Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

枝の行列:私たちが棕櫚の枝を持って行列するということは、キリストの真理を証しするということ「栄光と讃美と誉れとは、王、贖い主なるキリストにあれ。」

2023年12月09日 | お説教・霊的講話

2023年4月2日(枝の主日)説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は2023年4月2日、枝の主日です。

幾つかお知らせがあります。来たる聖金曜日は、カトリック教会の掟によれば、私たちは大小斎を守らなければなりません。満20歳から59歳までの健康な成人の男女の信徒は、大小斎を喜んでイエズス様の御受難に合わせて共に御捧げ致しましょう。

聖ピオ十世会日本では、今年の聖なる三日間(Triduum)は、大阪で、テネブレと呼ばれる朝課と讃課を午前9時から行う予定です。聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日、どうぞテネブレに与るようになさってください。

今年の復活の徹夜祭にも、洗礼を受ける受洗を予定されておられる方々がおられます。新しく超自然の命に生まれる方々のために是非お祈りください。

今年もゴールデンウイークに、つまり5月3日から6日まで秋田巡礼を行います。大人も子供たちもカトリック信仰を深める祈りと研修の日々となるとても良い機会です。特に今年は秋田の聖母が私たちにメッセージを下さって50周年です。愛する兄弟姉妹の皆様を秋田巡礼に心からご招待申し上げます。

【枝の主日:過去の史実】
さて2000年前の枝の主日、イエズス・キリストがエルザレムに入城したとき、「群衆のうちの多くは、道にマントをしき、あるものは木の枝を切って道にしいた。また、イエズスの先に立ち、うしろに従う人々は、「ダヴィドの子にホザンナ。賛美されよ、主のみ名によって来るおん者。天のいと高き所にホザンナ」」と叫んだと聖書にあります。

今日、この典礼を通して、カトリック教会は、私たちもエルサレムの群衆に倣うことを欲しています。

イエズスに先立って賛美する人々は、旧約の義人たちを象徴しています。イエズスの後に従う人々は、私たちのことです。私たちも、イエズス・キリストこそが、全人類が待ち望んでいた本当のメシア、約束された救い主、私たちを地獄の火から守り、そして天国へと導いてくださるおん方、主の御名によって来(きた)るおん者である、と時代を超えて、そして場所を超えて、賛美いたしましょう。
「ダヴィドの子にホザンナ。賛美されよ、主のみ名によって来るおん者。天のいと高き所にホザンナ!」

【祝福された枝:将来の栄光】
私たちは、十字架の後を、棕櫚やオリーブなどの枝を手に持って行列で進みます。十字架はキリストが勝利する御旗(みはた)です。棕櫚の枝は、死と地獄に対する主の勝利を予告しています。黙示録にはこうあります。引用します。
「私は、すべての国と、民族と民と、ことばとの、数えきれない、おびただしい大群衆があらわれるのを見た。かれらは白い服をつけ、手に棕櫚の枝をもち、玉座のみ前と小羊のみ前とに立ち、大声に叫んで「救いは、玉座に座られる私たちの天主と小羊とのものである」といった。」引用を終わります。
棕櫚が勝利を示すとすれば、オリーブの枝は平和を予告します。ノエの箱船から放たれた鳩は、平和の印としてオリーブの枝をくわえてやってきました。

聖週間、キリストは自ら御受難へと向かわれます。私たちも、キリストに従い、「証し人」「殉教者」として信仰を告白し、ついには勝利の棕櫚をいただくために、典礼でも枝の配布を受けます。枝を受けるというのは、王たるキリストに従う者として、御受難に従う者としての恵みを受けるという意味があります。
私たちは、手に勝利の棕櫚の枝を持ち、歓喜してキリストに従う、新約の「ヘブライの子供たち」です。
祝福された枝を受け取って、典礼が終わりましたら、自分の部屋に飾ってください。それはキリストを証しする務めを持っているということを私たちに思い出させるためです。「救いは、玉座に座られる私たちの天主と小羊とのものである!」と枝を見るたびに思い出しましょう。

【枝の行列:典礼の神秘】
枝の行列の前に、私たちはこう聞きます。Procedamus in pace! 平和のうちに行こう。私たちはこう答えます。In nomine Christi. Amen! キリストの御名によって、アメン!私たちは、平和のうちに、キリストの御名によって、キリストの十字架と共に、勝利の行列を行います。何故かというと、キリストは必ず勝利をおさめるからです。キリストは、死と罪と地獄とに打ち勝つ唯一のおん方であるからです。私たちもキリストに従ってはじめて勝利します。
私たちの先祖キリシタンたちも、そして世界中の殉教者たちも証聖者たちも同じことを信じていました。キリストは必ず勝つと。
今日、典礼では、私たちはキリストの十字架に従って、御受難の地である十字架の道行きを行うのです。キリスト者は、十字架の後を十字架と共に道を行くからです。十字架の道行きであり、同時に、勝利者たちのマーチ、英雄たちの行進です。

枝の行列の最後の方では、オルレアンの司教テオドゥルフォの作った王たるキリストに対する賛歌を歌いながらこう言います。
「栄光と讃美と誉れとは、王、贖い主なるキリストにあれ。子ども等の美しい声は、敬虔なホザンナを、主に向けて歌う。」
また、こうも歌います。
「いと高き天の全ての群れは御身を褒め称える。死すべき人間も、被造物も皆、声を合せて主を称える。栄光と讃美と誉れとは、王、贖い主なるキリストにあれ!」
ついに聖歌を歌いつつ、行列は十字架を先頭に、教会の門の前に立ちます。天国の門にたどり着いたかのようです。

古くからの習わしによると、この王たるキリストに対する賛歌は、最後の最後に歌うことになっていました。行列が教会に到着すると、まず聖歌隊の二名だけが教会の中に先に入って、教会の門を閉めます。十字架を運んでいた副助祭は、二人のローソクを持つ侍者に挟まれて、教会の正門の前に立ちます。次に副助祭は十字架像を司式司祭の方に向け直します。つまり十字架像は後ろのほうを向くということです。
外にいる聖歌隊は、十字架像のイエズスを見るとこう歌います。「Gloria Laus et honor! 栄光と讃美と誉れとは、王、贖い主なるキリストにあれ!」

聖職者たちはこれを繰り返します。こうして教会の外で、王たるキリストに対する賛美を全て歌います。歌い終わると、副助祭は、十字架の足で教会の門を三度叩きます。すると教会の門は開き、行列をしていた共同体は、Ingrediente Dominoの聖歌を歌いながら、教会の中に入ることが出来るようになります。
アダムとエワの罪以来、天の門は固く閉ざされていました。誰もこれを開けることができませんでした。しかしイエズス・キリストがこの地上にやって来られて、十字架と共に天の門を叩く時、天の門は再び開くことができるようになりました。そしてキリストに従う者たちも天国に入ることが出来るようになりました。枝の主日の地上での行列は、天国への行列とつながっているのです。
「栄光と讃美と誉れとは、王、贖い主なるキリストにあれ。子ども等の美しい声は、敬虔なホザンナを、主に向けて歌う。」

【私たちの枝の行列】
愛する兄弟姉妹の皆様、枝の行列は、私たちの人生の縮図です。ミニチュアです。
私たちの最終目的地は天国です。天国の至福にたどる道は、イエズス・キリストの十字架の道を従う以外ありません。大司祭イエズス・キリストの十字架の生贄だけが、私たちに罪の赦しを与えることができます。

十字架につけられたイエズス・キリストに従う、これだけが、この地上において平和と本当の喜び、そしてついには天国で永遠の幸せを与えることができるのです。

イエズス・キリストの十字架、つまり聖伝のミサ聖祭、カトリック信仰の遺産、もしもこれがなくなってしまうのなら、この世界は地獄に変わってしまいます。

聖伝のミサに代わって新しいミサになって50年後、全世界はコロナ騒動を体験して、この真理を深く経験しました。私たちにはどうしても聖伝のミサ聖祭が必要です。非常に象徴的なものはキリスト教世界です。かつてキリスト教世界だったところでは、革命によって、徐々に学校から、病院から、司法から、立法から、行政から、社会生活から十字架像が取り除かれました。十字架像の代わりに入ってきたのは、なんでしょうか。それは社会の崩壊でした。

私たちが棕櫚の枝を持って行列するということは、キリストの真理を証しするということです。

どんな真理でしょうか。カトリックの真理です。信仰の遺産です。イエズス・キリストの私たちに伝えてくださった真理です。

ミサ聖祭が十字架のいけにえの再現であるという真理です。ご聖体はキリストのほんとうの御体、現実の体であるという真理です。ミサはただの食事会ではない、また御聖体はただのパンではないという真理です。新しいミサの定義は会衆の集会に成り下がってしまいました。イエズス・キリストの十字架の犠牲の再現としては定義されていません。新しいミサの結果、多くの人々がミサに対する信仰を失ってしまいました。御聖体に対する信仰を失ってしまいました。

私たちはもう目を覚ます時が来ました。私たちは棕櫚の枝を持って、堂々と、ミサ聖祭に対する真理を告白しなければなりません。私たちには聖伝のミサ聖祭が必要だと。これこそが私たちに平和と文明を与えてくれる秘密であると言わなければなりません。

私たちが棕櫚の枝を持って行列するということは、キリストの真理を言い続けることです。公(おおやけ)に言い続けることです。つまり、天主は人間を男と女とに作り、一夫一妻制の自然の結婚を制定したという真理です。結婚はこれ以外にはありえません。キリストはこの自然の結婚を秘跡にまで高めました。カトリック教会は人々を祝福します。すべての人々を祝福しますが、しかし罪は祝福することはできません。キリストの御意志に反し人々を不幸にさせてしまうようなLGBT運動を祝福することはできません。ローマは常にそう語っていました。聖書は、そう書いてあります。カトリック教会の教えは、公教要理は、そう私たちに教えています。

たとえ一部の日本の司教様たちが、あるいは外国の司教様たちが、LGBTについてほんとうのことを語らなかったとしても、それは本当の司牧ではありません、本当の愛ではありません。本当の愛徳ではありません。真理を語ることこそが愛徳であり本当の司牧であり、霊魂のためになることです。若しもお医者さんが、病気の人を前にして、どこが病気であるかを言わなかったら、これは偽物の医者です。本当の良い医者ではありません。司教様は真理を黙っていることはできないはずです。司教様こそが、声を上げなければならない方です。

もしもそうなさらないならば、私たちは目を覚まさなければなりません。今その時が来ました。もしも私たちが真理に目ざめなければ、本当の犠牲者は女性の方々です。弱い立場に置かれている女性の人々です。また子どもたちです。私たちは女性を子供たちを、守らなければなりません。カトリック教会はいつも女性と子供たちを守ってきました。私たちはこれを続けなければなりません。目を覚ます時が来ました。

カトリック教会は 教皇様を頂点とする君主制です。民主制としては作られませんでした。イエズス・キリストは聖ペトロを頂点とした君主制を作りました。それがカトリック教会です。キリストの真理は時と場所によって変わり得ません。ですからいま流行のシノドス性のシノドというのはまったくの茶番です。おふざけです。ミュラー枢機卿様は前教理聖省の長官でしたが、シノドス性のシノドというのは茶番だとはっきりおっしゃっています。私たちは目を覚ます時が来ました。

愛する兄弟姉妹の皆様、枝の主日です。私たちは棕櫚の勝利の枝をキリストから受けましょう。そしてイエズス・キリスト様から受けた信仰の遺産を宣言し、告白しなければなりません。私たちは日本の尊い殉教者たち、そして世界中の殉教者たち、証聖者たちに連なって、イエズス・キリストこそが私たちの贖い主、来るべき御子であると、ダヴィドの子、主の御名の由りて来(きた)る者として宣言しなければなりません。

愛する兄弟姉妹の皆様、私たちは信仰を生きています。永遠の命がかかっているからです。全世界の運命がかかっているからです。私たち人類の存続がかかっているからです。マリア様にお祈りしましょう。悲しみのマリア様、汚れなき御心にお祈りしましょう。私たちがけっして主の御跡を離れることなく、主の跡を慕って、マリア様と共に十字架のもとに佇(たたず)むことができますように、特別の恵みと力を請い求めましょう。

イエズスの先に立ち、うしろに従う人々は、「ダヴィドの子にホザンナ。賛美されよ、主のみ名によって来るおん者。天のいと高き所にホザンナ」と叫んだ。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


マリア様は私たちに最後の手段「汚れなき御心に対する信心」をくださった。この信心は霊魂の救いのために聖母から今一番求められている

2023年12月09日 | お説教・霊的講話

マリア様は私たちに最後の手段「汚れなき御心に対する信心」をくださった。この信心は、世界の存続のために、日本の存続のために、カトリック教会の存続のために、霊魂の救いのために、聖母から今一番求められているものです。

2023年4月1日(土)大阪でのミサ説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は四月の初土曜日ですので、聖母の汚れなき御心の随意ミサを行っています。聖母の汚れなき御心の随意ミサは、初土曜日は二級の随意ミサとして捧げることができます。ですから三級の祝日があったとしても、私たちは三級の典礼があったとしても、ミサを捧げることが許されています。

今日は初土の信心をミサの後に行いましょう。ミサの後に御聖体降福式を行って、聖ピオ十世会を聖母の汚れなき御心に奉献し、これを更新して、そして十五分間マリア様のロザリオの玄義を黙想致しましょう。

なぜ初土の信心がそれほど重要なのでしょうか。今日はそれを一緒に黙想したいと思います。

マリア様からの秘密を受けたシスター・ルチアは、ある枢機卿様に死ぬ前に手紙を書きました。
「枢機卿様、悪魔は最後の戦いを家族・人間の命に関して、最終の戦いを行う、と言っています。悪魔は天主の創造の業を憎んでいます。特に、天主の似姿に従って造られた人間を、永遠の滅びに落とそうとしています。ですから、悪魔は人間の命を破壊しようと、そして命を生みだす最も神聖なものである家族を破壊しようと、天主の創造の御業を破壊しようと、今全力を尽くしています。」

いま皆さんもご存じのように、世界中のレベルで、性革命と呼ばれるものが展開されています。日本だけは大丈夫だということは、決してありません。

なぜか、ということを説明します。革命は、悪魔から始まりました。悪魔が「私は従わない。」「NON SERVIAM」と、言ったことから始まりました。被造物の分際でありながら、天主に逆らったのです。悪魔は地獄に落とされました。天主の創造の業を破壊して、多くの人間を地獄に引きずり降ろそうと思っています。その最初の犠牲者が、アダムとエワでした。

イエス・キリストによってたてなおされたお恵みの聖寵の世界、現実の世界の上に、超自然の世界が与えられました。天主への信仰、イエズス・キリストへの信仰、そして聖なるカトリック教会への信仰がありました。

しかし最初に(1517年)、マルチン・ルターが革命を起こしました。最初にカトリック教会を否みました。そして、秘跡を否みました。ミサ聖祭を拒否しました。教皇制とその客観的な聖伝を拒否しました。その結果生まれたのが、偽のキリスト教でした。

これは、プロテスタントの精神は、資本主義を生みだすようになりました。その結果、第二の革命がおこりました。それは、自由主義革命と言われるもので、特にフリーメイソンのロッジがそれを進めました。

もしも、プロテスタントの革命が1517年に起こったとしたら、フリーメイソンのロッジは最初にロンドンで1717年に創立されたと言われます。これが、このフリーメイソンたちが計画したのは、キリストという名前をこの地上から消し去ろうとすることでした。そしてキリスト教の文明、そのイエズス・キリストのもたらした福音それをすべてこの地上から消し去ろうとするものでした。

それはなぜかというと、それはお金がすべてだからです。お金儲けのためであれば、その邪魔になるものは消さなければならない。そのために邪魔だったのが、イエズス・キリストの福音でした。聖書の教えでした。

日本はいったい、そんなプロテスタントの革命には関係なかったではないか、と思わないでください。カトリックの宣教師たちが、聖フランシスコ・ザビエルから始まって日本に来た時に、それを妨害したのは、プロテスタントのオランダでした。プロテスタントのイギリスでした。そして、プロテスタントの精神に従ってカトリックを日本から排除させようと、為政者に促しました。そして、お金さえ、貿易さえできればほかはそれでよいとしました。

プロテスタントから生まれた自由主義革命は、更にその革命の原理をおし進めました。その自由主義の原理は、自由・平等・博愛です。この原理をもっと突き進めたところが、ついには天主の存在さえも否定する共産革命、ボリシェヴィキ革命でした。ロシアで1917年に最初に起こりました。そしてこれは世界中に広まることになりました。

カトリック教会のもとでは、私たちは天主の愛する子どもたちであって、天主の生命に与る者、天使たちの次に最も高貴なものとして創造されました。
しかし、自由主義革命では消費者となり、そして、ボリシェヴィキ革命ではただの労働力・機械の一部と物質の一部になりさがりました。

いま最後に悪魔が仕掛けようとしているのは、カトリック教会のみならず、イエズス・キリストのみならず、天主への信仰のみならず、現実をも否定しようとするものです。

私たちが目の前に見ている現実にもとづいた社会をも破壊しようとするものです。男・女・子ども・家族・社会・国家・人間の生命など、これをまったく破壊しつくそう、人間は邪魔だ、地球の保全のために人間はいらないとする、これが悪魔の主張です。悪魔は、人間の世界に対して、天主の創造の業に対して、いま最後の戦いを挑んでいます。

私たちはいま目の覚める時が来ました。テレビやマスコミを鵜呑みにする時はもう終わりました。家族を破壊させるために自然の秩序に逆らうことを、いま法律によって、性教育によって、子どもたちに押しつけようとしています。ジェンダー理論というのがあります。思春期の子どもたちや幼い子どもたちが、男であるか女であるかわからなくなっている、そしてもう一生取り返しがつかない手術を受けることをしています。多くの子どもたちが健康な体を切断しています。社会はいま大混乱に突入しようとしています。これは日本ではそんなことはないと思わないでください。私たちは男か女かわからず、どこの国の人かわからず、何を食べていいかわからず、毒をあるいは害虫を食べさせられるかもしれません。そうすることによって私たちは地球を守ることができると…。それに対して私たちはいったいどうしたらよいのでしょうか。

悪魔や、あるいは人工知能やあるいは世界の権力を牛耳るような人たちが後ろに控えて、イエズス・キリストの教会や信仰や現実に対して戦いを挑んでいます。私たちはいったい何をすればよいでしょうか。

私たちには天主がついています。全能の御父、私たちを愛するために御子をお送りくださった天主三位一体がついています。また、私たちには私たちを愛する御母マリア様がついています。マリア様は私たちを決して見放したりはしません。私たちが見放さないかぎり、私たちが「いい」と言わないかぎり助けてくださいます。マリア様は最初に、すでに蛇の頭を砕くと約束された方です。聖母の勝利は既に予告されています。「私の汚れなき御心は凱旋するでしょう、大勝利をおさめるでしょう」。

私たちには、希望する多くの理由があります。いま全世界で、聖伝のミサにカトリックのミサに立ち返る人が、特に青少年が全世界で広がっています。

司教様たちが反対している、司教様が聖伝のミサをしてはいけないと言っている、司教様が禁止している、ローマが禁止している・・・それにもかかわらず全世界で青年たちが、司祭たちが、教会の閉ざされた門の前で聖ピオ十世会とかぎらずに、門の前でミサを捧げています。なぜかというと私たちは知っているからです。私たちがもしもこの世界の文明を守ることを望むならば、手段は唯一これしかないということがわかっているからです。それがカトリックのミサです。マリア様に対する信心です。

御聖体をもうこれ以上粗末に与ることはできない、サーカスのようなミサはもうこりごりだ、イエズス・キリストはもうこれ以上侮辱されてはならない・・・多くの人たちが、特に若い人たちが、世界中で目覚めています、これが広がっています。この動きをいま誰も止めることができません。司教様であろうが、フランシスコ教皇さまであろうが、誰も止めることができません。なぜかというと私たちの永遠のいのちが、カトリック教会にかかっているからです。私たちの将来の世代が、子供達の永遠のいのちが、カトリック教会の聖伝が存続するか否かにかかっているからです。

そのためにマリア様は私たちに最後の手段を下さいました。汚れなき御心に対する信心です。ですから今日私たちはこれを行っています。この信心は、私たちにとってこの世界の存続のために、日本の存続のために、カトリック教会の存続のために、霊魂の救いのために今一番求められているものです。

教皇様は、確かにロシアを全世界の司教様と奉献しました。その後でマリア様の望んでいることは、この全世界にこの汚れなき御心の信心が確立されることです。私たちは今日その確立のために、このミサを捧げています。

マリア様の汚れなき御心を慰めるために、このいま壊されようとする世界を守るために、御聖体を拝領なさってください。十五分の黙想を致しましょう。マリア様の汚れなき御心に、私たちがいつも馳せ寄るお恵みを請い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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