Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

イエズス・キリストの御名によって祈るとは?「今まであなたたちは、何一つ、私の名によって求めたことがない。求めよ、そうすれば与えられるであろう、あなたたちの喜びが満たされるように。」

2024年05月17日 | お説教・霊的講話

2024年5月5日 秋田巡礼 

トマス小野田神父 

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

神父様、
愛する秋田巡礼者の皆さま、

今日は2024年5月5日、復活後第五主日です。
主は今日の福音で「今まであなたたちは、何一つ、私の名によって求めたことがない。求めよ、そうすれば与えられるであろう、あなたたちの喜びが満たされるように。」と言われました。

この言葉について、カトリック教会はいったい、教父たちはいったい、何を教えているのでしょう。この言葉を中心に一緒に黙想いたしましょう。

第一にまことの宗教について、それからイエズス・キリストの御名によって祈るとは何かということ、そしてイエズス様の宗教、イエズス・キリストの御名によって祈る最高のことができる真の宗教とは何かについて黙想して、最後に遷善の決心を立てましょう。

【1:真の宗教】
宗教というのは真理に関わることです。真理というのは、つまり、現実――わたしたちの心の外にある――を、正しく認識することに関わっています。たとえば、1+1=2で、1+1=3と言えば、それは間違っています。これは好みで選ぶものではありません。
これと同じように、宗教というのは、たとえばスーパーマーケットで、自分が食べたいもの好きなものはどれかというように選ぶものではありません。1+1=2、これは一つしか答えがないように、本当の真理の宗教もまことの宗教もたった一つしかありません。

宗教というのは、創造主でありわたしたちを造ってくださった大宇宙を造りわたしたちを造ってくださった天主に、知的な被造物が、主にふさわしい礼拝や祈りを捧げることです。
ですから本当の宗教、真の宗教というのは、二つのことがなければなりません。一つは本当の天主に、二にふさわしい手段ややり方で、礼拝や祈りを捧げることです。
もしも礼拝や祈りを、真の天主ではなくてほかのものに偶像に嘘の神々に捧げるのであれば、それは偽りの宗教、あるいは邪教といわれています。
またもしも礼拝や祈りを、まことの天主が定めたやりかた・手段以外でやるならば、ふさわしいやり方以外でやるならば、それは間違った宗教であるといわなければなりません。

真の宗教が礼拝や祈りの対象とするのは、唯一の本当の天主、三位一体の天主です。
その礼拝と祈りにふさわしい手段・やり方というのはイエズス・キリストです。
何故かというと聖ペトロは聖霊にみたされてこう言ったからです。「救いは主以外の者によっては得られません。全世界に、私たちが救われるのは、これ以外の名前は、人間にあたえられませんでした」(使徒行録4:12)。
何故ならば、イエズス・キリストはこう断言したからです。「私は、道であり、真理であり、命である。私によらずには、だれ一人父のみもと(つまり天主御父)に行くことはできない」(ヨハネ14:6)

ですから、真の宗教・本当の宗教は、キリスト教と呼ばれています。何故かというと、キリスト教は真の三位一体の天主に、イエズス・キリストを通して本当の礼拝と祈りを捧げることができるからです。なぜかと言うとイエズス・キリストこそが、天主によって、最高永遠の司祭として定められた唯一の仲介者だからです。唯一の仲介者というのは、わたしたちを天と地を結ぶ唯一の御方という意味です。なぜかというと、イエズス・キリストこそがまことの天主でありまことの人、私たちのために人間となられた本当の創造主・天主であるからです。これ以外に本当の天主はいらっしゃらないからです。

聖ヨハネはこう断言します。
「みことばは肉体となって、私たちのうちに住まわれた。…かれは、恩寵と真理とにみちておられた。…私たちは、そのみちあふれるところから、恩寵に次ぐ恩寵をうけた。なぜなら、律法はモイゼを通じて与えられたが、恩寵と真理とは、イエズス・キリストによって私たちの上に来たからである。」(ヨハネ1:14,16-17)
イエズス・キリスト以外にはこれはできません。

【2:イエズス・キリストの名前によって祈る】
では今日イエズス様はこうおっしゃいました。
「まことにまことにあなたたちに言う、あなたたちが父に求めるものは何でも、私の名によって与え給うであろう。」

「今まであなたたちは、何一つ、私の名によって求めたことがない。」

ところでこれについて、ある人は疑問を持っていました。ルカの聖福音を読むと、七十二人の弟子たちは、喜びを持って帰ってきて、「主よ、あなたのみ名によれば、悪魔さえも私たちに服従します」といった(ルカ10:17)とあるからです。
つまり、わたしの御名によって悪魔を追い出した、イエズス様の御名によって悪魔を追い出したのではないか、なぜイエズス様の御名によってもとめたことがないというのか。
聖アウグスチヌスはわたしたちにこう教えています。これは「今まであなたたちは、〝もっともたいせつなことを"何一つ、私の名によって求めたことがない。」

悪魔を追い出す…というのは最も大切なものではない、最も大切なものは何かというと、救霊だ。永遠の命だ。贖いだ。これほど重大なことはない。私たちの人生でもっとも大切なことは永遠の命を確保することだ。そのためにこそイエズス様は十字架につけられた。体の健康、病気回復、これは、祈りによってわたしたちが救霊を成し遂げるという偉大なことと比べると、あまりにも小さなことにすぎない。
天主の子どもとなって、永遠で霊的な天の国を遺産相続する、これを
「イエズス・キリストの御名によって」求めよ。イエズス・キリストを、ただの人間ではなく、御父をわたしたちに示してくださる天と地の唯一の仲介者として信頼してイエズス・キリストの御名において求めよ。と言っているのだと教えています。

すると、イエズス様は言葉を続けてこうおっしゃいます。
「求めよ――つまり救霊を――求めよ。最も重大なこの命に関することを求めよ。そうすれば与えられるであろう。あなたたちの喜びが満たされるように。」
イエズス・キリスト様は、私たちに求めることを求めておられます、命じておられます。なぜかというとイエズス様は私たちに与えようとするからです、しかしこの与える条件の一つがイエズス・キリストの御名によって求め奉ることです。
なぜでしょうか?なぜイエズス様はわたしたちに与えることをお望みなのでしょうか。それはイエズス様がおっしゃるには「あなたたちの喜びが満たされる」から。
喜びというのは、わたしたちが欲しいと思ったよいことが善がほんとうに実現したときです。それを持った時、それを所有して楽しむときです。
欲する、「欲しい」というのは、私たちが得たいという、何かよいものに向かって動いているということです。
喜びというのは、それを得てそこに安らいでいるときです、憩うときです。
ですからわたしたちが欲しいと思って得た善がよいものが大きければ大きいほど、それを得たときのその安らぎも大きなものになります。

ところで、この地上のすべての被造物を見回してみても、私たちの喜びが満たされることはけっしてありません。何故かというとたとえこの全宇宙を所有したとしても、この全宇宙を楽しんだとしてもわたしたちはもっともっと、と思うからです。なぜならばわたしたちの心は天主によってのみ満たされるように造られているからです。被造物はわたしたちの願いを欲求を完全に憩わせてくれることはできません。でも私たちが求める全ての善が溢れるばかり満ち溢れているとき、はじめてわたしたちは「喜びが満たされる」と言うことができます。それはいったいいつでしょうか。このようなすべての善に満たされて満たされてもうこれでいっぱいだというのは、これは天主を所有した時しかありません。

「求めよ、そうすれば与えられるであろう、あなたたちの喜びが満たされるように」というのは、つまり、聖アウグスチヌスによると、そして聖トマス・アクィナスがわたしたちに繰り返して教えているように言うと、その意味は、「全ての善の源である三位一体、天主を味わい楽しむことができるように、永遠の命を持てることができるように求めよ、これよりも偉大な喜びはない、そうすれば、これを求めれば、必ず与えられる。それは私が与えるから。あなたたちの喜びが満たされるように。」という意味だ、と言っています。

実に聖ルカの福音書の先ほどの続きには、主はこう言っています。「霊が服従するといって喜ぶな。むしろ、あなたたちの名前が天にしるされたことを喜べ」(ルカ10:20)。これこそが本当の喜びだ、満たされる喜びだ。

【3:イエズス・キリストの宗教】
では、イエズス・キリストの宗教、イエズス・キリストの御名によって祈る、これを最高度に行うにはどうしたらよいでしょうか?
ただ、イエズス様、わたしにアイスクリームをください、キリストの御名によってアーメン、と言えばよいのでしょうか。名前をつければ ペタッとつければそれでいいのでしょうか。

いえ、永遠の大祭司・唯一の仲介者イエズス・キリストが私たちに与えてくださった、最高のふさわしい礼拝と祈りがあります。これを使わなければなりません。これを使うことによって、最高度にイエズス・キリストの御名によって、イエズス・キリストの望みの通り、わたしたちは祈ることができます。最高の効果を持つ価値を持つ祈りを行うことができます。それは何でしょうか。主の十字架の生け贄の祈りです。つまり聖伝のミサです。

聖伝のミサでは、イエズス・キリストの十字架の生け贄が再現されます。行われます。わたしたちの目の前で、実現されます。さきほどフィルベン神父様がおっしゃってくださったように、すでにオッフェルトリウム――奉献――の時には、パンやブドウ酒ではなくて、イエズス・キリストの汚れなきいけにえ、ホスチアを捧げています。カリスも、ブドウ酒ではなくて救いのカリスを捧げています。
Súscipe, sancte Pater, omnípotens ætérne Deus, hanc immaculátam hóstiam, quam ego indígnus fámulus tuus óffero tibi, Deo meo vivo et vero, pro innumerabílibus peccátis, et offensiónibus, et negligéntiis meis, et pro ómnibus circumstántibus, sed et pro ómnibus fidélibus Christiánis vivis atque defúnctis : ut mihi, et illis profíciat ad salútem in vitam ætérnam. Amen.

Offérimus tibi, Dómine, cálicem salutáris, tuam deprecántes cleméntiam : ut in conspéctu divínæ maiestátis tuæ, pro nostra et totíus mundi salúte, cum odóre suavitátis ascéndat. Amen.

また司祭はイエズス・キリストのペルソナにおいて、聖変化を起こさせるために聖変化の言葉を発します。ですから、聖伝のミサでは、聖変化を行うとき、誰某神父様が聖変化をするのではなくて、誰某神父様がイエズス様にくちびるを貸して、イエズス様のペルソナにおいて、イエズス・キリストが聖変化を起こします。捧げる司祭はイエズス・キリストです。そして捧げられるいけにえは真の天主の小羊であるイエズス・キリスト御自身です。

これは、新しいミサとは、大きな違いです。なぜならば新しいミサというのは、最後の晩餐の記念であって、会衆の集う集会であって、捧げるものは「大地の恵み、労働の実り」であるにしかすぎないからです。

しかし天主の永遠の御計画によって、十字架のいけにえ、そしてその延長であるその再現であるミサ聖祭は、日々のわたしたちの罪を贖って、罪の結果を償うための最善の手段・方法としてわたしたちに与えられました。イエズス・キリストの御名によって祈る最高のそして最大の最善の方法です。イエズス・キリストの御生涯の中心は、ど真ん中は、そしてその目的は、十字架の犠牲でした、いけにえでした。全てはこれを中心にしていました。ですから、この十字架のいけにえがミサ聖祭によって毎日わたしたちの祭壇のうえで続けられているので、わたしたちキリスト者の全生涯も、わたしたちの一日の全ての考え行いもミサ聖祭と御聖体を中心にすればするほど、イエズス様の御名によって祈りイエズス様と一致し、そして遂には永遠に天主を味わい喜び、私たちの喜びが満たされる根源となりうるのです。

では、最後に秋田のマリア様にお祈りいたしましょう。マリア様は十字架の下にいつも佇んでわたしたちを招いておられます。さあ、愛する子どもたち、十字架の下にいらっしゃい。ミサ聖祭に与りにいらっしゃい。招いておられます。イエズス様の十字架に合わせてあなたたちの日毎の日々を日毎の十字架を義務をお捧げしなさい。

また今日は五月五日聖ピオ五世教皇様の祝日でもあります。聖ピオ五世はこの聖伝のミサを列聖しました。つまりこれは、すべての司祭が永久に捧げる義務がある、そして捧げる自由がある特権があるミサであって、すべての司祭はこれを捧げなければならないと宣言し聖別して列聖したという教皇様です。わたしたちはこのイエズス・キリストの御名によるこのミサ聖祭、聖伝のミサを守ることができますように聖ピオ五世にお祈りしましょう。

聖ピオ五世とマリア様にお祈りしましょう。わたしたちの世界の存続のために、わたしたちのしあわせの存続のために、このミサがどうしても必要です。ですからこのミサを捧げ続けるような聖なる司祭がわたしたちの間から誕生しますように、聖なる司祭、聖なる修道者の召命がたくさん与えられますようにお祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



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