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第六の封印「太陽は荒い毛の布のように黒くなった」(黙示録6章12節)の意味と解釈

2023年12月04日 | カトリックとは

第六の封印「太陽は荒い毛の布のように黒くなった」(黙示録6章12節)

2023年11月28日

The Sixth Seal: “And the sun became black as sackcloth of hair” (Apoc. 6: 12)

ロバート・ラズ・クミタ(レムナント・コラムニスト、ルーマニア)

終末の時代の前に起こるであろう宇宙的な出来事に関する聖書の預言の中には、太陽が暗くなることについて言及しているものがある。当然のように、このしるしは旧約聖書で繰り返し言及されている。預言者ヨエルは、「地がおののき、天が震え、太陽と月は暗み、星はその光を失う」(ヨエル2章10節)と語っている。預言者エゼキエルの書では、天主ご自身が語り、歴史への摂理的な介入の結果をこう告げておられる。

「おまえが倒れ死ぬとき、私は空を暗くし、星を暗ませ、雲で太陽を隠し、月に光を放たせない」(エゼキエル32章7節)。

同様に、預言者イザヤは、「月は赤らみ、日は青ざめる。万軍の主が、シオンの山とエルザレムに君臨されるとき、その老人たちの前に主の栄光は輝く」(イザヤ24章23節)と述べている。例外なく、これらすべてのテキストにおいて、太陽が暗くなることは歴史への天主の介入と関連している。この介入は、特定の文脈での選ばれた民に適用される審判を通じてのもの、あるいは世の終わりに起こるであろう普遍的な審判を通じてのものである。

共観福音書(マテオ、マルコ、ルカ)のテキストには、私たちの主イエズス・キリストご自身が歴史の終わりに関する預言の中で言及された、太陽が暗くなるしるしが記されている。福音史家マテオは、「日は暗くなり、月は光を失い、星は空から落ち、天の力は揺れ動く」(マテオ24章29節)と、一連の宇宙的な出来事について広範囲に描写しており、これを福音史家マルコ(13章24-25節)も繰り返している。福音史家ルカはもっと簡潔に表現し、「日、月、星にしるしが現れる」(ルカ21章25節)と述べている。このように、太陽が暗くなることが言及されている例は数多くある。しかし、すべての中で最も興味をそそられるものは、聖書の黙示録にある。

「小羊が第六の封印を切ったとき、私は大地震が起こるのを見た。太陽は荒い毛の布のように黒くなり、月は全面血のようになった。天の星は、いちじくの木が大風に揺らいで青い実を落とすように、地に落ちた」(黙示録6章12-13節)。

「荒い毛の布のように黒くなった」太陽のイメージは、私を魅了してやまない。注意深く考えてみると、日食というよりも、太陽が覆われ、隠されているのであり、太陽の表面は小さな隙間がいっぱいで、そこから光が断続的に漏れているのだ。避けられない疑問は明らかである。この太陽が神秘的に覆われていることには、どんな意味があるのだろうか。可能性のある答えを読み解くには、私たちはまず、この黙示録の箇所に関する聖人たちや教会博士たちの解釈を検討しなければならない。

七つの封印は、七つの時代のことだと考えられてきた。これは、黙示録の5章と6章に記述されている小羊であるイエズス・キリスト、人となり給うた天主だけが、戦闘の教会の地上での設立で始まる期間全体にわたって展開させるものである。第六の封印について、聖書の最も重要な解釈者の一人である尊者聖ベーダ(672年頃、または673-735年)は、この封印は「反キリストの時代に起こるであろう」[i]歴史上のその期間の出来事を指している、と述べている。この解釈に沿って、中世の著名な学者であるヨークのアルクイン大修道院長(735-804年)は、「地震によって、反キリストの下での最後の迫害を理解すべきである」[ii]と主張している。ペッタウの聖ヴィクトリヌス(-304年)とブルゴーニュ人、アルルの聖セザール(470年または471-543年)も同じ見解を示している[iii]。しかし、聖ジョン・ヘンリー・ニューマン枢機卿の解釈に関する記事ですでに見たように、その迫害の種類はニュアンスの異なる読み方を受ける可能性のある主題である。

月は教会の象徴であり、自らの光を太陽である天主から受けるが、血のように変わるため、反キリストの時代に真の信仰を持つ信者が受ける殉教のしるしと考えられている。しかしながら、聖ベーダは、迫害の最も苛烈な面は、物理的な次元ではなく霊的な次元に関係していることを示唆しているように思われる。第一に、彼は第六の封印を切ることと救い主キリストの十字架刑との間に神秘的な相関関係をこう確立している。「主が週の六日目に十字架につけられた時のように、世は暗黒と恐怖で揺り動かされる」(太字は私の強調)。

尊者アンナ・マリア・タイギが預言した暗闇の三日間の解釈のケースで見たように、これらのことは、世および闘う教会の歴史の中のある期間、つまりイエズス・キリストの十字架上の死によって始まる三日間に象徴的に対応する反キリストの時代のことを指すことが可能だ。しかし、太陽が暗くなることの意味は何だろうか。以下の聖ベーダの注解が、再び私たちを照らしてくれるだろう。

「これは、まるでキリストの力が隠されるか、あるいはキリストの教理が一時的にぼかされるかベールで覆われるかのようであり、そのとき、反キリストのしもべたちがキリストのしもべたちを攻撃するために登場するのである」。

ここから何が理解できるだろうか。太陽は天主の力と天主の超自然の啓示(すなわち、「天主の教理」)を象徴している。毛は「反キリストのしもべ」なのか。いや、そうではない。このことを正しく理解するためには、毛のイメージを熟考し、その意味を完全に引き出す必要がある。毛は私たちの頭を飾り、毛は頭皮から出ている。この細部に注目したとき、私たちはすぐに何を思い浮かべるだろうか。私たち自身の考えだ。いろいろな考えが「頭をよぎる」と言わないか。どんな考えか。残念だが、中立的なものもあり得る。例えば、「私は食べるつもりだ」というようなものだ。あるいは、「自分の生き方を改めるために告白し、悔い改めようと思う」というような、肯定的で天的なものもあるだろう。しかし、否定的な、邪悪な、異端的な考えもあり得る。歴史上で初代教皇である聖ペトロが、イエズスが命を捧げるためにエルザレムに行くのを阻止しようとした瞬間を覚えているだろうか。救い主がペトロに言った答えはこうだ。

「サタン、引き退れ。あなたは天主のことではなく、人間のことを考えている(φρονέω)のだ」(マルコ8章33節)

このとき、ギリシャ語のテキストが私にとって最大の助けとなった。なぜなら「考えている」と訳されている動詞はφρονέω(phroneó)であり、「理解する、考える」という単純にして明快な意味だからだ。言い換えれば、ペトロが、イエズス・キリストが私たちの救いのために十字架上で命を捧げようとするのを妨げようとするとき、彼の頭にあるのは「人間的な考え、悪魔の霊感による人間的な考え」なのだ。つまり、天主のご意志や物事の理解に反対する考えである。私たちが異端と呼ぶことのできるこれらの考えは、あの「布」の形で織られ、太陽の光、つまりキリスト教の信仰を通して私たちの心を照らしてくれる超自然の啓示を暗くすることになる「毛」なのである。

この理由で、聖ベーダは「反キリストのしもべたち」、すなわち、信仰について自分たちの考えや解釈を持っていて、真の信仰に忠実であり続けるキリストのしもべたちを攻撃する異端者たちについて語ることができるのである。第六の封印が切られた後の出来事が語られる際の黙示録の描写の「雰囲気」は、一種の総力戦である。正統な信仰(=太陽)を守る者たちと、「私たちが津波の水面下にいるように沈んでいる支配的な新近代主義の象徴である荒い毛の布袋の中に詰められた無数の異端」を推進する者たちとの間で行われる戦争である。

ヨークのアルクインは、自分がよく知っていたこの解釈を否定せず、同時に有効であり得るもう一つの解釈を提案している。それは、福音に忠実な人々の「ライフスタイル」、つまり、生命(親がすべての子を受け入れる)、貞潔(純潔、慎み深さ、良いマナー、控えめな服装が尊重される)、清貧(一時的なこの世のものが永遠の命という霊的なものに厳格に従う)という価値観に従った生き方に関するものである。しかし、このキリスト教的なライフスタイルは、悔い改めを拒む人々の目には、アルクインの主張によれば、耐え難いものであり、受け入れがたいものなのである。

「太陽はまた、宣教する者たちの光輝く生き方を示すこともある。つまり、終末の時代には、太陽は荒い毛の布のようになるのである。なぜなら、宣教する者の光輝く生き方は、不道徳な者の目には粗暴で卑劣に映るであろうからである」。

提案されている二つの解釈は互いに補完し合っている。一つ目は、「荒い毛の布」(すなわち新近代主義)という形で、天主によって啓示された正統な教理をぼかしてしまう異端の総合を指している。二つ目は、キリスト教徒の生き方の道徳的な面に関するものである。永続的に受け入れられている十戒の価値観を通して光輝くキリスト教徒の生き方は、不道徳な者たちの目には暗くなったように見えるのである。彼らは、それを惨めなもの、つまり、布袋のように荒れたもの、あるいは中世の修道院で着用されていた痛悔者の衣のようなものと捉えるからである。

時々、細かい点まですべてが適合しているように見えることがある。しかし、もしそうであるならば、それは第六の封印が切られたことを意味するのではないか。このことは、賢明な慎重さをもって答えなければならない重要な疑問である。

[i]黙示録6章に関する聖ベーダの注釈は、https://sites.google.com/site/aquinasstudybible/home/revelation/st-bede-on-revelation/chapter-1/chapter-2/chapter-3/chapter-4/chapter-5/chapter-6。[アクセス:2023年11月11日]

[ii]アルクインの黙示録の注釈はこちらで読むことができる。https://sites.google.com/site/aquinasstudybible/home/revelation/alcuin-of-york-commentary-on-revelation[アクセス:2023年11月11日]

[iii]ラテン語による黙示録注解、ウィリアム・C・ワインリッチ著、IVPアカデミック、2011年。

黙示録 第6章 私はまぼろしを見た。
小羊が七つの封印の第一を切ったとき、四つの動物の一つが、雷鳴のような声で「近よれ」というのを聞いた。そして私は、白い馬が現われるのを見た。乗っている者は弓をもっていた。この人に冠が与えられた。かれは勝つ者であって勝つためにでていった。
第二の封印を切ったとき、第二の動物が「近よれ」というのを聞いた。するともう一頭の炎のような色の馬がでてきた。それに乗っている者には、人間が殺しあうために地上から平和を奪いとる力が与えられ、大きな剣がわたされた。
小羊が第三の封印を切ったとき、第三の動物が「近よれ」というのを聞いた。私は黒い馬が現われるのを見た。それに乗っている者は、手に秤をもっていた。私は、四つの動物の中から出る一つの声のようなものを聞いた。その声は「小麦一ケニクスは一デナリオ、大麦三ケニクスは一デナリオ、油とぶどう酒とには触れるな」といった。
第四の封印を切ったとき、第四の動物が「近よれ」というのを聞いた。私は浅黄色の馬があらわれるのを見た。それに乗っている者は死とよばれ、冥府がそれにしたがっていた。かれらには、剣と飢えとペストと地上の猛獣とをもって、地の四分の一を殺す力が与えられた。
それから小羊が第五の封印を切ったとき、私は、天主のみことばのためと、また、自分たちがそれを証明したために殺された人々の霊魂を、祭壇の下に見た。かれらは大声に、「聖いお方、真実の主よ、審判と、地上に住む人への私たちの血の復讐のときを、あなたはいつまでのばされるのですか?」といった。かれらおのおのに白い服が与えられ、かれらと同じように死にわたされるしもべと兄弟との数が満たされるまで、もうしばらく忍耐するようにといい聞かされた。
小羊が第六の封印を切ったとき、私は、大地震が起るのを見た。太陽は荒い毛の布のように黒くなり、月は全面血のようになった。天の星は、いちじくの木が大風にゆられて、青い実を落すように、地に落ちた。天は、巻物を巻くように見えなくなり、すべての山と島とは、その場所を変えた。地上の王、君主、千夫長、金持、勢力者、奴隷も自由民もみな、洞穴と山の岩間とにかくれ、山と岩とに向かっていった。「私たちの上に落ちて、玉座に座るお方のみ顔と小羊のおん怒りからかくしてくれ。おん怒りの大なる日はきた。だれがそれに耐えられよう?」。(…)


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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