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第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったのか?

2009年03月25日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は、聖母のお告げの祝日、またルフェーブル大司教様の命日(+1991年3月25日)でもあります。

 教皇ベネディクト16世は「ルフェーブル大司教に叙階された4司教の破門解消について」と題された書簡を、カトリック教会の司教らに宛てて記されました。これについて以前私は、感想を述べたことがありますが、そこで、私たちは第二バチカン公会議のどのような点が新しくなったか、つまりカトリック教会の聖伝による見方と変わってしまったかを見直してみる必要があると言いました。

 今回、(1)第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったのか?という点について考察してみたいと思います。


(1)第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったのか?

【1】人間の尊厳としての自由
【2】人間の思想の自由

 という二点について、以下、箇条書きにしてみたいと思います。

【1】人間の尊厳としての自由

 カトリックの聖伝の教えによれば、人間は天主によって「天主の似姿」に原初の義において創造された。「天主の似姿」に創られたとは、天主の本性に預かることができる存在として、天主の永遠の至福の命を得ることができる存在として創られたということだ。
 天主の似姿である人間の完成は、天主を至福直感でありのまま観て愛することにある。天主ご自身の至福も、全善たる御自分をありのままに観て愛することにある。天主はこの世を創造してもしなくても永遠に至福である。
 人間の尊厳は、正しく自由を使うことによってのみ維持される。
 しかし、人間は自由を濫用し、天主への従順を破り罪を犯したがゆえに、超自然の聖寵を失い、自然は傷ついた。この原罪と罪の状態から私たち人間を解放するのは唯一私たちの主イエズス・キリストの十字架である。


 第二バチカン公会議によれば、人間は天主によって「天主の似姿」に創造された。「天主の似姿」に創られたとは、人間が自由であること、自由な選択によって行動することである。以下、【1】人間の尊厳としての自由については、特別の言及が無い限り、第二バチカン公会議の「現代世界憲章」より引用。

[現代世界憲章]17(自由の尊さ)
真の自由は人間の中にある神の像のすぐれたしるしである。・・・人間の尊厳は、人間が知識と自由な選択によって行動することを要求する。

 第二バチカン公会議によれば、天主の似姿である人間の完成は、天主のように何かを自由に作ることであり、万物を支配することである。

[現代世界憲章]34(人間活動の価値)
 神の像として作られた人間は、大地とそこに含まれる万物を支配し、世界を正義と聖性のうちに統治し、また万物の創造主である神を認めて、人間自身とあらゆる物を神に関連させるようにとの命令を受けた。こうして万物が人間に服従すれば、全世界において神の名が賛美されるであろう。

 従って、第二バチカン公会議によれば、人間は観想生活(祈り)よりも活動生活(行動)のほうが重要となる。



【2】人間の思想の自由

 カトリック教会の聖伝によれば、天主は、何度も、いろいろな方法で、その昔、預言者を通じて、先祖に語られたが、この終わりの日々には、天主の聖子を通じて、人間の言葉で語られた。天主は私たちが理解できるように啓示されたのであり、天主からの啓示は人間の言葉で表現されている。言葉で表現された信仰箇条とカトリック教理は、無限の天主の神秘を全てくまなく語りつくすことはできないが、しかし私たちの霊魂の救いのために天主の神秘を知りそれを信じるのに十分なものである。 御托身によって目に見えるものとなった天主が、私たち人間の外部から信仰の言葉を啓示された。知性のそれへの同意である信仰は、聞くことから始まる。(DS1501DS3004

 カトリックの聖伝によれば、教導権こそが信仰の最高の規準である。
 従って、聖伝によれば、教会教導権の判断や定義こそが、聖書解釈者を熟させるようにする。

 「天主が啓示した教理は,哲学的作り事や人間の知能が完成したものではなく,キリストの花嫁(教会)に与えられた天主の遺産であり,これを忠実に守り,誤ることなく解釈しなければならない。聖にして母なる教会が一度宣言した教義の意味を永久に保存しなければならない。よりよく理解するためという口実のもとに,その意味から離れてはならない(*3043)。「時代と世紀の流れとともに,各自とすべての人々の,また個人と全教会との,理解と知識と英知とが増し,また急激に発展するように。しかし,ただその正しい道において,すなわち同一の教義,同一の意味,同一の見解において」【注:レランのヴィンセンチウス,Commonitorium primum,c.23(PL50,668A)】。 」(第一バチカン公会議 DS3020


 第二バチカン公会議によれば、私たち人間個々の深層心理の内部から、言葉だけではなくわざ(体験)によって啓示される。啓示は、言葉になった命題の言い回しとして伝達されるというよりも、「神と人間の救いに関する深遠な真理」として私たちに現われる。以下、【2】人間の思想の自由については、特別の言及が無い限り、第二バチカン公会議の「神の啓示に関する教義憲章」より引用。

[神の啓示に関する教義憲章] 2(啓示とは何か)
この啓示によって、見えない神(コロサイ 1·5、1テモテ 1·17参照)が・・・あたかも友に対するように人間に話しかけ(出 33·11、ヨハネ 15·14~15参照)・・・。この啓示の計画は互いに密接に関連したわざとことばをもってなされた。そのため救いの歴史において神から遂行されたわざは、教えとことばの意味を明らかに証明した。そして、ことばはわざを表示し、その中に含まれている秘義を明らかにする。この啓示が示す神と人間の救いに関する深遠な真理は、仲介者であり、同時に全啓示の充満であるキリストにおいてわれわれに現われている。

[神の啓示に関する教義憲章] 4(啓示の頂点と完了であるキリスト)
かれ(=キリスト)を見るものは父を見ると言われる(ヨハネ 14·9参照)。そのキリストは、自分自身の全的現存と顕現とにより、ことばとわざにより、しるしと奇跡により、なかでも、おのが死と死者のなかからの栄えある復活とにより、最後に真理の霊の派遣によって、啓示を完全に成し遂げた。


 第二バチカン公会議によれば、啓示の「言葉」は、人間の言葉を取ったが、「天主の言葉」(=現実)を意味するには不十分である。それは丁度、「御言葉」によって摂取された人間本性が、天主の本性を知るのには不十分であったのと同じである。

[神の啓示に関する教義憲章] 13(神のへりくだり) 
 かつて永遠の父のみことばが人間の弱い肉をつけて人々に似たものとなったように、人間の用語で現わされた神のことばは人間の話に似たものとなった。

 第二バチカン公会議によれば、信仰の最高の規準は聖書であり、それは「聖伝とともに」である。

[神の啓示に関する教義憲章] 21(聖書の尊重)
教会は、今日も、今までと同じように、聖書を聖伝とともにおのが信仰の最高の規準と考えている。実際、聖書は神の霊感によって永久に一度書かれて、神自身のことばを変わることなく伝え・・・ている。

 第二バチカン公会議によれば、教会の判断や定義を熟させるようにするのは、聖書解釈者の任務である。その反対ではない。

[神の啓示に関する教義憲章] 12(聖書の解釈について)
 このような諸原則に従って、聖書の意味を深く理解し、説明するために努力し、いわば、準備的な研究によって、教会の判断が熟するようにするのが聖書解釈者の任務である。


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 天主の聖母、終生童貞なる聖マリア、われらのために祈りたまえ!
 聖ヨゼフ、われらのために祈りたまえ!
 聖ベネディクト、われらのために祈りたまえ!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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