アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
「死者の月」の黙想のご提案をいたします。
聖アルフォンソ・デ・リグオリによる【私審判について】の黙想をどうぞ。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
「私は実に罪人、それも大いなる罪人である。しかし主は私の為に御死去あそばした。胸を打って痛悔したら決してお見捨てになる筈がない。永遠の御父よ、私は主に背いて犯した罪を悉く痛悔し奉る。願わくは私の罪を見ずして善く聖意に適い給える御子の御顔を顧み給え。」
【私審判について】の黙想
その1
私は今臨終の苦しみに悩んでいる。私の死はもはや一時間、二時間の後に迫ってきた。私はやがて主の法廷に立って一生涯の善悪を裁かれなければならぬ、と想像してみよ。果たしていかなる感じがするだろうか? その時にあたって私の為に何より怖ろしく感じられるのは、罪に汚れた心であろう。しからばその裁きの来ない前に、心の穢れを洗い落としておかねばならぬ。
その日こそ永遠の世界に入る日である。犯した罪に対して良心が怒鳴りだす。悪魔は失望の念を掻き起こそうとする。どんな判決が下されるだろうか? それすらわからないので心の中は煮えくり返る思いがする。その混乱・恐れ・騒ぎといったらないであろう。されば今からイエズスとマリアに堅く愛着して、私の運命が定まるべきその最後の日に見棄てられないだけの用意をしておかねばならぬ。
ニ・三分の後には主の厳しい裁きを受けなければならぬと思う時の恐ろしさを思え。パッジの聖マリア・マグダレナがかつて病の床に臥し、わなわなと震えているので、司祭が怪しんでその訳を尋ねると、「主の法廷に出頭するのは怖ろしい事ではございませんか!」と答えられたという。幼い頃から熱心に主に仕え、ひたすら善を修め、徳を積んで、天晴れな聖女よと仰がれていたこの罪無き童貞ですらそんなに怖れたというならば、数限りない罪を重ねて幾たびも地獄に突き落とされるべき私がどうして恐れないでおられようか。
愛すべきイエズスよ、私も主の貴き御血をもって購われた者たることを記憶し給え。願わくは審判の日の来ない前に私を憐れみ、私の罪を赦し給え。
その2
神学者の説によると、息の根の絶えるや、すぐにその場で審判が開かれ、宣告が下り、賞罰が執行されるとのことである・・・
ああ、その時こそ私の運命が定まる。私が永遠に幸いなるも、不幸なるも、その時に定まるのである。
尊者ルイ・デュポン師はその時の事を思い廻らして、自室が揺れる程の震えに襲われた。誰にしても己の一生涯の罪を数え、主の裁きの厳しさを思い、賞罰の終りのない事を考えれば震え慄かずにはいられるものではない。
主よ、今私をお裁きになったら私の運命はどうなってしまうのでしょうか? 善人ですら怖れずにいられないというならば、私の如き悪人はいかに震え恐れてしかるべきであろうか? 私は主の御受難の他には何も頼りとするべきものを持たない。私は実に罪人、それも大いなる罪人である。しかし主は私の為に御死去あそばした。胸を打って痛悔したら決してお見捨てになる筈がない。永遠の御父よ、私は主に背いて犯した罪を悉く痛悔し奉る。願わくは私の罪を見ずして善く聖意に適い給える御子の御顔を顧み給え。永遠の聖父よ、御身のキリストの御顔を見給え。Respice in faciem Christi tui. (Ps. Lxxxiii.10) その貴い御血をご覧になり、その痛々しき御傷を数えて私を憐れみ給え。
その3
いよいよ最後の目を閉じるや霊魂は永遠の世界に入っていくのだ。よって司祭は遺体に聖水をふり注ぎ、「天主の聖人は来たりて彼を助け、天使は出でて彼を迎え、彼の霊魂を受け取りて天主の御前に捧げ給え」 Subvenite, Sancti Dei; occurrite, Angeli Domini. と祈る。しかし万一救霊を失っていたならば、聖人といえども天使といえども今更如何ともし難いであろう。
私審判の法廷における裁判官は天主で、人性を受け給うたキリストではないということである。それにしても罪のいまいましい姿を見せるが為に、キリストが御受難の際に蒙り給うた傷跡をお示しにならないだろうか。その傷跡こそ真の痛悔をもって己の罪を泣き悲しんだ罪人にとっては大いなる慰めを与えるであろう。しかし罪悪に溺れたまま現世を立ち去った悪人には如何なる恐れの種となるであろうか。
主の法廷に始めて立ち、主の厳しき御顔を仰ぎ見た霊魂の恐れを思え。そればかりでも地獄に幾倍も勝る苦罰ではないか! その時こそ彼は無上至尊の御稜威(みいつ)を仰ぎ見るのである。その時こそ天主の御子が自分を愛してお忍び下さった様々な御苦しみ、自分に賜った数限りなき御憐れみ、自分の為に備え置かれた何千もの救霊の方法も全て理解するのである。現世の宝は空しいもので永遠の宝は優れたものである事も、その時になると明らかに悟るのである。要するに全ての真理をありのままに見るのであるが、もう余りにも遅すぎるのである。過ちを改めるべき時は過ぎ去った。今や如何ともすべき様は無いのである。
最愛の主よ、私が始めて御前に立ち現れる時には、打ち解けた御顔を仰がしめ給え。私は今より志を立て直し、行いを改める決心である。その為に要する御光と御助けとを恵み給え。私はいつも、いつも、主を愛し奉る。例え今までは主の聖寵を軽んじ奉ったにせよ、以後は全世界の宝よりもこれを重んじ奉る。私の決心はこうである。ただ主よ、聖寵を垂れてこの決心を堅くしてください。
ああ聖母よ、審判の日に私を助け給え。私の為に主の御怒りを宥め給え。アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
「死者の月」の黙想のご提案をいたします。
聖アルフォンソ・デ・リグオリによる【私審判について】の黙想をどうぞ。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
「私は実に罪人、それも大いなる罪人である。しかし主は私の為に御死去あそばした。胸を打って痛悔したら決してお見捨てになる筈がない。永遠の御父よ、私は主に背いて犯した罪を悉く痛悔し奉る。願わくは私の罪を見ずして善く聖意に適い給える御子の御顔を顧み給え。」
その1
私は今臨終の苦しみに悩んでいる。私の死はもはや一時間、二時間の後に迫ってきた。私はやがて主の法廷に立って一生涯の善悪を裁かれなければならぬ、と想像してみよ。果たしていかなる感じがするだろうか? その時にあたって私の為に何より怖ろしく感じられるのは、罪に汚れた心であろう。しからばその裁きの来ない前に、心の穢れを洗い落としておかねばならぬ。
その日こそ永遠の世界に入る日である。犯した罪に対して良心が怒鳴りだす。悪魔は失望の念を掻き起こそうとする。どんな判決が下されるだろうか? それすらわからないので心の中は煮えくり返る思いがする。その混乱・恐れ・騒ぎといったらないであろう。されば今からイエズスとマリアに堅く愛着して、私の運命が定まるべきその最後の日に見棄てられないだけの用意をしておかねばならぬ。
ニ・三分の後には主の厳しい裁きを受けなければならぬと思う時の恐ろしさを思え。パッジの聖マリア・マグダレナがかつて病の床に臥し、わなわなと震えているので、司祭が怪しんでその訳を尋ねると、「主の法廷に出頭するのは怖ろしい事ではございませんか!」と答えられたという。幼い頃から熱心に主に仕え、ひたすら善を修め、徳を積んで、天晴れな聖女よと仰がれていたこの罪無き童貞ですらそんなに怖れたというならば、数限りない罪を重ねて幾たびも地獄に突き落とされるべき私がどうして恐れないでおられようか。
愛すべきイエズスよ、私も主の貴き御血をもって購われた者たることを記憶し給え。願わくは審判の日の来ない前に私を憐れみ、私の罪を赦し給え。
その2
神学者の説によると、息の根の絶えるや、すぐにその場で審判が開かれ、宣告が下り、賞罰が執行されるとのことである・・・
ああ、その時こそ私の運命が定まる。私が永遠に幸いなるも、不幸なるも、その時に定まるのである。
尊者ルイ・デュポン師はその時の事を思い廻らして、自室が揺れる程の震えに襲われた。誰にしても己の一生涯の罪を数え、主の裁きの厳しさを思い、賞罰の終りのない事を考えれば震え慄かずにはいられるものではない。
主よ、今私をお裁きになったら私の運命はどうなってしまうのでしょうか? 善人ですら怖れずにいられないというならば、私の如き悪人はいかに震え恐れてしかるべきであろうか? 私は主の御受難の他には何も頼りとするべきものを持たない。私は実に罪人、それも大いなる罪人である。しかし主は私の為に御死去あそばした。胸を打って痛悔したら決してお見捨てになる筈がない。永遠の御父よ、私は主に背いて犯した罪を悉く痛悔し奉る。願わくは私の罪を見ずして善く聖意に適い給える御子の御顔を顧み給え。永遠の聖父よ、御身のキリストの御顔を見給え。Respice in faciem Christi tui. (Ps. Lxxxiii.10) その貴い御血をご覧になり、その痛々しき御傷を数えて私を憐れみ給え。
その3
いよいよ最後の目を閉じるや霊魂は永遠の世界に入っていくのだ。よって司祭は遺体に聖水をふり注ぎ、「天主の聖人は来たりて彼を助け、天使は出でて彼を迎え、彼の霊魂を受け取りて天主の御前に捧げ給え」 Subvenite, Sancti Dei; occurrite, Angeli Domini. と祈る。しかし万一救霊を失っていたならば、聖人といえども天使といえども今更如何ともし難いであろう。
私審判の法廷における裁判官は天主で、人性を受け給うたキリストではないということである。それにしても罪のいまいましい姿を見せるが為に、キリストが御受難の際に蒙り給うた傷跡をお示しにならないだろうか。その傷跡こそ真の痛悔をもって己の罪を泣き悲しんだ罪人にとっては大いなる慰めを与えるであろう。しかし罪悪に溺れたまま現世を立ち去った悪人には如何なる恐れの種となるであろうか。
主の法廷に始めて立ち、主の厳しき御顔を仰ぎ見た霊魂の恐れを思え。そればかりでも地獄に幾倍も勝る苦罰ではないか! その時こそ彼は無上至尊の御稜威(みいつ)を仰ぎ見るのである。その時こそ天主の御子が自分を愛してお忍び下さった様々な御苦しみ、自分に賜った数限りなき御憐れみ、自分の為に備え置かれた何千もの救霊の方法も全て理解するのである。現世の宝は空しいもので永遠の宝は優れたものである事も、その時になると明らかに悟るのである。要するに全ての真理をありのままに見るのであるが、もう余りにも遅すぎるのである。過ちを改めるべき時は過ぎ去った。今や如何ともすべき様は無いのである。
最愛の主よ、私が始めて御前に立ち現れる時には、打ち解けた御顔を仰がしめ給え。私は今より志を立て直し、行いを改める決心である。その為に要する御光と御助けとを恵み給え。私はいつも、いつも、主を愛し奉る。例え今までは主の聖寵を軽んじ奉ったにせよ、以後は全世界の宝よりもこれを重んじ奉る。私の決心はこうである。ただ主よ、聖寵を垂れてこの決心を堅くしてください。
ああ聖母よ、審判の日に私を助け給え。私の為に主の御怒りを宥め給え。アーメン。