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アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙 第12号 ― 無原罪の聖母、あなたは最も謙遜なお方です!

2016年04月30日 | M.I.(無原罪の聖...
アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙第12号

*** 無原罪の聖母、あなたは最も謙遜なお方です! ***


無原罪の聖母の騎士の皆さん!

今年の聖金曜日は3月25日ですから、天主の御摂理は、二つの最も偉大なる信仰の神秘を一つにして黙想することで、私たち自身を聖化する方法に私たちを導きたいと望んでおられます!

(通常は3月25日であるお告げの祝日の)ご托身の神秘を、主のご受難と一つにさせるものは何ですか?

 謙遜です!

両方の神秘において、私たちは屈辱のまったくの頂点を目の当たりにするのです。3月25日(お告げの日)に天主は人となられ、まるでほとんどとるに足りないものになることによって、ご自分を無にされました。天主の御母、天と地の元后は、ご自分を主の最も謙遜な奴隷としかお考えにならないのです。

聖金曜日には、御子と御母はお二人とも、邪悪で、「うじ虫で、人間ではな」く、人間に捨てられたもの、らい病者…のようにみなされるという最大の不名誉のうちに無となられました。

私たちがただしなければならないことは、謙遜において無原罪の聖母に従い、聖母に倣うことだけです。聖母はなぜ、すべての聖人の中で最も偉大な方になられたのでしょうか? それは、聖母の謙遜によってです! 謙遜によって、いとも聖なる童貞マリアは完全にご自分から離れられ、天主のものではないすべてのものをご自分からなくされました。聖母の霊魂は貧しく、自分の「所有する」ものは全く何もありません。金でできた貴いカリスのようです。貴い液体を満たすために、このカリスは空っぽで、ほんのわずかなほこりもないものでなければなりません。貴い液体は、他の何とも混ざることなく、その新鮮さが保たれなければなりません。

マリア様の人生は謙遜の行い、屈辱の連続です。その人生は、最も謙遜な霊魂のまま揺るぎがない状態です。しかし、前提として、聖母の謙遜と、他のすべての人々の謙遜との間に大きな差があることに注意すべきです。人々は第一に、原罪と多くの個人の罪を原因とする、自らのあらゆる悲惨な状態を見ることができます。彼らの霊魂の廃墟と化した宮殿のような屈辱的な光景が、その謙遜の主な原因です。

マリア様の謙遜は罪の意識によるものではなく、それはマリア様がいかなる罪も決して犯したことがないからです。マリア様の謙遜は愛の謙遜、天主の友情を受け入れた友の謙遜であって、マリア様は、この友情が完全に公平で純粋な賜物であり、まったく功徳によらない恩寵であることを知っておられます。ご自分に授けられた賜物の計り知れないほどの偉大さを知っている愛すべき浄配(聖母)は、全くの献身と自己否定の行いで応えられます。

この比類なき謙遜な霊魂は、天主の美しさを非常に喜ばれ、天主の偉大さ、天主の無限の完全さに非常に心を奪われておられるため、その望まれることは、天主が自由にマリア様に与えられるすべてのものについて、ただ天主を讃美することです。天主とは何か、天主がお与えになるのは何かを知れば知るほど、マリア様の謙遜は増していきます。ですから、マリア様はその賛歌「マグニフィカト」で、こう歌われます。「けだし全能にまします御者、われに大事をなし給いたればなり。聖なるかな、その御名」。

従って、マリア様の人生で起こることは、私たちの人生で起こることとは逆です。私たちは自分に徳や才能を見いだせば見いだすほど、そしてそれを伸ばせば伸ばすほど、すべては自分自身の力だと思う危険、自分自身を喜ぶ危険が大きくなります。観客の前で披露すること、他人を自分自身で喜ばせること、注目を集めること、賞賛されること―これらはすべて、私たちの人生に満ちあふれている古典的な高慢の例です。

マリア様は、ご自分の霊魂にある宝を知っておられましたが、そこにそれらの宝を置いたお方を忘れてはおられませんでした。しかし、私たちは、自分の才能や強さ、徳を自分の力だと考えます。賜物の与え主としての天主は、私たちの視界から消えているのです。私たちは、アヴィラの聖テレジアの賢明な言葉を忘れるのです。「謙遜は、天主の賜物を無視することにあるのではなく、その賜物がどこから来たのかを学ぶことにあるのです」。

マリア様の人生における特定の各出来事を考察すれば、私たちもまた、謙遜についてのさまざまな特性と表現を学べます。今特に、マリア様の秘密について黙想しているときに起こってくる問題を自問することは価値があります。すなわち、私たちは、これらの深遠な真理を生きる(実現する)のか? 人生における最高の誤りなき模範として私たちに与えられたマリア様に、私たちはどのようにして倣うのか?

まず(聖母の無原罪の御宿りとご出生の後)、私たちが見るのは、エルザレムの神殿にいる幼い子どもとしてのマリア様です。多くの教父や神学者によれば、聖母は「scientia infusa(天賦的知、すなわち天主によって注ぎ込まれた知)」を受けておられ、その存在のまさに最初の瞬間から、天主によってあらゆる知識を持つという特別な権限を与えられておられました。従ってマリア様は、聖書全体だけでなく、聖書の最も深い意味をも完全に知っておられました。

しかし、何年もの間、マリア様は、人々からその知識を隠しておられただけでなく、神殿の当局者によって育てられ、教育される間、辛抱強く服従されました。神殿の司祭がユダヤ教の決疑論についての授業をしたとき、マリア様は辛抱強く耳を傾けられました。マリア様はまた、律法学士の教えに耳を傾けられましたが、主イエズスは後に彼らを、文字にとらわれて霊を殺すと非難なさるのです。

次に例を示します。「いつ朝の祈りを始めるべきですか? 夜明けの、光が夜の青さに対して目立ち始めるときです。しかし、それはどの程度の青さですか? 山のような青さですか、それとも空のような青さですか? それに、どんな見え方ですか。穏やかですか、それとも鋭い感じですか?」。その教えを受ける生徒は、すべての解釈を知らなければならず、一人の師が一つの方法を教え、別の師が別の方法を教えたことを知らなければなりませんでした!

ですからマリア様は、ご自分が経験することをただ退屈に思ったり、それらに批判的になるあらゆる権利を持っておられました。それでもなお、マリア様は神殿の当局者に服従なさったままでした。謙遜のこの面はdocilitas(従順、服従)です。確かにこの時点で、マリア様は偉大で素晴らしいことを学ばれ、それをさらに大きな愛のために用いられました。その反対のことが私たちに起こります。私たちがいったん神学的知識を得れば、それが誰かによって繰り返されるのを聞いて、私たちはすぐに退屈だと意志表示します。私たちが誰かよりも多くを知っていると思う場合は、自分が優位にあるのを誇りとする感覚が私たちのうちに起こり、私たちは他の人たちに軽蔑を見せようとします。しかし、私たちはそのような状況からも利益を得ることができるのです。なぜなら、知識の10%だけでも私たちにとって新しいものである場合、あるいは私たちが知っている主題の新たな一面を発見した場合、私たちは天主にさらに近づくことができるからです。

また、天主の神秘は無限であり、謙遜な従順(docilitas)の行いに対して、天主はしばしば、何年もの真剣な研究で得ることができる以上のものを与えてくださいます。天主の霊感から、マリア様は貞潔の誓いを立てることによってご自分を天主に奉献なさいました。これは、童貞聖マリアの奉献の祝日として、典礼暦にあります。

神殿の当局者は童貞性に対して非常に否定的な態度をとっており、子のいない女性を天主によって呪われたものと見なしていました。それゆえに彼らは、結婚生活以外の、女性のまともな生き方を知りませんでした。当時、両親が子どもの結婚を決めましたから、女の子が神殿で奉仕するために送られたとき、神殿の当局者は親の責任を引き継ぎました。その時代の女の子は、結婚したいかどうか、また誰と結婚したいかについて尋ねられることはありませんでした。神殿の当局者は、女の子のためにただ夫を選んだだけでした。ですから、彼らはマリア様にそうしました。ダビド家のヨゼフをマリア様のために選んだのです。

マリア様が、ご自分の霊魂の状態について何も理解していなかった人々に対して逆らわないため、いかに多くの謙遜が必要であったのかは簡単に分かります。童貞のままでとどまりたいというご自分の意向に対して、ヨゼフがどのように反応するかという恐れを克服するため、どのくらいの忍耐と信頼が必要だったでしょうか。このような状況では、女の子たちは通常、心では逆らい、天主に不平を言い、天主に対してささやくものでした。

マリア様は謙遜な信頼を保ったままでした。謙遜であることの素晴らしい表現のひとつは、盲目的に神の御摂理を信頼することです。私たちが問題の解決法を見つけられないとき、すべてが失敗や悲惨な状態になろうとしているとき、すべてがもう失われたように思えるとき、資源を使い果たしてしまったとき、そして自分が無力だと体験したとき、混乱や心配をすることなく、詮索もすることなく、すべてを天主にお委ねし、辛抱強く待つべきです。これは謙遜の頂点です。謙遜であって自分の惨めさと無力さを知っている人は、一生懸命に天主のご意志を行おうとしますが、いつでもどこでも、何とかしてすべてを与えてくださる天主からすべてのものが与えられることを期待しています。

最も重要な瞬間であり、謙遜が最大に現れたのは、受胎告知です。その瞬間、すべてはただ謙遜だけしかありませんでした。偉大な天使ガブリエル(その名は「天主の力」を意味します)は、最大限の謙遜をもって少女の前で深くおじぎをしました。それから、マリア様の謙遜が示されました。そしてついに、謙遜の頂点、人間の肉・本性への天主のご托身がありました。

その決定的な瞬間に、マリア様の中で何が起きていたのでしょうか? マリア様は、天主の本質、天主の御稜威、天主の無限についての黙想に集中なさっていたのを、私たちは知っています。マリア様は、天主がすべてのものの絶対的な主であるという真理を熱愛なさいました。でも天使がマリア様の前に立ったとき、マリア様は深く心を動かされました。マリア様は天使の挨拶を聞いたとき、同様に心を動かされました。誰もそんな言葉を聞いたことはなかったのです! マリア様は、「聖寵充ち満てるマリア、主御身と共にまします。御身は女のうちにて祝せられた」という言葉が何を意味するのか、完全に理解されました。ですから、「これを聞いて心乱れ」られたということは、マリア様はこのような名誉の背後にある理由が分からず、すべての人々の中で最も小さい者であるご自分が、なぜそんな賜物を受けたのか理解できなかったということです。天使は話しました。そして、マリア様が最大の名誉、天主が被造物に授けることができる最高の賜物を受け取ったことが明らかになりました。マリア様は天主の御母となり、いとも聖なる三位一体への最も親密な命に導かれました。それに対するマリア様のお答えは何だったでしょうか? マリア様が最初に発した言葉はこうでした。「私は男を知りませんが、どうしてそうなるのですか?」。これが、天主のご意志を行うための、マリア様の唯一の心配事です。天主のご意志を行うことは、聖なる童貞性を天主に奉献することにあると、マリア様はあらかじめ理解しておられたからです。

そこで天主は、マリア様に夫として聖ヨゼフをお与えになることによって、マリア様の童貞性が守られることを厳粛に承認されました。この男性は、マリア様の童貞の誓いを尊重するだけでなく、まったく同じ理想を持っていたのです。従って、童貞の捧げものによって、マリア様は天主に完全に自分自身を捧げ、天主の御あわれみに限りなく自分自身を開くことができたのです。そして今、マリア様はメシアの御母になろうとしていました。自然の秩序では、これら二つの現実、つまり童貞であって同時に母であることはできませんから、マリア様は説明を求めて天使に尋ねました。すると天使は、預言者イザヤによって七百年前に予告された偉大な奇跡を説明しました。「見よ、おとめが身ごもる!」。天主には不可能なことは何もないという結論を目の前にして、マリア様は「フィアット(われになれかし)」を言われ、同意をお与えになりました。

非常に敬虔な、聖人のような人であっても、このような状況にあれば、天主がまさに自分をお選びになったという満足感を少し感じたかもしれません。次のように思うのは簡単でした。「このような名誉を与えられたことは何と素晴らしいことでしょう、他の人々に対して私はどんなに多くのよいことをすることができるのでしょう、私にこのような名誉を与えてくださるとは、なんとお優しい天主でいらっしゃるでしょうか」。ほんの少しでも自分自身に喜びを感じることがないというのは、そのような瞬間には困難なことです。では、マリア様は? マリア様は、すべての被造物の中で祝福され、人類で可能な最高の名誉を受けるよう選ばれましたが、それがすべての天主の賜物であることを完全に知っておられました。いと高き御者は御あわれみによって、マリア様の偉大な使命にもかかわらず、自分では何も持たないはしためであるマリア様の謙遜をご覧になりました。マリア様は、天主の創造のみわざによって、無からつくられました。マリア様は自分のものは何も持っておられませんでした。マリア様の中にあるすべての美しいもの、すべてが美しいと私たちが知っているものは、天主によって与えられました。天主の無限の御稜威と、マリア様自身の無限の無を考察して、マリア様は論理的な結論を引き出されます。「御身はすべて、われは無。御身はわれにおけるすべて。仰せのごとく、われになれかし。われは主のつかいめなり!」。私たちは知っています。この完全な信心が、そのお返しとして、失われた世界に救済をもたらす天主の本性からあふれ出る天主の愛の大海を動かしたことを。

一日三回、私たちは、お告げの祈りでこの神秘を思い起こします。三という数字は、充満、全体、不変、持続を表します。三度の祈りは、一日を通して私たちがいつもマリア様の謙遜に倣うべきであることを意味します。これにより、教会は、世界の救いのための受胎告知の重要性だけでなく、謙遜の徳の重要性をも強調するのです。この出来事で、謙遜が、その最も深い本質において、完全なる自己放棄、完全なる天主への信心、天主への回帰であることが示されています。マリア様のお答えがこれをなんとよく示していることでしょうか。Ecce ancilla Domini(ここに主のつかいめがおります)。この言葉には、人称代名詞の「私」はありません。人間の言語の中で最も大きな従順さを伝える言葉、つまりancilla―つかいめ、奴隷という言葉しかないのです! マリア様は常に最も謙遜で、天主の御前で自分を無とお考えだったのです。

お告げのとき、マリア様の謙遜は試され、最も過酷な試練を受けました。マリア様は、ご自分が地上にいるすべての人々に勝っているだけでなく、位階において、天のすべての天使より無限に勝っているというメッセージをお受けになりました。天と地の元后であり、天主を除いて、最高にして最も偉大で最も力あるお方…。実際、人がそんなメッセージを聞くと、めまいを感じますが、マリア様の場合は、それほど大きな名誉を与えられたにもかかわらず、平安のうちに、御自ら唯一聖にして偉大である天主とご自分の中におられる天主への静かな礼拝を育まれたのです。

マリア様の謙遜は、お告げの直後にも現れました。急いでザカリアとエリザベトの家へ行き、家事やささいな仕事を行い、こうして従姉を助けられたのです。

マリア様は、謙遜な人々、屈辱を受ける人々とさえも付き合いを求められました。そのような人々の中にいる時にのみ、マリア様は心安く感じられました。ザカリアとエリザベトは、律法の細則に正当性を見つけるのを誇りとしていたファリザイ人とは逆に、慈悲深い天主からの助けと救いを、天主の約束への信心と信頼を通して待っていた数少ない謙遜な人々の内に含まれる人たちでした。また、二人は世間から侮辱されていました。結婚していても子どもがいないことで、二人は天主によって罰せられ、天主に呪われているとさえ見なされていました。ザカリアがものをいうことができなくなり、天主への奉仕を終えてもおしであった時、それはこの呪いの明確な証拠であると村の人々は信じました。多くの人々は、それが彼の隠された罪に対する天主の罰であると信じたのです。そのため、彼らはザカリアを軽蔑しました。しかし、ザカリアはどんな言い訳もせず、書面または手話で説明することもしませんでした。

これもまた、謙遜の大きな現れです。私たちは皆、天主の御前では無ですから、謙遜な霊魂は、この真理を認める人々を好みます。また、地上では謙遜は常に屈辱を伴うため、謙遜な霊魂は屈辱を受け入れる人々に、特に甘んじて天主の御手で屈辱を受け入れる人々に引きつけられます。マリア様がザカリアとエリザベトの家を訪問なさったときに、心を開いて賛歌「マグニフィカト」を歌われたことは、この意味において理解すべきです。

謙遜のもう一つの側面は、最も重要なこと、つまり天主の御あわれみについて、無である私たちを満たそうと望まれる天主の聖心の偉大さについて思い起こすことです。しかし、天主はこのことを謙遜な霊魂にだけ行おうと望まれます。賛歌「マグニフィカト」は非常に複合的な祈りであって、全能である御者を讃美する新たな方法を継続的に探し求めずにいられない謙遜な霊魂の状態を伝えています。

謙遜のもう一つの側面は苦しみです。謙遜の行いそのもの(これは天主の方に向かおうとする霊魂の状態です)は、多くの場合、他の被造物に関して苦しむことにつながります。謙遜な霊魂が天主の聖心の偉大さの前に自分自身を開くと、天主はその霊魂に天主の無限の神秘を与え給うのです。この神秘は無限ですから、その霊魂は自分の心に起きていることを他人に語ることはできないか、また時には語ってはならないのです。その霊魂の最も親しい友人たちでさえ、そのときにはもはやその霊魂を理解することはできません。友人たちは、このために苦しみ、その霊魂も苦しみます。彼らは誤解され、あるいは拒否さえされたように感じ、引き下がり、そして古い友情と親密さが次第に消えていき、なくなってしまうかもしれません。

マリア様が身ごもったと知ったときの聖ヨゼフの苦しみは、この意味において理解すべきです。聖ヨゼフには、愛する人のもとを去り、自分は引き下がり、最愛の人の周辺から消える以外の可能性を見いだせませんでした。消える覚悟をするということは、自分が無であると認める行いでした! この覚悟はまた、聖ヨゼフが圧倒された御稜威をお持ちである天主の神秘的なやり方や命令に直面した際の謙遜の行いでもありました。

しかし、天主は常に謙遜の行いに報いられます。必要であれば、天主は奇跡を使ってでもそれをなさいます! そして、謙遜な霊魂は、天主を喜びにおいて信頼するだけでなく、苦しみにおいても信頼するのです。最後に、この世では謙遜は事実上、常に屈辱と結び付いています。堕落した被造物である私たちの場合は、屈辱なくして謙遜の徳を得ることは不可能です。マリア様は、原罪のけがれから守られていたという異なった状況でしたが、この点においても謙遜の模範となるために、私たちに比べ無限に大きくかつ多数の屈辱を自発的に受け入れられました。証明され、試された謙遜のみが真実のものです。「あなたがたのための部屋はない」という言葉がベトレヘムで発せられた瞬間から、マリア様は御子の屈辱にあずかられました。御子は御体においてその屈辱に耐えられる一方、マリア様は御心においてその屈辱を受けておられました。粗末な洞窟の中で天主の御子を生むという屈辱、逃亡者である屈辱、言葉で表せないほどのエジプトでの流浪の屈辱、ナザレトでの貧困の屈辱(その有力な証拠はロレトの家です!)、マリア様ご自身が悪しき人々の御子に対する敵意が増えていくのを経験された、イエズス・キリストの公生活の間の数多くの屈辱など。

キリストが全くの肉体的な無へと向かわれたとき、このすべてが屈辱の頂点にまで至りました。その瞬間、マリア様は、霊的に無となられ、十字架の下に立ち、そこで動かずにお立ちになったままでした。マリア様は、この最も過酷な試練に置かれたとき、引き下がることなく、動揺することなく、ためらうことなく、不平を言うことなく、逆らうことのない謙遜を示されました! それ以上に、これは、最も高貴な特性を示すことを完全に放棄した人の謙遜でした。

御子のためだけに生きておられるマリア様は、御子の代わりに、私たちをご自分の子どもとして受け入れられました! 最も聖なるお方の代わりに、マリア様は罪びとを受け入れられ、天主の愛の代わりに、マリア様は私たちの冷たさと無関心を受け入れられ、美の代わりに、怪物のような醜さを受け入れられました。そしてマリア様は、心をこめて天主のご意志を受け入れられました! 見よ、謙遜の頂点を!

これらの考察の助けによって、特にこの四旬節という聖なる期間に考察することによって、インマクラータの謙遜で悲しみに満ちた御心の中に入ることができ、私たちも心が謙遜になるように助けてくださるよう聖母に願うことができますように! そうすれば、槍にて貫かれたる主の聖心から流れ出る恩寵が、豊かに私たちを満たし、聖化し、変容させてくださるのです!

ジェネラル・サントスにて、2016年2月14日

カール・シュテーリン神父

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(ファチマに向けて この手紙は、ここまでですでに非常に長いため、皆さんは1917年5月13日の出来事に関連する別の手紙を3月の初めに受け取ることになります)

シュテーリン神父のすべての手紙は、ウェブサイトの Publication/Letters の階層にあります

聖伝のM.I.(Militia Immaculatae 無原罪の聖母の騎士会)についてのまとめ

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