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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

主は、真によみがえり給えり。 ーなぜ御復活されたか、その4つの理由ー

2016年04月09日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年3月27日 御復活の主日に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) 

2016年3月27日 復活祭のミサ
小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心巡回教会にようこそ。今日は2016年3月27日、私たちの主イエズス・キリストの御復活の主日です。明日この同じ場所で、朝の6時30分から復活の月曜のミサがあります。
同じ今週の金曜日、4月1日、初金曜日ですが、御復活の金曜日のミサがやはり、ここのコロナホテルで、土曜日、初土曜日4月2日にも、このミサがあります。どうぞいらして下さい。この4月は、4月の初金・初土のみならず、第2主日にはレネー神父様が、第3主日の前の金・土と、17・18日とミサがあります。どうぞ皆さんのお越しを歓迎致します。

「主は、真によみがえり給えり」
 
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

親愛なる兄弟の皆さん、まず私たちの主イエズス・キリストの御復活のお慶びを心から申し上げます。今日は私たちにとって、大きな喜びと、感謝と、礼拝と、讃美の日であります。

このいとも聖なる復活のこの大祝日に於いて、私たちは心も体も、2000年前のエルサレムに、弟子たちのいた所に心を向けて、一緒に、そこで何が起こったのか、歴史的にどんな事実が起こったのかを黙想する事に致しましょう。この復活の前後に於いて、弟子たちの態度は大変化した、全く変わってしまった、という事実をもう一度確認する事に致しましょう。それで、何故イエズス様はそのようなご復活をなさったのか、その理由は何なのかを簡単に黙想した後に、私たちにとってこの復活祭を機会に、一体何が求められているのか、私たちは一体何をしなければならないのか、どのようにこれから生活をすべきなのか、という事を黙想して、良い遷善の決心を立てる事にしましょう。

では今日、復活祭に於いて、一体何が弟子たちに於いて起こったのでしょうか?今日は皆さん、刑事コロンボになって、或いはシャーロック・ホームズになって、この謎を解いて下さい。

今日から3日前、聖金曜日には、私たちの主イエズス・キリストは、その親愛の弟子たちから裏切られました。

まず特別に選んで、特別に教育した12人の弟子の内の、使徒の内の1人が、お金の為に、私たちの主、自分の師匠を売り飛ばします、奴隷の値で売り飛ばします。

選ばれた弟子の中で特別に愛されたペトロは、使徒たちの頭として選ばれておりながらも、イエズス様を3回否みます。その直前まで、「私は、イエズス様の為なら死んでも良い。投獄も恐れない、監獄にも行く、」と言いながら、イエズス様を、女性の夫人の言葉に恐れて、女奴隷の召使いの言葉に恐れて、「私は知らない。誓って言う、知らない、関係ない!」とさえも言います。

弟子たちは全て逃げ去りました。イエズス様から色々な善を受けて、奇跡を受けて治癒をされた人々も、皆、イエズス様の元にはいません。

数日前、1週間前は、「イエズス様、万歳!王様万歳!」と言った全エルサレムは、聖金曜日に、「十字架に付けろ!いなくなってしまえ!」と騒いでいたではないですか。多くの人々から嘲りを受け、捨てられ、奴隷でしか受ける事が出来ない、ローマ市民には与えられていなかった、「十字架」という極刑を、大罪人として受けました。

もしかしたら弟子たちは、イエズス様についてきれいな、こんな思い出を残している、或いは、「イエズス様はこんなきれいな御言葉を仰った」と思い出していたかもしれません。しかし、そんな甘っちょろい思い出が一体何の役に立ったでしょうか。全周りは、イエズス様に全て反対しています。

当局はイエズス様を死に渡しましたから、弟子たちも遂には、もしも不穏な動きをすれば投獄され、或いは処刑されるに決まっています。その機会を狙っていました。弟子たちは恐れて、隠れて、自分の家にいました。窓を閉じて、ひっそりと息を潜めていました。

婦人たちは、イエズス様が亡くなったという事で、しかし安息日の為に時間がなかったので、十分な埋葬の儀式ができなかった、だから今朝、朝早く起きて、まだ夜明けに、「お墓の方に行って、早く埋葬の準備をしよう」と思っていました。3人の女性でした。最もイエズス様に忠実で、十字架の下に立ち留まった、極少ない3人でした。マリア・マグダレナ、ヤコボのマリア、サロメでした。この3人はしかし、朝行きながら、「どうやって、でもあんな大きな入り口にあった石を退かす事ができるだろうか?私たち女の力ではとても無理だ。一体誰に頼もうか。」という話をしていたのです。

ユダヤ人たちは、「どうせ弟子たちが来て、もしかしたら墓に入って、キリストの遺体を盗むかもしれない、復活したと言うかもしれない」という事で、そこで頑丈な完璧なガードをローマ兵をつけて、堅く固めて、誰もその墓に触れる事がないように警備していました。

ローマ兵にとってこれは冗談ではありません。もしもそのようなこの命令が遂行されない場合には、彼らには死刑が待っていました。命を懸けてこの墓を守らなければなりませんでした。おそらくユダヤ当局も、多くの金を渡して、「ローマ兵士よ、じゃあしっかりやれ。」と言ったに違いありません。

ところが、その婦人たちが朝行ってみると、入り口にあった巨大な岩が動いて、墓が開いているのではないですか。墓の中に入ってみると、空っぽではないですか。墓の中には天使が座っていて、「あぁ、あなたたちはイエズス・キリスト探しているけれども、ここにはいない。復活した。『ガリレアに行く』と言った通りになっている。さぁ、その事を弟子たちに言いなさい、ペトロに言いなさい。」

婦人たちは、狐につままれたような思いで、ペトロの、弟子たちのいる所に行くのです。コンコンコン、コンコンコン、「起きて下さい、おはようございます。お墓に行ってきました。」弟子たちはうるさそうな顔をして、「もしかしたらユダヤ当局が後ろにいるかもしれないから注意しろ。」と言っていたかもしれません。「これはもしかしたらスパイかもしれない、デマカセかもしれない。」「イエズス様は復活されました。天使を見ました。お墓は空っぽです。」聖書によると、弟子たちは信じなかったとあります。あまりにも話が唐突で、何の話をしているのか信じなかった。しかしそれでも、ペトロとヨハネは行って墓をチェックします。確かに墓は空でした。

ところで、この墓が、お墓が空だったという事実のその直後に、弟子たちは別の事実を体験します、事実に直面します。それは、復活されたイエズス様が壁を通して、或いはいきなり現れて、多くの人々に、多くの方法で、40日間現れ続けたという事です。イエズス様が現れた時に、御自分が本当に肉体を持っている、という事を証明しようとして、それを信じさせようとして、「さぁ、触ってみろ。」弟子たちは最初、幽霊を見ていると思っていました。驚いて、一体何の事か分かりませんでした。しかし、「さぁ、幽霊には肉があるか?触ってみろ。食べ物はあるか?幽霊は食べ物は食べない。」話をして、イエズス様が生前そのされた通りの話をして、そのまさにイエズス・キリスト御自身である、という事を証明するのです。

イエズス様は決して、傷だらけで、もう息絶え絶えで、何か墓から一生懸命出てきた、という様でありませんでした。光り輝いて、神々しく、力強く、弟子たちを説得しようとして、「私は本当に復活したんだ、天主の力で、自分の力で蘇ったのだ」という事を証します。

色々な場所に現れて、奇跡的な漁をさせたり、或いは聖書を説明したり、エンマウスの弟子たちには、最初は自分の姿と分からないように現れながらも、聖書を説明して、「あぁ、イエズス・キリストだ」と分からせました。

聖パウロにも現れました。聖パウロはキリスト教徒を迫害しようとして、ダマスコに行く途中で現れて、イエズス・キリストを見て変わりました。聖パウロはその手紙の中に書いています、「復活されたイエズス様は、たくさんの人に現れた、500人の人々にも同時に現れた事もある。最後には、私のような月足らずに生まれてきた様な者にも現れた。もしも疑うなら、今生きている人がたくさんいるから聞いてみろ。イエズス・キリストが本当に復活した事に会った方がいるから聞いてみろ。」と挑戦します。

見て下さい。今まで恐れていたガリレアの田舎の貧しい漁夫が、魚を捕る事しか、捕ってそれで生活していた、方言を話していた、勉強も大学にも学校にも行った事がないようなおじさんがやって来て、ユダヤの首都のエルサレムの、律法学士、ファリザイ人、その博士たちの前に、堂々と、「イエズス・キリストは復活された。」と宣言し出すのです。何者も恐れずに、今度は死さえも、殉教さえも、投獄さえも、迫害さえも、何も恐れずに、「イエズス・キリストは本当に復活した。私はそれを見た。それを触った、話した。これは本当だ。イエズス・キリストは真の救い主だ、真の天主だ。」と言い出すのです。

見て下さい。ユダヤ人たちはこの彼らに、何も反対する事ができませんでした。もしも彼らが嘘をついているという事を知っていたならば、「何だ、イエズス・キリストの死体ならここにあるぞ。」或いは、「イエズス・キリストのこれはこうだ、お前たち嘘を言っているだろう。」「お前、これは彼が嘘を言っていると言ったぞ。」

そういう事は1つもありませんでした。ただユダヤ人たちがやる事ができたのは、「キリストの名前によって話す事を厳命する!いいか、話すな!」だけでした。何故かというと、イエズス・キリストが復活して、弟子たちに現れて、多くの人たちに現れた、という事は、もう否定する事ができない事実だったからです。お墓が空になって、ローマ兵が警備していたにもかかわらず空っぽになってしまったというのは、もう否定する事ができない事実だったからです。

イエズス・キリストというのは、歴史的な事実として、現実として、今から2000年前に本当に復活されたのです。御自分の力で、肉体を持って、もう一度生きて、私たちの弟子たちの前に現れたのです。ですからこそ、弟子たちの態度は、今日を境にガラリと変わってしまいました。イエズス・キリストの復活を直接見た弟子たちは、「確かに、イエズス・キリストこそ真の天主だ。これ以外にない唯一の天主である。」という事をはっきりと悟ったのです、分かったのです、それを知ったのです。

このイエズス・キリストのこの復活を、是非こう他の人に言おうと、死さえも、迫害さえも恐れなくなったのです。もしも嘘をついていたとしたら、一体彼らの利益というのは、嘘の為の利益というのは何だったのでしょうか?大体嘘つくというのは、何かの利益の為にしますが、彼らに待っていたのは、死と、投獄と、残酷な迫害、それだけでした。「イエズス・キリストが復活した」という事を言って、一体何の利益があったでしょうか?彼らは、「真の天主、イエズス・キリストが復活した」という事を見たので、これをどうしても否定する事ができなかったのです。たとえ死んだとしても、その復活を否定する事はできなかったのです。たとえイエズス・キリストを否定して、信仰を否んだ人がいたとしても、「復活しなかった」とは、それは事実は否定する事はできなかったのです。

愛する兄弟の皆さん、この復活という事実に於いて、ローマ帝国は今まで、異邦の神々を、ジュピテルとかアポロンとかを拝んでいた、神々を拝んでいたローマ帝国は、キリスト教を信じる、キリスト教を国家の宗教とする国に変わりました。ヨーロッパ文明は、キリストのこの復活に基づいて成立しました。

この「イエズス・キリストの復活」という歴史的な事実に基づいて、多くの人々が、何百万と人々が殉教しました。何百万という人たちが今後、聖なる生活を送りました。嘘や、偽りや、罪を、汚れを捨てて、今後はイエズス・キリストのように、正しく、真実に、正義に、清く、貞潔に、真面目に生きようと変わりました。

そればかりでありません。多くの宣教師たちが全世界に派遣されて、イエズス・キリストが真に復活した、というそのキリスト教文明を、キリスト教信仰を立てようとしています。

もしもイエズス・キリストが復活されずに、カトリック教会が2000年続いてきたとしたら、或いは多くの人々が殉教したとしたら、或いは多くの人々が聖人になったとしたら、これほど大きな奇跡はありません。復活よりも大きな奇跡です。

ではこのような事実を見ると、イエズス・キリストが確かに、本当に、真に、否定する事ができない事実として、肉体を持って、私たちの前に復活してよみがえられた、という事が確実に分かります。

では一体何の為に、イエズス様は復活されたのでしょうか?4つ理由があります。公教要理によれば、4つ理由があります。

1つは、天主聖父は、イエズス・キリストに正義を与えようとしたからです。イエズス・キリストは死に至るまで、十字架の死に至るまで従順でした。ですから、イエズス様は復活の栄光に至らなければなりませんでした。

イエズス様は復活の初穂としてよみがえりました。確かにイエズス様の前に復活された人もいます。しかしその後死ななければなりませんでした。イエズス様の復活は全く違う、次元の違うものです。なぜならば、もはやイエズス様には、死も、苦しみも支配しない、永遠の命に至る復活だったからです。栄光の復活だからです。

第2は、私たちの信仰を強く固める為です。「確かに、イエズス・キリストが天主である」という事を私たちが深く確信する為に、その復活の予言と、その予言の成就をして下さいました。聖書にある通り、イエズス様は御死去をされ、復活されました、3日目に。私たちの信仰を固める為です。私たちがどんな事があっても、この復活を疑う事がない為です。

第3には、私たちの希望を養う為です。イエズス様が復活されたのは、私たちにイエズス様がなされたのと全く同じ復活を与える為でした。わたしたちの究極の目的は復活であるという事を教える為でした。私たちはこの短い地上の為に生きているのでありません。復活の子供として、復活の命を生きる為に、今、短い数年の命を今ここで生きています。究極は、イエズス様のなさったと同じ復活に至る事です。頭がしたと同じ栄光に、神秘体の肢体である私たちも与る事です。

 
第4には、イエズス様の救いと贖いの玄義を完成させる為でした。

では、今日この復活の日に、確かにイエズス様が肉体を持って復活された、という事を知った私たちは、再確認した私たちは、一体どのような決心を立てなければならないでしょうか?2つを提案したいと思います。

それは、私たちも使徒たちに倣って、復活の前と後では生活が変わるべきだという事です。イエズス様はもはや墓にはいない。私たちはイエズス様と共に罪に死に、罪に於いて葬られ、イエズス・キリストと共に天主の命に、洗礼を受けた時に復活した者です。ですから今後は、イエズス様のおられる天に心を向けて、天の事を求めなければなりません。この地上、短い地上での事ではなく、天上の究極の目的を常に頭に置かなければなりません。私たちの究極の行き先は復活である、といつも思い巡らしていなければなりません。イエズス様がなさった復活を、私たちも目指さなければなりません。

第2は、その目指す道です。私たちは、イエズス様がお通りになったその全く同じ、王の道を通らなければなりません。イエズス様はこの道を通らずには復活しませんでした。エンマウスの弟子たちにもイエズス様は言いました、「おぉ、何と愚かな者よ、まだ分からないのか。キリストは苦しみを受けて、栄光を受けるべきではなかったのか。」イエズス様の通った道は十字架の道であって、すなわち苦しみの道であって、罪の償いの道であって、これを通して初めて復活にと至りました。イエズス様は私たちに招いておられます、「もしも私の弟子になりたいならば、己が十字架とって私に従え。」「十字架の道こそ、唯一、復活に至る道である。」と私たちに教えて下さっています。

ですから愛する兄弟のみなさん、私たちはイエズス様の為に罪を避け、罪の機会を避け、新しい種なしパンとして、新しい衣を着てイエズス・キリストを着て、真実に、誠実に、イエズス・キリストを愛するが為に、イエズス・キリストの愛に愛を以て、私たちの日常の義務と、日常の務めを、祈りを以て、イエズス様に従って復活に至るまで、歩みを進める事に致しましょう。

マリア様は、決して御復活の信仰に対してひとつも揺らぐ事なく、イエズス様が必ず復活されると確信し、信じて、その信仰を捨てる事がありませんでした。そのマリア様の御取り次ぎを乞い求めて、私たちもマリア様に倣って、イエズス様の復活を決して夢忘れる事なくいつも信じ、マリア様の御助けによって、イエズス様の後を、十字架を慕う事ができますように。遂には、マリア様と共に、天国の永遠の復活の命に入る事ができますように。私たちのみならず、私たちの隣人や、家族の方々、お友達、多くの、日本に住む多くの方々が、イエズス様の復活の命に与る事ができますように、今日のミサをお捧げ致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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