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聖ピオ十世教皇自発教令 Sacrorum antistitum (1910年9月1日): 近代主義の誤謬に反対する誓い

2019年04月02日 | カトリックとは
近代主義の誤謬に反対する誓い
聖ピオ十世教皇自発教令 Sacrorum antistitum (1910年9月1日)による

 聖なる司教たちの誰一人 [Sacrorum antistitum neminem] として、近代主義者と呼ばれる類の人々、すなわち回勅『パッシェンディ』(パッシェンディ日本語訳続き 日本語訳続続) を通して彼らの身につけている人格を描写された人々が、教会の平和を乱そうと、その活動を止めることがなかったと言うことを知らない者がないと私は思います。彼らは、地下組織を作り広めるためにその信奉者たちを募るのを止めようともしません。このようにして、彼らはキリスト教社会の動脈の中に彼らの教えのウイルスを注入し、署名なく或いはペンネームを使って本や、記事をいろいろと出版しています。私の既に上で述べた回勅をよく読めばこの故意的なずる賢さは、私が描写したこのような人々にあって驚くに値しません。彼らは、近くにいればいるだけますます恐るべき敵なのです。彼らは自分たちの役務を利用し、自分たちの毒を盛られた食べ物を人々に差し出し、警戒していない人々を突然捕まえるのです。彼らは、全ての誤謬の大集成である偽りの教えを提示するのです。

 主の牧場には、最善の実りだけが求められているにもかかわらず、この主の牧場の一部に広がっているこのペストを前にして、信仰の擁護のために働き天主の遺産の完全性が些かも傷つくことのないように一生懸命見守ることは、全ての司教たちの責務です。また私たちの主イエズス・キリストはペトロに「おまえの兄弟たちを堅めよ」と言われ、そのペトロの首位権を私は不肖ながら保持しているので、主のご命令を成就するのはとりわけ私の責務であります。従って、今戦われているこの闘いにおいて良い霊魂たちに新しい力を与えるために、上記の回勅の言葉と規定とを文字通り思い出すのに、良い機会であると私に思えます。

すなわち、

 I. 「それゆえ、尊敬する兄弟たちよ、私はこれ以上の遅れを許さず、より有効な手段を適用することを決断するに至ったのです。私は、このいたって重大な事柄において、誰もあなた方がたとえほんのわずかでも警戒心、熱意、あるいは強固さに欠けていた、と言う余地のないように注意するよう、あなた方を励まし、かつ命じます。そしてあなた方に要請し、かつ期待することを、同様に他の全ての霊魂の牧者、全ての教育者、ならびに聖職者の教育を担当する教授、そして特別に修道会の長上に要請し、期待します。」

 スコラ哲学 「第一に、学問研究について述べるならば、私はスコラ哲学が聖なる諸学問の基礎とされることを望み、かつ厳格に定めます。無論、「もし何であれスコラ学の博士たち[の思想]の中で、過度の細緻さをもって考究された、ないしは充分な考察を欠いて教えられたと考え得るもの、また後生の研究によって得られた確実な研究成果にそぐわないもの、要するに、もっともらしさに甚だ欠ける一切のものを、現代の人々に、倣うべきものとして提示する意志を私はいささかも有していません。」また、何よりもまず、私がスコラ哲学を用いるべきものとして指定する際、私が主に意図するのは天使的博士(聖トマス・アクィナス)が私たちに残したところのものである、ということをよく了解して下さい。そしてこのため、この問題に関して前任者[レオ13世]が定めた全ての教令は、完全にその効力を保持しているのであり、また、必要である限り私自身も、それらが全ての人によって厳格に遵守されるべきことを新たに布告かつ確認し、命令します。これらの教令が守られていなかった神学校については、今後それらの遵守をより厳しく課し、要求することが司教たちの務めとなりますが、同様の務めは諸修道会の長上にもあります。さらに、私は教授たちに「特に形而上学的な問題を扱うに当たって、聖トマスをないがしろにするなら、重大な不都合を生む」ということをよく念頭に置くよう勧告します。」

 健全な神学の促進「この哲学的基盤の上に神学の構築物が注意深く築き上げられねばなりません。尊敬する兄弟たちよ、持てる限りの力を尽くして神学の学習を奨励しなさい。そうすれば、あなた方の聖職者たちが神学校から出てくる時には、それに対する深い嘆賞と愛好心とを抱いており、そしてその中にいつも喜びの源を見出すことができるでしょう。と言うのも、「真理を求める精神の前に開かれた広大かつ多様な学問研究の中にあって、神学が支配的な地位を占めることは、皆に知られていることです。古の賢者の格言に従えば、神学に奉仕し、下女のようにかし仕えることが他の諸学芸の義務なのです。」私はこれにつけ加えて、伝統ならびに教父、および教会の教導権に対するこの上なく深い尊敬を心に抱き、よく均衡のとれた判断に基づき、そしてカトリックの諸原理によって導かれて(誰もがこのような態度を有しているわけではありません)実証神学に真正な歴史の光を投じようと努力する者たちは、称賛に値するということを述べておきます。実証神学が過去におけるよりも、より高く評価されることは確かに必要なことです。しかるに、このことはスコラ哲学に損失を与えることなしに為されねばなりません。そして、スコラ的神学を軽視するように見受けられるほど実証神学を礼賛する者は、近代主義者として拒絶されねばなりません。」

 神学以外の学問の役割「神学以外の学問に関しては、私の前任者が見事に言い表したことを思い起こすにとどめておきます。「自然科学の研究に熱心に励みなさい。この学問分野において、かくも輝かしく発見され、かくも有益な仕方で応用されて、現代の人々の感嘆をさそっている諸々の事物は、私たちの後に続く者たちにとって称賛の的、また倣うべき模範となるでしょう。」しかるに、これは聖なる諸学問に干渉することなしに為されねばなりません。同じ前任者[レオ13世]が、次のいたって重みのある言葉で定めているようにです。「もしあなた方がこれらの誤謬の原因を注意深く探るならば、あなた方はそれが、自然科学がかくも多くの研究の対象となっている近年、より峻厳で高尚な諸学問がその分だけ疎(うと)んじられている事実に存することを見い出すでしょう。その中のいくつかは、ほとんど忘却に付され、また他のいくつかはぞんざいな、あるいは表面的な仕方でしか考究されず、そして残念なことに、旧来の地位の栄華がかげりを見せるにつれ、これらの学問は有害な教条と甚だしい誤謬とによって醜く歪曲されてしまうに至りました。」それゆえ、私は神学校における自然科学の学習がこの法規に則ってなされるよう命じます。」

 II.  実際上の適応「私自身および私の先任者たちによるこれら一切の規定は、神学校およびカトリック大学の校長と教授の選出に当たって常に遵守されるべきものです。どのような点であれ、近代主義に染まっていることが分かった者は誰でも、管理ないしは教授に携わるこれらの役職からためらうことなく除外され、またすでにそういった役職に就いている者たちは、その座を追われねばなりません。同様の方針が、密かにあるいは公然と近代主義を支持する者たちに対して適用されなければなりません。このような者たちとは、つまり、近代主義者たちを誉めそやしたり、彼らの咎むべき所行を弁護したり、あるいはスコラ主義、教父、および教会の教導権に言い掛かりをつけて非難したり、さもなくば教会の権威に対する従順を、どのような種類の権威に対してであれ、拒む者たちです。この方針はまた、歴史や考古学、聖書釈義学において新奇な説を立てたがる者たち、さらには神聖な諸学問を軽視し、世俗的な学問を優先するように見受けられる者たちにも適用されます。尊敬する兄弟たちよ、学問研究に関するこの問題において、あなた方は警戒しすぎたり、堅実すぎることはあり得ませんが、とりわけ教授の選択において特にそうです。と言うのも、概して生徒[の心]は自分の教師の模範にしたがって形成されるからです。この問題に当たっては、自らの義務を強く自覚しつつ、常に賢慮と力強さをもって行動するようにして下さい。」

 教育の分野で求められる慎重さ「司祭叙階の候補者を審査し、選択する際にも、同様の慎重さと厳格さをもって当たらなければなりません。聖職者には新奇なことがらに対する愛好心が微塵もありませんように!天主は傲慢で頑なな心を嫌われます。今後は、神学および教会法の博士号は、まず第一にスコラ哲学の正規の課程を修了した者以外には、決して授与されないようにしなければなりません。もし、この規定に反して授与された場合には、全く無効のものとして見なされます。1896年にイタリアの「在俗ならびに修道司祭のための司教・律修者聖省」により定められた大学の頻繁な視察に関する規定が万国に範囲を広げて適用されることを私は命じます。カトリックの研究所もしくは大学に在籍する修道者ならびに司祭は今後、自らが所属する研究機関で開講されている科目を、カトリック以外の大学で履修してはいけません。もし、旧来このようにすることが許されていた所があれば、今後はもはやそれが許されないようにすることを私は定めます。カトリックの研究所ないしは大学の理事会に名を連ねる司教たちは、私が定めるこれらの命令が不断に守られるよう、細心の注意をもって見張らねばなりません。」

 III.  出版物の入念なチェック「近代主義者たちの著作、あるいは何であれ近代主義の気味があるか、それともこれを支持する著作が、もしすでに出版されているなら、これが読まれることを、そしてもしまだ出版されていないならば、その刊行を妨げることもまた、司教らの義務です。この種の書籍、新聞、定期刊行物は何であれ、神学校あるいは大学の学生の手に渡らないようにしなければなりません。このような著作によって彼らにもたらされる害は、不道徳な書物の読書による害に劣りはしません。いいえ、それどころか前者による害は後者によるそれよりも大きなものであるでしょう。なぜなら、この種の著作はキリスト教的生活を、そのまさに源において毒してしまうからです。同様の処置が、悪意があるわけはないにしても、神学の正しい素養に欠け、現代哲学にそまり、これを信仰と調和させ、そして彼らの言うところによれば、これを信仰の益となるものへと転ずるよう努める一部のカトリック者に対しても取られるべきです。こういった著者の名声と評判は、その著作を疑いの念をもたずに読ませることとなり、それゆえ彼らは近代主義への道を徐々に準備するという意味で、いっそう危険なのです。」

 印刷出版許可と無害証明「尊敬する兄弟たちよ、さらにいくつかの一般的な指示を加えるならば、このように重大な事柄において、あなた方が持てる力を尽くして、自らに託された司教区から必要ならば荘厳な発行禁止処分をもって、当地に出回っている有害な書物を排除することを命じます。聖座はこの種の著作を除去するに当たって、可能な限りの手段を講じますが、こういった出版物の数があまりにも増えたために、その全てを検閲することはほとんど不可能です。そのため、治療薬が届くときには、もう遅すぎるということが往々にしてあります。と言うのも、病気はこの遅延の間に根を張ってしまうからです。それゆえ私は、司教らがあらゆる恐れと肉の賢慮とを打ちやり、悪意の人々の上げる叫び声を横目に、無論優しく、しかし断固として、教皇教令『オフィチオルム』におけるレオ13世の次の指示を念頭に置いて、この事業における自らの分担を果たすことを望みます。「この事柄においても聖座の代理者である司教たちは、自らの司教区内で出版され、あるいは出回っている有害な書籍ないしはその他の出版物を禁止し、信徒の手に届かないようにするよう勉励しなければなりません。」この一節において、司教たちが一定の行動をとる権限を付与されているのは事実ですが、しかし彼らは自らに課せられた義務をも有しています。いかなる司教も、一つないし二つの書籍を私のもとに、排斥されるべきものとして報告することで自分の義務を果たしたと思い、それに類したおびただしい数の書籍が出版され、流通するままにしておくなどということがありませんように。また、あなた方は、ある書物が他の所で一般に印刷出版許可と呼ばれる許可を得たからといって、それで自分の務めの執行が妨げられるようなことがあってはいけません。なぜなら、これは単に[そのような許可を得たと]見せかけることも可能であり、またこれは不注意もしくは行き過ぎた寛容さ、あるいは著者に対する過度の信頼のために与えられたかも知れないからです。特に最後のケースは、ともすれば修道会において往々にしてあったことではないでしょうか。また、ちょうど同じ食べ物が誰の体質にも合うのではないのと同様に、ある書物が、ある場所では無害なのに、状況の相違のために他の場所では有害である、ということがあり得ます。ですから、ある司教が賢明な者たちの助言を得て、自らの司教区でこの種の著作のあるものを排斥するのが適当である、と判断したとすれば、私は彼がそのように行う充分な権能を与え、かつそのように行う義務を課します。これら一切のことは[状況に応じた]ふさわしい仕方で為されねばなりませんが、ある場合には、聖職者のみに対象を限定した禁止を出すことで事足りるでしょう。しかし、いずれにせよカトリックの書籍販売者には、司教によって排斥された書物を店頭に置かないようにする義務があります。そしてこの問題を扱うに当たって、私は司教らに、書籍商が利得への熱望に駆られて悪辣な商売に身を染めることのないよう注意することを望みます。一部の書籍商のカタログにおいて、近代主義の著作が往々にして、決して少なからぬ賞賛と共に広告されているということは、確かな事実です。彼らが従順を拒むならば、司教らはしかるべき勧告の後に、彼らからカトリック書籍商の称号を一切の会釈なく奪わなければなりません。このことは、より一層重大な理由のために、司教付き書籍商の称号を持つ者たちに当てはまります。もしも[近代主義をはらんだ書物を販売するところの]彼らが教皇庁付き書籍商の称号を有しているならば、彼らは使徒座へ告発されねばなりません。最後に、私は皆に前述の教皇令『オフィチオルム』の第26条を思い起こさせて、この章を閉じることにします。「禁止された書物を読み、かつ保管する教皇よりの権能を得ている者は誰であれ、このことにより、当該地区の管轄司教によって禁じられた書籍ならびに定期刊行物を読みかつ保管する権限を与えられているわけではありません。このようにすることが許されるのは、教皇より与えられた権能が、誰によって排斥された書物であれ、これを読み、保管する許可を明示的に与えている場合に限られます。」」

 IV.  検閲「悪書の読書と販売を妨げるだけでは充分ではありません。こうした書物が出版されるのを防がなければならないのです。それゆえ、司教らは出版許可を与える際には、最大の厳格さをもってなさなければなりません。教令『オフィチオルム』において定められた規則にしたがって、多くの出版物は管轄司教の認可を必要とし、また一部の司教区では、著作物の審査のための公式の検閲者を適当数置く───これは、司教がそれら全てを自ら逐一目を通すことができないからですが───ことがならわしとなっています。私はこのような検閲者の制度をきわめて高く評価しており、それゆえ私はこの制度が全ての司教区に広げられることを勧めるのみならず、命じます。したがって、全ての司教教区庁において、出版を意図した著作の検定のための検閲者を任命し、また、検閲者は在俗および修道者という聖職者の2つの身分から選ばれた、その年齢、知識、ならびに賢慮のゆえに、判定を下すに当たっては安全かつ至当な手段を採択するような者たちでなければなりません。出版の許可を必要とする一切の著作物を、先述の教令中の第41条ならびに第42条にしたがって検閲することが彼らの職務となります。検閲者は判定を文書のかたちで出します。もしその判定が肯定的なものであれば、司教は「印刷出版許可」という言葉で出版の許可を与えますが、これは必ず「無害証明」および検閲者の氏名の後に記されねばなりません。ローマ聖庁においては、他の司教区と同様に公式の検閲者が任命され、その選出はローマ司教総代理によって推挙され、教皇により承認され、受け容れられた上で、教皇宮廷付き神学顧問によって任命されなければなりません。また、個々の著作に対して検閲者を割り当てることも教皇宮廷付き神学顧問の職務となります。出版の許可は、この教皇宮廷付き神学顧問もしくはローマ司教総代理ないし教皇総代理枢機卿によって与えられることになりますが、これは先に述べたとおり、「無害証明」と検閲者の氏名との後に記されねばなりません。司教の賢明な決断に基づいて、きわめて稀で特別な場合にのみ、検閲者の氏名を省略することができます。検閲者の氏名は、彼が肯定的な判定を下すまでは、決して明かされてはなりませんが、それは、彼が著作物の検閲に当たっている間、また万一承認を出すのを手控えた場合に不都合を被らないためです。検閲者たちは、管区長、あるいはローマの場合、総長の[当の者たちに関する]私的な見解が得られた上でなければ修道会からは決して選出されてはならず、またこの際、管区長ないし総長は、当の候補者の人格、知識、ならびに[信仰・思想上の]正統性について誠実に述べなければなりません。私は諸修道会の総長に、彼らの管轄下にある修道会員が、彼ら自身および教区司教の許可なしにいかなる著作も刊行することを決して許さない、というきわめて厳粛な義務を忘れぬよう勧告します。最後に、検閲者の称号は、[それ自体として]何の価値もなく、また、それを与えられる者の私的な見解に信頼性をもたせるために利用されることは一切できないことを私は断言し、かつ宣言します。」

 編集者として働く司祭についての注意「以上のことを一般的に述べた上で、私は特に、先述の教令『オフィチオルム』の第42条がより注意深く遵守されることを命じ、定めます。すなわち、この条項では「在俗司祭が教区司教の事前の許可なしに新聞もしくは定期刊行物の編集に当たることは禁じられる」と、されています。この許可は、誰であれ、勧告を受けながらもあえてそれを濫用する司祭からは剥奪されなければなりません。定期刊行物の通信員ないし寄稿者である司祭については、彼らが近代主義に染まった記事を自分たちの新聞や定期刊行物に寄稿するということが往々にしてあるので、司教らは、彼らがこの点について過誤を犯さないように目を配る必要があります。そして、もしかかる事態が生じたならば、当の者に警告を発し、執筆を禁じなければなりません。私は同様に、諸々の修道会の総長にもこの同じ義務を果たすよう荘厳に命じ、そしてもし彼らがこの職務をよく果たさないならば、司教たちが教皇からの権威をもって適当な措置を講じなければなりません。また、それが可能である限り、カトリック者によって書かれた新聞ならびに定期刊行物を担当する特別の検閲者が任命されるようにして下さい。その職務は、刊行された新聞および定期刊行物の毎号に適宜目を通し、もし何か危険な要素を見つけたなら、これがすぐさま訂正されるよう命じることです。司教も同じ権限を有しますが、司教はこれを、検閲者がある出版物中に何ら問題を見出さなかった場合でも行使することができます。」

 V.  司祭会議「私は先に、会議や公の会合を、近代主義者たちが自分たちの見解を喧伝かつ擁護するために用いる手段の一つとして挙げました。今後、司教らは司祭たちによる会議conventus sacerdotumを非常に稀な場合を除いて許可してはなりません。もし司教たちがこれを許可する場合、司教たちもしくは使徒座に属する事柄がそこで取り扱われず、また神聖な権威の横領を暗に意味するような決議もしくは請願を出すことが許されず、さらに、近代主義や長老主義、あるいは俗化主義の気味のあることが全く何一つ発言されない、という条件でのみ、これを許すことができます。文書での許可が適宜、個々の場合に与えられた上でのみ開くことのできるこの種の会議においては、他の司教区の司祭が自分の属する教区の管轄司教の文書での許可なしに臨席することは法規上許されません。さらに、いかなる司祭もレオ13世の荘重な推奨の言葉を忘れてはなりません。「司祭たちは自らの牧者[である司教]の権威を、神聖なものとして捉えるようにしなければなりません。また司祭たちは、司祭としての役務がもし司教らの指導のもとに行われるのでなければ聖くも、甚だ実り豊かであることも、あるいは尊敬に値するものでもないことを確実なこととして見なさなければなりません。」」

 VI.  司教区ごとの「警戒協議会」の設置「しかし、尊敬する兄弟たちよ、こうした私の命令と規定のすべては、もしそれらが忠実かつ断固として実行に移されるのでなければ、一体何の役に立つでしょうか。そのためには、何年も前に、ウンブリアの司教たちが優れた知慮をもって彼らの教区民のために定めた規定を、全ての司教区に拡大して適用することが適当であると思われます。その規定とはすなわち、「すでに広められた誤謬を根絶し、また、それがさらに伝播してしまうのを防ぐため、さらにはこのような誤謬の伝播によるきわめて悪い影響を恒常化させている、不敬虔の教師らを取り除くため、この聖なる会議は聖カルロ・ボロメオの範に倣い、各司教区に協議会を設置することを決定しました。この協議会は、承認を受けた、聖職者の2つの区分からのメンバーによって構成され、その職務は、種々の誤謬ならびに新たな誤謬が紹介され、伝播される手段の存在を察知し、司教にそれら一切を報告することです。これを受けて司教は、彼らと協議をはかり、害悪をその端緒でくい止め、それが広まって人々の霊魂の堕落へとつながること、あるいはさらに悪いことに勢力を得て増大することを防ぐために最良の手段を模索するのです。」ですから、私は全ての司教区において「警戒協議会」とでも言うべきこの種の協議会が直ちに設立されることを命じます。この成員となる司祭らは、先に検閲者の選出について述べたのと同じような仕方で選ばれ、司教の立ち会いのもと、2か月ごと決められた日に会合することになります。同協議会のメンバーは、討議ならびに決定の内容に関して秘密を守る義務を課されますが、その職務には次のことが含まれます。すなわち、出版物および教育において見出される近代主義のあらゆる痕跡と印をきわめて入念に見張り、そして聖職者および若者をこれから守るために、あらゆる賢明かつ迅速で効果的な手段を用いることです。彼らがレオ13世の次の訓戒を思い起こして新奇な言葉遣いと闘いますように。「カトリックの出版物中に、信徒の敬虔な信心を嘲笑い、キリスト者の生活の新しいあり方の導入や教会の新たな方針、現代人の霊魂の新たな渇望、聖職者の新しい社会的召命、ならびに新しいキリスト教的文明、その他これに類した多くの事について述べ立てるように見受けられる、不健全な新思想に息吹かれた文体を認めることは到底できません。」ここで指摘されているような言葉遣いは、書籍においても講義においても許されてはなりません。当協議会はさまざまな所で保持されている敬虔な伝統、あるいは聖なる遺物を取り上げている書物を省みずにおくことはできません。当協議会はまた、信心を育むべき新聞または定期刊行物において、こうした事柄が嘲笑や軽蔑の念をにじませた表現で、あるいはあたかも教義であるかのように断定的な筆致で取り扱われることを許さないようにしなければなりません。後の点に関しては、確実な事実として述べられていることが、───しばしば見受けられるように───蓋然性の域を出ないか、あるいは先入観の混じった見解に基づいている場合、特に注意しなければなりません。聖遺物については、以下の規則に従わねばなりません。もしこの種の事柄における唯一の判定者である司教たちが、ある遺物が真正なものでないことを確実に了解したならば、即刻それを信徒の崇敬から遠ざけるように。また、もしある遺物の証明が国内情勢の混乱や、その他の事情により紛失してしまっている場合、司教がその真正さを確認するまでは、それを公の崇敬のために公開しないように。時効あるいは「充分な根拠のある想定」という議論は、ある聖遺物が、1896年に免償・聖遺物聖省から発布された以下の法令における意味での「古さ」のゆえに[それに対する信心が]推奨に値する場合にのみ、有効なものとなります。「古えの遺物は、個々のケースにおいて、それが偽造あるいは偽物である、ということを実証する明白な議論が存在するのでない限り、それが常に受けてきた崇敬を保持するべきである」からです。

敬虔な伝統について判断を下す際には、この事柄について教会は最大の賢慮を払っていること、さらに教会は、この種の伝統がきわめて慎重な注意をもって、またウルバノ8世教皇により義務として課された宣言文が挿入されるのでない限り、書物にて言及されないことを常に念頭に置かなければなりません。そして、この場合にも教会はそこで述べられている事実の真正さを保証するのではなく、ただ単に、人間的な意味での証拠に欠けていない事物を信じるのを禁じはしない、ということにとどまります。この問題について30年前、礼部聖省はに次のように規定しました。「これらの出現や啓示は聖座によって承認されたのでも排斥されたのでもなく、ただそれらが純粋に人間的な信仰によって、またそれら[自体]が語るところの伝統に基づき、信憑性のある証言ならびに文書記録によって裏打ちされた限りで、[人々によって]信じられることを許す、ということに過ぎません。」誰であれ、この規則に従う人は何も心配する必要がありません。何らかの出現に基づく信心については、それが事実自体に関する限り、すなわちその信心が相対的なものである限り、当の事実が真実のものである、という条件を常に含みます。他方、それが絶対的なものである限りにおいては、その対象となるものが崇敬されている聖人たちの人格であるという意味で、それは常に真実に基づいています。同じことが聖遺物に関しても言えます。最後に、私は諸々の警戒協議会に、たゆまず熱心に社会的組織ならびに社会的問題に関する著作を監査し、それらが近代主義の痕跡をいささかもとどめず、かえって歴代ローマ教皇の定めた規定に従うように取り計らう義務を託します。」

 VII.  3年ごとの申告制「私がこれまでに述べたことが忘却に付されてしまうことのないように、私は全ての司教区の司教たちが、当書簡発布の1年後およびそれ以降は3年ごとに、私のこの書簡中で定められた事柄、ならびに聖職者の間で、殊に神学校やその他のカトリック学校───教区司教の管轄下にないものも含めて───において流布している種々の教理について精勤で宣誓を伴った報告書を聖座に提出することを望み、かつ制定します。そして私は、同様の義務を諸修道会の総長に、彼らの下にある者たちに関して、附与します。」

 私はこれをもって上記の全てを確認し、これを聞こうとしない者たちの良心にこれを訴えます。私は、更に神学校での学生、そして修道院での修練者たちに関する特別な指示を付け加えます。

(中略)

 近代主義の密かな侵入の可能性を少しでも排除するために、私は、教授陣の選択に関して上のII.で述べたことが遵守されることを望むのみならず、更に私は毎年、新学年が始まる前に全ての教授がそれぞれ自分の使おうと望む教科書或いは自分の説明しようとする内容や命題を司教に提出しなければならないと命じます。そして、一年中その教える内容について監視されていなければなりません。万が一、彼の教えが健全な教えから離れるなら彼はすぐさま教授職から外されなければなりません。最後に、信仰宣言と共に、彼は自分の司教に、正しく署名して以下にある誓いを提出しなければなりません。

 司教は、以下に述べる者たちから、私の前任者ピオ4世によって規定された形式、そして第1バチカン公会議によって付け加えられた定義を付けた形式による信仰宣言と共に、この宣誓を受け取らなければなりません。

上級品級を受けようとする聖職者たち。…
告解を聞こうとする司祭、説教者たち、彼らにこれらの任務を許可する前に。
小教区の主任司祭、教会参事会員(Canon)、教会俸禄授与者、彼らがその栄誉を受ける前に。
司教事務局の職員、教会法廷の役員、司教代理、教会裁判長。
四旬節の説教者。
ローマ聖省、法廷の全ての事務役員は、それらの属する聖省或いは法廷の長官の目前で。
修道会の長上、教師たちが、その職務に就く前に。

信仰宣言と誓いを印刷した文書は司教事務局及び全てのローマ聖省の事務所の特別掲示板に掲げられなければなりません。もし敢えてこの誓いを犯す者がいたとしたら、このことを天主が禁じられますように、彼はすぐさま検邪聖省の法廷に告発されなければなりません。

近代主義の誤謬に反対する誓い IURISIURANDI FORMULA

 我 (某) は、教会の無謬の教権によりて定義、確認、宣言されし事を、就中今の時代の謬説に直に反対せる主要なる教義を、悉く、一つ残らず堅く信じ、受け入れん。

 先づ第一に、万物の原因且つ目的たる天主の存在は、結果より原因を知るが如く、理性の自然の光によりて「造られし物を通じ」(ローマ1・20参照)、即ち目に見ゆる被造物を通じ、確実に知り得る事、また故に証明可能たる事を、我は宣言す。

 第二に、啓示の外的論証、即ち天主がなし給いし御業、とりわけ奇蹟と預言とは、キリスト教が天主に由来せん事のいとも確実なる徴しと自認し承認す。またこの同じ外的論証が、全ての世と全ての人間の知性に、今の世と今の世の人間の知性と雖も之にいと相応しきものたる事を、我は堅く信ず。

 第三に、啓示されし御言葉の保護者かつ教師たる教会を、主が我らの内に住み給ひし時、真の歴史的キリスト御自身が、主御自ら直接に制定されし事、及びその同じ教会が使徒位階制度の頭たるペトロと、時の終りに至るまで全ての後継者らの上に建てられし事を、我は堅き信仰をもって信ず。

 第四に、使徒達より、正統信仰の教父達を通じ、常に同じ意味及び解釈に従いて我らに至るまで伝えられし信仰の教義を、我は誠実に受け入れん。故に、教義が、教会が初めに保持せしものとは異なり、一の意味より他の意味へと進化すると説く異端説を、我は拒否す。同じく、キリストの花嫁たる教会に任され、これによって忠実に守らるべき天主の信仰の遺産を、人間の努力により徐々に形作られ将来に亘る無限の発展によりて完成さるべきとする謬説を、我は全て排斥す。

 第五に、信仰が、心の欲求と意志の衝動との下で道徳的に未発達なる潜在意識の奥底より湧き出づる盲目的宗教感情にあらざる事、またかえって信仰とは聴覚を通じ外的に受けた真理に対する真なる知性の同意たる事、即ち我らの創造主且つ主たる位格的天主が曰い、証明し、啓示し給いし事を、最高の真理なる天主の権威の故に、我ら信じ奉る事を、我は最も確実に堅く信じ且つ誠実に宣言す。

 更に、回勅「パシェンディ」および教令「ラメンタビリ」に含まるる全ての、特に所謂教義の歴史に関する排斥、宣言、規定に対し、我は尊敬の心持て服従し、且つ我が魂全てをもって、之を厳守す。

 同じく、教会によりて提示されし信仰が歴史と矛盾し得ると主張する者達の誤謬、またカトリック教義が今日理解されし意味において、カトリックの宗教のより真正なる起源と調和し得ざる旨主張する者達の誤謬を、我は拒絶す。

 また、信仰者の信仰に矛盾せる事を奉ずる事、若しくは教義をあからさまに否定せぬ限りにおいては教義が誤りたるないしは疑わしきものたるとの結論を導くべき前提を打ち立てる事があたかも歴史家には許さるるが如く、教養あるキリスト教徒は信者と歴史家のの双方の人格を持てりと主張する者達の説を、我は排斥且つ拒絶す。

 同じく、教会の聖伝、信仰の類比、更には使徒座の規範を無視すると共に、理性主義者達の意見に従い、随意にまた大胆にも、原典批判をもってのみ唯一最高の規範とする聖書研究・解釈方法を、我は拒絶す。

 更には、先づカトリック聖伝の超自然的起源若しくは啓示されし真理を永久に保存せんが為天主の約束し給うた御助けに就いての先入観を捨てねばならぬとの説、また教父一人一人の著作は、その天主からの権威を打ち捨て、科学の諸原則のみに従い、通常世俗の文献を研究せん時に用うる判断の自由をもってこれを行うべきとの説を、我は排斥す。

 最後に、聖伝には神的なる点無しとの近代主義者達の謬説、或いは、より増して悪しき事には、聖伝に神的な点無しとの説を凡神論的意味において認め、共通の歴史事実に同化さるべき単なる純然たる事実、即ち人間がその働き、技能、才能によりキリスト及びキリストの使徒達によりて始められし学派を後世に継続したとの事実以外には何ものをも認めずとする説を主張する近代主義者達の謬説には、我は全く反対する事を宣言す。

 故に我は、使徒達に由来せし司教座の継承の内にあり、今もあり、また未来においても常にあり続くべき真理の確実なる徳能(カリスマ)に関する教父らの信仰を最も堅く守り、これを最後の息まで堅く守り抜かん。そは各時代の文化により良く似つかわしく見ゆる事が信ぜらるる為にあらず、むしろ初めより使徒達によりて説かれし不変の真理が、別様に信ぜられ或いは別様に理解さるる事決してあらざらんが為なり。

 上述の全ての事を、忠実、完全、誠実に守り、教えるに当たりてもその他の業においても、話す言葉にても書く言葉にても、決してこれより離るる事なき様守り通さん事を、我は約束す。かく我約束し奉り、かく我誓い奉れば、願わくは、天主と天主の聖なる福音我を助け給え。

« Ego... firmiter amplector ac recipio omnia et singula, quae ab inerranti Ecclesiae magisterio definita, adserta ac declarata sunt, praesertim ea doctrinae capita, quae huius temporis erroribus directo adversantur. Ac primum quidem Deum, rerum omnium principium et finem, naturali rationis lumine per ea quae facta sunt, hoc est per visibilia creationis opera, tamquam causam per effectus, certo cognosci, adeoque demonstrari etiam posse, profiteor. Secundo, externa revelationis argumenta, hoc est facta divina, in primisque miracula et prophetias admitto et agnosco tamquam signa certissima divinitus ortae christianae Religionis, eademque teneo aetatum omnium atque hominum, etiam huius temporis, intelligentiae esse maxime accommodata. Tertio: Firma pariter fide credo, Ecclesiam, verbi revelati custodem et magistram, per ipsum verum atque historicum Christum, quum apud nos degeret, proxime ac directo institutam, eandemque super Petrum, apostolicae hierarchiae principem eiusque in aevum successores aedificatam. Quarto: Fidei doctrinam ab Apostolis per orthodoxos Patres eodem sensu eademque semper sententia ad nos usque transmissam, sincere recipio; ideoque prorsus reiicio haereticum commentum evolutionis dogmatum, ab uno in alium sensum transeuntium, diversum ab eo, quem prius habuit Ecclesia; pariterque damno errorem omnem, quo, divino deposito, Christi Sponsae tradito ab Eâque fideliter custodiendo, sufficitur philosophicum inventum, vel creatio humanae conscientiae, hominum conatu sensim efformatae et in posterum indefinito progressu perficiendae. Quinto: certissime teneo ac sincere profiteor, Fidem non esse coecum sensum religionis e latebris sub conscientiae erumpentem, sub pressione cordis et inflexionis voluntatis moraliter informatae, sed verum assensum intellectus veritati extrinsecus acceptae ex auditu, quo nempe, quae a Deo personali, creatore ac domino nostro dicta, testata et revelata sunt, vera esse credimus, propter Dei auctoritatem summe veracis.

Me etiam, qua par est, reverentia, subiicio totoque animo adhaereo damnationibus, declarationibus, praescriptis omnibus, quae in Encyclicis litteris «Pascendi» et in Decreto «Lamentabili» continentur, praesertim circa eam quam historiam dogmatum vocant. — Idem reprobo errorem affirmandum, propositam ab Ecclesia fidem posse historiae repugnare, et catholica dogmata, quo sensu nunc intelliguntur, cum verioribus christianae religionis originibus componi non posse. - Damno quoque ac reiicio eorum sententiam, qui dicunt, christianum hominem eruditiorem induere personam duplicem, aliam credentis, aliam Ristorici, quasi Iiceret historico ea retinere quae credentis fidei contradicant, aut praemissas adstruere, ex quibus consequatur dogmata esse aut falsa aut dubia, modo haec directo non denegentur. — Reprobo pariter eam Scripturae Sanctae diiudicandae atque interpretandae rationem, quae, Ecclesiae traditione, analogia Fidei, et Apostolicae Sedis normis posthabitis, rationalistarum commentis inhaeret, et criticen textus velut unicam supremamque regulam, haud minus licenter quam temere amplectitur. — Sententiam praeterea illorum reiicio qui tenent, dottori disciplinae historicae theologicae tradendae, aut iis de rebus scribenti seponendam prius esse opinionem ante conceptam sive de supernaturali origine catholicae traditionis, sive de promissa divinitus ope ad perennem conservationem uniuscuiusque revelati veri; deinde scripta Patrum singulorum interpretanda solis scientiae principiis, sacra qualibet auctoritate seclusa, eâque iudicii libertate, qua profana quaevis monumenta solent investigari. — In universum denique me alienissimum ab errore profiteor, quo modernistae tenent in sacra traditione nihil inesse divini; aut, quod longe deterius, pantheistico sensu illud admittunt; ita ut nihil iam restet nisi nudum factum et simplex, communibus historiae factis aequandum; hominum nempe sua industria, solertia, ingenio scholam a Christo eiusque apostolis inchoatam per subsequentes aetates continuantium.

Proinde fidem Patrum firmissime retineo et ad extremum vitae spiritum retinebo, de charismate veritatis certo, quod est, fuit eritque semper in episcopatus ab Apostolis successione; non ut id teneatur quod melius et aptius videri possit secundum suam cuiusque aetatis culturam, sed ut nunquam aliter credatur, nunquam aliter intelligatur absoluta et immutabilis veritas ab initio per Apostolos praedicata.

«Haec omnia spondeo me fideliter, integre sincereque servaturum et inviolabiliter custoditurum, nusquam ab iis sive in docendo sive quomodolibet verbis scriptisque deflectendo. Sic spondeo, sic iuro, sic me Deus etc.».

(後略)

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