Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2015年7月12日レネー神父様お説教 SSPX Japan Latin Traditional Mass Fr Laisney

2015年07月17日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2015年7月12日の主日に大阪でレネー神父様がなさったお説教をご紹介します。 天主と掟への従順、愛と聖寵の神秘についての黙想へと誘ってくださいます。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)






2015年7月12日レネー神父様のお説教

親愛なる兄弟の皆さん、

本日の書簡は、聖パウロのローマ人への書簡の第6章の続きです。先週の主日の書簡が、第6章の最初の部分でした。この章で聖パウロは、大変重要でかつ大変慰めとなる真理を教えてくれます。私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、律法を、道徳上の律法を守ることは可能なのです。悪や罪を避け、善を行うことは可能であり、これによって天国へ行くことが可能なのです。聖アウグスティヌスはそれを、一つの驚くべき短い文章にまとめています。「恩寵が律法を守る、すなわち律法が私たちに命じることは、私たちの主イエズス・キリストの恩寵がそれを私たちに守らせてくださる」。

天主から来るものは天主に帰るべきです。天主は、すべてのものの最初の原因であり、かつ最後の目的です。すべてのものは天主から来て、天主に帰らなければなりません。「私はアルファでありオメガであり、初めであり終わりである」(黙示録21章6節)。ではどのようにして天主に帰るのでしょうか?それは天主の法によってです。天主は、天と地、見えるもの見えないもの、物質的なもの霊的なものすべての創造主です。では、物質的なものをすべて見てみましょう。それらはすべて、天主が決めた法に完全に従っています。重力の法則、電磁力の法則、化学の法則、そして天主が決めたほかの法則すべてです。「太陽の周りを何年も何年も回って疲れたから、自分の思う道に行きたい」と言う惑星は一つもありません。天主が決めた物理的法則に完全に従うことのない素粒子は、全宇宙の中にただ一つもありません。そのように法則に従うことで、すべての物質的なものは天主を讃美しているのです。この天主の法則への完全な従順、普遍の従順は、天主の知恵と力への驚くべき讃美なのです。毎日の美しい日の出と日没、あらゆる美しい風景、あらゆる天空の星々とあらゆる地上の小さな花々などは、その美と調和、天主の法則への完全な従順によって、天使と人間が「讃美すべきもの」であるのです。天使と人間は、天主の御業を黙想して万物の創造主への讃美を炸裂させるのです。「われらの天主なる主よ、あなたこそ光栄と誉れと力を受けられるにふさわしい方です。あなたは万物を創られたからです。万物が存在し、そして創造されたのは、あなたのみ旨によります」(黙示録4章11節)。

さて、皆さんはこう言うかもしれません。「でも、それらのものには何も功徳はありません、自由ではないのですから」。そうです、実際、これこそが、霊的存在である天使と人間を天主が創られた理由であり、天使と人間が必要によってではなく、愛によって法に従うよう自由を授けられたのです。天主が私たちに自由を授けられたのは、天主の法に背くためではなく、愛によって天主の法に従うためです。理解のためにはこれが大変重要です。私たちが自由であるのは、愛によって天主の法に従うためであり、天主の法に背くためではありません。ですから、天主の法自体が愛の法なのです。「すべての心、すべての霊、すべての知恵をあげて、主なる天主を愛せよ。これが第一の最大の掟である。第二のもこれと似ている。隣人を自分と同じように愛せよ」(マテオ22章37-39節)。天主ご自身が愛なのです。実際、聖ヨハネは言います。「天主は愛である。愛を持つ者は天主にとどまり、天主は彼にとどまられる」(ヨハネ第一4章16節)。また、聖パウロは言います。「愛は隣人を損わぬ。したがって愛は律法の完成である」(ローマ13章10節)。(ここでの「愛」はギリシャ語の「アガペー」を訳したものであって、霊的な愛のことであり、肉体的感覚の愛の「エロス」ではありません。なぜなら、多くの悪は肉体的感覚から来るからです。)

大聖グレゴリウスは、「私たちは『gressibus amoris-一歩一歩、愛の歩みによって』天主に帰る」と教えます。聖トマス・アクィナスは、「愛によって私たちは生活の中で第一の場所を天主にお与えし(ですから週の最初の日は天主に捧げられます。)、すべてのものを天主の栄光に、すべての活動を天主に秩序づけ、そうすることで天主を自分自身全体の王とする」と説明します。そうすれば、驚くべき報いがあります。それは天国での永遠の生命、永遠に御父、御子、聖霊である天主を見る至福直観、天主ご自身の至福を共にすることです。これはまことに驚くべきことであり、天主のご計画なのです。そして善きことです。

しかし、自由な被造物の中には、その自由を乱用し、天主の法に背くものがいます。彼らにとっては、これは大変恐ろしいことです。なぜなら、それによって、彼らは地獄に行くに値するからです。彼らは天主に言います。「われわれはあなたの道についていかない。自分の道を行く方を好む」。すべてのものを超えて天主を愛する代わりに、彼らは創造主よりも被造物の方を好むのです。彼らは被造物を創造主より価値あるものとみなします。お金のため、楽しみのため、自分自身のために生き、隣人を嫌い、隣人から盗み、奪い、現代社会にあまりにもしばしば見られるあらゆる種類の無秩序や堕落に陥るのです。罪は人類にとっての大きな悲劇です。「二つの愛が二つの国をつくった。神を軽蔑する自己愛は地上の(罪の)国をつくった。自分を軽蔑する神への愛は天の(神の)国をつくった」(聖アウグスティヌス「神の国」14章28節)。罪は根本的に無秩序であって、私たちの霊的生活の全秩序を弱め、霊魂に死を用意し、永遠の罰へと導きます。

被造物は、美しくて、しかし、守らない訳にはゆかない天主の法に従うことによって天主に帰るのです。これは厳しい義務なのです。

さて、天主は悪によって負かされるのではなく、善によって悪に勝つのです。天主は、ご自分の御独り子、私たちの主イエズス・キリストを送ることによって人間を贖い、罪から人間を救おうとお決めになりました。しかし、ルターのような悪しき人間たちは、この贖いを間違って捉えています。実際、プロテスタントの中には、律法によって人間を救うという旧約における天主の最初の計画がうまくいかなかったため、新約において天主は、信仰によって人間を救うという新しい計画を立案され、律法への従順はもう必要なくなった、と言い張る者がいます。これはまったく真実ではありません。真実は、キリストが私たちを救われるのは、キリストがまず私たちの罪という負債を支払い、御父の誉れを回復させ、私たちの霊魂を洗い、癒やし、恩寵によって霊魂に律法に従うことのできる力を与えることによってなのです。これが本日の書簡の主題のすべてなのです。

洗礼によって、私たちは罪の汚れから洗われました。「ただ御あわれみにより、再生の洗いと聖霊の一新によって私たちを救われた」(ティト3章5節)。この一新は、霊魂の力をまさに回復させるので、私たちはもう罪に向かって生きるのではなく、天主に向かって生きるのです。実際、「キリスト・イエズスにおいて洗礼を受けた私たちは、みなキリストの死において洗礼を受けたことを、あなたたちは知らないのか。それゆえ私たちはその死における洗礼によってイエズスと共に葬られた。それは、御父の光栄によってキリストが死者の中からよみがえったように、私たちもまた新しい命に歩むためである」(ローマ6章3-4節)。私たちは罪に対して死んでおり、罪の体は葬られました。良きキリスト教徒にとっては、罪は終わり、もはや罪は犯さず、罪は問題外です。実際、聖パウロは続けます。「私たちの古い人間がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が破壊されてもはや罪の配下につかないためであることを私たちは知っている」(ローマ6章6節)。私たちの主ご自身が福音書の中で、姦淫の罪を犯した女に同じことを言われました。「行け、これからはもう罪を犯さぬように」(ヨハネ8章11節)。主はその前に、ご自分が癒やされたベツサイダのあわれな者にこう言われました。「どうだ、あなたは治った。さらに悪いことが起こらぬように、もう二度と罪を犯すな」(ヨハネ5章14節)。

「もう罪を犯すな」は、否定的な面です。肯定的な面は天主に向かって生きることです。「同様にあなたたちも、自分は罪に死んだ者、キリスト・イエズスにおいて天主のために生きる者だと思え」(ローマ6章11節)。聖パウロはそれを「キリストの復活にあやかる」と呼びます。「私たちはキリストの死にあやかってキリストと一体になったなら、その復活にもあやかるであろう」(ローマ6章5節)。「もし私たちがキリストと共に死んだのなら、また彼と共に生きることをも信じる。そして死者からよみがえられたキリストはもう死ぬことがないと私たちは知っている。キリストに対してもはや死は何の力も持っていない」(ローマ6章8-9節)。ですから、キリストにおける新しい生命では、私たちも霊的に「もう死ぬことがない」、つまりもう罪を犯さないことが可能になるのです。キリストの復活の力によって、私たちはもう罪を犯さず、律法を守ることができるのです。罪を免れて律法を破るのではありません。「だから罪の欲に従うことがないように、あなたたちの死すべき体を罪に支配させるな。あなたたちの肢体を罪に与えて不義の道具とせず、かえって死を逃れて生きる者として自分を天主に捧げ、その肢体を天主のための正義の武器とせよ。あなたたちは律法の下にはなく恩寵の下にあるから、罪はあなたたちの上に何の力もないであろう」(ローマ6章12-14節)。

どうしてこういうことが可能になるのでしょうか。聖パウロは、少し前のローマ人への書簡の第5章で説明しています。「私たちに与えられた聖霊によって、この心に天主の愛が注がれたからである」(ローマ5章5節)。私たちの心に愛を注ぐことによって、私たちを罪との闘いに勝利するよう助けてくださるのは聖霊なのです。ですから、試みのとき祈るなら、罪に陥らないでしょう。私はさらに進んで言います。祈っている限り、罪に落ちるのは不可能です。天主に忠実であるよう、天主の戒めを守るよう恩寵を願う人々を、天主はお見捨てにはなりません。「この種の悪魔は、祈祷と断食をしない限り追い出せない」(マテオ17章20節)のですから、祈って償いをしてください。聖トマス・アクィナスは、祈りにはある種の不謬性がある、と教えています。天主をお喜ばせするものを願い求めるとき、救いに必要なものを願い求めるとき、謙遜と忍耐があれば、祈りは必ずそれらを獲得するのです。お金や楽しみ、地上のものごとを願い求めるなら、天主は祈りを聞き入れてくださらないかもしれません。(そんなことを願い求めたとき、天主がその祈りを聞き入れてくださらないのは、時にはより良いことなのです。)しかし、天主の戒めに従い、天主のご意志を果たす恩寵を願い求めるとき、謙遜と忍耐をもって願い求めるなら、天主は皆さんが願い求めることを必ず聞き入れてくださるのです。実に、天主は、皆さんが自分の救いを望む以上に、皆さんの救いを望んでおられるのですから。天主は皆さんの救いのために十字架上で亡くなられたのですから。「私は地上に火(天主の愛の火)をつけに来た。その火がすでに燃え上がっているように私はどんなに望みをかけていることか」(ルカ12章49節)。

そのため、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、私たちは律法を守り、大罪を犯さずに生きることができるのです。また、私たちは大罪を犯さずに生きなければならないのです。

時折、人々と話をしていると、罪の状態で生きている人であるのが分かります。姦淫の罪か、ほかの重大な罪です。皆さんは問いかけます。あなたが昨日死んでいたなら、あなたは今どこにいるのですか?通常は、皆さんがカトリック信者と話しているのであれば、その人はこう答えるでしょう。「うーん、私は地獄にいると思います」。すると私は問いかけます。「あなたは本当にそこに行きたいのですか?」。すると今度はもっと早く答えが来るでしょう。「いいえ」。そこで私は問いかけます。「地獄に行きたくないなら、なぜ地獄に行ってしまうようなことをしているのですか?天国に行きたいなら、天国に行けることをすべきではありませんか?」。しかし、その人はこう答えるかもしれません。「いえ、神父様、私は地獄に行かないでしょう。なぜなら、私はキリストを信頼しているからです。キリストは言われました。天主は御独り子を与え給うほどこの世を愛された。それは、彼を信じる人がみな滅びることなく永遠の命を受けるためである」(ヨハネ3章16節)。(私はこう言うでしょう。)どうしてそんなことが可能でしょうか。あなたは罪の状態で生きており、罪の上に罪を重ねているのですよ。聖パウロは見事に言います。「…人よ、あなたは天主の裁きを逃れられると思うのか。あるいは天主の仁慈があなたを悔い改めに導くことを知らず、その仁慈と忍耐と寛容の富をないがしろにするのか。こうすればあなたはかたくなさと悔い改めぬ心によって、天主の正しい裁きの現れる怒りの日に、自分のために怒りを積み重ねるであろう。天主はおのおのの業に従って報いられる」(ローマ2章3-6節)。

キリストを信頼すると言いながら、キリストの戒めを破り、あらゆる種類の大罪を犯す人は、口で告白することを行いで否定しています。「彼らは天主を知っていると言うが、その行いによって天主を否定している。彼らはいとわしい者、逆らう者、一切よいことのできぬ者である」(ティト1章16節)。彼らの信仰は死んでおり、そのような信仰では地獄に落ちることから救われません。聖ヤコボは言います。「悪魔もそれを信じて震えおののいている」(ヤコボ2章19節)。救う信仰は、生きている信仰、「愛によって働く信仰」(ガラツィア5章6節)です。「天主のみ前に義とされるのは、律法を聞く人ではなく律法を守る人である」(ローマ2章13節)。私たちの主イエズス・キリストご自身が福音書の中で同じことを言われました。「私に向かって、『主よ、主よ』と言う人がみな天の国に入るのではない、天にまします父のみ旨を果たした人が入る」(マテオ7章21節)。彼らは「主よ、主よ」と言うことによって、信仰を持ってはいましたが、それだけでは十分ではありません。彼らがそれを実行しないなら、「その日多くの人が私に向かって『主よ、主よ、私はあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪魔を追い出し、あなたの名によって不思議を行ったではありませんか』と言うだろう。そのとき私ははっきり言おう、『私はいまだかつてあなたたちを知ったことがない、悪を行う者よ、私を離れ去れ」(マテオ7章22-23節)。

このように、天主の道徳上の律法は、新約においても義務付けられているのは明らかです。しかし、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、私たちにはそれを守る力が与えられています。儀式上の律法は、新しい律法の秘蹟で置き換えられています。(罪に対して罰を与える)司法上の律法は、新しい律法のあわれみによって緩められています。(姦淫の罪を犯した女に対して、キリストは「私もあなたを罪に定めない。行け、もう罪を犯すな」(ヨハネ8章11節)と言われました。)しかし、道徳上の律法は高められて、さらに厳しい義務が課されています。「私は言う、もしあなたたちの正義が律法学士やファリサイ人たちのそれに優らぬ限り、決して天の国には入れぬ」(マテオ5章20節)。さらに主は続けられます。兄弟にさえ怒るな、と。儀式上の律法と司法上の律法と道徳上の律法を区別せず、道徳上の律法はもはや義務ではないと主張するプロテスタントは、大変深刻な誤謬に陥っています。道徳上の律法はもはや義務ではないと主張する人々や、あるいは天主はあわれみ深いのだから人が何をしても誰もが天国に行くと主張する人々には、大変な不信仰があります。

実際、天主はあわれみ深いのですが、天主の御あわれみは私たちを悔い改めへと導きます。「天主の仁慈があなたを悔い改めに導くことを知らないのか」(ローマ2章4節)。天主は私たちに聖であるようお命じになります。「私が聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者であれ」(ペトロ第一1章16節)。「あなたたちの天の父が完全であるように、あなたたちも完全な者になれ」(マテオ5章48節)。ですから、聖性を求めないという選択肢はなく、誰もが聖性を求めなければなりません。良き知らせは、私たちが忠実であるようお助けくださる私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、今やそれが可能であることです。

童貞聖マリア、無原罪の童貞は、私たちの主イエズス・キリストの恩寵の力の最も良い証拠です。主に逆らわない霊魂において、主がいかに多くを成し遂げることがおできになったかということです。私たちの主イエズス・キリストの恩寵に私たちが忠実であるようにお助けくださるよう聖母に祈りましょう。そして、私たちも罪を避け、永遠の生命へ至る天主の戒めの道、愛徳の道を進むことができますように。アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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