アヴェ・マリア!
兄弟姉妹の皆様、
エキュメニズムの問題点の核心:イエズス・キリストが真の天主か否か
創世の書には、主なる天主は蛇に向かってこう言われた、とある。
「おまえと彼女の間に、またおまえの子孫と彼女の子孫との間に、私は敵対をおこう。彼(ヴルガタ訳では彼女)は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは彼のかかとを噛むであろう。」
天主が置いた敵対。救い主とサタンと間の敵対。キリストと反キリストと間の敵対。これには和解が不可能である。「対話」も「寛容」も「政治的配慮」もこれを解消することが出来ないだろう。
救い主は生まれた。「みことばは天主とともにあった。みことばは天主であった。かれは、はじめに天主とともにあり、万物はかれによってつくられた。つくられた物のうちに、一つとしてかれによらずにつくられたものはない。かれに生命があり、生命は人の光であった。光はやみに輝いたが、やみはかれを悟らなかった。・・・ すべての人をてらすまことの光は、この世に来ようとしていた。かれは世にあり、世はかれによってつくられたが、世はかれを知らなかった。かれは、ご自分の家に来られたが、その人々はうけいれなかった。・・・みことばは肉体となって、私たちのうちに住まわれた。」
救い主が生まれて四十日後、シメオンはその子をだき、天主を賛美していった。「みことばどおり、主よ、今こそ、あなたのしもべを安らかに死なせてください。私の目は、もう主の救いを見ました。その救いは、あなたが万民のためにそなえられたもの、異邦人をてらす光、み民イスラエルのほまれであります。・・・この子は、イスラエルの多くの人が、あるいはたおれ、あるいは立ちあがるために、さからいのしるしとして立つ人です。」
イエズス・キリストが真の天主か否か、ここに全ての核心がある。
聖パウロはこう叫ぶ。「私、パウロは、自筆で、あなたたちに挨拶をおくる。もし主を愛しない者があれば、のろいあれ。マラン・アタ。」
聖ヨハネはこう言う。「小さな子らよ、最後のときである。あなたたちは反キリストが来ると聞いていたが、今や多くの反キリストがあらわれた。これによって、私たちは、最後の時が来たことを知る。・・・いつわりの者はだれか?イエズスがキリストであることを否定するものではないか?おん父とみ子とをいなむ者、それこそ反キリストである。み子をいなむ者はおん父を持たず、み子を宣言する者は、おん父をももっている。」
イエズス・キリストが天主であることを否定するもの、彼は反キリストであり、いにしえの蛇の子孫だ。
もしも、イエズス・キリストが真の天主であるなら、カトリック教会は正しい真の宗教である。
もしも、イエズス・キリストが真の天主であるなら、現行のエキュメニズム運動はイエズス・キリストを暗に否定することであり、全く虚しい。
何故なら、現行のエキュメニズム運動は全ての宗教に同じ価値があるということを意味しているからだ。どんな宗教によってでも、救霊を非常にうまく達成することができるだろうということを意味しているからだ。「カトリック教会が唯一の教会でありそれだけが真理を所有し、カトリック教会だけがイエズス・キリストを通して人々を救霊に導くことが出来る」ということの暗黙の拒否だからだ。そのときイエズス・キリストの教会は単に便利なものではあったとしても、もはや必要不可欠なものではなくなってしまうからだ。
しかし、真理はイエズス・キリストこそ真の天主であり、これを通さずには私たちは救われないということだ。だからこそ初代教皇である聖ペトロは、イスラエルの人々にこう言った。「くいあらためなさい、おのおの、罪のゆるしを受けるために、イエズス・キリストのみ名によって洗礼を受けなさい。」
もしも、イエズス・キリストが天主であることを知らないなら、政治的な理由により「対話」や「寛容」を試みている人々のことを私たちは、何も非難しようとは思わない。願わくは教皇様が、初代聖ペトロが言ったのと同じことを言われますように!「くいあらためなさい、おのおの、罪のゆるしを受けるために、イエズス・キリストのみ名によって洗礼を受けなさい。そうすれば、聖霊のたまものを受けるでしょう。」
しかし、イエズス・キリストが天主であることを知りつつ、それを暗に或いは公然と否定する人々が、あるいは私たちの主イエズス・キリストが天主であることを公然と説かなければならない高位聖職者たちが、イエズス・キリスト以外のものに祈り、希望しようにいう時、私たちは何と言えばよいのか。
「人類は、2つの相対立する陣営に別れている。この2つのうち、一方は真理と徳のために戦い、他方はそれの反対すべてのために戦っている。一方はイエズス・キリストの本当の教会であり、…他方はサタンの王国である。」(教皇レオ13世は、回勅 Humanum Genus )
「かくて2つの愛が2つの国を築いた。天主を蔑む自愛は地の国を、自己を卑しむ天主の愛は天の国を築き、前者は自らを誇り、後者は主において誇る。」(アウグスティヌス『神の国』第14巻28章)
私たちは、イエズス・キリストが天主であることを知りながら、イエズス・キリストを否定することは出来ない。天主の御恵みと御助けによってそのようなことから私たちが守られますように!
聖母マリアよ、我らのために祈り給え!
聖母の汚れ無き御心よ、弱き我らを憐れみ助け給え!
============
ブログランキング <= クリックで応援して下さい。兄弟姉妹の皆様の応援を感謝します!
============
●성 비오 10세회
●トリエント公会議(第19回公会議)決議文
●第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
●聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
●新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
●グレゴリオ聖歌に親しむ会
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
【参考資料】1970년 개혁 이전의 로마 전례 사용에 관한 베네딕토 16세 교황 성하의 자의 교서 「교황들」(Summorum Pontificum)
【参考資料】第二バチカン公会議宣言『信教の自由に関する宣言』
兄弟姉妹の皆様、
エキュメニズムの問題点の核心:イエズス・キリストが真の天主か否か
創世の書には、主なる天主は蛇に向かってこう言われた、とある。
「おまえと彼女の間に、またおまえの子孫と彼女の子孫との間に、私は敵対をおこう。彼(ヴルガタ訳では彼女)は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは彼のかかとを噛むであろう。」
天主が置いた敵対。救い主とサタンと間の敵対。キリストと反キリストと間の敵対。これには和解が不可能である。「対話」も「寛容」も「政治的配慮」もこれを解消することが出来ないだろう。
救い主は生まれた。「みことばは天主とともにあった。みことばは天主であった。かれは、はじめに天主とともにあり、万物はかれによってつくられた。つくられた物のうちに、一つとしてかれによらずにつくられたものはない。かれに生命があり、生命は人の光であった。光はやみに輝いたが、やみはかれを悟らなかった。・・・ すべての人をてらすまことの光は、この世に来ようとしていた。かれは世にあり、世はかれによってつくられたが、世はかれを知らなかった。かれは、ご自分の家に来られたが、その人々はうけいれなかった。・・・みことばは肉体となって、私たちのうちに住まわれた。」
救い主が生まれて四十日後、シメオンはその子をだき、天主を賛美していった。「みことばどおり、主よ、今こそ、あなたのしもべを安らかに死なせてください。私の目は、もう主の救いを見ました。その救いは、あなたが万民のためにそなえられたもの、異邦人をてらす光、み民イスラエルのほまれであります。・・・この子は、イスラエルの多くの人が、あるいはたおれ、あるいは立ちあがるために、さからいのしるしとして立つ人です。」
イエズス・キリストが真の天主か否か、ここに全ての核心がある。
聖パウロはこう叫ぶ。「私、パウロは、自筆で、あなたたちに挨拶をおくる。もし主を愛しない者があれば、のろいあれ。マラン・アタ。」
聖ヨハネはこう言う。「小さな子らよ、最後のときである。あなたたちは反キリストが来ると聞いていたが、今や多くの反キリストがあらわれた。これによって、私たちは、最後の時が来たことを知る。・・・いつわりの者はだれか?イエズスがキリストであることを否定するものではないか?おん父とみ子とをいなむ者、それこそ反キリストである。み子をいなむ者はおん父を持たず、み子を宣言する者は、おん父をももっている。」
イエズス・キリストが天主であることを否定するもの、彼は反キリストであり、いにしえの蛇の子孫だ。
もしも、イエズス・キリストが真の天主であるなら、カトリック教会は正しい真の宗教である。
もしも、イエズス・キリストが真の天主であるなら、現行のエキュメニズム運動はイエズス・キリストを暗に否定することであり、全く虚しい。
何故なら、現行のエキュメニズム運動は全ての宗教に同じ価値があるということを意味しているからだ。どんな宗教によってでも、救霊を非常にうまく達成することができるだろうということを意味しているからだ。「カトリック教会が唯一の教会でありそれだけが真理を所有し、カトリック教会だけがイエズス・キリストを通して人々を救霊に導くことが出来る」ということの暗黙の拒否だからだ。そのときイエズス・キリストの教会は単に便利なものではあったとしても、もはや必要不可欠なものではなくなってしまうからだ。
しかし、真理はイエズス・キリストこそ真の天主であり、これを通さずには私たちは救われないということだ。だからこそ初代教皇である聖ペトロは、イスラエルの人々にこう言った。「くいあらためなさい、おのおの、罪のゆるしを受けるために、イエズス・キリストのみ名によって洗礼を受けなさい。」
もしも、イエズス・キリストが天主であることを知らないなら、政治的な理由により「対話」や「寛容」を試みている人々のことを私たちは、何も非難しようとは思わない。願わくは教皇様が、初代聖ペトロが言ったのと同じことを言われますように!「くいあらためなさい、おのおの、罪のゆるしを受けるために、イエズス・キリストのみ名によって洗礼を受けなさい。そうすれば、聖霊のたまものを受けるでしょう。」
しかし、イエズス・キリストが天主であることを知りつつ、それを暗に或いは公然と否定する人々が、あるいは私たちの主イエズス・キリストが天主であることを公然と説かなければならない高位聖職者たちが、イエズス・キリスト以外のものに祈り、希望しようにいう時、私たちは何と言えばよいのか。
「人類は、2つの相対立する陣営に別れている。この2つのうち、一方は真理と徳のために戦い、他方はそれの反対すべてのために戦っている。一方はイエズス・キリストの本当の教会であり、…他方はサタンの王国である。」(教皇レオ13世は、回勅 Humanum Genus )
「かくて2つの愛が2つの国を築いた。天主を蔑む自愛は地の国を、自己を卑しむ天主の愛は天の国を築き、前者は自らを誇り、後者は主において誇る。」(アウグスティヌス『神の国』第14巻28章)
私たちは、イエズス・キリストが天主であることを知りながら、イエズス・キリストを否定することは出来ない。天主の御恵みと御助けによってそのようなことから私たちが守られますように!
聖母マリアよ、我らのために祈り給え!
聖母の汚れ無き御心よ、弱き我らを憐れみ助け給え!
============
ブログランキング <= クリックで応援して下さい。兄弟姉妹の皆様の応援を感謝します!
============
●성 비오 10세회
●トリエント公会議(第19回公会議)決議文
●第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
●聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
●新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
●グレゴリオ聖歌に親しむ会
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
【参考資料】1970년 개혁 이전의 로마 전례 사용에 관한 베네딕토 16세 교황 성하의 자의 교서 「교황들」(Summorum Pontificum)
【参考資料】第二バチカン公会議宣言『信教の自由に関する宣言』
どれも携帯だから同じなんだ、と。
そして、エキュメニカルに消極的だということは、ドコモからAUに電話がかけられないということを放置することだと述べて説教を締めくくられました。【以上はしょって書いていますがそんな内容です】
携帯電話会社は競争の果てに、料金プランも端末の機能も似たようなものばかりになってしまいましたが、エキュメニカルについても同じことが言えるのではないでしょうか?
ミサ典文や礼拝式文や祈祷書の内容はカトリックもプロテスタントも聖公会も、どれもこれも同じような文章になり、教義もカテキズムはあくまでも建前で、実際はどの教団もなんでもありの方向性で一致しています。
大司教様は公会議をもって免疫力低下をもたらすエイズと評したと聞くが、むしろ司教司祭権力は健在で、その権力をもって、聖伝を敵とみなし聖伝を攻撃してきたのが公会議後の教会のあり方の一現象ではなかったかとすら思えるのである。
上のコメント、下3行は、違うと断言いたします。
カトリックとプロテスタント、また、カトリックと聖公会は、私の認識においては、全く異なります。
「どの教団もなんでもありの方向性で一致している」とは、少々乱暴な表現では・・・?現段階では、一致はしていないし、することもできないと思います。教義(信ずべき教え)が、全く異なります。
とっくに、バレておりますゆえ・・・
立つ鳥跡を濁さず・・・
引き際は、潔く、参りましょう!
いざ・・・
「分かれている兄弟」と呼ばれるカトリック教会以外のすべてのキリスト者、少なくともニケア・コンスタンチノープル信条を「Credo・・・」と唱え、三位一体の教義を認めておられる方々には、かつて反目しあっていた関係の反省として、ローマ・カトリック教会(教皇様)のもとにお帰りなさい、と声をかけることまでは、それほど問題はないと思うのです。
ただし、これは、あくまでも、聖パウロや聖フランシスコ・ザビエルの精神をもって、カトリック教会の教えを「宣教」すると言う意味においてです。
たとえば、カトリック教会の教えや立場を正しく伝えようという意図で、プロテスタント教会の教役者や信徒の方を、カトリック教会の妥協しない典礼にご招待することは、意味があると思います。
ただし、会衆として来ていただくのですから、彼らの祭服をお召しになったり、説教したり、声を出して彼らのメッセージを含む祈りをしたり、彼らの”信仰告白”である讃美歌を歌ったりは、させないで・・・。特別扱いはしないで・・・、です。
しかし、現実は、もちろん違います。にもかかわらず、上のような立場を貫こうとしている主任司祭がおられるのも事実です。
批判を恐れずにいえば、
エキュメニズムにおける「対話」とは、
相手の言い分(主張)に妥協したり、同調することではなく、
こちらの言い分(教義・立場・許容できないこと・叙階の秘蹟の意味・聖体の秘蹟の考え方・教皇様の首位権)をしっかり誠意を込めて「宣教(お伝え)」することだと考え、
私自身がそういう場に借り出された時には、微力ながら、相手の方に失礼のないように、控えめにではありますが、心を込めて、申し上げます。
「何様だ!」と思われようが、主任司祭に話す内容の許可を取っているのですから、問題はありません。
個々の教会で、一つ一つの事例を、事前に検証していくことも、水際で(カトリック教会とは無縁の)不可思議なるものの流入を防ぐことになるのではないかと思っています。
「諸宗教」については、教会のトップがあんなことをしたから、みんな真似をしてこうなってしまったのだ・・・、と。そのとおりだと思います。
しかし、小教区では、「諸宗教」を巻き込んだ問題は、まだ、それほど多くはないのではないでしょうか?
暴言ですが、そういう集まりには誘われても「十戒」を理由にみんなで行かないことですね。正しい、本当の意味での「従順」の意味を考えれば、従わないことが正しいこともあるのだということを、こちらのブログで 教えていただきましたから ・・・。
そういえば、私がかつて土曜日版のミサにお邪魔させていただいていた教会では、神父様が変わられたあと、古い信者さんが聖書朗読や共同祈願でイエスと書かれてあるのを、つい習慣でイエズスと読んでしまうと、神父様が顔を真っ赤にして怒られたことがありました。
http://fallbackbelmont.blogspot.com/2007/08/nine-billionth-name-of-god.html
それはひどい。イエズス=伝統的=悪ということなのでしょうか。ちなみに梅村司教様は、ふだんから「イエズス」とちゃんといっている。
なぜ「ハレルヤ」ではないのか、と。
なんと愚かな神父でしょう。