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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

救霊の大切さ:何故なら霊魂を失ってしまうならばすべてがパーになってしまうから。 もしも一回失ってしまったらもう二度取り返しがつかないから

2024年02月01日 | お説教・霊的講話

­2024年1月28日(主日)名古屋でのミサでの説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は2024年1月28日、七旬節の主日です。

二つお知らせがあります。一つは、来る2月の14日水曜日は、灰の水曜日です。公教会の規定によると、灰の水曜日には健康な成人の男女は、満十八歳から五十九歳までの健康な成年男女は大小斎を守らなければなりません。大斎というのは一日に一回充分な食事をとることです。そして小斎というのは肉を食べないことです。教会には、現在のところ二回――以前は多くの大小斎がありましたが――現在ではたった二回の大小斎が残っていて、それが灰の水曜日と聖金曜日です。灰の水曜日には寛大に犠牲をお捧げください。
二つ目は、2月の名古屋の予定です。二月も最終の主日にまたおこなわれます。たくさんのお友達を連れていらしてください。心からお願い申し上げます。

七旬節の主日、この七旬節というのは、四旬節の前にすでに教会が私たちの少なくとも心の準備をするように、と招いています。そして特に七旬節には「私たちには今からとっても大切な大仕事がある」ということを思い出させます。それは何かというと「救霊の大切さ」です。私たちの霊魂がどれほどの価値があるものか、これから私たちがやろうとしている大事業はどれほど重大でものすごく莫大な利益をもたらすものであるか、ということを教会は思い出させようとしています。ですから今日はそのことを一緒に黙想いたしましょう。

今日の福音では、イエズス様がおっしゃった言葉があります。そこからなぜいったいなぜ救霊が重要なのか、2つの点を見てみましょう。

「天の国は、ぶどう畑ではたらく人をやとうために、朝早く出かける主人のようである。」主はこうたとえを出します。この主人、“ぶどう畑ではたらく人をやとうこの主人”というのは、天主のことです。“ぶどう畑ではたらく人”というのは、私たち人間のことです。

「ぶどう畑ではたらく」というのは、聖クリゾストモによると、わたしたちが聖徳を身につけるようにすることです。聖グレゴリオによると、「ぶどう畑」とは、カトリック教会のことです。なぜかというと、イザヤの預言に「万軍の主のぶどう畑とは、イスラエルの家のことである」(イザヤ5:7)とあるからです。

聖アルフォンソ・デ・リグオリによると、ぶどうの畑に植えられている木の一つ一つは、私たちの霊魂のことです。主が私たちに与えた霊魂、それがぶどうの木にたとえられています。

ぶどうの畑ではたらいた人々は、夕方つまりこの世の終わりに、また人生の終わりに、報いを受けるということを意味しています。私たちは永遠の命という報酬を受けるために、この地上ではたらいています。

イエズス・キリストの教えというのは、ほかでもない超自然の天国の幸せを受けるということを教えています。「心の貧しい人はしあわせである、天の国はかれらのものだからである。(…)正義のために迫害される人はしあわせである。天の国はかれらのものだからである。私のために、あなたたちをののしり、あるいは責め、人々が、数数のざん言をいうとき、あなたたちはしあわせである。よろこびによろこべ。あなたたちは、天において大きなむくいをうけるであろう。」

イエズス・キリストの教えは、商売繁盛・試験合格・交通安全・家内安全などではありません。天国の、永遠の朽ちることのない尽きることのない無限の天主と同じしあわせを私たちも受ける、ということでした。超自然のよろこびです。イエズス・キリストが教会を制定したのは、私たちが永遠の命を受けるためでした。教会の創立の目的は、永遠の命だからです。

私たちが洗礼を受けるときに、教会は私たちにこう尋ねます。
「あなたは天主の教会に何を求めますか?」 
「信仰を求めます。」
「信仰はあなたに何を与えますか?」 
「永遠の命です。」
私たちが使徒信経を唱えるとき、その最後はもっとも美しい言葉で終わります。
「永遠の命を信じ奉る、アーメン」。

教会は、私たちに人生の終わりに起こる四つの真理を、何度も何度も繰り返し教えています。死・審判・地獄・天国、これはどうしてもわたしたちが避けることができない現実だからです。好きでも嫌いでもこれが真理であるからです。人々は残念ながらこの真理をまったく知らないであるいは忘れて生活しています。

今日たとえば 名古屋駅からここまで歩いてくるときに 多くの人たちが駅で美しい服装できれいにお化粧して楽しそうに若い人も大人も歩いていました。しかしどれほどの人が、とても大切な救霊のために生きているということを生活しているということを、知っているでしょうか。あたかもわたしたちはこの死ぬことがないかのように、この世界に永遠に生き続けるかのように、この世の生活だけがすべてであるかのように、生活しています。カトリック信仰を持っているという人であっても、私たちが一生の終わりにすべてを天主に報告しなければならない、裁きがあるということを考えていないかのように生活しています。永遠の命という人生の究極の目的について、知らずに、あるいはすっかり忘れて、あるいは無関心に、この世のことだけにおぼれて、この世のことだけがすべてであるかのように思い違いして生活している人がどれほど多いでしょうか。

ですから、そうではなくて、教会は、「ちょっと待て!すごい大切なものを忘れている。私たちは今一生懸命働いているかもしれない。しかしもっとものすごいもののために私たちはいま生きているんだ。」ということを教えようとしています。

もしかしたら、名古屋の駅にいる人達は私たちに言うかもしれません。
「わたしはね、数億円のビジネスをやっているんだよ。おくりびとだよ。神父様ね、儲かったからちょっと教会を買ってあげるね、でもそれまでは忙しいの」と。  
そんな方に教会はこう言います。「でもね、私たちは、いくらお金を積んでも何百億円でも何兆円でも何京円でも決して買うことができない、ものすごい永遠の命のためにいま働いているんだよ。お金じゃ絶対買えないんだ。永遠の命というのは。」教会はそれを私たちに言おうとしています。

ではなぜ救霊というのが大切なのでしょうか。
なぜかというと、もしも私たちが霊魂を失ってしまうならば、つまり地獄に落ちてしまうならば、すべてがパーになってしまう、もう全部失ってしまうからなんです。
もう一つの理由は、もしも一回これを失ってしまったら、もう二度取り返しがつかない、もうそれっきり、チャンスはもう二度とない、一発勝負、これで最初で最後、これを逃したらもうない、だから今! だからなんです。

ではまず第一に、もしもいまこの救霊を失敗したら、霊魂を失ったら、すべてがパーになってしまうということを考えてみます。
わたしたちは、わたしたちの持っているこの霊魂の貴重さ、救霊の大切さを知らないかもしれません。でも、天主はわたしたちをご自分の似姿に肖像に似せて創造されました。ご自分の命に与る者として創られました。わたしたちを愛して、そしてこの私たちを天国に連れて行くために御自分の命を天主の命を与えるために人間となって、そして十字架につけられてご自分の天主としての血潮をすべて流して、罪を贖われました。天主にとって私たちの霊魂は、命に代えてすべてに勝(まさ)って大切なものだったのです。聖ペトロはわたしたちにこう言っています。「あなたたちは、祖先からうけついだむなしい生活からあがなわれたというのは、金銀など朽ちるものによるのではない。きずもない汚点もない小羊のように、キリストの尊いおん血によって贖われた、それほど貴重な霊魂だ」(ペトロ前1:18-19)と言っています。

三位一体の天主だけではありません。悪魔でさえもわたしたちの霊魂がどれほど貴いかということを知っています。人間の霊魂を奪うために、悪魔は日夜、眠らずにわたしたちの霊魂を狙っています。地獄に引きずり降ろそうとしています。聖ペトロはこうも言っています。「節制し警戒せよ。敵である悪魔は、ほえる獅子のように、食いあらすものをさがしながら、あなたたちのまわりを回っている。」(ペトロ前5:8)

聖パウロは、わたしたちが落ち着いてそれぞれの仕事について手ずから働くように努めよ、と言っています。そして、それを誇りにしろ、と言っています。つまりわたしたちは一生懸命仕事をしなければなりません。(テサロニケ前4:10)この世の人々は、もちろんそうです。ビジネスの成功のために一生懸命働いています。顧客の満足のために、あるいは利益がどうやったら生まれるだろうか、いろいろ計算して、コストカットして、あるいは夜も寝ずにエクセルシートを計算して、あるいは設計図を書いて、あるいは電話をしてEメールを書いて、食べるまもないほど一生懸命汗を流して働いています。またある人は自分の健康のためにはすべてを尽くしています。
どんな遠い病院であろうと、どんなに汽車賃がかかろうと新幹線代がかかろうと、健康のためならいい先生を見つけて移動します。何時間のどんなにつらい手術であろうと、どんなに長い待ち時間があろうと、高い薬であろうと、健康のためであればなんでもやります。

ところで光の子である私たちは、霊魂の救いという途轍もないビジネスのために大利益のためにどれほど熱心に働いているでしょうか。またわたしたちの霊魂の救いという健康のために、どれほど熱心にこの霊魂が病に罹らないように注意しているでしょうか。どんなに遠くてもミサに通う、どんなに辛くてもする、という覚悟はどれほどあるでしょうか。イエズス様はこう言われます。「よし、全世界をもうけても、自分の霊魂を失ったら、それがいったい何の役にたつのか。」(マテオ16:26)

もしも私たちが天国に行くのであるならば、霊魂を救うことができれば、この世のすべてが失われてもたいしたことはありません。なんの困ったこともありません。重要でもありません。なぜかというとこの世のものはいつかは終わることですし、そして今では、完全なしあわせを尽きることなく終わることなくよろこぶことができるからです。なんの悲しみも辛いこともない歓びに満たされるからです。

しかしもしも霊魂を失ってしまうのならば、つまり、地獄に堕ちてしまうようになってしまったとしたら、今この世でどれほどの大成功、莫大な富、名声、快楽を楽しんだとしても、車が何十台あったとしても、プライベート・ジェット機を持っていたとしても、それがいったい何の役にたつのでしょう。地獄で苦しんで、終わりなく苦しむのであれば、それがいったい何になるのでしょうか。イエズス様が言います。「よし、全世界を設けても、自分の霊魂を失ったら、それが何の役に立つのだろう。」

ロヨラの聖イグナチオという人は、パリで、フランシスコ・ザベリオと会いました。フランシスコ・ザベリオはその時は法学を勉強して将来は大成功をなして貴族にのし上がろうとしていた男でした。するとそのときに、イグナチオはこう言いました。「フランシスコ、おまえはいったい誰に仕えているのか? おまえはこの世に仕えている。でもこの世は裏切り者だ。なぜかというと、この世は、約束はするけれども約束は守らないからだ。たとえ約束を全て守ったとしても、それがいつまで続くのか? おまえの生きているよりももっと長く約束を守るのか? いや おまえが死ぬとすべてそれで終わりだ。お前が死んだあと、もしもおまえの霊魂が失われるのなら、その約束がいったいどんな役に立つのか? 全世界をもうけても自分の霊魂を失ったらそれがいったい何の役にたつのか?」

イエズス様は聖マルタにこう言いました。「マルタ、マルタ、心要なことは少ない。いやむしろただ一つだ。」(ルカ10:42)必要なことはたった一つ、私たちの霊魂を救うことです。天国に行くことです。これだけが、私たちにとって最も必要です。絶対に必要なことです。何故かというと、私たちは天国という永遠の栄光を得るために、この世に生まれてきたのです。私たちが天国の栄光という喜びを得るために、天主は人となったからです。私たちが天国を得るために、イエズス様はすべての血を流されて、十字架の苦しみを甘んじて受けたからです。私たちがいまここに生きているのは、天国のためだからです。もしもこの世で、皇帝のように、全世界を支配して、全てのよろこびとしあわせを掻き集めて、そしてもうこれ以上楽しむことができないというほど楽しんだとしても、死の瞬間はそれがどうなってしまうのでしょうか。死の瞬間、ちょうど夢から覚めたように、ハッ永遠という現実に目覚めます。永遠の世界が始まります。その時、今までのこの地上のことはアッという間に消えて、虚(うつ)ろに無くなってしまいます。過去世界中にいろいろな皇帝、専制君主、王、君、大名、いろいろな人々がいました。豪奢な生活を送って羽振りがよく、この道路を肩で風を切って歩いていました。へへぇーと跪いて土下座して迎えたような人々がいます。ちょっといえばなんでも、何万という家来が動いた、動かせた人がいます。そのような人たちにいま聴いてみます。
「いま昔持っていた権力や富・力はどこにあるのですか?」
「何にもない、何にも残っていない。」

ですから、聖フランシスコ・ザベリオは私たちにこう言っています。この世には一つの善と一つの悪しかない。善というのは霊魂を救うこと、悪というのは霊魂を失うことだ、と。私たちにとって、求めなければならないひとつのことがあります。それは「主の家に住まう」、「天国に行くこと」、それです。

また、第二の点は、霊魂が一度失われてしまうとこれは永久に失われるということです。

すべてがパァーになるのみならず、もうそれっきりだということです。わたしたちの人生はたった一回しかありません。わたしたちは一度死にます。一度だけです。そしてその死の瞬間に永遠が決まってしまう。永遠は二つしかありません。永遠のしあわせ、天国。あるいは永遠の不幸、地獄。――これだけです。わたしたちが死の瞬間、それが決定します。もしも大罪の状態で死んでしまうのなら、永遠に不幸になってしまうのです。永遠に失われてしまう…。もしもわたしたちが成聖の状態で天主の友として死ぬならば、天国に行くことができます。霊魂は一つ、永遠も一つです。

もしもこの世で失敗したならば、家を火事で焼いてしまった、交通事故で車が潰れてしまった、怪我をして骨を折ってしまった。やり直しができます。事業を新しくすることもできます。開拓することもできます。再生することができます。でも霊魂を一度失ってしまうと、それっきりです。二度と恢復(かいふく)はできません。やり直しもできません。ああすればよかった、とわかっても、もう後の祭りです。天国に行くのはどれほど簡単だったのか、あの被造物、あれを選ばなければよかった、天主の言うとおりにすればよかった、儚い煙のようなあのために、あの嘘、あのお金、アレのためにすべてが失われた。もしもわたしたちがビジネスで間違った注文をしてしまった、間違った設計をしてしまった、損害があった、何百万円パーになってしまった、ああもったいなかった、ああ―、悔やんで 悔やんで 悔やんで、残念に思うかもしれない。しかし、霊魂を失って、天主を失うならば、永遠に永久に取り返しがつかなかったら、わたしたちは悔やんでも悔みきれません。
ああ、なんであんな馬鹿なことをしたのか、すべては自分の落ち度だ。あの時、あれさえしなければ、あんな簡単なことがなぜできなかったのか。‥‥‥。この地上のものはすべていつか終わりを遂げます。この世からわたしたちはいつの日か立ち去らなければなりません。しかし、天国を失うということは、地獄の永遠の苦しみというのは、私たちにとって消えることのない永遠の問題です。

では最後に遷善の決心をたてましょう。
ですから、今日は、教会は声を大にして聖パウロの言葉を繰り返して言います。
「兄弟たちよ、賞を受けるために走れ。競技で戦う力士はみな、万事をひかえ慎む。彼らは朽ちる栄冠を受けた。しかし、私たちは朽ちない栄冠のために生きている。」
ですからちょうど私たちは、この世という競技場で悪と罪とに対して戦う力士のようです。永遠の命という褒賞(ほうしょう)を受けるために戦っているアスリートです。この世のアスリートたちが、金メダルを得るために、どれほどの苦しい訓練を朝から晩まで毎日毎日毎日やって、食べ物を節制して、走って、そして練習して、走って、練習して、そして、特訓を受けて…どれほど犠牲の生活をしているか、私たちはよく知っています。プロの選手もそうです。いい体に一番いいものを食べて、云々…私たちもその真似をしなければなりません。

私たちも罪の機会を避け、誘惑に抵抗して、被造物を天主より愛することがないように機会を慎んで、そして頻繁に最高の栄養つまりお恵み――天主の与えた秘跡に与らなければなりません。聖伝のミサ聖祭に与らなければなりません。イエズス様は言いました。「天の国は暴力で攻められ、暴力の人がそれを奪う」(マテオ11:12)一生懸命そのために勝ち取ろうとする人が天国に入るのだ、と言っています。日本のキリシタンたちもそうでした。日本にいた無数の何百万という殉教者たちがそうでした。永遠の救霊を確保するために朽ちることのない栄冠のために、キリストのためにすべてを放棄しました。この世のことは、いつかは終わってしまうのです。ですからいま、永遠の殉教と命の冠をいただいて、よろこんで選善の決心を立てましょう。たとえ世の人々が自分の救霊・霊魂について全く無関心冷淡であったとしても、わたしたちはこのものすごい莫大な宝を得るか得ないかというこの大事業、失敗が許されない大事業のために全力を尽くすという決心を立てましょう。この救霊のためにイエズス様は命さえも惜しみませんでした。多くの人々が世間体を気にしてこの世の精神に流されていたとしても、テレビを見てユーチューブを選んで、私たちを見てへらへら笑っていたとしても、私たちはもっと大切なことがあると理解いたしましょう。イエズス・キリストの精神に従うという決心を固めましょう。

四旬節の決心のことを考えてください。スマホやケータイの使用を制限するという決心はいかがでしょうか。眼の慎みをするという決心はどうでしょうか。祈るために時間を確保するという計画をたてるのはどうでしょうか。マリア様にお祈りいたしましょう。マリア様は私たちの霊魂がどれほど価値があるか、どれほど大切であるか、永遠の命とはいったい何かということをよーく御存じです。ほかのものと決して交換することができない、ものすごいものです。私たちはそのために生きているんです。天主の御血が流されて、そして贖われて、買い求めて、それほど貴重なものです。そのイエズス様の御血が無駄にならないように、私たちの救霊が「ああ~なんだ、あんなために…」と後で悔いることがないように、天主のお恵みにいつも忠実であるように、マリア様にお祈りいたしましょう。

「天の国は、ぶどう畑ではたらく人をやとうために、朝早く出かける主人のようである。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2024-02-05 19:32:25
天国へ帰る為の栄冠とゆう導きから、イエスキリストが御受難の時、棘の冠を被せられた事を思いました。善い羊飼いであるイエスキリストが天の御父の右の座に帰る事が大変な苦しみを伴う受難であったかを思いました。
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