で天国に向かって歩けなくなった人類を赦し、癒し、高めることを欲しています。私たちがもう一度、信頼をこめて天主に「父よ!お父さん!」と呼びかけることを欲しています。

イエズス・キリストは、カトリック教会という船を導いておられます。愛に満ちあふれるイエズスの聖心は、波立つこの世を渡りながら、罪に傷つき横たわる人類を見て、憐みの愛の心で同じ言葉を繰り返します。「子よ、信頼しなさい。あなたの罪は、ゆるされた」と。傲慢と情欲とで罪の病に苦しんでいた人々は、イエズスの聖心の愛を信じて祈る人々の痛悔と情念の克己と償いという徳によって、教会のもとに運ばれてくるかのようです。

特に21世紀の現代、天主の愛から離れ、不潔と快楽とを追求すればするほど、天主を憎むほどの自己愛がどこもかしこにも覆い広がれば広がるほど、人間の心はますます虚(うつ)ろに空っぽになり、全てが虚(むな)しく思われています。人びとが罪に溺れれば溺れる程、ますます心は飢え渇いていくようです。

科学技術が発展し、人類の理性が発見した知識がインターネットなどで簡単に見聞きすることができるにもかかわらず、真の天主への信仰がないゆえに、富や権力を迷信的に崇拝し、自分の情欲を偶像であるかのように満足させる知識だけを得ようとしているかのようです。

私たちの祖国日本では、たとえ物質的に豊かで名声や財産には恵まれていたとしても、人びとの間では自殺や安楽死がますます増えてしまっています。正に、このような現代にこそ、イエズス・キリストの憐みが必要です。罪の赦しが必要です。洗礼による罪の赦しが必要です。

ところでたとえ洗礼を受けて罪をきれいに赦されたとしても、洗礼後に不幸にして大罪を犯すならば、天主を霊魂から追い出し、地獄の死にふさわしい者となってしまいます。イエズス・キリストは、憐れみ深い愛によって、たとえそのように天主を裏切るような不幸があったとしても、痛悔するなら罪の赦しを受けることができることを欲して、改悛の秘蹟(告解の秘蹟)を制定しました。

つまり、教会の花婿であるイエズス・キリストは、天主の永遠の正義を満足させるために花嫁のためにご自分の尊い血潮を全て流して、花嫁を得るための贖いの結納を十分すぎる程支払った後、復活の主日に、罪の赦しのための改悛の秘蹟を制定されました。教会の執行する改悛の秘蹟により罪の赦しの言葉を受けると、その瞬間に罪が赦され、起きて、私たちの家、永遠の天国へ帰っていくのです。

【3:床に寝ている中風の私】

天主は愛である。イエズスの聖心は私を愛されます。イエズスの聖心は溢れるほどの愛を与え、恵みを与え続け、光で照らし続けておられます。

私は、それにもかかわらず、弱く、みじめで、盲目で、恵みに答えようとしませんでした。私の過去は、お恵みを無駄にし、不忠実であり、弱さの連続でした。私の今は、みじめさと不足でいっぱいです。

しかし、天主の無限の憐れみ深き愛の前で、私のみじめさはあまりにも小さく、大洋の大海原に沈む一粒の砂の粉ほどもありません。砂の一粒のために、大海は高波を起こして砂浜に打ち寄せることができなくなってしまうのでしょうか?天主の全能の愛は、私の弱さやみじめさに勝らず、これをのり超えることができないのでしょうか?

愛する兄弟姉妹の皆様、皆様のみじめさと私のみじめさと、今、世界中にいる全ての人々のみじめさを全て合わせたとしても、天主の無限の愛と全能の前では一粒の塵ほどにもなりません。

もしもそう考えたとしたら、何と信仰が無く、信頼が足りない、愛がないことでしょうか!旧約のファリザイ人たちが法の文字面にとらわれて、形式的に外面だけの法の遵守に満足し、憐みの心を忘れていましたが、私たちも、もしも天主の憐み深い愛を忘れると"新約のファリザイ人"たちに成り下がってしまいます。

私たちは、全てにおいて天主の愛を見ることができる恵みを願いましょう。ここに赤い彼岸花が咲いているのも、きれいな満月が空に見えるのも、私がここにこうやって生きているのも、全ては天主の愛の業です。願わくは、私の知性が常に天主の愛を見出しますように。私の意志が常に天主を愛するために全てを行いますように。

もしも私が罪を犯してしまったなら、信頼と愛とをこめて天主のもとに、イエズスの聖心の愛が制定した秘蹟である告解に行くことができるお恵みを祈りましょう。もしも、百回罪を犯してしまったら、百回痛悔と信頼と愛をこめて告解に戻ることができますように。

被造物である私が、私を創造し、聖寵の命に生み出した天主に信頼し、愛しするのは、正しいことだからです。私のみじめさと無を素直に認めることは、天主の喜ばれる謙遜だからです。

告白の秘蹟、これは天主の愛と全能に対する賛美です。

告白の秘蹟、これは霊魂が天主の全能を認め、天主の正義に自分を与え、天主の智慧に信頼し、天主を愛をこめて礼拝することです。天主の愛を認めてこれに信頼するのは、天主の聖心にどれほどの喜びを与えることでしょうか!

イエズス・キリストは、御復活の後、ご自分を裏切ったシモン・ペトロに求めたことは愛だけでした。三度否んだペトロにイエズスは三度、愛の告白を求めます。「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たちより以上に私を愛しているか?」「主よ、そうです。あなたがご存じのとおり、私はあなたを愛しています!」

「ヨハネの子シモン、私を愛しているか?」「主よ、そうです。あなたがご存じのとおり、私はあなたを愛しています!」

「ヨハネの子シモン、私を愛しているか?」「主よ、あなたは全てをご存じです。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです!」

聖パウロは言います。「兄弟たちよ、あなたたちがキリスト・イエズスにおいて賜わった天主の恩寵のために、私は絶えず天主に感謝している。」

天主の愛について、全ての言葉と全ての知識に富んだものとなったことを、聖パウロと共に感謝しましょう。

最後に、聖母の汚れなき御心に祈りましょう。聖母は主に信頼して「仰せのごとく我になれかし」と答えました。私たちがイエズスの愛をいつも信頼するすることできますように。

イエズスは、かれらの信仰を見て、中風の人に向かい、「子よ、信頼せよ。あなたの罪は、ゆるされた」とおおせられた。



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