Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

お告げの三つの神秘:天主の御言葉が人間となられた、御言葉の御父への従順と聖母の従順、新約の完全な司祭職の成立

2023年12月05日 | お説教・霊的講話

お告げの三つの神秘:天主の御言葉が人間となられた、御言葉の御父への従順と聖母の従順、新約の完全な司祭職の成立

2023年3月25日(土曜日)修道院での説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日はお告げの大祝日です。三つのポイントがあります。
第一は、天主の御言葉が、今日この日に人間となられたという神秘です。
第二は、御子の御父への従順と聖母の従順です。
第三は、完全な司祭職が成立したことです。

第一のポイントは、天主の本性と人間の本性が、三位一体の第二のペルソナの位格において合体して、わかちがたく一つになったことです。天地創造は、無から、私たちが有へと創造されましたが、私たちにとってこれに匹敵するこれにも勝る偉大な出来事が、今日起こりました。それは人間の本性が天主の本性と一致した、そこで私たちも天主の本性に一致することができるようになった、という神秘です。

第二のポイントは、これはイエズス・キリストの御父への従順と、そしてマリア様の従順によって、この二つによってなされたということです。聖パウロによると、「イザヤの書の最初に”主のみ旨を果たすために私は来た”と書かれている」と、聖パウロが言っています。イエズス様が天主の御言葉が人となったのは、天主の御父のみ旨を果たすためでした。それだけでは足りませんでした。人類を代表してマリア様が「ハイ」と、「主のみ旨のとおり我になれかし」「あなたのお言葉のとおりに私になりますように」とおっしゃる必要がありました。
今日このマリア様が「ハイ」と言ったその瞬間、主のみ旨を受け入れた瞬間、天主御子は人と人間本性を取ることができるようになりました。
もちろんマリア様は、聖書の預言をよくご存じでした。天主の御母となることがどれほどの苦しみとあるいは苦悩をもたらすということをよくご存じでした。それにもかかわらずマリア様は「ハイ」と言いました。マリア様は童貞女でしたから、もしも童貞でありながら子供を身籠るということはどのようなことか、聖ヨゼフがどのような反応をするか、どのように疑われるか、もしかしたら石殺しになってしまうかもしれない…「仰せの如くわれになれかし」。マリア様はすべてのことを、主のみ旨として既に受け入れておられました。そのおかげで私たちには救い主が与えられました。

最後の点は、今日、天主の御子が人間となるということで、これは天と地を結ぶ大司祭が誕生したということです。旧約の司祭職が、新約のイエズス・キリストの大司祭によって完成させられたということです。そして新約のすべてのカトリック司祭たちは、イエズス・キリストの司祭職に与るものとなることができた、すべての司祭の源泉はこの御托身の瞬間に起こった、イエズス・キリストの司祭職にある、ということです。

今日この日にルフェーブル大司教様さまがお亡くなりになったというのも、非常に御摂理にかなうことです。なぜかというと、ルフェーブル大司教様はカトリックの司祭職を守るために、そしてカトリックの司祭が捧げなければならない生贄を守るために、ミサ聖祭を守るために一生を尽した方だったからです。

是非マリア様に御取次ぎを請い願いましょう。私たちの中から聖なる司祭たちがたくさん輩出しますように。そして私たちもイエズス様とマリア様に倣って主のみ旨を果たすことができますように。そして、これこそが聖徳の鍵であるということを、よく深く理解することができますように。私たちも、「仰せの如くわれになれかし」というこの言葉を生きることができますように、お祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖パウロのよきキリスト者となることができるための四つのアドバイス:いったいどういう意味なのか。

2023年12月05日 | お説教・霊的講話

「愛される子らとして、天主に倣うものであれ!キリストが私たちを愛されたように、愛のうちに歩め。聖徒たちにふさわしいように、あなたたちの中では、淫行すべての穢れ・強欲を口にさえするな。人の空しい言葉に騙されるな。光の子として歩め。」

2023年3月12日(主日)東京での11時半のミサ 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日は、四旬節第三主日のミサを捧げています。

四旬節は、償い、悔い改めの聖なる時期です。また特に洗礼志願者の洗礼を準備する時期でもあります。

今日の聖パウロの書簡は、私たちがよい悔い改めをすることができるように、また求道者の方々がよきキリスト者となることができるために、四つのアドバイスをしています。聖パウロは最後に結論としてこう言います。「あなたたちは闇であったが、今は主において光である。光の子として歩め」。この聖パウロの書簡を是非一緒に黙想いたしましょう。

聖パウロは四つのアドバイスをしています。
一つは「愛される子どもとして、天主に倣う者であれ。」
もう一つは「キリストが私たちを愛したように、愛のうちに歩め。」
三番目は、「聖徒たちにふさわしいように、あなたたちの中では、淫行や全ての穢れ、強欲を口にさえするな。」
第四は、「人の空しい言葉にだまされるな。」です。
このアドバイスはいったいどういう意味なのでしょうか。少し黙想してみましょう。

(1)聖パウロは言います、「天主に倣え」。大自然を見ると、天主の偉大さや完璧さ、その知恵や力の偉大さを私たちに示しています。大海原の果てしない巨大な海、夜空に輝く星々、散らばれた大宇宙の神秘、その果てしなさ、太陽の光の力強さ、熱、あるいは高くそびえたつ山々、何千何万という野生の動物や植物たち。しかしこれらは知性の無い理性の無い動物や植物や鉱物にすぎません。天主は人間を特にご自分の似姿、肖像に象って作られました。真理を認識する知性と、善を自由に選ぶ意志とを、私たちに備えてくださいました。これによって私たちは天主に倣うことができるようになります。天主の偉大さやその力強さのみならず、もっと崇高なところで、天主に倣うことができるようになります。真理を知り、善を求める、それだけではありません、聖パウロが言うのは「愛される子どもたちとして、天主に倣え」。

何故かというと、これは私たちが天主から、特別にとても大切なものとして愛されている(caríssimi)子どもたちだからです。特に洗礼を受けることによって私たちは、超自然のお恵みに与る者になりました。天主の養子となりました。言葉だけでなくて、本当の子どもになりました。ですから私たちの行動は、天主の子どもとしての行動ですから、天主御父に非常にこころよい嘉する天主と親和性のあるものなのです。イエズス様はおっしゃいました。「あなたたちの天の父が完全であるように、あなたたちも完全であれ」。わたしたちはそれができるようになったのです。

(2)聖パウロはもっと言います。「キリストが私たちを愛したように、愛のうちに歩め」。なぜかというと、目に見えない天主を私たちはどうして真似したらよいか、と戸惑うことがあるからです。しかし、イエズスさまはおっしゃいます。「私を見た人は父を見た」と。ですから主はご自分の聖徳の完成、極み高い聖なるすべての徳を私たちに見せることによって、私たちがそれを真似ることができるようにしてくださいました。と言っても主の高みは、あまりにも高くて、エベレストよりも高くて、いったいどうしてあんなに高い山に登ることができるだろうか、と思われるかもしれません。しかし、エベレストの山頂まで行くエレベーターを、近道を、キーポイントを、聖パウロは今日教えてくれます。

聖パウロが言う近道はこれです。「キリストが私たちを愛してくださったように歩め」。愛の模範を、真似しようということです。これはどういうことでしょうか。キリストの愛を真似するとはどういうことなんでしょうか。

ここで聖パウロは、聖徒たちにふさわしいように、聖なる人々にふさわしいように、私たちは愛において歩まねばならない、と教えています。


(3)ところで聖パウロがこう語った時には、ギリシャ・ローマの腐敗した肉欲に溺れた時代の事でした。ですから、人々が誤解してしまうことがないように、言います。
「私たちのために捧げ物・香ばしい香りの天主の生贄としてご自分を渡されたキリストのように、倣え。だから、キリストの愛というのは、非常に貞潔なものであって、清いものであって、慎み深いものである。だから、私たちはキリストの愛に反するような不潔なことや慎みに欠くことは口にさえもしてはいけない」といいます。聖なる者にふさわしいように…。

何故かというと、イエズス様はこうもおっしゃったからです。「あなたたちが知っているように、"姦通するな"と教えられている。しかし、私はいう。色情をもって女を見れば、その人はもう心の中で姦通したのだ。」
「心でさえも思ってはいけない」と主は言われます。「口にするなど、とんでもないことだ」ということです。

また貞潔に反することを口にするということは、他の人々を罪へと誘惑する危険があります。ですから、口にするさえも、避けられるべきなのです。特に若い子どもや青少年たちにとっては、大きな躓きとなる危険があります。子どもたちを躓かせることについては、主は厳しい言葉で臨まれています。「私を信じるこの小さなものを一人でも躓かせるなら、その人は、ろばのひき臼を首にかけて、海の深みに沈められるほうがましである。」憐れみの主がおっしゃるには あまりにも厳しい言葉です。

いったいなぜでしょうか。なぜかというと、主は深い全能の愛によって、一人の男と一人の女性が、一つの決して壊れることのない決して解消することができない家庭を作って、そして互いに助け合い愛し合って、そこから健全な子供たちが生まれることを、お望みになりました。

これはイエズス・キリストと聖なるカトリック教会が一つの神秘体を作る、という影となるからです。それを現すしるしとなるように、お望みになりました。

このような家庭は非常に幸せで、そして愛する兄弟姉妹の皆さん、私たちもどの人間でも子供は自分の肉体の私たちを生んでくださったお父さんとお母さんがいつも仲良く一緒に平和に生活することを望んで、それを見ると幸せです。このような家庭は国家が存在する前から存在しています。そして国というのは、そのようなしっかりとした家庭に基づいています。

ですから主がお望みのように、私たちもまた社会全体も国も、女性を、お母さんとしてあるいは母親となる方として尊重し大切にしなければなりません。もしもキリスト教文明で、女性が大切にされて―レディファースト―あるいは女性に対する特別の保護が為されて優しさがなされて尊敬が払われて最も大切にされたとしたら、それは母親であり母親となる方であるからです。もしも女性が母親となるべく方であれば、男性は父親として、また父親となるべく者として、尊重されなければなりません。なぜかというと子供には良き母親と良き父親の両方が必要であるからです。そしてそのような社会は、子どもたちをも尊重します。もしもそうでなければ、一番の犠牲者は子どもたちです。子どもたちが傷つき、そして不幸になり、悲しみ、そして一生癒されることのない不幸な生活を送らなければならなくなります。またその次の犠牲者が女性です。そして男性です。そして社会全体が不幸に苦しみに陥ってしまいます。

ですからそのような家庭を守るために、聖パウロは、私たちに口を慎めと言います。なぜかというと、天主の御摂理により、私たちが命を維持してご飯を食べたりあるいは結婚したりするために、特別の欲望を私たちに作りました。これはスポーツカーの最高のエンジンよりも、あるいは核融合の原子炉よりもさらに強い力を持っているものです。ですから私たちはコントロールしなければ、爆発してしまったり、核爆発をしてしまったり、あるいは大事故を起こしてしまったり、そして多くの人々がそれによって苦しむようになってしまいます。そのコントロール・制御するためにこそ、特別の注意と慎みとそして賢明さが必要です。「淫行やすべての穢らわしいことは口にさえ言ってはならない」と聖パウロは言っているのです。

(4)最後の第四に、聖パウロは、私たちに、「あまりにもほかの社会が乱れているので私たちは騙されてはいけない」と警告します。その当時は、異教のローマ・ギリシアの文明と呼ばれるものに対する警告でした。そのような人たちは快楽至上主義というのでしょうか、面白おかしくすればそれでよいのだ、一番悪いのは苦しむことだ、そして誰でも自由に快楽を求める権利がある、そして快楽こそが本当の幸せだ、と言って、家庭も顧みず食べたいまま、あるいは自分がやりたいまま、快楽を肉体の欲望を満たそう満たそうとしていました。しかしその代わりに起こったことは、不幸でした。もとめても求めても満たされない虚ろな心でした。社会は、家庭は、壊れて行きました。子どもたちは犠牲者になりました。女性も搾取されました。商品となりました。

カトリック教会は二千年間、それらの快楽主義に対して、「違う!騙されるな!一人の男性と一人の女性が一体となって結婚するのだ、それ以外の何ものでもない。天主の御摂理による本当の幸せの秘密はここにある」と教え続けました。そして、カトリック教会は人類にものすごい貢献をしました。それはキリスト教文化というとてつもない偉大なものを、私たちに残してくれました。大きな大聖堂あるいは音楽・文学・芸術・美術・法律その他すべては、この社会の最も大切なここから、生れて来ました。カトリックの道徳から、生れて来ました。そこから、ものすごい立派な聖人たちが、天主への愛に燃えて、キリスト教文明を築いてきました。

現代社会では、この二千年前の古い異教の考えが頭をもたらしています。日本にもいまそれが襲っています。自分が思うままにやりたい放題すれば、それこそが幸せだ、どんな子供でも誰でも快楽を追求する自由がある権利がある。そこでいま文学や小説や雑誌や写真や動画多くのものが不潔と口で言うことができない低俗なもので満ち溢れています、汚物で溢れかえっています。多くの子どもたちは、お母さんのおなかの中で殺害されています。大人が子供を邪魔だというからです。多くの女性が商品化されています。口にするのも恥ずかしいほどです。

教育という名前で、子どもたちに、ポルノあるいは子どもたちにふさわしくないものが当然である、罪でない、それが自由だ、自然なことだ、と教えるようにしています。たとえばユネスコ(UNESCO)が中心になって国際セクシュアリティ教育ガイダンス(ITSE, International technical guidance on sexuality education)というものがあります。幼稚園児から五歳から八歳から、教える内容は「どのような家庭も全く価値が同じだ、壊れた家庭も、私達が天主のみ旨に反して罪だというようなことも、これは等しく価値がある、全く同じだ、権利がある、そしてカトリック教会が罪であると教えてきたことも自然な行為だ」私は言葉にすることもできません。あるいは「本人たちの同意があれば何をしてもよい、何でもしてもよい、ただ唯一の制限が本人たちの同意があることだけだ、それ以外のことは何でもやってよい」。

しかし、核融合しているような 燃え盛るような原子炉で、情念に燃えてしまって理性を失ってしまっているような若い子どもたちが、同意する・しないという問題ではなくなる時があります。天主の私たちに与えた最も幸せな道を盲目にさせてしまう時があります。

聖パウロは私たちに言います「人の空しい言葉にだまされるな。不従順な者の上に天主の怒りを呼ぶのはそれらのことがらである」と。聖パウロは、現代どれほど大きな声で、くり返しくり返し私たちに警告していることでしょうか。「主の道に立ち戻らなければならない。主のみ旨に戻らなければ本当の幸せがやってこない。私たちは不幸になってしまう、滅びてしまう。傷ついてしまう」。

【遷善の決心】
では最後に、四旬節の決心を、また新たにいたしましょう。この機会に私たちが悔改めをすることができますように。ヨナの言葉を聴いて、ニネベの人たちは悔い改めました。現代人の私たちも、悔い改めなければなりません。主に、たちもどらなければなりません。特に貞潔に対する遷善の決心を立ててください。それを目にも耳にも口にもしないように、よい決心を立てましょう。子どもたちを守らなければなりません。

愛される子らとして、天主に倣うものであれ!キリストが私たちを愛されたように、愛のうちに歩め。聖徒たちにふさわしいように、あなたたちの中では、淫行すべての穢れ・強欲を口にさえするな。それらの者は、キリストと天主との国において、遺産を継がない。人の空しい言葉に騙されるな。あなたたちは闇であったが、今は主において光りである。光の子として歩め。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


二組の兄弟:エザウとヤコブ、放蕩息子とその兄

2023年12月05日 | お説教・霊的講話

二組の兄弟:エザウとヤコブ、放蕩息子とその兄

2023年3月11日(土曜日) 修道院での説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日ミサでは二組の兄弟の話が出ました。
イザクの二人の子どもたち、エザウとヤコブ。
それから、福音では放蕩息子とそのお兄さんの話です。

(1)イザクの二人の兄弟、長男エザウは、モーゼの記録によると、この世的で肉欲に自分を制御することができない男でした。長男であったにもかかわらず、お腹が減って帰って来たときに、自分の弟ヤコブが作っていた豆のスープを食べたいと言って、いまこのお腹が減っている時に長子権がいったいなんだ、いまこの世の楽しみのためにあたかも天国とはいったい何だ、と言っているかのようです。この目先の事だけの楽しみのために、将来の最も大切な長子権を売ってしまいました。

今日の書簡で、お母さんレベッカの話のとおりに、お父さんの一番望んでいることは何か?ということを聞いて、お母さんの言うとおりにヤコブはします。そして、お父さんのイザクから、本当ならエザウにやるべき祝福を自分が受けるようにしてしまいました。確かに長子権をエザウは売ってしまったのですから、エザウからヤコブにその祝福が行って当然だと言えるかもしれません。天主の神秘はそれを許しました。教父たちによると、エザウはユダヤ人たちを意味していて、そしてヤコブは新約の私たち異邦人を意味していると言います。

私たちにとってその聞くべき母とは、聖なる公教会でありそしてマリア様です。なぜなら公教会とマリア様こそが、天主の御旨を一番よく知っているからです。祝福を受けるべきためにいったい何をすればよいかということを、私たちに教えてくれるからです。

(2)今日の福音は、この二人の兄弟をもっと説明します。実は、異邦人たちは、私たちは、天主の国から非常に遠く離れたところに住んでいた者でした。天主からの遺産を実は受けていたにもかかわらず、それから離れて好き放題に闇に住んでいた、ということです。主のみ旨を果たさないばかりか、それに反することを行っていた。やりたい放題にやっていた。

その父の家から離れていると、自分があまりにも惨めだ、動物よりも惨めだ、豚よりも惨めだ、豚の食べているものさえ自分は食べることができない、それに気がついたのです。ちょうど現代人のようです。

天主のみ旨は、聖なる家庭をつくることだ、男が父親となることだ、女性が素晴らしい母親となることだ、そして愛の家庭をつくることだ、一人の男と一人の女性が決して壊れることがない家庭をつくり、そしてその家庭のなかによって互いに愛し合うことだ、そしてその愛し合った二人はその家庭をすべて主に捧げることだ。 そこから、その愛の円居(まどい)において、主が宝物として、贈り物として、プレゼントとして、子どもたちを新しい命を与えてくださる、そのプレゼントを受け取ることだ。そこにこそ主のみ旨がある。

けれども、そうではなくて、遠く離れてしまって、「自分の思い通りに愛すればよい、自分のとおりにすればよい、自由だ、男も女もあるか」と言っている現代人たちです。しかしそうすることによって、男性は傷つき、女性は更に傷つき、子どもたちはもっと、もっともっとひどく傷ついています。苦しんでいます。ですから、その苦しみの中で、今日の放蕩息子は「ハッ、お父さんのもとに帰ろう」と思いました。

これは、今年の復活祭の時に洗礼を受けようとする求道者たちの願いと、心の中と、一致しています。「お父さんのもとに帰ろう、お父さんのもとだったらもっとも下っ端の召使いの奴隷であっても、私よりももっと良い生活をしている、幸福を味わっている。お父さんのもとに帰ろう。」

父親は遠くから子供が帰るのを待っていました。いまかいまかと待っていて、そしてすでに小さな姿を見つけると走り寄って行って、子供を向かえ入れます。「よく帰って来た。待っていた。よく来た。」

子どもは跪いて「お父さん、私はあなたと天に対して罪を犯しました。ごめんなさい。もうあなたの子どもなどと呼ばれる資格はありません。召使いのもっとも奴隷の、もっとも下っ端の、一番下においてください。それも、そんな価値もありませんけれど、どうぞ家の中に入れさせてください。」と言います。

父親は、その子どもを立ちあがらせて、召使いに言って、「さあ、この子に一番良い服を着せるように。この子は裸足だ、靴を履かせるように。この子には私の子どもとしての指輪をはめさせるように。」そして、子供としてのすべての特権を与えてくれたのです。

そればかりではありません。この子供のためには、父親を離れたことがなかったお兄さんにもすることがなかった大宴会を開きました。一番超えた動物を屠って、一番おいしいワインを飲んで、一番おいしい料理を大御馳走を並べた大宴会を開いて、音楽を奏でました。オーケストラが美しい音楽を奏でて、子供が帰って来たのを喜びました。

これは、天主御父が、私たち異邦人がその御もとに帰ってくるのをお待ちになっているということです。たとえ私たちがどれほど罪を犯していたとしても、どれほどの主から遠い生活をしていたとしても、惨めな生活をしていたとしても、動物のような生活をしていたとしても、主のもとに立ち返るならば、子供として最も良いものを与えてくださる、成聖の聖寵の恩寵を下さる、新しいキリストの衣服を着せてくださる、天国の遺産を受けることができる指輪を与えてくれる、本当の自由人としての靴を与えてくださる、そればかりではなく御子を屠って御聖体として私たちに与えて養ってくださる、と私たちに教えています。

私たちも、今年の洗礼志願者のために、また私たちが主の御もとに帰ることができるように、そして主のみ旨を果たすことができるように、教会の二千年間の聖伝の声とそしてマリア様の声を、聴くことにいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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