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聖体は、まことの人イエズス・キリストである

2020年05月19日 | 聖伝のミサの予定
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より【アルベール・テニエール神父は、聖ピエール・ジュリアン・エマールの創立した聖体修道会の司祭で、聖体修道会の総長(1887-1893)も務めた。】
 
体礼拝の理由
 
聖体は、まことの人イエズス・キリストである
 
 礼拝 主イエズス・キリストは、天主であるとともにまことの人である。聖三位一体の第二のペルソナであるみ言葉のとられた人性、聖霊が聖母マリアの御血肉をもって造られた人性は、私たちのような霊魂と、肉、血、神経、骨格をそなえた肉体とからなっておられるけれども、神性と完全に一致しておられるために、天主のすべての尊さ、すべての完徳、すべての特質をわかちもっておられるのである。
 
 これによって虚無から造られ、私たちの人性と同じものであるにもかかわらず、イエズスの人性は天主ご自身と同じ礼拝を受けられるものとなった。天主のみ言葉のペルソナが、それをご自分に合わせて、ご自分のものとされたから、これは当然である。イエズスが幼児として、青年職工として、また十字架に釘づけられた受難者として、天主のみにふさわしい礼拝を受けられるのは、このためである。
 
 ところが私たちの母である聖会は、聖体が、イエズスの御からだ、御血、ご霊魂であること、すなわち、聖体の外観のもとには救い主の人性が目には見えないが、しかしたしかに存在することを私たちに教える。だから、私たちは、聖体のおおいのかなたにおいでになるイエズスご自身を礼拝しなければならない。
 
 私たちは彼を礼拝し、天主ご自身に対してささげる最上至高の礼拝を彼に負うことを告白しよう。
 
 イエズスを礼拝するとは、私たちの理性をもってイエズスの無限の尊貴と私たちの虚無とを認識し、私たちの心をもってイエズスを私たちの最後の目的、至上の幸福として、万物と私たち自らにこえてお愛しし、私たちの意志を、主の権利、主のお考え、主のお望みにすべて服従させ、私たち自身を残りなく主にささげることである。
 
 聖体はまことにイエズスご自身にほかならないから、私たちは以上の三重の礼拝を聖体に対してささげよう。
 
感謝 聖体の秘跡において感謝しなければならない最上の御恵みは、それがすべての時代、すべての国の人々に、イエズスの神聖なご人性を与え授けられることである。すなわち人間的な霊魂、人間的な身体、人間的な心、人間的な感情のすべてをそなえていらっしゃる生けるイエズスが、聖体によって私たち各々にお近づきになることである。
 
 み言葉が人となられた以前の世界の最大の不幸は何であったろうか。それは世界が天主から離れ、天主の正しい御怒りをかい、人類が天主の不幸忘恩な子らであったことである。ところがみ言葉が人となられてから、天主と人間との平和は結ばれ、天主は人々に近づき、人々は天主を所有し、天主とともに住むことができるようになった。
 
 ご托身後二十世紀を経過した今日でも、私たちは聖体によって二千年前の人々と同一の恩恵、同一の祝福を受けている。私たちはおおいの下にイエズスを、すなわち天主ご自身、人とおなりになった天主を所有する。この点では私たちも聖母マリアや使徒たちと少しも劣るところがない。
 
 なるほど、私たちは、人としての主のみ姿を仰ぎ見ることができない。この意味で私たちは彼らより不幸である。けれども、私たちは主によって養われている。主を受けるとき、私たちのくちびるは主の御からだに触れ、主が私たちの胸の中におくだりになるのを感じ、主を私たちの心にお招きすることができる。これらはかの不幸を償ってあまりあるものではないだろうか。
 
 だから、主が聖体中に実在されることを主に感謝しよう。主の実在の大きな祝福について前に学んだことをすべて思いだし、この実在の甘美な幸福に感激し、また、この実在によって霊魂に利益を受けることができるよう自分を聖体にささげ、愛徳を増してくださるよう願い求め、感謝の義務を全うしよう。
 
償い もし聖体中においでになるイエズスが、まことに天主であって人であるなら、聖体をそれにふさわしく、すなわち天主の御ひとり子にふさわしく、あがめなければならないことは明らかである。
 
 しかし一般信者の聖体に対する態度はどうであろうか。
 
 聖体の中においでになる主に対して、少しの関心も示さず、年々の復活祭の務めさえ忘れてしまっているような人々は、はたして心をもった生きた人間として主を取り扱っているであろうか。
 
 また、主にそむいたり、主をあなどったりする人々は、主が十字架上で大きな苦痛を受けて流された御血と、祭壇上でのごけんそんとについて、少しでも考えているであろうか。
 
 また、悪魔と死と腐敗以外になにもない心の中に聖体を拝領する汚聖者は、聖体がまことの天主の人でいらっしゃることを、なんと思っているのであろうか。
 
 次に私たち自身はどうであろうか。まことの人であるイエズスは、こまやかな心をもって私たちを愛し、私たちの愛を求めて、そのためには、どんなぎせいも甘んじてしのがれるのであるが、その聖体中のイエズスに対して、私たちは十分な尊敬と愛情とをもっているだろうか。少なくとも、私たちの友人に対して礼儀のうえから示す注意ぐらいは、聖体に対して持ち合わせているだろうか。
 
 私たちは恥じ、また告白しなければならない。私たちは路傍ですれちがう他人に対するよりも、なおわずかな関心しか主に払っていないのである。
 
 それでもなお、その責めを主に転嫁して、主が聖体の中に隠れておられるからこうなるのだという人があるかもしれない。しかしこれは、私たちを愛するあまりに主が選ばれた御へりくだりであるから、私たちはなおいっそう主をあがめなければならないはずである。
 
 償いをしよう。聖体のうちに生きておいでになる天主なる人に対する忘却と無礼とを真剣に痛悔しよう。
 
 主がここにおいでになるのは、ただ私に理解され愛されるためであることを思って、主の御悲しみの源となるすべての罪を忌み嫌おう。イエズスに対して、尊敬と関心とを欠くことがないように、いつも十分に注意しよう。
 
 祈願 天主のみ言葉が人となられたのは、人類の名において天父に祈られるためであった。なぜなら人類が罪を犯してからは、彼らの祈りは確実に天主に聞き入れられるわけにはゆかなくなったからである。さらに主のご托身の他の理由は、そのご慈愛と親切とによって、自分の罪のために天主に信頼することができなくなった人々の胸に、希望の光を点じるためであった。
 
 聖体は祈りのために大切な以上の二つの恩恵を、引きつづいて私たちに与えるものである。イエズスは、あらゆる聖ひつの中で罪のある人類にかわって祈り、また聖体の中において、私たちが近づきやすいように、慈愛に満ちたお姿を示してくださる。さらにそのうえ、主は天主の御助けを必要としている私たちに向かって『わが名によりて祈れ。怖るるなかれ。わが名によりて願うところは、ことごとくなんじらに与えられん。かくてなんじらの喜びは全かるべし』とおっしゃるのである。
 
 だから私たちは、たびたび聖体のみ前で祈らなければならない。私たちの祈りは主の祈りと一致して、はじめて聖なるもの、有力なるものとなり、また慰めに富んだものとなる。それは、私たちの苦痛とか弱さとかのために涙を流された主のみ心のおそばで祈ることになるからである。
 
実行 聖体のみ前に出るたびに、聖体が生きた、まことの人イエズスであることを思い起こそう。


 




















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