Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2019年5月19日(主日)復活後第4主日のミサ 聖霊はこの世に対して3つの事を教える、『罪』について、『正義』について、そして『裁き』について

2019年06月25日 | お説教・霊的講話
2019年5月19日(主日)復活後第4主日のミサ 大阪
小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年5月19日、主の御復活後第4主日のミサを捧げております。

今日もこの御ミサの後のいつもの感謝の祈りの後に、聖母行列があります。
今日は小さなお友達が来れなかったようなので、簡単なおやつはなしに、マリア様の聖母行列を行ないたいと思っています。

聖母行列の後、皆さんのお昼が終わった後に、アメリカでのシスター達にお見せした、簡単なミッションのスライドショーをお見せしたいと思っています。その他にも、いくつかのスライドを皆さんにお見せしたいなとも思っています。
その後で一緒に主日の晩課を唱えましょう。

明日は朝6時半からミサ聖祭があります
明後日の火曜日から、今週は毎日ミサがあります。夕方の18時からです。
土曜日はいつもの通り10時半ですが、来週の主日に夕方18時からミサがあります。


“Cantate Domino canticum novum, quia mirabilia fecit Dominus.”
「主に新しい歌を歌え。なぜなら主は、不思議な業を行なったから。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


愛する兄弟の皆さん、今日は主の御復活後第4主日で、公教会は既に、「主の復活された」という事から、「主が昇天されて、聖霊を私たちに送って下さる」という事の準備をさせようとしています。

そこで今日司祭が入場するやいなや、「主に新しい歌を歌おう」と歌います。
なぜかというと、新しい讃美の歌の理由は、「不思議な業を行なったからだ」と。

不思議な業とは何でしょうか?

聖霊の私たちに行なう業です。この世において、そしてカトリック教会において、主の真の教会において、そして私たちの霊魂において行なう不思議な業、「その為に私たちは、新しい歌を歌おう」とミサが始まりました。


⑴では教会の精神に従って、今日のミサで歌われている「不思議な業」について黙想してみます。

⑵その次に、特に私たちの霊魂に為される業を黙想して、

⑶次に最後に、では私たちは今日何をしたら良いのか?その遷善の決心を立てる事に致しましょう。


⑴第1に、教会はミサのテキストを以て、聖霊の真の働き、不思議な御業を説明します。

まず集祷文では、「私たちの、信徒の、信じる者の心を一つにまとめる。イエズス様が知られ、愛され、敬われ、そして私たちの霊魂が救われる、というその一つの事によって結ばれ、イエズス様が真の天主である、真の救い主である、イエズス様の教えにこそ救いがある、イエズス様の十字架にこそ私たちの命の復活がある、永遠の命がある、という事に、真理において一つにまとめる。」

ですから、「その聖霊の助けによって一つにまとまった私たちの心が、主が私たちに望む事を望ませる、約束された事を望ませるように」と願っています。

そして、「私たちがこの世の大海原、この世の色んな辛い事や悲しい事、事件だらけの大海原の中で、私が碇を天に上げて、イエズス様のいらっしゃる天にしっかりとくっ付いている事ができますように」と祈っています。これも聖霊の働きです。

聖パウロは聖霊の働きについて言います、「まず完璧な、最高の、最善の贈り物は、天からだ。つまり聖霊である。天主の賜物、聖霊である。私たちを光の子とする為に、光の天主から、光の聖父から来る」と言います。

「そして私たちを新たに生まれさせてくれる。私たちがいつも喜んでいる事ができるように、私たちの本当の幸せの為に、聖霊は私たちの心に、イエズス様の心を与えてくれる。」

「すると、この聖霊の働きによって私たちは、聞くに早く、熱心に、そして話すに遅く、そして怒るのも遅く、忍耐をもって、私たちが私たちの霊魂を救う事ができるものを受け入れる事ができるようにさせる。なぜかというと、人間の怒りには救いがないから。本当の正義は天主にある。本当の聖徳は天主から来る」と言っています。

私たちの中には、「きく」というとても美しい名前を持っている方がいらっしゃいますが、聖霊は私たちにこの事を促しています。

更にアレルヤ唱では、「天主の右の手は(つまり聖霊は)、私たちに勝利を与え、私たちを高める、私たちを導く、私たちを教える」と歌っています。

そうやって聖霊の働きについて準備をした後に、イエズス様が御口ずから、私たちに聖霊の事を言います、「私が、聖父の元に行く。そうする事をお前たちは今悲しんでいるけれども、お前たちにとっては良い事だ。なぜかというと、聖霊がお前たちに与えられる唯一の条件は、私が天の聖父の元に行く事であるから。しかし聖父と私はお前たちに、聖霊を送る、慰め主を送る。そして聖霊はこの世に対して、3つの事を教える、『罪』に対して、『正義』に対して義について、そして『裁き』について。」

「罪」というのは、「この世が、イエズス様を真の救い主として受け入れ、信じない事、イエズス・キリストの立てるその教会を受け入れない事」によって、この世は罪に定められています。

「義」について「正義」について、つまり「聖徳」についてとは、「唯一本当の聖徳、本物の聖なるもの、正義、義であるという事は、イエズス・キリストにのみある。その他にはあり得ない。なぜかというと、イエズス・キリストこそ、真の天主の聖子、天主聖父から遣わされた真の救い主、道・命・真理であるから。復活であるから。誰もイエズス・キリストの元を通らずには、天主聖父に行く事はできないから。イエズス・キリストこそ真の牧者、良き牧者であるから。」

そして聖霊は更に、イエズス・キリストにのみ正義、聖徳があるという事のみならず、「この世は、イエズス・キリストを受け入れない所は、滅びる裁きを既に受けている。イエズス・キリストを受け入れない所では、誤謬と、そして暗闇によって、どうしてもうまくいかない」と、「その事を聖霊が教えてくれる」と言います。

聖霊は、この世についてのみこれを教えるのではなくて、カトリック教会を通じても、それを教えます。教会の教導権を以てそれを教えます。不可謬の教導権を以て教えます。そして教会の、イエズス様の立てた秘跡について、秘跡を通して霊魂をこれを教えます。特に秘跡を通して、私たちの霊魂に働きかけます。

洗礼によって私たちは、聖霊の神殿となりました。

堅振を受ける事によって、イエズス・キリストの軍人となり、証人となりました。そして証し人となりました。

聖霊は、イエズス・キリストをマリア様の御胎内に宿す時に、イエズス様の御人性を造られましたが、それと同じく御聖体の聖変化にも、聖霊は働きかけます。御聖体はまさに、教会の中において、聖霊が働いて造られます。

あるいはイエズス様は復活の後に弟子に仰いました、「聖霊を受けよ。お前たちが赦す罪が全て赦され、赦されない罪は天国でも赦されない。」私たちが告解の秘跡を、悔悛の秘跡を受けるのも、聖霊の働きです。

こうやって私たちに聖霊は、秘跡を通しても、教会を通して働きかけようとします。そしてキリストの神秘体として一つにまとめようとします。


⑵では第2の点に、では私たちはどうしたら良いのでしょうか?この教会の精神に従って、聖霊を受ける準備をする、イエズス様の御昇天と聖霊降臨の準備を、どのようにしたら良いでしょうか?

あぁ、愛する兄弟の皆さん、聖霊は私たちの心に「来たい、来たい」と思っています。そしてイエズス様もその為に、秘跡を通じて聖霊を与えようとされました。教会の教えを通じて、聖霊の教える通りに、唯一の聖徳を、イエズス・キリストを与えようとしました。

しかし、時にはしばしば、非常に多くの場合、私たちの心は頑固で、聖霊を受け入れようとしません。聖霊からの導き、あるいは息吹を、促しを受け入れようとせず、耳を閉ざそうとしています。なぜかというと、私たちの罪の為です。私たちが「天主に仕える」と思いつつも、しかしイエズス様が御望みの、聖霊が御望みの通りに仕えるのではなくて、しばしば私たちの思いの通りに、天主こそが私に仕えるかのように思っているからです、行動してしまうからです。残念ながら。

残念ながら、シュテーリン神父様がよく仰る、例を挙げるのは、「例えば朝起きる時に、アラームの時に、スヌーズ機能を使う」と。「またちょっと後で、」「明日、」「後で、」「5分の後、後で、」「ちょっと待って、」あるいは、「これをやるけれども、でも自分のやりたいようにやる。」イエズス様の御望みのままにできない、罪の為にできない、自分の事でいっぱいだ、という事で、聖霊を受ける事ができないでいます。

私たちは熱くもなく、生ぬるく、そして優柔不断で、決心が付いていません。


⑶一体、私たちは最後に、どのようにではしたら良いでしょうか?聖霊を受ける為に、私たちはどのようにしたら良いでしょうか?

私たちにとって、このような惨めな弱い私たちにとって、イエズス様は聖霊のイコンを、聖霊の生ける生き写しを、私たちの母として下さいました。マリア様です。マリア様を通して、聖霊の浄配を通して、マリア様を通して、私たちに聖霊を送って下さるようにお祈り致しましょう。

私たちが受ける事ができない聖霊の息吹も、聖霊からの、「あぁ、そうだったのか。あぁ、こうすれば良かったのか。あぁ、今まで私は気が付かなかった。あぁ、そういう事だったのか。あぁ、聖霊の導きとはこうなのか。イエズス様の御望みはこうなのだ。私はこういう風にすれば良いのだ」という事が、今まで気が付かなかったような事も、私たちがもっと聖徳に前進する為に必要な事も、マリア様が私たちに取り次いで下さるはずです。

なぜかというと、マリア様こそが聖霊に、一切、「嫌だ!」「明日!」「ちょっと待って!」と仰らなかった方です。「はい。仰せの如く我になれかし。我は主の婢女なり。」いつもそう仰っていた方ですから、「御覧下さい、今、さあどうぞ。」

ですから今日特に、マリア様にお祈り致しましょう。私たちがマリア様に倣って、唯一の救い主である天主イエズス・キリストをますます愛する為に、聖霊の導きを充満に受ける事ができますように、更に私たちのみならず、自分のみならず、私たちの周りの方々、お友達や、仕事の同僚、この家の周りの隣人の方々、日本の全ての人々、世界中の全ての人々が、マリア様を通して、聖霊の導きを、光を、慰めを受ける事ができますように、そしてイエズス様を受ける事ができますように、特にこの今日の聖母行列でお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2019年5月2日(初木)秋田巡礼 聖マリアの七つの御悲しみの随意ミサ「多くの人々がマリア様を通してイエズス様と聖父に捧げられるのを待っている涙」

2019年06月25日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

2019年5月2日(初木)秋田巡礼 聖マリアの七つの御悲しみの随意ミサ
小野田神父 説教

「次に、弟子にこう言った、『汝の母を見よ』。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、巡礼者の皆さん、今日は秋田のマリア様を崇敬して、悲しみのマリア様の随意ミサを行なっています。9月15日のミサです。

今日この御ミサでは、マリア様の涙、その意味を黙想して、そして私たちに一体何を求められているか、という事を黙想しましょう。

そして最後に遷善の決心を立てましょう、この黙想会をどのように、この巡礼をどのように過ごしたら良いか、の決心を。

マリア様は、単なるイエズス様の信者の内の一人ではありません。天主の御旨によって特別に選ばれた、イエズス様と最も一致して、第二のエヴァとして、私たち人類の救いの為に、イエズス様と共に贖いの業を達成すべき選ばれた方です。

「第二のエヴァ」という事は、「私たちの、天主の御恵みの命において私たちを生み出す母となる、全て贖われた人々の母となる方」という意味です。その為に、私たちを贖う為に、イエズス様と共にマリア様は苦しみを受けました。

イエズス様は御血を流されましたけれども、マリア様は苦しみの涙を流されました。マリア様の苦しみは、贖いの、イエズス様と共に私たちを贖う苦しみでした。マリア様は十字架の下で、その贖いの業の意味をよくご存知でした。

そこで私たちの為に、救霊の、全人類の贖いの為に、イエズス様と共にそれを、自分の苦しみを捧げておられました。そこでそれを確認するかのようになった言葉が、「汝の子供を見よ。“Ecce filius tuus.”」聖ヨハネを通して、全ての人々はマリア様の子供として宣言されました。

そしてヨハネにも言いました、「汝の母を見よ。“Ecce mater tua.”」

聖ヨハネを通して、イエズス様は今でも十字架の上から、2000年前の十字架の声を、ミサを通して響かせています、「汝の母を見よ。」

マリア様は、私たちに超自然の命を与える本当の母となりました。ただ母親のような存在だけではありません。マリア様を通して、マリア様を母として、私たちは超自然の命に、天国に行く為の命が与えられました。

これがカトリックの教えです。「汝の母を見よ。」

ところで、マリア様は、この私たちがイエズス・キリストの贖いの業を無駄にしているのをご覧になって、イエズス・キリストの愛の御業が無にされているのを見て、同時に悲しみの涙を流されています。天使が最初にメッセージで、マリア様の涙の苦しみの意味を話した時に、その事を言及しました、「一人でも多くの人々が、マリア様を通して、イエズス様と聖父に捧げられるのを待っている。その為の涙だ。」

では、私たちは一体どのような事が要求されているのでしょうか?

私たちは、マリア様を母として、超自然の母としてこれを認めて、そしてイエズス様とマリア様がなさった御業の、贖いの業に協力する事です。

どうして協力したら良いでしょうか?

それは、「イエズス様とマリア様の苦しみに、私たちの苦しみを添えてマリア様を通して捧げる」事です。私たちの日常の生活の苦しみは全て、超自然の意味がある、という事を自覚して、それを捧げる事です。特に「多くの霊魂の回心の為に祈る」事です。それをマリア様が望んでおります。

「この世の人々は聖父を悲しませている。罪を以て悲しませている。もしもこれ以上罪が続くならば、罪の赦しが無くなってしまうだろう。私は御子と共に、聖父を慰める霊魂を、祈りと犠牲を以て慰める霊魂を求めている。」これが、マリア様が涙を流して訴える、私たちへの呼びかけです。

今日、5月2日は聖アタナシオの祝日でもあります。聖アタナシオはまさに、『アタナシオ信経』と言われる聖三位一体の信経を唱えた方でもあり、また「イエズス・キリストこそが真に天主の子である。天の聖父と同一実体である(この「実体」というのは「本質」という意味で、「天主聖父と同じ本質を持つ」という意味ですけれども)のである。聖父と聖子は全く同一の天主である」という事を、ニケア公会議の宣言を、信仰宣言を強く最後まで訴えた方です。

アレキサンドリアの司教であり、そして46年間、その司教をお持ちの間、30年間これの為に苦しみました。しかしこれによって、「イエズス様こそ、真の私たちの救い主である」という事の信仰を保った方です。

聖アタナシウスの御取り次ぎを願いましょう。私たちがイエズス様とマリア様の贖いの業に協力して、マリア様を通して、私たちの苦しみを捧げる事によって、祈りを捧げる事によって、多くの人が真の天主、天主聖父と同一の天主であるイエズス・キリストに導かれますように、この巡礼をお捧げ致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

「頭」と「心」の乖離をどうしたらいいのか?「教皇の不可謬の特権」についてどう考えるべきか?

2019年06月25日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

巡礼者の小道さんの「 「頭」と「心」の乖離をどうしたらいいのだろう?ーーデイブ・アームストロング師とテーラー・マーシャル師の論争を概観して」という記事を拝見しました。

巡礼者の小道さんは、デイブ・アームストロング師とテーラー・マーシャル師の意見の対立を、「頭」と「心」の乖離と表現しています。

つまり、「現代カトリック教会のありのままの姿の現実」と「その現実から目を背けたくなるような心」との対立です。

「マキャリック」「ビガーノ大司教の証言」「中国・バチカン暫定合意」という醜い情報と、それらの情報は「フェイク・ニュース」「虚偽」であるに違いないとしたい心情との断絶です。

「教皇の不可謬の特権」に反しているように見える現実に目を向けることと、「教皇は不可謬であるから、すべてが正しいはずである、正しくなければならない」という心の思い・理論との対立・乖離です。

アタナシウス・シュナイダー司教やビガーノ大司教やマーシャル師等は現実に目をつぶることが出来ずに発言した。
しかしそのような発言は、聖霊が、教導権を通し、教皇を通し、教会を正しく導かれるという大原則とどのように両立できるのか?
アームストロング師やB神父様のように、教皇フランシスコが何をしようとも何を言おうとも、教皇の教説の言うこと為すことはいかなることであれ全て正しい、と強く擁護することが理論上、正道ではないのか?
この現実と理論の間の乖離・相剋は、どう説明できるのか?
私の理解が正しければ、これが巡礼者の小道さんの疑問です。

これは、巡礼者の小道さんだけの疑問ではなく、多くの方々の疑問でもあります。

【第一の陣営】

アームストロング師やB神父様のように「心」の側に立つ第一の陣営の「保守派」の方々は、次の前提の上に立って主張しています。

■「真正なるカトリック教徒」であるためには、教皇の不可謬性を信じなければならない。それがゆえに、信仰をもって教導権および教皇の全ての教説の正しさを信じ、「地獄の門も打ち勝てない」教会の不可崩壊性(indefectibility)を信じなければならない。
教皇は不可謬だから、真の教皇によって認可されたこと(教皇の発言・主張・行動)は、必ず真理であり良いものでなければならない。

ところで、
■第二バチカン公会議以後の全ての教えや改革や革新的なことは、教皇によって認可されたことだ。

■だから、
「第二バチカン公会議は神の御心のうちに開催された会議であり、過去の公会議との完全なる連続性の内にあり、信頼に値するものである」と信じなければならない。

従って、
第二バチカン公会議の教えと実践は、ヨハネ二十三世からフランシスコに至る教皇らによって認可を受けたものである限り、必ず真理であり善でなければならない。

もしも教えや改革に問題がありうるとすれば、それは第二バチカン公会議の教えの正しい理解をしていなかったか、或いは、正しい適用をされていなかったからだ。


【第二の陣営】

ところで、ある一部の人々は、いわば「頭」の側のことを直視し、現実を見つめようとします。第二の陣営としましょう。【しかしこれはアタナシウス・シュナイダー司教やビガーノ大司教やマーシャル師等の立ち位置ではありません。念のため。かれらは第二の陣営と別の立場を取っています。


第二の陣営にいる人々は、アームストロング師やB神父様と同じ前提からスタートします。

■「真正なるカトリック教徒」であるために、教皇は不可謬性を信じるがゆえに、信仰をもって教導権および教皇の全ての教説の正しさを信じ、「地獄の門も打ち勝てない」教会の不可崩壊性(indefectibility)を信じなければならない。

教皇は不可謬だから、真の教皇によって認可されたこと(教皇の発言・主張・行動)は、全て必ず真理であり、全て必ず良いものでなければならない。

しかし、
■第二バチカン公会議以後の全ての教えや改革や革新的なことは、単なる「正しい理解をしていない」ことでもなく「正しい適用をされていない」ことでもない。第二バチカン公会議の教えのそれ自体に、必ずしも真理ではないこと・善ではないことが存在している。第二バチカン公会議の教えや改革には問題がある。

従って、
■間違っている第二バチカン公会議のようなものを認可した教皇らは、真の教皇ではあり得ない。

この陣営に属するような人々を、セデヴァカンティスト、教皇聖座空位主義者と呼んでいます。

教皇聖座空位主義者と呼ばれる人々によれば、真の教皇はピオ十二世が亡くなって(1958年)以降存在しない、とされます。つまり現在に至るまで、教皇聖座は空位だ、ということです。

【これら二つの陣営は、信仰に反する主張に陥っている】

しかし、この両者の結論は教会の危機に対する答えたろうとするものですが、両者とも信仰に反するものとなっています。

何故なら、「保守派」の結論は「第二バチカン公会議の教えそのものは良いものでなければならない」ですが、しかし実際は第二バチカン公会議の新しい教えや実践(たとえば、信教の自由、エキュメニズム、女性の侍者、諸宗教の共同の祈り)は、第二バチカン公会議以前には教導権によって排斥され、間違っていると断罪され続けてきたものだったからです。

何が「正統」か、何が「異端」か、どこまで「許される」か、どこまで「行き過ぎ」か、これらについてはカトリック教会が過去、不可謬の判断を下しています。私たちは、自分の意見ではなく、カトリック教会の不可謬の教えにそのまま従うまでです。

羊たちはみな、羊飼いを認めながら、羊飼いのやっている悪しきこと(教会が過去に断罪したこと)に従うことは出来ないのです。

また、「聖座空位論」の結論は「第二バチカン公会議以後の教皇らは真の教皇ではない」ですが、教会の本質的な特徴(教会の不可崩壊性(indefectibility)、使徒継承性、可視性など)を否定することになるからです。

【二つの陣営の誤りの原因】

この両者の立場における誤りの原因は、「教皇の不可謬性」のドグマを誤解しているところにあります。

教皇の不可謬性を正しく理解するなら、「真の教皇は、不可謬権を行使しようと特別に行動を起こす時、悪しき教えや実践を認可することが出来ない」となります。

何故なら、第一バチカン公会議によって規定された教皇の不可謬権の行使のためには条件が付けられていて、教皇の不可謬権とは教皇において恒常的に現実態において機能しているカリスマ(得能)ではないからです。

キリストが聖ペトロとその後継者らに与えた「誤りから守られるという」特権は、「地上でつなぐ、あるいは、地上で解く」時に機能するように与えられたからです。「地獄の門もこれに勝てないだろう。私は天の国の鍵をあなたに与えよう。あなたが地上でつなぐものはみな天でもつながれ、あなたが地上でとくものはみな、天でもとかれるだろう。」(マテオ16章)

アタナシウス・シュナイダー司教は、教皇の不可謬性を正しく理解されております。

ところで、いかなる教皇も過去50年にわたり不可謬権を行使しようとしませんでした。

第二バチカン公会議を開催し閉会した教皇らは、第二バチカン公会議を司牧公会議として、いかなる教義決定をもすることを避けました。従って、第二バチカン公会議は不可謬性を帯びることがない公会議となりました。

第二バチカン公会議のような公会議は以前にはありませんでした。つまり世界中の司教たちが教皇とともに集いながら、いかなる教義も定義しようとせず、誤謬を排斥しようともしなかった公会議です。

第二バチカン公会議の新しい教えや実践を含めて、教皇の全ての教えと実践とを、区別せずに、それら全てに不可謬性を拡張し延長しようとすることによって、二つの謬った態度が結果しました。

一方で、第二バチカン公会議の新しい教えと実践は悪であると考えることは出来ない、とする態度。

他方で、第二バチカン公会議の新しい教えと実践は、真の教皇に由来しない、とする立場です。

ところで、

(教皇が認可したことなので)第二バチカン公会議以後の新しい教え(エキュメニズム、プロテスタントと同じような典礼など)は全て正しく良いことに違いない、とする態度、あるいは

(第二バチカン公会議以後の新しい教え(エキュメニズム、プロテスタントと同じような典礼など)は間違っているので)それを認可するような教皇は本物の教皇ではない、とする態度、

それしかないのでしょうか?

私たちは、どう考えたら良いのでしょうか?

この問題の解決のために、ジョン・サルザとロバート・シスコウ共著の『教皇は本物か偽物か?』を推薦します。

TRUE OR FALSE POPE?
Refuting Sedevacantism and Other Modern Errors
By John Salza and Robert Siscoe



私たちは、教皇の不可謬性とは何かを正しく理解しなければなりません。

確かに、天主の御摂理が許可したことにより、天主の真の教会は今まで体験したことがなかったような苦しみを経験しています。キリストの神秘体の受難です。

ちょうど、聖金曜日に十字架の上で私たちの主イエズス・キリストが死の苦しみを受けたように、キリストの神秘体であるカトリック教会も流血の苦しみを受けその姿は変わり果ててしまいました。しかし、真の教会のまま残ります。

しかし、教皇座空位論を信奉する人々は、カトリック教会の傷を、癒やすために告発すると言うよりは、馬鹿にしあざ笑い不信を呼び起こさせるために告発します。

教皇座空位論者は「これが本当の教会ではあり得ない!」「天主が真の教会にこのようなことが起こることを許すわけがない!」と主張するために、告発します。


【いろいろある教皇座空位論】

教皇座空位論とは、1970年代に作られた新しい間違いです。しかし、教皇座空位論者らの間で、互いに理論がバラバラで(何故、いつ、どうやって教皇の職務を失うのか、など)、またその主張の内容(どの教皇から真の教皇ではないのか、など)もバラバラです。

ある教皇座空位論によると、公会議後の教皇らは、教皇となる前から異端者だったので、真の教皇ではない、とされます。

別の教皇座空位論は、公会議後の教皇らは、有効に教皇として選ばれて真の教皇たちだったけれども、公の異端を唱えることによって、教皇の職を失った、と主張します。

ある教皇座空位論によれば、異端の罪によって、教皇は自動的に教皇職を失う、とします。

他の教皇座空位論は、真の教皇は異端に陥ることがあり得ない、と言います。

ある教皇座空位論によると、公会議後の教皇らは「質料的に教皇」だった(法的に教皇職についているだけ)が「形相的な教皇」ではなかった(本物の実際の教皇ではなかった)とされます。

他方で、そうではなく、全く教皇でもなんでもなかった(「教皇コスプレ」)、と主張する教皇座空位論もあります。

ある教皇座空位論者は、パウロ六世は新しいミサを全世界に正式に公式に押しつけた、と主張しますが、そうではなかったと言う別の教皇座空位論者らもいます。

第二バチカン公会議後にできた新しい叙階の秘蹟、司祭叙階や司教聖別の典礼様式や形相は、無効だと主張する教皇座空位論者もいれば、それに同意しない論者もいます。

第二バチカン公会議を特別教導権による不可謬の行為だったと主張する教皇座空位論者もいれば、そうではなく、第二バチカン公会議は通常普遍教導権の力によって不可ビュうだった、とする教皇座空位論者もいます。

ある教皇座空位論者によると、最後の真の教皇はピオ十二世だったと信じています。別の教皇座空位論者は、1878年レオ十三世から「反教皇」が出た、と言います。

教会の不可崩壊性(indefectibility)を守るために、自分たちの「教皇」を「コンクラーベ」で選んだ教皇座空位論者らもいます。

【教皇座空位論者らの共通点】

互いに矛盾しているいろいろな教皇座空位論がありますが、教皇座空位論者らに共通していることは、だれが真の教皇でだれがそうでないかというのは、(教会の公式な判断に委ねるのではなく)カトリック信徒個人が自分で決めることだ、とする態度です。

何故このように違うのでしょうか?何故なら、教皇座空位論とは、プロテスタント主義(自由解釈・個人解釈)の誤りの基礎を持っているからです。

教皇座空位論には、主に3つの議論があります。

1)最近の教皇らは異端者だったので、真の教皇ではありえない。

2)第二バチカン公会議以降、教皇とされてきた人々は、真の教皇であればすることができないことを行ったので、真の教皇ではありえない。

3)パウロ六世によって認可された新しい司教聖別の典礼様式は無効である。従って、新しい典礼様式によって司教聖別された司教ら(ベネディクト十六世、フランシスコ)は、真の司教ではない。従って、彼らは真の教皇ではない、何故なら司教ではないものがローマ司教ではあり得ないからだ。

最初の「異端者なので」と、第三の「真の司教ではないので」という議論は、「何であるか」という存在の理由によって、教皇ではないと主張します。

第二の「真の教皇であればすることができないことを行ったので」という議論は、行動の理由によって真の教皇ではないと言います。

ジョン・サルザとロバート・シスコウ共著の『教皇は本物か偽物か?』TRUE OR FALSE POPE? Refuting Sedevacantism and Other Modern Errors by John Salza and Robert Siscoe は、この三つの議論に答えます。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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