聖金曜日の黙想
キリストよ、われら御身を礼拝し、御身を賛美し奉る。御身、尊き十字架によりて世を贖い給うたがゆえなり
2023年4月7日
カルロ・マリア・ヴィガノ
Popule meus, quid feci tibi?
わが民よ、われ、なんじに何をしたか?
わが民よ、われ、なんじに何をしたか? 何をもってなんじを悲しませたか? 私たちが聖なる十字架の木を礼拝する準備をするとき、インプロペリア(Improperia)すなわち「咎めの交誦」の言葉が私たちの心にこだまします。この言葉は、ご自分の民や私たち一人一人に向けられた、悲痛な咎めの言葉、主の耐え難い苦悩の言葉なのです。私たち一人一人を救うために人となられ、最も不名誉な拷問によって死なれた天主の御言葉、ゲッセマネにおいて、あらゆる時代、あらゆる人の多くの罪を恐怖の目で見つめ給うた天主の御言葉です。
ハギオス・ホ・テオス、ハギオス・イスキュロス、ハギオス・アタナトス・エレイソン・イマス(Άγιος ο Θεός, άγιος ισχυρός, άγιος αθάνατος ελέησον ημάς)。
サンクトゥス・デウス、サンクトゥス・フォルティス、サンクトゥス・イモルターリス、ミゼレレ・ノビス(Sanctus Deus, Sanctus Fortis, Sanctus Immortalis, miserere nobis)
[聖なる天主、力ある聖なる天主、聖なる不滅の天主、われらをあわれみ給え]。
キリストの人性は御父に対してそう叫び、人類の主として、神秘体のかしらとして、世の罪を御自ら背負われた天主の小羊として、私たちの名において赦しを請い願われます。そして、この悲痛な叫びには、何度も何度も報われることのない無限の愛、利己主義によって辱めを受けた熱烈な愛、そして、私たちが受けた限りなく素晴らしい賜物を前にしながらも、私たちが忘恩であることを承知しておられることが、すべて含まれています。
私たちの主のいと尊き御血は、ただの一滴であっても、この世全体を救うのに十分なものだったのです。cujus una stilla…【御血の一滴だけで、(世のすべての罪を償うことのできるお方)[賛歌アドロ・テ・デヴォーテの一節]】。しかし、天主の愛は、天主ご自身である愛は、測り知れないものであり、怒りの子である私たちを贖うために、ご托身になった御子の命をお与えになるほどだったのです。聖なる御顔に何度も唾を吐きかけ、茨の冠をかぶせられ給うた聖なる頭を葦で叩き、その至聖なる肉体を鞭で裂き、その尊き御手に釘を打ち込んだのは、私たちなのです。
Opprobrium hominum et abjectio plebis(人々にそしられ、民にあなどられる)(詩篇21篇6節)命のない贖い主を見つめましょう。王の中の王は、奴隷のためにある処刑台に上げられました。人の子の中で最も美しいお方が、見分けがつかなくされ、衣をはぎ取られ、嘲笑と侮辱にさらされました。それは誰のためでしょうか? 【私たちの】乾いた霊魂たちのため、石のような心のため、反抗的な精神のためです。
しかし、人間にして天主なるお方の死を証しするために、自然を巻き込こんで空を暗くし大地の深淵を揺り動かすという、この聖なる描写の中においては、私たちに、天主のみに可能な神聖なる愛の深淵を、垣間見させてくれさえします。敵対者【悪魔】はあわれみを理解しません。なぜなら、彼は愛を理解せず、愛することも、愛することを選択することもできないからです。天主の御稜威(みいつ)が罪の存在をお許しになる唯一の理由は、それが悔い改めと回心の機会となるからだということ、また、真理と愛の完全な一貫性、正義とあわれみの完全な一貫性が現れているのは、罪深い人類を贖うために御自らをお捧げになるまでに至った天主の御あわれみにおいてこそだということを、彼は理解しないからです。
十字架上の天主を殺すことによって天主を打ち負かしたという妄想的な錯覚の中で、サタンは自らの断罪に署名したのです。O mors, ero mors tua. Morsus tuus ero, inferne(コリント前書15章55節、ホゼア13章14節)[死よ、私はおまえの死となる、地獄よ、私はおまえの滅びとなる!]。Ut unde mors oriebatur, inde vita quoque resurgeret; et qui in ligno vincebat, in ligno quoque vinceretur:【聖十字架の序誦】[それは、死が始まったところから、そこから生命がまたよみがえり、木において勝ったもの(悪魔)が、(十字架の)木においてまた敗れるためであった]。拷問と死のかの道具は、命の主の王座となり、主はその上で統治しておられます。Regnavit a ligno Deus.【天主は木によって統治する】。何という底知れぬ神秘でしょうか!
また、何という聞く耳を持たない利己主義の深淵でしょうか、それはサタンの深淵、盲目の傲慢の深淵、最も光り輝く天使の失われた永遠を貪り食う無言の怨念の深淵です。【サタンと】同じあわれな「ヒュブリス」(ὕβρις、思い上がり)、同じ全能感による錯乱が、地上の邪悪な者たちを動かし、キリストと教会の敵を動かし、万軍の主を打倒できると信じさせ、御子が死によって彼らから買い戻し給うた霊魂を御子から奪い取ることができると信じさせているのです。
サタンの憎しみは無限ではなく、その力も無限ではなく、この世のかしらの国も永遠ではありません。しかし、天主の愛は無限であり、天主の全能は無限であり、天主の御国は無限に永遠です。天主の愛は無限であり、私たちあわれな被造物を愛する愛の炎であらゆる罪と欠点を焼き尽くし、もし私たちが赦しと助けを必要とする罪人であることを認識して自らを明け渡しさえすれば、天主の永遠の至福と栄光にあずかることができるのです。私たちは、愛し、愛されるために創造されました。それは、私たちが功徳なしに受けたすべてを、私たちの無でお返しするためです。私たちが太陽によって暖め、照らしてもらうように、子どもが父親に押しつぶされることを恐れずに強い腕に抱いてもらうように、天主によって愛していただくためです。
Misericordiam volo, et non sacrificium(マテオ9章13節)[私が望むのはあわれみであって、いけにえではない]と主は私たちに言われます。なぜなら、天主の御あわれみは、御父の永遠の御子のいけにえにおいて現れ、私たちはそれをミサの中で血を流さない形で永続させるからです。私たちは、この天主の愛の奇跡にお応えするために、私たちの最も犠牲となるもの――自己愛、エゴ、実際には私たちが持っているすべてのものを負っているのに何かを自分の功徳で得たという主張――をお捧げし、兄弟姉妹にあわれみを示し、「自分の友人のために命を与える以上の大きな愛はない」(ヨハネ15章13節)と知って、そのようにすべきなのです。
これは天主の神秘であり、すべてを包み込んで燃え上がらせる熱烈な愛です。そして、mysterium iniquitatia(悪の神秘)は、この愛に屈することができないことに、負け戦を頑なに続けることに、悪が善に勝ち、嘘が真理を覆い隠し、闇が光を圧倒し、被造物が創造主に打ち勝つことができると妄想することにあります。
十字架の前にひれ伏して礼拝し、私たちがすでに知っていても、その意味を完全に理解しつくすことができないであろうこの言葉を繰り返しましょう。Adoramus te, Christe, et benedicimus tibi: quia per sanctam Crucem tuam redemisti mundum.[キリストよ、われら御身を礼拝し、御身を賛美し奉る。御身、尊き十字架によりて世を贖い給うたがゆえなり]
+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
Feria VI in Parasceve
2023年4月7日
聖金曜日
英語版 MEDITATION for Good Friday
イタリア語版 Monsignor Viganò / Meditazione nel Venerdì di Parasceve - Aldo Maria Valli