Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

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カトリックの祈りと仏教の「黙想」との大きな違いについて 聖ピオ十世会 レネー神父様講話

2015年11月11日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 いかがお過ごしでしょうか。レネー神父様がマニラにおられ、私が秘跡についての公教要理の試験を学生たちにしなければならないという話をすると、幼きイエズスの聖テレジアが11才の時に受けた公教要理のテストの話になりました。聖テレジアは、その他はすべて完璧な答えをすることができたのですが、一つだけ答えられなかった問題があったそうです。その質問とは、「モーゼの義理の父親の名前は何か?」でした。

 愛する兄弟姉妹の皆様には、この答えがわかりますか? コメント欄に書き込んでくださいね。

 さて、レネー神父様が、10月25日の王たるキリストの祝日に大阪でしてくださった、聖伝のミサの後の講話、カトリックの祈りと仏教の「黙想」には天と地ほどの違いがあることについて、をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2015年10月25日 レネー神父様説教(勉強用)



 カトリックの黙想と仏教の黙想との違い


 親愛なる兄弟の皆さん、

 ある日、「イエズスはある所で祈っておられた。それが終わったとき弟子の一人が、『主よ、ヨハネが弟子に教えたように、私たちにも祈りを教えてください』と言った」(ルカ11章1節)。そこで主は彼らに「天にまします」を教えられました。さて皆さんは、仏教徒もまた「黙想する」と主張していることを非常によくご存知でしょう。また最近、あるオーストラリアの信者が私に、オーストラリアの仏教団体からの情報を送ってきて、助言を求めてきました。その仏教団体の資料を研究したのち、明らかな結論が出ました。カトリックの祈りと仏教の「黙想」には天と地ほどの違いがあります!

 「天にまします」は子の父に対する祈りです。そもそもの最初から、祈りとはこのように人間のペルソナと天主の一つのペルソナとの間の関係です。このペルソナ的(人格を持った対話可能)な天主は、ご自分の子についてすべてを知っておられ、父親のうちで最もよい父親として子のことを気にかけておられます。カトリックの信仰は、天主が至高の知性、究極の霊的実在であり、よってこのようにペルソナを持っていると認めます。天主は、創造に浸透していく目に見えないエネルギーではなく、被造物と区別できないあいまいな実在でもありません。天主は、天主だけが「自分自身によって存在する」という事実そのものから、すべての被造物と明確に区別されます。つまり、自分自身で存在する自己充足の存在なのです。天主が存在を受けたのではなく、天主が自分で存在を持っておられます。天主は至高の存在です。すべての被造物は自分自身で存在できず、自分自身の存在をすべて天主から受けたのです。被造物は「他者によって存在する」、つまり、他者からその存在を受けた、他者に依存した存在なのです。

 仏教徒はペルソナを持つ天主を信じていません。霊魂の霊的性質を信じてさえいません。彼らの哲学は感覚と知性をはっきりとは区別しません。(これが、彼らが菜食主義者である理由です。彼らは、まるで人間とけだものに全く違いがないかのように、「感覚を持つすべての存在」を同じカテゴリーに置いているからです。)このため仏教徒にとっては、天主とペルソナとしての関係を結ぶことができないのです。天主がペルソナとして存在していることを信じてさえいないのです!彼らは、実在の背後にあいまいなエネルギーがあると考えており、そんなあいまいなエネルギーと関係を結ぼうと努力しているのです。これは、これから見ていくように、非常に危険なことです。

 まことの天主は創造主であり、被造物に見られるあらゆる善性の源ですから、天主がそのような善性を持っておられなかったとしたら、それを被造物にお与えになることはできなかったでしょうし、また、天主はお与えになった善性を失われなかったのですから、私たちはすべての被造物の持つ善性を至高の水準で天主の内に見るのです。被造物は、至高の善性の小さくて限定された複製物にすぎないのです。そのため、天主は最高位の知識と意志を持っておられなければなりません。天主は私たちが祈りで言うことをご存じであり、私たちを気にかけてくださいます。ですから、詩篇作者は無知な者を次のように非難します。「民の中の愚か者よ、悟れ、痴れ者はいつ正気に戻るのか。耳を植えた者が聞かず、目を造った者が見ないと思うのか」(詩篇93章8-9節)。天主は私たちが祈っていることを知るために耳を必要とはされません。天主は、私たちが祈る前からそれをご存じだったのです!

 私たちのことをすべてご存じである天主、全能の天主という概念が、仏教徒にはありません。彼らは天主の御摂理を信じておらず、盲目の宿命を信じています。祈りが天にまします愛する御父から何かを「獲得する」ことができると信じておらず、あたかも黙想の目的が単に体内のホルモンやほかの化学物質を刺激することだけであるかのように、黙想の実りに関する唯物論的な説明がある、と考えているにすぎません(この「オーストラリア仏教至福センター」によれば!)。

 でも、言葉を使った祈りであっても単なる黙祷であっても、私たちが天主に祈るのはよいことです。祈りがよいことであるのは、それが天主をたたえることであり、私たちの知性の最もよい使い方であり、その知性を知られうる限りの至高の対象へ向け、「天主に心を上げること」であるからです。実際、聖トマス・アクィナスの教えによると、祈りは本質的に、天主に向けられる知性の行いです。あらゆる会話が知性の行いであるように、祈りは天主との会話であり、私たちが行ううちで最高の会話なのです!ここから、まことの祈りは人間の地上における最高の活動であると、私たちは疑いなく言うことができます。最高の能力(知性)の活動が最高の対象(天主)に向けられるからです。しかし、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、天主の子が、主が教えてくださったように天の御父に語りかけるのは難しくないのです。

 仏教徒にとってはまったく逆で、黙想は「何も考えない」ようにする努力を要求されます。はい、実際これが、このオーストラリア仏教センターの「黙想コース25番」にはっきりと書かれています!これは、祈りに関する聖トマス・アクィナスの教えである「知性の行い」の正反対です…。

 仏教徒は、霊魂の力を止めるよう努め、できるだけ静寂の状態を保ち、「何も考えない」ようにします。すると何が起こるでしょうか?彼らは最後には、感覚にすべての注意を払うようになるのです。彼らは次のようにはっきりと言っています。「あなたは行ったり来たりする思いや感覚、感情を知ります」。そして、何も考えないようにすべきであるので、「感覚と感情」だけが残るのです。カトリック教会の教えによると、徳は「正しい理性」(賢慮の徳)によって「感覚と感情」を制御することです。しかし、仏教徒は理性の活動を拒絶することによって、この制御をなくすのです。

 カトリックの黙想の主な対象は、「道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章6節)私たちの主イエズス・キリストです。実際、会話は双方向です。私たちは天主に対して考えを表し、天主の考えを聞きます。しかし、天主は私たちにどのようにして語られるのでしょうか?人は自分の「感覚と感情」を信頼できますか?できるはずがありません。そのような欺きを避けるために、天主は啓示によって人間に客観的に語られました。聖パウロがヘブライ人に向かって言います。「天主は、何度もいろいろな方法で、その昔預言者を通じて先祖に語られたが、この終わりの日々には子を通じて語られた」(ヘブライ1章1-2節)。私たちの主イエズス・キリストのみ言葉を聞くとき、人は天主のみ言葉を聞くのです。しばしば私たちは、このみ言葉の真理の深さを理解していません。私たちは、童貞聖マリアの例に従って、黙想する必要があります。福音書は言います。「マリアは注意深くそのことを心にとどめて考え続けた」(ルカ2章19節)。聖母は本当に、カトリックの黙想の模範です。ですから、「何も考えない」のとは全く違います。それどころか、カトリックの黙想は、私たちの主イエズス・キリストの真理に考えを巡らし、それで心を満たすのです。

 反対に仏教徒の黙想は、真理へ注意を向ける考えを意識的、精神的に制御することを拒絶します。順序立てて考えることを拒絶し、「多くの考え(ばらばらの思いや考え)が出てきても、それらを考えるのではなく、やり過ごす」ようにするのです。その目的は「実在についての概念的でない体験」に到達することです。そして、彼らはこれこそ真理だと主張するのです!

 これは間違いなく大きな欺きです。実際、真理の定義は「知性と現実の一致」です。もし知性の活動を台無しにして、「概念的でない体験(知性で把握できない体験)」を探し求めれば、そこには真理も、知性と実在の一致もありえません。彼らの言うように「考える過程を置き去りにすること」によって、真理を発見することは不可能です。これは非科学的の最たるものです。考えることを拒否したならば、結果に到達したり、実在についての真の知識に到達したりする科学者などいるはずもありません!科学の偉大なる進歩は西洋文明の実りであり、キリスト教が知性の活動を評価したことに基づくのであって、仏教の「何も考えない」という概念に基づくのではないことは驚くにはあたりません。仏教徒はこのようなやり方で何に到達したのでしょうか?彼らは言います。「あなたに残るのは自覚だけです。さあ、体験しましょう、存在が制限を受けない状態を。考えを超えて、内容を超えて、普遍的で、限界を超えた存在を」。

 この「体験」は、近代主義者の神である「内在」の実り、例えば「感覚と感情」によく似ています。しかし、明確に順序立てて考えることを拒絶すれば、「悪霊」(エフェゾ6章12節)に対する防御のない状態に置かれてしまうということを考えなければなりません。この悪霊は、術にたけた詐欺師であり、その欺きを増加させるために楽しい感情を与えるのが大変上手なのです。まことに、「異邦人の神々はすべてむなしいもの」(詩編95章5節)なのです。

 カトリックの黙想では、より低い能力、つまり感覚の活動、特に想像力の活動をなくそうと意識的に努力しますが、これは、より高い能力である知性の活動を促進させるためであり、知性を天主に、天主の属性に集中させ、特に「永遠の光明の反映であり、天主の行いの、曇りなき鏡」(知恵7章26節)である私たちの主イエズス・キリストに知性を集中させるためです。黙想の実りは聖パウロによって美しく描写されています。「私たちはみな覆いを顔に垂れず、鏡に映すように主の光栄を映し、霊なる主によってますます光栄を増すその同じ姿に変わる」(コリント後書3章18節)。天主の御子と同じ姿に変わること、これが聖パウロがローマ人に教えた予定説の成就です。「天主は御子の姿にかたどらせようと予定された」(ローマ8章29節)。また、エフェゾ人にはこう言いました。「天主は創造以前から私たちを選び、愛によってご自分のみ前に聖である者、けがれない者とするために予定された」(エフェゾ1章4節)。これが、カトリックの黙想の実りなのです!

 このように、本当の祈りは天主との会話です。祈りは、天主との友人関係という驚くべき行いであり、そこにキリスト教徒の生活全体があり、そこでは常に私たちのそばにいてくださる天主という友人に注意を向けます。なぜなら天主は、被造物とは違って、どこにでもおられるのですから。天主は純粋な霊です。天主は、ある場所に体があるというようにある場所におられるのではありません。霊は、それが活動するところにいます。天主は存在するすべてのものを支え、どこででも活動されていますから、どこにでもおられます。しかし、天主を愛する人々の霊魂には、非常に特別な天主の現存、友人としての現存があります。なぜなら、天主は彼らの霊魂においては、成聖の恩寵と愛徳を彼らに注ぎ込むという非常に特別な方法で活動されるからです。「私たちに与えられた聖霊によって、この心に天主の愛が注がれた」(ローマ5章5節)。祈りと黙想は心を開き、この愛徳の流出、聖霊の流出を受けるように霊魂を開くのです!

 祈りとは、絶え間のないカトリック信者の活動です。実際、私たちの主イエズス・キリストは言われました。「うまずたゆまず祈れ」(ルカ18章1節)、また「いつも警戒し、そして祈れ」(ルカ21章36節)。さらに聖パウロは言います。「すべての祈りと願いをもって心のうちでいつも祈れ。たえず目を覚して、忍耐づよく、すべての聖徒のために祈れ」(エフェゾ6章18節)。聖ヨハネ・ボスコは、「絶え間なく天主に心を上げていた」と言われています。幼きイエズスの聖テレジアなら、天主のことをはっきりと考えないまま3分以上過ごすことはなかったでしょう。人は愛するとき、愛する者のことを考えます!愛するお方が私たちと一緒に目の前におられて、私たちに注意を払ってくださっているとき、これはますますそうでしょう。実際、天主はいつも私たちをご覧になっており、私たちを愛しておられるのですから。

 しかし、特に祈りのために捧げる特別な時間を用意しておくのはよいことです。祈りと黙想に集中したこの時間が一日中続けば、愛する人々には重荷ではない天主の法に忠実であるのに必要な恩寵を得るでしょう。すべての祈りの中で、教会が特別に勧めるのは聖なるロザリオです。現在では昔よりさらにロザリオが必要になっています。特に、レパントの海戦のときのように、童貞聖マリアだけが打ち破ることのできるイスラムが力を持ちつつある現在では。

 しかし、この地上での最高の祈りは、ミサのいとも聖なるいけにえです。私たちはミサで、地上からいとも聖なる三位一体に捧げられた愛・礼拝・すべての徳による偉大なるわざ、すなわち私たちの主イエズス・キリストの十字架上のいけにえに自分を一致させるのです。これが「偉大な祈り」です。自分のすべてを天主に奉献することであり、私たちの主イエズス・キリストに私たちを合わせるようにしてくれる変容の祈り、主が「私の肉を食べ私の血を飲む者は私に宿り、私もまたその者のうちに宿る」(ヨハネ6章57節)と言われたように、私たちを同じ天主の似姿に変容させてくれる祈りです。「天主は愛である。愛を持つ者は天主にとどまり、天主は彼にとどまられる」(ヨハネ第一4章16節)。

 善き主が、仏教によって欺かれてきた人々を解放し、彼らを愛する御子に導き、本当の信仰、カトリックの信仰によって、彼らが本当の祈りとは何か、本当の黙想とは何かを見つけることができるよう祈りましょう。それは、顔と顔を合わせて天主を見るようになる永遠の命のための準備であり先取りなのです。

 これについて、聖ヨハネは言います。「考えよ、天主の子と称されるほど、御父から計りがたい愛を受けたことを。私たちは天主の子である。この世が私たちを認めないのは御父を認めないからである。愛する者たちよ、私たちはいま天主の子である。後にどうなるかはまだ示されていないが、それが示されるとき、私たちは天主に似た者になることを知っている。私たちは天主をそのまま見るであろうから。主が清いお方であるように、主に対するこの希望を持つ者は清くなる」(ヨハネ第一3章1-3節)。

 この10月に、祈りの模範、特に十字架の下で祈りの模範を示された童貞聖マリアが、どう祈ればよいか私たちに教えてくださいますように。アーメン。

聖アルフォンソ・デ・リグオリによる【臨終の苦悶と死去について】の黙想

2015年11月11日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

「死者の月」の黙想のご提案をいたします。

聖アルフォンソ・デ・リグオリによる【臨終の苦悶と死去について】の黙想をどうぞ。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【臨終の苦悶と死去について】の黙想

 その1

 冷や汗が額に噴出す、目は眩み、脈拍は弱まり、手足は凍えてさながら死体のようになる。臨終の苦悶は遂に襲ってきた。彼の運命の時は瞬く間に迫ったのである。苦しい息は次第に細り、死期の近い兆候が現れた。司祭は祝別済みの蝋燭を病人の手に握らせ、臨終の祈りを始める。ああくすしきともし火よ、今私の心を照らせ。為したる悪事に薬をつける暇の無い時になっては、汝の光も格別益にはなるまいから・・・。

 この物悲しい蝋燭の光に照らされたら、世間の儚さ、罪の重い憎たらしさなどが手に取るように明らかに見えるであろう。

 遂に彼は行き絶えた。その最後の一息こそ彼にとってはこの世の終わりで、永遠の始まりだ。幸の永遠か、禍の永遠かは、実にこの一息によって定まるのである。

 主よ、私を憐れみ給え。私の罪を赦し給え。私を堅く主に結びつけて、滅びの不幸に陥らせることなかれ。

 いよいよ息絶えたと見るや、司祭は跪いて「天主の聖人は来たりて彼を助け、天使は出でて彼を迎え・・・」と唱え、彼のために安息を祈る。

 主と和解して死んだなら安息を得るに違いないが、万一、聖寵を失ったまま死ぬようなことでもあれば、それこそ可哀想なことで、天主が天主でまします限り、彼は安息できないであろう。

 主よ、私はこれまで幾度となく世の儚い楽しみに引かれて主の愛も聖寵も振捨てた。もしその時に私の命を取り上げておられたら私はいかなる不幸に泣かなければならなかったであろうか。御憐れみの程を深く感謝し、死ぬまで忠実にお仕えすることを決心し奉る。

 その2

 死ぬと間も無く訃報があちらこちらに伝えられる。聞く人々は思い思いに噂をする。「彼は正直は正直だったが、どうもあまり熱心ではなかったね」と言う者があるかと思うと、「彼は救霊を得たでしょうかねぇ」と言う者もいる。親兄弟は悲しみを忘れようとして、なるべく彼について語らないようにする。やがて彼は棺桶に入れられて墓に送られてしまう。

 さてさて今まで社交界の華と言われていた彼も、今や誰一人思い出してくれる者すらいない。その名を出すことさえ遠慮して差し控えるようになった。彼の部屋を訪ねても彼は影も形も見えない。彼の家具、彼の財産は残らず人手に渡ってしまった。そして彼は今どこにいる? 肉体は墓の中に、霊魂は永遠の世界に。

 彼を見たければ墓穴を掘って中を覗くがいい。以前のすこやかな肉体、元気な顔つき、喜びの色が溢れる彼ではなくて、もはやまったく腐敗した肉の塊がある。豊かな頬も、朱の唇も蛆虫は容赦なく食い尽くしてしまった。余すところは白骨ばかり。それすら時を経ると頭は首と、手足は胴と離れ離れになって、完全なものは一つも残らない。見よ!主に背くことがどれほどのことだとのたまっていたその体の成れの果てを。

 ああ天国の聖人達よ、現世で肉体を責め懲らしめられた貴方達はどんなに賢かったことか! 今や貴方達の遺骨は祭壇の上に安置され、霊魂は限りなき栄光を帯び、主を目の当たりに眺めつつ公審判の暁を待ち望む。かつてこの世の苦しみを共にした肉体と再び合体して、永遠無窮に天国の栄光を楽しむべき公審判の暁を待ち給うのである。

 主よ、私も聖人達に倣い、今のうちに肉体を懲らしめて我が罪を償い、主を一心に愛し、後に天国において、聖人達と共に、いつまでも、いつまでも主を賛美し奉りたい。何とぞ御憐れみを垂れて私を顧み給え。私の罪を赦し給え。

 その3

 私が今永遠の世界に在るものとすれば、主の為に何をしていたらよかったのに!と思うだろうか。

 聖カミロはしばしば墓穴を覗き、一人自ら嘆息して「この人が蘇って、再び世に出ることが許されるなら、終わりなき命の為に、どんな努力でも厭わないであろう。それなのに今私は何をしているのだ?」と言って奮い立たれた。私は永遠の為に今まで何をしたであろうか?

 死んだ上では幾ら望んだところで一分間の命すら与えられない。しかし私にはいまだ充分な月日が残っている。今これを何のために用いねばならぬ? いたずらに世の栄華、快楽を漁りまわっていてよいのだろうか? そうやって天国の為に何の備えもしていない間に、突然「現世を去れ」という命令を受けたらどうするつもりなのであろうか?

 主よ、私は憎んでも足りない恩知らずではあるが、しかし御憐れみを垂れて私を顧み給え。他の人は暗闇の中で罪を犯したけれど、私は真昼間に主に背き奉った。罪を犯せばいかなる辱めを主に加えることになるのか重々承知しながら、聖寵の光も、主の御勧めも踏みにじり、散々悪事を働いた。しかし主よ、「願わくば我が恐れとなり給わざれ。主は禍の日に我が避難所にまします」(エレミア17-17)。しかり、イエズスよ、主は私の唯一の避難所にましませば、臨終の苦悶の時、私の恐れとなり給わず、かえって何よりの信頼となりたまえ。

 ああ聖母よ、私はひとえに御憐れみに縋り奉る。アーメン。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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