Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

エレイソン・コメンツ「間違った議論 Arguing awry」へのフランソワ・レネー神父の回答

2015年08月20日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 フランソワ・レネー神父様が、エレイソン・コメンツ「間違った議論 Arguing awry」へ次のように回答しているので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。

 ウィリアムソン司教は、現在のローマ当局者たちの新近代主義(neo-modernism)は腐敗の極みに達し、程度の差はあれ、全ての司教、枢機卿らは全く腐敗しきっているので、積極的に彼らを全て避けなければならない、ローマが第二バチカン公会議を完全に棄てるまで、一切コンタクトを取ってはならない、彼らは背教者どもだ、背教のローマが聖ピオ十世会を認めることは出来ない、と主張します。

 しかし、レネー神父様は、それは間違っている、何故なら、カトリックの最も基本原則にあるように「教会内の悪人たち──あるいは彼らは知られていないか、あるいは彼らは、平和の一致の目的のために善人たちによって黙認されている──は、その悪に同意しない善い人々に害を及ぼすことはあり得ない」からだ、と明確に説明します。

 ルフェーブル大司教様は、パウロ六世が第二バチカン公会議を発布し、新しいミサを作った後でも、コンタクトを取り続けました。ヨハネ・パウロ二世によって、新教会法典が発布され、アシジのエキュメニカル集会が行われた後にも、コンタクトを取り続けました。

 聖ピオ十世会は、不当な立場に追いやられています。その悪を是正することは善です。聖伝を代表する聖ピオ十世会こそ、ローマによってはっきりとその正統性を宣言されなければならない存在だからです。カトリック教会は、その2000年の過去と自らの聖伝とを、自分のものであると宣言しなければならないからです。これ以上、過去と断絶しよう、聖伝と断絶しようとすることは出来ないからです。

 聖ピオ十世会が公式な立場を持つことを望まない人々が存在します。一つは、カトリック教会の過去を憎む人々、近代主義者、カトリック教会を改革させようとする人々です。もう一つは「レジスタンス」と自称する人々です。

 ウィリアムソン司教が、these Roman officials, appointees perhaps, apostates certainly (拝命者かもしれないが、確かに背教者である、これらローマからの聖職者ら)と呼ぶ一人に、たとえば、シュナイダー司教様(Bishop Athanasius Schneider)がいます。何故なら、シュナイダー司教様は、教皇様からの拝命を受け、聖ピオ十世会の二つの神学校を訪問したからです。

 ところで、ウィリアムソン司教が、カスパール枢機卿などと同じレベルに見ているシュナイダー司教様は、カトリック教会の聖伝の信仰についてそれを取り戻そうと努力しています。たとえば来るローマでの家族についてのシノドゥスについて聖伝のために闘おうとしています

 シュナイダー司教様は、聖ピオ十世会は第二バチカン公会議を受け入れなくとも、ルフェーブル大司教様が要求していたように聖ピオ十世会の今あるままをそのままに完全な裁治権を与えるべきだ、さもなければ、カトリック教会はその信憑性(credibility)を失い、歴史は将来現在の教会当局を批難するだろう(the history will one day reproach to the ecclesiastical authorities of our days)と言っています。

 シュナイダー司教様は、聖ピオ十世会が何かをするべきだと言うのではありません。ただ、聖ピオ十世会が正当な地位をもっていないように取り扱われているのは、正当な理由がない、聖ピオ十世会が正当な地位をもっていると言うことを宣言するのはローマの義務であり、責任であり、それが必要である、と言うのです。さもなければ「使徒達のやっていた司牧方法に反する」と言うのです。シュナイダー司教様は、もう聖ピオ十世会を妨害するのを止めるときが来た、もしそれをし続けるなら、カトリック教会こそが信憑性を失う、と警告しています。

 このようなカトリック的な主張をする勇気のある司教を、十把一絡げに「背教者」だと断罪することは現実的ではありません。

 次の文章は、レネー神父様が韓国の信徒から質問を受けてお答えになったものです。既に日本語に訳されていましたが、黙想会その他の仕事で時間が取ることが出来ずブログにアップすることが出来ないでいました。今、少し時間が取れて、ようやくご紹介することが出来るようになりました。では、レネー神父様の文書をお読み下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

エレイソン・コメンツ「間違った議論 Arguing awry」へのフランソワ・レネー神父の回答

原文はこちら

いくつもの間違った原則

 今回に限り、ウィリアムソン司教は自身の執筆するエレイソン・コメンツの中で正しい疑問を提示しています。が、間違った原則から始めたために、彼は間違った結論に達しています。

 正しい疑問とは、聖ピオ十世会は自らの教会法的状況を正しくさせるために、ローマ当局者たちと話し合いをするべきかどうか、という正にそのものです。

 この状況は異常ですが、聖ピオ十世会の側に過ちはありません。なぜなら、ルフェーブル大司教の聖伝の信仰と典礼への忠実が原因で、大司教はイレギュラーな状況へと追いやられ、"主流から外され"、不当にも離教であると糾弾されさえしました。1975年、大司教は、あるいはこの戦いから手を引いて神学校を閉鎖し叙階式の執行を断念するか、従ってご自分が受け取ったものを伝えるのをやめるか、あるいは現代主義者たちの激しい怒りと制裁措置を被るか、いずれかの選択を迫られました。この制裁措置の数々は教会法に反していました。なぜならこの制裁措置の根底になったものは、マミー司教による聖ピオ十世会の廃止であり、従って間違いなく教会法に反しているものだからです。ルフェーブル大司教の二つの不服申し立ては、回答もないまま闇に葬られました。この起訴は状況をそのままにとどめる「停止」の効果があるので、聖ピオ十世会は見かけ上非合法であっても、現実には合法的に存続しています。

1988年には同じジレンマがありました。すなわち、大司教様が受け取ったものを伝えていくのをやめるか、いかなる地元の権威を持たない異国人であるにも関わらず、救う必要のある霊魂たちを保護した善きサマリア人の模範に倣うこと、のどちらかを迫られました。これこそ、いつの日か正される必要のある見かけ上の非合法性です。

いや、正されることは善いことです。教会内における秩序はすぐれた善であるからです。そして無秩序のままとどまることは── 一方がそれに対する責任がないとはいえ──正されなければならない悪です。

 この問題こそが、ウィリアムソン司教の反逆のまさに中心なのです。実際のところ、この問題に関する不一致が両者の間になかったならば、ウィリアムソン司教はこれほど多くの間違った非難 [1] をフェレー司教に浴びせかけることはなかったはずです(2013年のウィリアムソン司教による聖ピオ十世会会員への公開書簡に対する私の公開回答を参照のこと)。

 ウィリアムソン司教が軽視した最初の原則、これは聖アウグスティノによって教えられたことです。「教会内の悪人たち──あるいは彼らは知られていないか、あるいは彼らは、平和の一致の目的のために善人たちによって黙認されている──は、その悪に同意しない善い人々に害を及ぼすことはあり得ない」[2] と。

 二年以上前、私は聖アウグスティノのこの原則をすでに指摘し、こう説明しました。「聖アウグスチノの原則を理解するためには、カルメル神父様がたびたび喚起させていた「教会のかしらはキリストであり、教皇はキリストの代理者にすぎない」という偉大な真理を忘れてはなりません。

教会のメンバーたちとの交わりは、まず第一にキリストとの交わりであるがために、善い人々は悪に同意しない限り害を被ることはありません。そして、ある人々は、キリストが教会のかしらであることを忘れてしまい、教会の人間的側面だけに注意を払い、キリストの教会で万事を支配されるイエズスの聖心を忘れ、この交わりをとても恐れています。彼らの苦々しい熱心──ルフェーブル大司教様の精神とは正反対の──は、このイエズスの聖心を軽視していると告白しています。彼らのために祈りましょう」 [3]

 ウィリアムソン司教は次のように書いて、これを「論駁」したつもりになっています。
「腐敗した教会の役人たちの堕落からは、霊的生命を引き出すことは決してできない」と。

 このような非難には欠陥があるとわからない人がいるでしょうか。つまり、霊的生命を与えることのできるのは、腐敗した教会の役人たちの堕落であるなどと誰も主張しておらず、堕落において彼らに従いたいなどとは誰も思っていない、ということです。聖アウグスティノはその反対に、堕落に同意しないことを主張しています! そうではなくその反対に、彼らが使徒の後継者たちである限りにおいて──そして堕落している限りにおいてではなく──彼らとの交わりの中にいることが不可欠だ、と言っています。

 しかし、ウィリアムソン司教が、彼らのことを使徒たちの後継者であると言及している箇所はどこにも見当たりません。結果、司教の結論が間違っていることを驚くにはあたりません。フェレー司教と聖ピオ十世会全体が、教義において一切の妥協なく、ふさわしい関係と教会法上の立場にあることを望んでいるのは、明白に、使徒らの後継者としてのカトリック教会の高位聖職者たちとのことであって、堕落したものとしての彼らとのことではありません。

 そして教会の交わり、教会との一致は、副次的なものでも選択自由な善でもありません。それどころか、救霊のために不可欠な善です。なぜなら「教会の外に救いなし」であり、従って──私たちは自分たちの異常な状況について責任がないとはいえ──これを修正するために、教会の善のために、働くことは善であり不可欠なのです。

 聖アウグスティノの原則は、ここで、このような堕落した高位聖職者の人々とのカトリック教会における交わりは、その堕落に同意しない善人たちに害を与えない、ということを保証しています。

 明らかに、聖アウグスティノが教えたことをウィリアムソン司教は信じていません。司教は実際こう書いています。カトリック信者は絶対的なやり方で「積極的にこのような高位聖職者たちを避けなければならない」と。これは確かに、事実上、教皇聖座空位論者(セデヴァカンティスト)の態度です。実際、あらゆるコンタクトを実際に避けるならば、どうやって現実的に交わりの中にいるのでしょうか?

 もちろん、信者はこのような[堕落した]司祭たちからの直接の接触から守られるべきであり、司祭たちもこのような長上たちから守られるべきです。が、いかなるレベルでも一切のコンタクトを断つならば、まことの交わりはどうやって可能なのでしょうか? ウィリアムソン司教は理論上は教皇を認めていますが、実際には教皇といかなるコンタクトを取ることも望んでいません。ウィリアムソン司教のこの態度に、リベラル主義者たちのやり方を認めることができます。リベラル派は、カトリックの命題を認めていますが、実際には、それとまったく反対の仮説に従うからです。

 同様に、彼は権威の有益性を理論上認めていますが、実際にはあらゆる権威を、自分の上にも下にも拒絶しています! 権威の拒絶はリベラル派の特徴です。ウィリアムソン司教はフェレー司教を批判する前に善き良心の究明をするべきであり、己を正すべきです。私たちはこのために祈ります。

 ルフェーブル大司教がなさったことを、ウィリアムソン司教はフェレー司教にしてもらいたくありません。事実、ルフェーブル大司教はローマ当局者たちと会うことを決して拒絶しませんでした。彼らが要求するたびに、ルフェーブル大司教は聖伝を促進するために──聖ピオ十世会の教会法上の状況のために働くことを含む──ローマに赴きました。もし1988年5月5日のプロトコル(議定書)を受諾したためにルフェーブル大司教が自分は「行き過ぎた」と言ったとしても、ルフェーブル大司教は、試してみること、承認を獲得するために議論することは、良くなかった、などとは決しておっしゃいませんでした。まったくの反対です! 大司教は、ローマとの接触が三年以内に再開することを期待すらしていました。コンタクトは12年後に開始されました。そして、少なくとも私たちは、フェレー司教が早すぎたのではない、フェレー司教は時間をたっぷり使った、と言うことが出来ます。

 ウィリアムソン司教は「ローマの司教たちに聖ピオ十世会の神学校を訪問することを許した」ことを非難しています。司教一人一人の区別をすることもせず、まるで彼らが全員カスパー枢機卿と同じくらいの近代主義者であるかのようにです。これには事実、トミスト的(=聖トマス・アクィナスによる神学的)な現実主義が大いに欠落しています! ですが、ウィリアムソン司教が、2012年12月に「いろいろな『教会』」と題したエレイソン・コメンツ281号で明らかにした、基本的に間違ったこの原則のもとに、彼の言説が存在しています。

「眼に見える教会の、この一部分だけが、聖なる、一なる、カトリックの、使徒継承の教会です。残りは腐敗している種々のその他いろいろです」と。

 別の言い方をすれば、カトリック教会とは腐ったりんごの(小さな)健全な一部分であり、ローマから派遣されたこの司教たちは腐った部分に属しているため、彼らはカトリックではない、ということです。

 ここに基本的に誤った原則、深刻な誤謬が存在します。これがウィリアムソン司教の、そしていわゆる「レジスタンス」の神学全体と現実の行為を蝕んでいるのです。「眼に見える教会の健全な一部分として存在するカトリック教会」という原則です。これは私が新カタリ派と呼ぶ原則です。カトリック教会を眼に見える一部分、少なくとも彼らの信仰において、潔白な部分に縮小してしまうのです(確かに、彼らは自分たちの道徳においてはこのようには主張していません)。これは現実的にカトリック教会を眼に見えるものではない状態にしてしまいます。なぜなら健全な部分と腐った部分との境界の線引きをすることは不可能だからです。従ってこの説は教会が眼に見えるものであるということを否定します。ウィリアムソン司教は現実的に自分たち以外の人々、彼が腐敗していると呼ぶ人々との交わりを拒絶し、この残りの部分はカトリック教会ではないと考えることで自らを正当化しています。

 ですが、ウィリアムソン司教には次のことがわからないのでしょうか? つまり、現在の状況下でウィリアムソン司教は、教皇のいない──彼によれば現在の教皇は腐った残りの部分にいるのであり、健全な部分にいるのではないのですから──「小さな教会 (Petite Eglise)」に結論としてたどり着いていることが。
こうしてウィリアムソン司教は──これと反対のことをいくつもいくつも主張しているにも関わらず──少なくとも事実上、教皇聖座空位論へと陥っています。いわゆるこの「レジスタンス」の苦々しい実りを通して、私たちはこのような間違った原則の悪を理解できるでしょう。つまり、この間違った原則をもとにした司教聖別は正統ではあり得ないということです。

 聖なるカトリック教会は、このような間違った原則を決して教えてきませんでしたし、常に拒絶してきました。聖ピオ十世会はこのような間違った原則を決して教えず、またはっきりと拒絶します。

 聖ピオ十世会の偉大な原則とは、もっととても単純で健全です。つまり、忠実ということです! あらゆる時代の信仰に忠実であること、あらゆる時代の典礼に忠実であること、聖人たちの道徳に忠実であり、かつ、あらゆる時代の教会──聖人たちと罪人たちが聖職者たちの間にさえも入り混じっている──に、彼らの罪には同意することなく、妥協することなく忠実である、ということです。


 聖なる童貞マリアが、このご訪問の祝日に私たちが忠実なままとどまれるよう助けてくださいますように。聖母は、いとも忠実なる童貞女であられました!

 フランソワ・レネー神父

脚注
[1] たとえば、引用すると「聖ピオ十世会の指導者たちは、真理、特にカトリックの真理の首位性について、理解力を失ってしまったかのようです」/2013年のウィリアムソン司教の聖ピオ十世会司祭たちへの公開書簡

[2] « Malos in Ecclesia, qui vel ignorantur vel pro unitate pacis tolerantur a bonis, non eis ad mala consentientibus obesse non posse » Breviculus Collationis cum Donatistas, I:10

[3]2013年3月8日「偽りの反リベラル主義者の錯覚」


聖ピオ十世会 2015年8月 黙想会と大阪での聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語のミサ)

2015年08月20日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 8月には、日本での「第5回目」の、聖イグナチオによる霊操の黙想会がありました。第1回目は4名の方々が参加しました。今回は26名の方々が参加するお恵みを得たことを天主様に感謝します。北は北海道から南は長崎まで多くの方々が参加できたことをマリア様に感謝します。
 アジア管区長のシュテーリン神父様は、管区長としてはこれで日本に来られるのが3回目です。最初は昨年の9月、次は今年の秋田巡礼、そして今回の黙想会です。黙想会はシュテーリン神父様が指導してくださり、私はその通訳をいたしました。通訳をしながらその良き指導に感心しながら、黙想会に与っていました。

 この黙想会のために、お手伝いをして下さった方々や経済的にカンパをして下さった方々に心から感謝します。

 黙想会の後には、シュテーリン神父様は大阪で聖母被昇天のミサとその翌日の主日のミサ聖祭を捧げてくださいました。更に、私の実家にも足を運ばれ一日を共に休暇として過ごしました。私の両親に、シュテーリン神父様が子供の頃のころの思い出話をして下さり、そのやんちゃぶりに皆で笑いました。(「総告解」をしていたのかな?)
 極めてお忙しくいろいろな重責をお持ちながらこうやって配慮して下さったことをシュテーリン神父様に感謝します。
 来年の秋田巡礼に、また来て下さるとのことです。来年のこの時期に是非もう一度いらして戴いて、秋田巡礼でお約束なさった「聖母黙想会」を指導されることをお願いいたしました。これが実現することを聖母の汚れなき御心に委ねます。

 幾つかのお便りをご紹介することをお許し下さい。

 多くの霊魂が、私たちの主イエズス・キリストのその御憐れみと私たちに対する愛を知り、聖母マリア様が、罪人である私たちを憐れみ愛して下さるその御心に触れることが出来るように祈ります。

天主様に感謝!聖母マリア様に感謝します!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)




【お便り】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

マリア様の被昇天の大祝日にアジア管区長シュテーリン神父様に大阪で御ミサを上げて頂けた事は大変大きなお恵みでした。
黙想会を指導なさってお疲れの後にも関わらず場所を移動して一人でも多くの方々がマリア様の特別の日を祝う事が出来るよう配慮してくださった神父様方に感謝いたします。

8月15日 (土)聖母被昇天の祝日 の歌ミサには17名が、
8月16日 (主)聖霊降臨後第十二主日 の二つのミサには合わせて48名が御ミサに与る御恵みを頂きました。デオグラチアス!!

8月15日の被昇天の御ミサでのお説教で、天主様の傑作であるマリア様がいかに偉大な方であったかだけでなく、マリア様に倣ってイエズス様のご受難の玄義に私達が参与すれば、マリア様がその御生涯の偉大な徳の報いとして得られた栄光を私達も聖母の子として受けることが出来る希望もこの被昇天の玄義に含まれていることに大きな希望を持ちました。シュテーリン神父様が何度も仰っていたように、「天主の御業はなんと感嘆すべきものでしょう!」

8月16日の主日のお説教では、この日の聖福音の『善きサマリア人の譬話』を黙想いたしました。今まで、『困った人を助けることは大切だ』という教訓くらいにしか思っていませんでしたが、もっと奥の深い意味があることを知りました。
強盗に襲われた半死半生の人のように、現代では霊魂が半死半生な人々が私達の周りには溢れていること、その人々の救霊のため働かなくではならないことがはっきりとわかりました。
御ミサを終わって帰路、兄弟姉妹達はどれだけ射祷を唱えながら帰ったことでしょうか。

公教要理では、黙想(念祷)の大切さをお話頂きました。
天主様と目と目、心と心をあわせる。天主の真理が現実で、この世こそが儚い夢うつつだと確信してから天主の御前に卑しい自分がいることを意識する。イエズス様の聖心の中に卑しい自分が念祷によって入る事が許されることに感謝と驚きを抱く。ロザリオの祈りを唱える前に5分、黙想してから唱えるともっと祈りに集中できて良い祈りになる。などなど、黙想のコツを沢山教えて頂きました。
帰ってから言われたとおり、ロザリオの前に小さな黙想をしてみましたら本当に集中して祈ることができました。

超御多忙のアジア管区長のシュテーリン神父様に黙想会と被昇天の御ミサをして頂けて本当に感謝いたします。
移動、ミッション、聖務と通訳まで疲労困ぱいされていらっしゃるでしょう小野田神父様、ありがとうございました。
神父様方の天主様への愛と隣人への愛のお手本に刺激されて、私達信徒も本気で天国をめざそうと思います!




【お便り】
+ Ave Maria Immaculata!

トマス小野田圭志神父様
 聖イグナチオ・デ・ロヨラの霊操による黙想会に参加させていただきまして、本当にありがとうございました。
 主が私を愛するためにあれほどの御苦しみを引き受けてくださったのですから、私も主への愛のために十字架を担いたい、主をお愛しして死にたい、そのために聖寵をいただきたいと心から思っています。霊魂を鼓舞するとても素晴らしい内容でした。
 マリア様は私に偶然このお恵みをくださったのではなく、以前から準備をしてくださっていたと感じます。
 日々短い時間でご苦難の黙想をするつもりです。またそれだけでなく、日々全生活をもって主の十字架に与り、主と一致するお恵みを願います。全身全霊で、あたかもイエズス様と化してしまわなければならないと思います。そのためにもマリア様ご自身に私のうちにあって生きてくださいと祈っています。
 言葉に表すのみでなく実行に移し、完遂することができますように、弱い私のためにお祈りをお願いいたします。

 無原罪の聖母の騎士会入会式において、無原罪の聖母の騎士となる誓約をさせていただきまして、ありがとうございました!マリア様の被昇天の大祝日、そして聖母の土曜日に、こんなお恵みをいただけるとは1年前には思ってもいませんでした。これも聖ピオ十世会と、シュテーリン神父様、トマス小野田神父様のおかげです。心から感謝いたしております。(・・・)




【お便り】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

この度は、霊操の準備、莫大な講話の通訳、食事中の読書、25人近くの総告解、霊的指導、その他様々な労をとって下さって、本当にありがとうございました!!m(_ _)m
神父様の労の実として、霊操や御ミサにいらっしゃった方が全員、聖人となる事ができますように!! (・・・)



【お便り】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

黙想会ではご指導と、通訳、告解、御ミサなど本当にありがとうございました。

私は黙想会に参加する前は、「黙想」が大変苦手でした。以前クチュール神父様からも黙想(念祷)の大切さを何度か伺ったことがありましたがどうしても気が散ってしまい、黙想が上手く出来ない自分を不甲斐なく思いまた、信仰の薄さを嘆きながらのこの度のチャレンジでした。
イグナチオの霊操による黙想会では段階をもって黙想の方法を細かく説明して頂き、黙想の助になる色々なお話をお聞きしたりしてその後に黙想してみると、今までと違って深くよく黙想出来ました。あっという間に時間が過ぎて、もう少しこのまま黙想したかったと思う事もしばしばで、今まででは考えられないことでした。

小野田神父様がよく、「イエズス様の聖心に深くお入りになってください」とおっしゃいますが、この黙想会で初めて理解できたように思います。(;´∀`)
まだまだ未熟ですが黙想会を終えてからも今のところの毎朝、毎ロザリオの前に黙想をするのが楽しみになりました。

霊操のプログラムに組み込まれている総告解では大きなイエズス様の憐れみと愛を感じながら告解をする事が出来ました。シュテーリン神父様の総告解にするにあたっての講話では深い安心感と信頼をもって究明と告白に臨む大きな助けを頂けました。
思っていた以上に意味のある黙想会でしたので、私だけでなく参加された方々はきっとそれぞれ大きな御恵みをいただかれたことと思います。

黙想会に参加する御恵みを下さった天主様の御摂理に感嘆せずにはいられません。
貧しい場所にも関わらず驚異の謙遜と愛を持って御聖体としておいで下さるイエズス様に全てをお捧したと思います。
いつもそばにいて私達をイエズス様へと導いてくださる天の優しいお母様に感謝いたします。

シュテーリン神父様、
小野田神父様、
本当にありがとうございました。



【お便り】
+Ave Maria! Immaculata!

小野田神父様、シュテーリン神父様、この度の聖イグナチオの霊操による黙想会と、大阪の御ミサのミッションをありがとうございました。

急遽、ホテルでの黙想会となりましたが、インマクラータは「大逆転の大勝利」をおさめられたと思います。当初の予定の場所であれば、御聖堂と講話会場は別になる可能性がありましたが、ホテルの研修室が御聖堂、兼、講話会場になったことで、神父様が準備してくださった御聖櫃を安置して、御聖櫃の御前で、終日黙想会ができました!
日本のホテルの研修室に、5日間も御聖体にまします天主様が、おいでくださいました!
またインマクラータの騎士が6人増えました!
(最終日の無原罪聖母の騎士の入会式の後、参加した全員26人がインマクラータの騎士でありました!)
インマクラータは御自分の騎士の黙想会ためには、特別に取り計らってくださるのだと思うと、感謝で涙が止まりませんでした。

さらに、黙想会の会場となったホテルには、新大阪とホテル間を送迎するバスがあり、参加者の皆さんが集合に大変便利でした。
送迎バスのおかげで、18:30から被昇天の大祝日の歌ミサを新大阪の巡回聖堂で捧げることができ、たくさんの方が御ミサに与ることができました!

毎日の御ミサ、御聖体の御前での講話、黙想、朝、夕の祈り、ロザリオの祈り、黙想会の締めくくりの御聖体降福式を、天主様に感謝!インマクラータに感謝!申し上げます。

黙想会の始めに、シュテーリン神父様が「聖イグナチオの霊操は、ロザリオや茶色のスカプラリオと同様に聖母マリア様がお与えくださったもの。」と教えてくださり、呆然となりました。聖母マリア様は、ご自分の愛する子供たちに「霊操」までお与えくださったのだと、これまた、感謝で涙が止まりませんでした。

これまで「霊操」の本を読んだだけでは、少し難しく理解できませんでしたが、
シュテーリン神父様の素晴らしい講話で、大変良く理解でき、黙想も集中することができました。心はイエズス様への愛と忠誠心に燃えたちました。
また罪を深く痛悔し、罪を忌嫌って、遷善の決心を固く結びました。
聖母マリア様は「霊操」によって、イエズス様へと深く導かれるからですね。

黙想会後も、教えていただいたとおりに毎日15分以上黙想を続けております(*^_^*)
イエズス・キリスト御国の騎士として、自分と隣人の救霊のために、この世と悪魔に打ち勝つためには、「黙想」も必要不可欠な武器なのだと、痛感しました。

黙想の準備の祈り=「私の思い、行動、言葉、感情は全て、天主の栄光のため。私と私に託された隣人の救霊のために」と、小野田神父様のまねをして「天主の御前に出でて恭しく礼拝せん」を、電車でも、歩いていても、お掃除をしていても、いつも口ずさんでいます。そうするといつも天主様の御前にいることを意識できますね。(*^_^*)

インマクラータは、9回の秋田巡礼の後(ノヴェナにも思える準備期間でしょうか)、日本にインマクラータの騎士たちをおつくりになり、騎士には、「霊操」による黙想会を与えてくださり、「黙想」と「遷善の決心」という武器も装備させてくださったと思います。

どんなにか激務の中、御自分たちのことは二の次で、私たち日本の信徒の救霊のためだけに、はるばる日本に来てくださったシュテーリン神父様と、小野田神父様には、感謝の気持ちをどんな言葉でも表しきれません。
天主様がその善に報いてくださいますように。
インマクラータが神父様がたを、いつも護り、お導きくださいますように。

至聖なるイエズス様の聖心よ、我らをあわれみたまえ。
聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。
いとも尊き聖ヨゼフ、我らのために祈りたまえ。

長文お赦しください(>_



【お便り】
この度の聖イグナチオの霊操による黙想会を、天主様に、シュテーリン神父様に、小野田神父様に心から感謝いたします。
天主様の無限の愛と憐れみ、マリア様の愛により、私を今までこの世においてくださり、聖イグナチオの霊操の黙想会に参加させてくださいました。
黙想会の素晴らしさを初めて味わうことができました。
毎日の御ミサに与ることができました。全ての講話は私に語りかけているように思いました。
天主様と一致するための黙想の方法や、悪魔の攻撃に打ち勝つよう祈ることを教えていただきました。
もしもこのまま一度も参加できなかったとしたら、どうなっていたでしょうか?と思います。(・・・)


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】