2022年10月15日(土)大阪での説教
トマス小野田神父
聖父と聖子と聖霊の御御名によりて、アーメン。
今日はアビラの聖テレジアの祝日です。
アビラの聖テレジアは、スペインの高貴な家庭に1515年に生まれました。
子供の頃から敬虔な両親のもとで育てられたので、幼い頃から聖徳の望みを表していました。ある時、聖人伝を読んで、殉教者の話を聴いて、自分も殉教者になりたいと思って、家をこっそり抜け出して、アフリカへ行って殉教しようと思いました。結局叔父さんに迷子になったテレジアを見つけられて、家に戻ってきましたが、殉教出来なかった代わりに他の祈りと償いで それをその代わりをしようと思っていました。
お母さんが亡くなって二十歳になった時に、家を今度は本当に出て、カルメル会の修道院に入りました。
しかし、最初の18年間は殉教のような生活でした。病気に苦しんで、全く祈りもできず、天からの慰めもなく、何のために修道院に入ったのかと思われるような味気のない生活を送っていました。
しかしそのような、あるいは何のためにという誘惑、あるいは何の味気もないという砂を噛むような生活でも、あるいは役に立たない屈辱の生活を送ったとしても、決してそれを放棄することなく、最後まで耐え忍びました。
その後、十字架の聖ヨハネとともに、より厳しいより厳格なカルメル会の修道生活を送るために、改革カルメル会を創立することになります。
その聖テレジアのもとで、特に聖テレジアのイエズス・キリストに対する愛のためにそのイエズス・キリストのために苦しみたいというその愛に惹かれて、その模範に寄せられて、多くの女性が改革カルメル会に入会しようとやってきました。まったく人間的には、資金もあるいは力も支えもなかったのですが、時には高貴な人々や貴族たちはアビラの聖テレジアの計画に反対さえもしたのですけれども、それにもかかわらず43の修道院を作りました。
アビラの聖テレジアは、これを聖ヨゼフの取り次ぎのおかげだ、と、聖ヨゼフに取り次ぎして決して裏切られたことはない、と、言っています。
アビラの聖テレジアは、こうやってイエズス様のために苦しむか、あるいはイエズス様のために死ぬこと、・・・殉教を望んでいました。結局イエズス様の愛の炎に包まれて、霊魂をイエズス様の元に返します。それはちょうど教皇グレゴリオのもとで、暦の改革の時でした。アビラの聖テレジアが亡くなったのは1582年と記憶しますが、それの10月4日から15日の間の夜のことでした。アビラの聖テレジアのお身体は、今でも腐敗せずに残っています。
アビラの聖テレジアが私たちに教えていることは、苦しみの価値です。
私たちはこの現代世界の人々、この世の人々ともに、苦しみというのは避けるものである、苦しみというのはあってはいけないものである、私たちは苦しまなくて当然であって、苦しむということは一番悪いことだ、と考えがちです。
しかし、イエズス・キリストとアビラの聖テレジアは、聖人たちは、私たちに、いや苦しみこそ私たちがイエズス様に対する愛を証す絶好の時である、機会である、チャンスである、と考えていました。苦しみに大きな価値を見出していました。
有名な話は、アビラの聖テレジアが屈辱を受けたりあるいは馬鹿にされたり辱めを受けたりするその時、それをやった張本人の所に行ってありがとうと感謝した、という話です。
これはただ皮肉で言ったわけではなく、本当にそう思っていたのです。本当にその人が言う通りだと思っていたのです。あるいはそうやって取り扱って当然だと思っていたので、心から聖テレジアはそのような人々に感謝したのでした。感謝できなくても、直接表明できなくても、それを心からありがたく思っていました。アビラの聖テレジアに、私たちもイエズス様の御苦難に倣う恵みをお祈りいたしましょう。マリア様に御取次をお祈りいたしましょう。
聖父と聖子と聖霊の御名によりて、アーメン。