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2018年10月7日 聖霊降臨後第20主日のミサ説教 「王官の息子が、今死なんとしている」この意味を黙想する

2018年11月22日 | お説教・霊的講話
2018年10月7日(主日)聖霊降臨後第20主日のミサ
小野田神父 説教


聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2018年10月7日、聖霊降臨後第20主日であり、ロザリオの聖母の記念も行なっています。

今日は月の最初の主日ですので、ミサの後に感謝の祈りをした後、御聖体降福式を致しましょう。特に今回は、聖母の連祷を御聖体の前で捧げたいと思っています。この意向は、平和の為に、日本でアジアで平和が続きますように。その次に、日本に、できれば東京に、聖ピオ十世会の修道院が建てられますように、司祭が常駐しますように。それから、日本から司祭や修道者たちがたくさん輩出しますように、という意向で、これを捧げたいと思っています。

次のミサは、10月21日と22日です。



“Domine, descende priusquam moriatur filius meus.”
「主よ、私の息子が死ぬ前に、どうぞ下りて来て下さい。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日ミサで、このイエズス様が本当に2000年前になさった史実、歴史上の出来事を読みました。イエズス様がある王官に頼まれて、「子供が死ぬ前に、ぜひ来て下さい」とせがまれると、「私は行く必要はない。さぁ行け、子供は生きている」という、そしてその通りになった、という奇跡を読みました。

⑴一体なぜこの話が、この聖霊降臨後第20主日に起こっているのか?という事を一緒に黙想しましょう。

⑵そして、それは私たちにとってどんな意味があるのか?私たちは一体何をしなければならないのか?という事を黙想して、

⑶遷善の決心を立てます。


⑴私たちはこの前、ここでのミサの時に、「十字架のしるしが空に現れた。9月14日、十字架称讃の大祝日に、教会の空に大きく十字架がそびえるのを見た。世の終わりは近い。だから教会はこれから、私たちの霊魂を主の来臨に備えるように準備する」という話をしました。

その話が続いています。今日ここに出てくる「王官」というのは、教会の目から見ると「私たち」です。今日は「イエズス様がやって来られる」というのを聞いて私たちは、イエズス様に会いに、お願いしに来ました。この「王官の息子」というのは、大切な、私たちにとってのたった1つしかない「霊魂」の事です。

私たちの霊魂が今死なんとしている、死につつある、病にかかっている。多くの人はよく理解できていませんが、分かっている私たちには、理解できました。

なぜ病にかかって死につつあるかというと、天主の命が弱くなっているから。天主に対する渇望が、愛が弱まっているから。この地上の事を見て、背中が曲がって、天に目を上げる事ができないから。この世の泥沼の中に、罪の中に浸りきってしまっているから。鎖に縛れているようになっていて、息もできない、体が麻痺しているから。

それにもかかわらず、私たちがなぜこの病気で死につつある事を理解しているかというと、「主が早く、主が来る前に何とかこれを生かさなければならない。死ぬ前に、死んでしまう前に、何とか生かさなければならない」と気が付いたからです。なぜかというと、この福音書のすぐ次に奉献誦がありますけれども、私たちはシオンの街を思い出したからです。

私たちは今、この天の国から天のエルサレムから遠く離れた、このバビロンの河のほとりにいて、天国の事を思っています。天主様の御顔を、目と目を、顔と顔を合わせて、至福直観をする、その天主の栄光を見る、その直接に見る事のできるその日を待っています。

この世では、辛い事や、悲しい事、不正義、あるいは罪の誘惑、重い心持ち、あるいは不潔、その他の多くの邪悪がひしめいていて、何とか私たちは「そこを脱出したい」と思っています。

私たちの創られた人生の目的が完成された時には、どれほどの喜びがあるでしょうか。
お腹が空いた、喉が渇いたという時に、水を飲んだ、少しご飯を食べた、あるいは疲れている時に少し横になったら、どれほどすっきりするでしょうか。私たちが渇望している、私たちがそこに到達しなければならない所に、遂に到達した時にはどれほどの、どれほどの喜びと満足があるでしょうか。

聖ピオ十世会のフランス管区で、ビルコック(Billecocq)神父様という方が、公教要理をビデオで説教して下さっています。

ビルコック神父様に「是非これを訳したいという方がいらっしゃるので、原稿を下さい」とお願いしたら、「いや、私これ、あの、原稿なしに言っているので、原稿はない」と言って、その原稿はない割に、すごい深い内容を教えているなぁと思っていました。

そして今、素晴らしい訳によって、私たちはそれを見る事ができるのですけれども、そのそれを見た方からこんなコメントを聞きました。

「天主様が、アダムとエヴァの堕落の前に、どれほど素晴らしい状況で楽園の幸せを創ったのか、という事にびっくりした。自然は完成されていたし、超自然の御恵みもあったし、外自然の御恵みももらって、不死であって、疲れも、痛みも、病もなかった。怪我をする事もなかった。知識は与えられていた。意志は強かった。地球は温暖だった。全ては、人間が幸せに暮らすように創られていた。」

でも天主様が創ったこの地上での楽園も、私たちの故郷、帰るべきシオン、私たちの行くべき到達すべき天国と比べると、光と影のようです。泥水と、綺麗に澄んだ毬藻のある北海道の有名な湖のようです。大自然の高い山と砂山かのような違いがあります。例えアダムとエヴァが持っていた、そして今私たちが失ってしまった、その素晴らしい地上の、最初の原初の段階であったとしても、私たちの与えられるべき天国と比べたら、全く影の薄い、どんよりとした、ぼんやりとしたものに過ぎません。

私たちが待っている、私たちの故郷とするべきシオンは、天国は、私たちが目も見た事も、耳で聞いた事も、頭で想像した事も遥かに超える、壮大な幸せと、私たちの自然を全てを超える喜びが待っています。そしてその為に私たちは、この地上で生きています。

その事を思って私たちは今、私たちの霊魂は病んでいると思います。なぜかというと、そのような天国の事も、天主様の事も、超自然の事も、すっかりと忘れて、他の事しか考えていないからです。頭にある事は、憎しみとか、怒りとか、復讐とか、肉欲とかです。あまりにも動物的であって、私たちは「あぁ、病んでいるな」と思います。

「この霊魂の中から天主様への命が消えてしまう前に、何とかイエズス様に来てもらうように」と私たちは今日、イエズス様に会いに来ました。これが教会の第20主日の意向です。

するとイエズス様は、この王官に言うのです、「お前は、この世は、本当にしるしや奇跡を見ないと信じないのか。私が行ってそうやってものすごい大奇跡を起こさないと信じないのか」と言って嘆きます。そしてイエズス様は御自分の体を以て行く事を拒否します。「さあ行け。子供は生きている。治っている。」すると王官は素直に信じて、確かに、その仰った時に、「治る」というのを聞きます。


⑵イエズス様は私たちにとっては、もっとして下さいます。2つをして下さいました。

1つは、単に「大丈夫だ」と言うのみならず、本当に今日は、天から私たちの目の前に、御体を持って、御聖体としていらっしゃいます、降りて下さいます。それのみならず、私たちの霊魂を癒す為に、私たちの霊魂の中に入って、御聖体拝領で一致しようとして下さいます。御自身を私たちに与え尽くして下さいます。私たちは本当に、御聖体拝領の前に、「主よ、私はあなたを家に迎えるには足りない者です。一言仰って下さい、そうすれば霊魂は癒されるでしょう」と言わなければなりません。

その時に本当に私たちは、聖歌隊が歌うように、「あぁ、これこそ、私を慰めてくれる、この卑しい涙の苦しみの中において、私を慰めて下さるものだ」と歌わなければなりません。“haec me consolata est in humilitate mea.”

イエズス様は、御自分が直接、御体を以て私たちの元に降りて下さると同時に、今日は10月7日で、特別な形で、マリア様もこの地上に送って下さったかのようです。

ファチマでマリア様は100年前に、やはり10月13日に来られました。そして私たちに言いました、「毎日ロザリオを唱えなさい。」マリア様はファチマで御出現の度毎に仰いました、「毎日ロザリオを唱えなさい。お願いです、ロザリオを唱えなさい。」

秋田にも来られました。天から日本の地を選んで、「毎日ロザリオを唱えなさい。私だけがあなたたちを助ける事ができます。」

ロザリオを唱える事によって私たちは、私たちの霊魂の病が癒されます。なぜかというと、「天主が人となった」という事を教えて下さるからです、喜びの玄義によって。「天主は私たちの為に人となって、ベトレヘムにお生まれになって、30年間、人間としてマリア様の下でヨゼフ様の下で従われた」という事を黙想するからです。

苦しみの玄義で、「イエズス様が、人となった真の天主が、私たちの為に苦しんだ」という事を黙想するからです。そうする事によって私たちは、どれほど愛されているか、という事を知ります。どれほど天国への値が高かったか、支払われたか、という事を知ります。

そしてイエズス様の御復活と、御昇天と、聖霊降臨、またマリア様の被昇天を見ると、「あぁ、私たちも早く天国に行かなければならない。その為に、イエズス・キリストの復活、そして被昇天に従わなければならない」と掻き立てられます。

どれほど良い薬でしょうか。特に、病に打ちひしがれる私たちの霊魂にとって。

10月にはマリア様は、特別に悲しい顔をして仰いました、「もうこれ以上、罪を犯してはいけない。主はもうあまりにも多く犯され続けている。」


⑶では私たちはどのような遷善の決心を取ったら良いでしょうか?

それはちょうど昇階誦、アレルヤにあるかのようです。

昇階誦では私たちは、「全ての目が、その一番良い時に食べ物を下さる主に、皆目を向いている。だからそして手を大きく広げて、私たちの主の祝福を受け入れる」と言うように、私たちも今日は、御聖体の時に大きく心を開いて主に、私たちの心を癒して下さるように、「どうぞ、私の心に降りて来て下さい。そして私が死ぬ前に治して下さい、霊魂を癒して下さい」とお願いする事に致しましょう。

第2は、アレルヤであるかのようです。アレルヤでは私たちは、「私の心はもう準備ができた。主の為に歌を歌う。」
私たちもやはり同じように、「私の心は準備ができた。10月はロザリオを唱える、アヴェマリアの歌を唱える」と。

そうする事によってこの今日、この王官のように、イエズス様に素直に従って癒しを得たこの人のように、私たちの霊魂もますます聖化されて、そして安心して家に帰って来る事ができます。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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