Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

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教皇聖下、諸聖人の祝日おめでとうございます。霊的花束です(4)

2009年11月15日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 教皇様への霊的花束をお捧げするためのお手紙について、私の頭の中を駆けめぐった内容で、下書きにもならない単なるメモ的な草案というか独り言の続きです。

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 教皇様、人類の歴史の今の時点での本当の問題は信仰の問題であると仰って下さいました。教皇様、私たちの信仰とは、私たちの都合で勝手に変えてもいいものなのでしょうか? それとも、私たちの主イエズス・キリストから啓示を受けた真理として大切に何も変えずに伝えなければならないのでしょうか?

 教皇様、私たちの主イエズス・キリストはどれほど律法を振り回すファリザイ派から攻撃を受けたことでしょうか。

 イエズス・キリストは安息日に善を行って断罪されました。

 安息日に、イエズスが麦畑をお通りになると、弟子たちは空腹だったので、麦の穂をつんで食べはじめ、ファリザイ人がこれを見て、「あなたのお弟子は、安息日にしてはいけないことをしている」と断罪しました。

 しかしその様なファリザイ派にイエズス・キリストはこう言って叱責し給うたのです。
「のろわれてあれ、偽善者の律法学士ファリザイ人よ。あなたたちは、他人の前に天国をとざし、自分もはいらず、はいろうとする人がはいるのもゆるさない!」

「のろわれてあれ、偽善者の律法学士ファリザイ人よ。あなたたちは、はっか、ういきょう、いのんどの十分の一をおさめながら、律法の中でいちばん重大な正義と慈悲と忠実とを無視している!さきのをも無視することなく、あとのをこそ、おこなわねばならない。めくらの案内人よ、あなたたちは、小蝿をこし出して、らくだをのみこんでいる!」

 教皇様、ユダが考えていたとおり、イエズス・キリストは妥協して、ユダヤ教当局の大司祭と折り合いを付け、波風を立てるのを避けるべきだったのでしょうか?

 私たちの主イエズス・キリストを真の唯一の天主として信仰し、そのためにローマの神々を拝むことを拒絶してローマで殉教していった聖ペトロと聖パウロ、また信仰のために競技場で獰猛なライオンに食べられて血を流して命を失った多くの殉教者たちは、間違っていたのでしょうか?


 教皇様、最後に、私たちは教皇様がローマが聖ピオ十世会の提起する第二バチカン公会議の問題について聞こうと耳を傾けて下さっていることに感謝します。

 最初の会合は2009年10月26日にありました。バチカンの報道発表によると、私たちは次のことについて議論するとあります。


*聖伝の概念、
*パウロ六世のミサ典書、
*カトリックの教義的聖伝と連続性における第二バチカン公会議、
*教会の一致とエキュメニズムのカトリック的原理のテーマ、
*キリスト教と非キリスト教諸宗教との関係、
*信教の自由


 教皇様が世界に示すことを望まれたとおり、聖ピオ十世会も、聖ピオ十世会の司教たちも「破門」されていません。私たちカトリックには、「第二バチカン公会議を信仰箇条として信じる」ということなど全く要求されず、その反対に、バチカンの報道発表によれば、この会合は、第二バチカン公会議が、カトリックが信じなければならない信仰箇条としてなにか教義的な命題が提示されたかのかどうかを判定するものとなることが明らかです。

 つまり、私たち聖ピオ十世会は、曖昧な公会議に疑問を提示していたがために、馬鹿にされ・批判され・軽蔑され・摘み出されたように取り扱いを受けてきましたが、教皇様は聖ピオ十世会の態度を評価され、聖ピオ十世会の主張を聞くことを望まれています。

 かつて、教皇様が、枢機卿時代(チリのサンチアゴで、チリの司教評議会に1988年7月13日)に発言した言葉が思い起こされます。「この公会議はいかなる教義をも決定したわけではありません。そして故意に、単なる司牧公会議としての慎ましいレベルに止まることを選んだのです。しかしながら、多くの人々はこれをそれ自身で、その他の全ての(公会議の)重要さを取り除くある種の超教義(スーパードグマ)であるかのように取り扱っています。」

 聖ピオ十世会が主張していたとおり、聖伝のミサが一度も廃止されたことがなかったこと、いかなる司祭もこれを禁止されることがないこと、これについても教皇様が2007年に「スンモールム・ポンティフィクム」でその通りだと発表されました。

 新しいミサについては、教皇様が枢機卿時代に、委員会が作った駄作であること、典礼の歴史を断絶させるもの、教会にとって新しいミサの結果は悲劇であったと言われていたことを思いまだします。

 聖ピオ十世会が主張していたとおり、御血の聖変化の言葉は「全ての人々のため」ではなく「多くの人々のため」であること、これについても教皇様がその通りだから40年間も使われてきた誤った翻訳を訂正するようにと発表するようにさせました。

 教皇様が枢機卿時代に、ハワイの司教から不当に「破門」されたハワイの聖ピオ十世会信者たちを助けて、アメリカの教皇大使を通じてその破門が無効であることを三土に渡って通告されたことを思い出します。

 教皇様は、世界中のマスメディアの攻撃を受けながらも、聖ピオ十世会の司教たちの「破門」が無効であることを宣言されました。

 教皇様は、続けて、聖ピオ十世会には第二バチカン公会議とその革新に対する反論を述べる機会が与えられるべきであること、その必要があること、ローマ聖座はそれを聞くことを望んでいることを、明らかにされました。 

 教皇様、何度も言うようですが、私には教皇様の今年の全世界の司教たちへ手紙の中にあった「緊急アピール」が、耳にこだましています。人類の歴史の今の時点での本当の問題は信仰の問題です。

「現在、地上の広大な地域で、信仰がもはや燃え尽きてします炎のように消え去ってしまう虞がある私たちの生きている時代において、何より先になされるべき優先的ことがらは、この世に天主を現存させ、天主へ近づくことが出来るように人々に開くことです。・・・私たちの歴史のこの時点において、本当の問題は、天主が人々の水平線から姿を消し、また一方で天主からの光が消えると同時に、他方で人類は方針を欠き、ますます自分の内部に人類を破壊するような結果が現れ出ていることです。人々を天主へと導くこと、聖書において語り給う天主に導くこと、それが今日、カトリック教会とペトロの後継者との最高で基本的な優先課題なのです。」

 そしてこの信仰の維持のために、私たちに伝えられた信仰をそのまま維持するために、教皇様は聖ピオ十世会と対話をすることが必要であると考えられました。

 この世を創られた真の天主・三位一体に対する信仰、私たちを救うために人間となり十字架の苦しみを受け給うた天主イエズス・キリストに対する信仰をもう一度世界中に生き生きと息づかせようと教皇様は望まれておられるに違いありません。「永遠の命とは唯一の天主あなたとあなたがお遣わしになったイエズス・キリストを信じることです」と真理の御言葉は言われました。「全世界に行って私の教えたことを教えよ、信じて洗礼を受けるものは救われ、信じないものは滅ぼされる」と天主の御言葉は命じ給いました。天主から与えられた真理を隠し、信仰を自分の思いの通りに変えてしまい、或いは耳障りの良い相手の聞きたいと思うようなことだけを言うだけでは、本当の愛徳ではありません。都合が悪いことは無視するという態度こそが、今のヨーロッパの沈黙の背教を生み出したからです。


 教皇様、人類の歴史の今の時点での本当の問題である信仰が、この地上から消えて無くならないように、教皇様が最優先の最大の責務をよくお果たしになることが出来ますように、聖ピオ十世会は全力を尽くして協力いたします。

 聖ピオ十世会は、歴代の教皇様たちの教えをただ単に繰り返しこだまし、一、聖、公、使徒継承の代わることのないカトリック信仰を繰り返すことだけを願っております。

 ローマの委員会の方々に伝えたいと所望することは正にこれです。永遠のローマに忠実であること、永遠の聖座の教えに忠実であること、変わることのない真理に忠実であることです。この聖伝のカトリック信仰がもう一度、世界で燃え立つことを教皇さまはごらんになることをお望みであると存じます。私たちも正に同じことをひたすらに願っております。

 その心において、私たちの聖下のためにお捧げ申し上げた拙い祈り、2009年2月2日から復活祭まで、総計 4070 環、またそれ以前を合わせると、総計で、10209 環のロザリオを霊的花束としてお受け下されば幸いに存じます。

 教皇様の聖父としての祝福を私たちにお送り下さることを懇願しつつ

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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