アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
ロザリオの十字軍の報告をご紹介いたします。
2009年9月までの分で、10月21日現在の報告の総計は 17318環です。愛する兄弟姉妹の皆様の寛大なご理解とご協力に心から感謝いたします!
2010年3月25日まで、155日残っていますが、私たちの目標の12万環まではあと102682環が必要です。(ということは、毎日662環です!是非、お知り合いの方々にご協力をお願いしてください。よろしくお願いいたします。)
【報告】
小野田神父様,今月もお世話になりました。
ロザリオの十字軍の掲げている意向で31環、前回報告してから昨日まで唱えました。
ちょっと、トリエント公会議の議決文を読みました。
1840 使徒たちが主の手から聖体を受ける前に(マテオ26・26;マルコ14・22)、すでに主は、かれらに与えるのが自分の体であることを教えた。聖別の直後に私たちの主の体と血とが、霊魂と神性をともに備えて、パンとブドー酒の形色の中に現存することを天主の教会は絶えず信じてきた。言葉の力によってパンの形色の中に体が、ブド一酒の形色の中に血が現存するが、自然の結合と共存とによって、ブドー酒の形色の中にも体、パンの形色の中にも血、また両者の中には霊魂が「死者からよみがえって、もう死ぬことがない」(ローマ6・9)主キリストの体の各部分と位格的結合によって一つになった神性とともに、現存している(第1、3条)。
For the apostles had not yet received the Eucharist from the hand of
the Lord [ Matt. 26:26; Mark 14:22] when He Himself truly said that
what He was offering was His body; and this belief has always been in
the Church of God, that immediately after the consecration the true
body of our Lord and His true blood together with His soul and
divinity exist under the species of bread and wine; but the body
indeed under the species of bread, and the blood under the species of
wine by the force of the words, but the body itself under both by
force of that natural connection and concomitance by which the parts
of Christ the Lord, "who hath now risen from the dead to die no more"
[ Rom. 6:9], are mutually united, the divinity also because of that
admirable hypostatic union [can. I and 3] with His body and soul.
Therefore, it is very true that as much is contained under either
species as under both. For Christ whole and entire exists under the
species of bread and under any part whatsoever of that species,
likewise the whole (Christ) is present under the species of wine and
under its parts [can. 3].
聖体についての教会の定義は何度読んでも感動します。
世界中の司祭がこれを信じて実践していなければならないのに最近は怪しくなった事が残念です。
神父様もお体に気をつけて下さい。
また来月の御ミサが楽しみです。
【報告】
トマス小野田神父様
アヴェ・マリア
初めてのご報告です。
10月11日から19日まで
10環
捧げました。
よろしくお願いいたします。
【お返事】
アヴェ・マリア!
初めてのご報告ありがとうございます。大変嬉しく思います。
是非、続けてお願いいたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
【報告】
† 主の平安
小野田神父様
神父様の御活躍にいつも感嘆しております。
御報告が遅れましたが8月と9月にお捧げしたロザリオは
366環でした。
家内もロザリオ十字軍に入会したいと申しております
のでよろしくお願いします。
天主様の豊かな祝福が神父様の上にありますように。
【お返事】
アヴェ・マリア!
たくさんのロザリオをありがとうございます! 奥様もご参加下さるとのこと、大変嬉しゅうございます。是非、よろしくお伝えください。
天主様の祝福が豊かにありますように!
+ + +
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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兄弟姉妹の皆様のご関心と応援とを感謝します!
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【関連記事】ファチマとロザリオの十字軍
愛する兄弟姉妹の皆様、
ロザリオの十字軍の報告をご紹介いたします。
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【報告】
小野田神父様,今月もお世話になりました。
ロザリオの十字軍の掲げている意向で31環、前回報告してから昨日まで唱えました。
ちょっと、トリエント公会議の議決文を読みました。
1840 使徒たちが主の手から聖体を受ける前に(マテオ26・26;マルコ14・22)、すでに主は、かれらに与えるのが自分の体であることを教えた。聖別の直後に私たちの主の体と血とが、霊魂と神性をともに備えて、パンとブドー酒の形色の中に現存することを天主の教会は絶えず信じてきた。言葉の力によってパンの形色の中に体が、ブド一酒の形色の中に血が現存するが、自然の結合と共存とによって、ブドー酒の形色の中にも体、パンの形色の中にも血、また両者の中には霊魂が「死者からよみがえって、もう死ぬことがない」(ローマ6・9)主キリストの体の各部分と位格的結合によって一つになった神性とともに、現存している(第1、3条)。
For the apostles had not yet received the Eucharist from the hand of
the Lord [ Matt. 26:26; Mark 14:22] when He Himself truly said that
what He was offering was His body; and this belief has always been in
the Church of God, that immediately after the consecration the true
body of our Lord and His true blood together with His soul and
divinity exist under the species of bread and wine; but the body
indeed under the species of bread, and the blood under the species of
wine by the force of the words, but the body itself under both by
force of that natural connection and concomitance by which the parts
of Christ the Lord, "who hath now risen from the dead to die no more"
[ Rom. 6:9], are mutually united, the divinity also because of that
admirable hypostatic union [can. I and 3] with His body and soul.
Therefore, it is very true that as much is contained under either
species as under both. For Christ whole and entire exists under the
species of bread and under any part whatsoever of that species,
likewise the whole (Christ) is present under the species of wine and
under its parts [can. 3].
聖体についての教会の定義は何度読んでも感動します。
世界中の司祭がこれを信じて実践していなければならないのに最近は怪しくなった事が残念です。
神父様もお体に気をつけて下さい。
また来月の御ミサが楽しみです。
【報告】
トマス小野田神父様
アヴェ・マリア
初めてのご報告です。
10月11日から19日まで
10環
捧げました。
よろしくお願いいたします。
【お返事】
アヴェ・マリア!
初めてのご報告ありがとうございます。大変嬉しく思います。
是非、続けてお願いいたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
【報告】
† 主の平安
小野田神父様
神父様の御活躍にいつも感嘆しております。
御報告が遅れましたが8月と9月にお捧げしたロザリオは
366環でした。
家内もロザリオ十字軍に入会したいと申しております
のでよろしくお願いします。
天主様の豊かな祝福が神父様の上にありますように。
【お返事】
アヴェ・マリア!
たくさんのロザリオをありがとうございます! 奥様もご参加下さるとのこと、大変嬉しゅうございます。是非、よろしくお伝えください。
天主様の祝福が豊かにありますように!
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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韓国の聖ピオ十世会では、2009/10/29現在、14863環が集まっています。
韓国では、カトリック人口が多いので本当はもっと多く人が集まっても良いのですが、この頃の主日のミサ聖祭に参加する方々は、50名ほどにとどまっています。
ラファエルとは、仰るとおり「天主の良薬」という意味ですね。
ミカエルとか、ガブリエルの意味を言うことが出来ますか?
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
小野田神父様、未信者のお友達から「どうして天使に九位までの階級があるの?」と聞かれたことがあるのですが・・・私は答えられませんでした。天主様の御旨としか・・・(T_T)
PS☆小野田神父様、フィリピンは何環集まっていますか?またもや気になります(^_^;)
ところで随分前に"レジオ・マリエ”という信心会がありました。今どうなっているのでしょう?十月のロザリオは31環お捧げいたしました。
【質問】
調べましたところ、ミカエルは「天主の如き者は誰ぞ」で、ガブリエルは「天主の御力」という意味のようなのですが、正しいでしょうか?
「エル」はヘブライ語で「天主の」という意味だそうですね。
【お返事】
はい、その通りです。ミカエルは「誰が天主の如きぞ」で、
(「ミ」=誰 「カ」=の如き、のよう、 「エル」=天主)
ガブリエルは「天主の御力」という意味です。
「エル」はヘブライ語で「天主」という意味です。
【質問】
未信者のお友達から「どうして天使に九位までの階級があるの?」と聞かれたことがあるのですが・私は答えられませんでした。
【お返事】
聖トマス・アクイナスによると、階級秩序(ギリシア語でhierarchia)は、「聖なる頂点」ということから由来する。頂点には二つの意味で理解できる。
一つは、源泉・原理、という意味で、一つの源泉・原理の元に多数が秩序づけられていること。この意味では、天使達のみならず人間たちと全ての被造物の根源・源泉である天主は唯一であるから、天使達のみならず全ての理性的被造物(人間たち)は一つの階級を構成する。
頂点のもう一つの意味は、一つの頂点の元に秩序づけられた多数の方からの観点から考察したもので、一つの同じやり方で頂点からの統治を受けているという意味である。一人の王の元で、法と行政官の異なる多くの都市が統治されるように、同じやり方で統治されることが出来ない時に言われる。人間たちは、天使達とは異なるやり方で天主からの照らしを受ける。従って、この意味においては、人間の階級と天使達の階級とは区別されなければならない。
上位の天使達は、下位の天使達よりもより普遍的な認識を持つ。この意味で、天使達において三つの段階に従って普遍的な認識を受け取ることが区別されうる。つまり、天使達が照らしを受けるものごとの理念を三重に考察することが出来る。
第一に、普遍的な第一原理(つまり天主)からでることに従う認識で、この様式には第一の階級が相応しい。この第一階級は、直接的に天主へと向かい、天主の玄関に置かれているかのようである。
第二には、このような理念が、天主から創られた普遍的な原因に依存していることとしても認識で、これはある意味で多岐にわたる。この様式の認識には第二の階級が相応しい。
第三には、このような理念が、個々の物事(現実)に適応されるに従う、固有の原因に依存するものとしての認識である。この様式には最下位の階級が相応しい。
Respondeo dicendum quod hierarchia est sacer principatus, ut dictum est. In nomine autem principatus duo intelliguntur, scilicet ipse princeps, et multitudo ordinata sub principe. Quia igitur unus est Deus princeps non solum omnium Angelorum, sed etiam hominum, et totius creaturae; ideo non solum omnium Angelorum, sed etiam totius rationalis creaturae, quae sacrorum particeps esse potest, una est hierarchia, secundum quod Augustinus dicit, in XII de Civ. Dei duas esse civitates, hoc est societates, unam in bonis Angelis et hominibus, alteram in malis. Sed si consideretur principatus ex parte multitudinis ordinatae sub principe, sic unus principatus dicitur secundum quod multitudo uno et eodem modo potest gubernationem principis recipere. Quae vero non possunt secundum eundem modum gubernari a principe, ad diversos principatus pertinent, sicut sub uno rege sunt diversae civitates, quae diversis reguntur legibus et ministris. Manifestum est autem quod homines alio modo divinas illuminationes percipiunt quam Angeli, nam Angeli percipiunt eas in intelligibili puritate, homines vero percipiunt eas sub sensibilium similitudinibus, ut Dionysius dicit I cap. Cael. Hier. Et ideo oportuit distingui humanam hierarchiam ab angelica. Et per eundem modum in Angelis tres hierarchiae distinguuntur. Dictum est enim supra, dum de cognitione Angelorum ageretur, quod superiores Angeli habent universaliorem cognitionem veritatis quam inferiores. Huiusmodi autem universalis acceptio cognitionis secundum tres gradus in Angelis distingui potest. Possunt enim rationes rerum de quibus Angeli illuminantur, considerari tripliciter. Primo quidem, secundum quod procedunt a primo principio universali, quod est Deus, et iste modus convenit primae hierarchiae, quae immediate ad Deum extenditur, et quasi in vestibulis Dei collocatur, ut Dionysius dicit VII cap. Cael. Hier. Secundo vero, prout huiusmodi rationes dependent ab universalibus causis creatis, quae iam aliquo modo multiplicantur, et hic modus convenit secundae hierarchiae. Tertio autem modo, secundum quod huiusmodi rationes applicantur singulis rebus, et prout dependent a propriis causis, et hic modus convenit infimae hierarchiae. Quod plenius patebit, cum de singulis ordinibus agetur. Sic igitur distinguuntur hierarchiae ex parte multitudinis subiectae. Unde manifestum est eos errare, et contra intentionem Dionysii loqui, qui ponunt in divinis personis hierarchiam quam vocant supercaelestem. In divinis enim personis est quidam ordo naturae, sed non hierarchiae. Nam, ut Dionysius dicit III cap. Cael. Hier., ordo hierarchiae est alios quidem purgari et illuminari et perfici, alios autem purgare et illuminare et perficere. Quod absit ut in divinis personis ponamus.
(Iª q. 108 a. 1 co. )
そして、一つの階級秩序は一つの頂点秩序、つまり頂点のもとに或る一つの統治において秩序づけられた多数である。ところでもしも多数において多様の役職段階(ordo)がなかったとしたら、秩序づけられた多数ではなく混乱したものとなる。多様な職務と行為に従った段階の多様性がこうさつされる。丁度、一つの国において多様な行為しに従った多様な段階があることから明らかであるのと同じである。なぜなら或るものは司法に、或るものは軍隊に、或るものは農業労働に、等々に、従事しているからである。
しかし、一つの国に多くの役職段階があるとしても、すべての人々は、全ての完全な多数において上層部と中間層と下層部とがあるように、三つに還元される。従って、いろいろな国において三重の人々の段階が見いだされる。上層部の人々、中間層の人々、下層部の人々である。それと同様に、天使達の階級も様々な行為と職務に従って区別される。さらに、この全ての多様性は三つに還元される。つまり、上層部と中間層と下層部である。
Respondeo dicendum quod, sicut dictum est, una hierarchia est unus principatus, idest una multitudo ordinata uno modo sub principis gubernatione. Non autem esset multitudo ordinata, sed confusa, si in multitudine diversi ordines non essent. Ipsa ergo ratio hierarchiae requirit ordinum diversitatem. Quae quidem diversitas ordinum secundum diversa officia et actus consideratur. Sicut patet quod in una civitate sunt diversi ordines secundum diversos actus, nam alius est ordo iudicantium, alius pugnantium, alius laborantium in agris, et sic de aliis. Sed quamvis multi sint unius civitatis ordines, omnes tamen ad tres possunt reduci, secundum quod quaelibet multitudo perfecta habet principium, medium et finem. Unde et in civitatibus triplex ordo hominum invenitur, quidam enim sunt supremi, ut optimates; quidam autem sunt infimi, ut vilis populus; quidam autem sunt medii, ut populus honorabilis. Sic igitur et in qualibet hierarchia angelica ordines distinguuntur secundum diversos actus et officia; et omnis ista diversitas ad tria reducitur, scilicet ad summum, medium et infimum. Et propter hoc in qualibet hierarchia Dionysius ponit tres ordines.
(Iª q. 108 a. 2 co. )
【1】第一の階級秩序(prima hierarchia)は、天主ご自身において現実の理念(ratio rerum)を受ける。
【2】第二の階級秩序は、普遍的原因において、現実の理念を受ける。
【3】第三の階級秩序は、特別の結果への決定に従って、現実の理念を受ける。
ところで、天主は天使達のみならず全被造物の究極目的であるから、第一の階級秩序には目的の考察が適合してる。
第二の階級秩序には、能動因に関する普遍的な状態の考察が適合してる。
第三の階級秩序には、はたらきの執行である、状態の結果への適合の考察が適合してる。
以上の三つは、どのようなはたらきにおいても見いだされることは明らかである。
【1】従って、ディオニジウスは、かの天使たちの秩序の特徴をその名称から考えて、天主に関することから名前を付けられたかの天使たちの段階を第一の階級秩序においた。すなわち、セラフィムとケルビムと座天使たちである。
【2】その名前が統治や状態に関することを意味するかの天使たちの段階を、第二の階級秩序においた、すなわち、主天使、力天使、能天使たちである。
【3】その名前がはたらきの執行を意味する天使たちの段階を、第三の階級秩序においた、すなわち、権天使、大天使、天使である。
さて、目的に関しては、三つのことが考察されうる。
【1】(1)第一に誰かが目的を考察する、
【1】(2)第二に、目的の完全な認識を受ける、
【1】(3)その目的において自分の意向を合わせる。
人間の場合で言えば、高貴な人々は王に親しく近づくことが出来る、或るものはさらに王の秘密さえも知ることが出来る人々がいる、或るものは王と結びついているかのように常に王の回りにとどまっている。
このたとえに従って、第一の階級秩序の状態を受け取ることが出来る。座天使たちは、第一の全階級秩序に固有のことである天主において直接にものごとの理念を知ることが出来るということで、天主と親しく会うことができることに上げられている。
ところで、ケルビムは、さらに高貴で天主の秘密を知ることが出来る。
セラフィムは、さらに天主ご自身と一致するという全てのうちの最高のことにおいて超越している。
さて、統治に関しては、三つのことが考察されうる。
【2】(1)第一に、為されなければならないことの決定(これは主天使に固有のことである)、
【2】(2)第二に、行動に移すための権能を与えること(これは力天使に固有のことである)、
【2】(3)第三に、命じられ或いは決定されたことがどのように遂行されることができるかを命じること(これは能天使に固有のことである)。
さて、天使たちの職務の執行は、天主の御旨を告げることである。
【3】(1)どのような行為の執行においても、行為を始めるもの且つ他者を導くものとがある。例えば歌の歌い出しをするものや、戦争で兵士たちを指揮するものがある。この職務に、権天使が属している。
【3】(3)他の者たちは、単に職務を果たす、これは天使たちに属する。
【3】(2)また別のやり方で行動するものもある、これは大天使たちに属する。
第一の職務秩序は、天主の三位のペルソナに関わる秩序である。天主のペルソナの秩序は愛の発出である聖霊によって終わるが、愛の炎という名前から第一の階級秩序の最高の職務がこれとの親密性を持っている。
第一の階級秩序の最下位の段階は座天使の段階であるが、この名前は主天使と親密性をもっている。何故なら、座天使というのは、天主がこれらを通じて裁きを行うからである。座天使は、階級秩序に従って天主の神秘の状態に属するものへ直接に照らし出すために天主の照らしを受ける。能天使の職務秩序は、権天使の職務秩序と親密性を持っている。・・・
Iª q. 108 a. 6 co.
Respondeo dicendum quod gradus angelicorum ordinum assignant et Gregorius et Dionysius, quantum ad alia quidem convenienter, sed quantum ad principatus et virtutes differenter. Nam Dionysius collocat virtutes sub dominationibus et supra potestates, principatus autem sub potestatibus et supra Archangelos, Gregorius autem ponit principatus in medio dominationum et potestatum, virtutes vero in medio potestatum et Archangelorum. Et utraque assignatio fulcimentum habere potest ex auctoritate apostoli. Qui, medios ordines ascendendo enumerans, dicit, Ephes. I, quod Deus constituit illum, scilicet Christum, ad dexteram suam in caelestibus, supra omnem principatum et potestatem et virtutem et dominationem, ubi virtutem ponit inter potestatem et dominationem, secundum assignationem Dionysii. Sed ad Coloss. I, enumerans eosdem ordines descendendo, dicit, sive throni, sive dominationes, sive principatus, sive potestates, omnia per ipsum et in ipso creata sunt, ubi principatus ponit medios inter dominationes et potestates, secundum assignationem Gregorii. Primo igitur videamus rationem assignationis Dionysii. In qua considerandum est quod, sicut supra dictum est, prima hierarchia accipit rationes rerum in ipso Deo; secunda vero in causis universalibus; tertia vero secundum determinationem ad speciales effectus. Et quia Deus est finis non solum angelicorum ministeriorum, sed etiam totius creaturae, ad primam hierarchiam pertinet consideratio finis; ad mediam vero dispositio universalis de agendis; ad ultimam autem applicatio dispositionis ad effectum, quae est operis executio; haec enim tria manifestum est in qualibet operatione inveniri. ...