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Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

システィーナ礼拝堂の仮想訪問

2020年08月27日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!


愛する兄弟姉妹の皆様!

システィーナ礼拝堂の仮想訪問をどうぞ。






今日の富士山

2020年08月26日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

この頃は、富士山の姿を見ることがなかなかできませんでした。
今日は、少し、頂上が見えますね。





今日の富士山です。雲がかかっていますね。

2020年06月17日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

今日の富士山です。雲がかかっていますね。






5月21日、主の昇天の祝日の午後3時北京は突然の暗闇に包まれたそうです。

2020年05月23日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

【参考情報】
5月21日、主の昇天の祝日の午後3時00分、北京では、今まで明るかったのに、突然の暗闇に包まれたそうです。





主よ、憐れみ給え!


【参考資料】


愛に生く 聖母を見つめつつ

2020年05月04日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

聖テレジアの歌にこだまして

聖母を見つめつつ

愛に生く、
司祭の聖母(はは)はカルワリオ、
司祭のように、立ち留まりし

愛に生く、
痛ましき主の
肉体よ、
聖母(はは)の御心(こころ)に
剣(つるぎ)貫く







何故教皇は「フランシスコ」という名前をとったのか?回勅『ラウダート・シ』はどこに向かっているのか?教皇フランシスコにとって何が最も大切なのか?

2020年05月01日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ステイ・アット・ホーム(不要不急の外出自粛)を利用して、教皇フランシスコの考えをよく理解するようにしましょう。

ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿が、第266代ローマ教皇として選ばれた時(2013年3月13日)、なぜ、彼がフランシスコという名前をとったのか、時がたつにつれてますますよく理解できるようになってきました。これは単なる思い付きではなく、深い意味がありました。

かつてアシジの聖フランシスコが教会を霊的に高めて改革したように、カトリック教会を「改革」しようとする、改革者としての「フランシスコ」、ただしアシジの聖フランシスコの一部だけを取り上げたやり方での「改革」をしようと、この名前が取られたかのようです。

教皇フランシスコの最初の回勅『ラウダート・シ』(2015年5月24日)の最初の言葉は、アシジの聖フランシスコの「賛美の詩歌」から取られています。

アマゾン・シノドスは、2019年のアシジの聖フランシスコの祝日(10月4日)に始まりました。

アシジの聖フランシスコは、主から教会を立て直す使命をうけました。教会を改革する使命です。そのやり方は、イエズス・キリストを通して、イエズス・キリストをまねることによってでした。
聖フランシスコは、福音を生きました。ですからこそ全キリスト教世界を改革することができました。霊魂らを高めることができました。聖フランシスコは、被造物から、天主へと心を挙げましたが、それと同時に被造物の虚しさ・はかなさをも理解していました。全被造物は、イエズス・キリストを賛美するためにあったのです。
天主は、人間となったのは、私たちが真似ることができるためです。十字架によってイエズス・キリストと似たものとなる。聖フランシスコが、そうでした。

【ヨハネ・パウロ二世】
ヨハネ・パウロ二世の名前は、第二バチカン公会議の実現を意味するものでした。つまり、第二バチカン公会議を開催したヨハネ二十三世と、それを閉会するまで続けたパウロ六世との植えた種を実らせる、という意味で「ヨハネ・パウロ」という名前が取られました。

ヨハネ・パウロ二世の行動原理は、その最初の回勅『人間の贖い主』(1979年3月4日)の中にある一節:「キリストは、御托身により、自分自身をすべての人間と一致させた」です。

ヨハネ・パウロ二世は、第二バチカン公会議:現代世界憲章 Gaudium et spes, 22】「事実、天主の子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた。」(Ipse enim, Filius Dei, incarnatione sua cum omni homine quodammodo Se univit. )の中にあった、「ある意味で」を取り除いて、これを理解していました。

この文章の「すべての人間」を、すでに死んで地獄に堕ちてしまった人々を除いたすべての人間であると理解すると、「ある意味で」は「可能態として」あるいは「現実態として」と理解できます。すべての人は、もしも信仰と愛徳を持つならキリストと一致する「可能性」を持つことになったので、可能態にあるという意味で一致する、ということができますし、もうすでに信仰と愛徳を持っている人の場合であれば、現実に一致しているといえます。

ヨハネ・パウロ二世は、絶対的な意味で、「キリストは、御托身により、自分自身をすべての人間と一致させた」と理解していました。その理解を目に見える形で実現したのが、全ての宗教の代表者を招いて行ったアシジの祈祷集会(1986年10月27日)でした。

【教皇フランシスコ】

『ラウダート・シ』の中核の原理は、第二バチカン公会議の展開である「天主は自分自身を私たちの大地と決定的に一致させた」です。

『ラウダート・シ』をどう理解すべきかを目に見える形で実現したのが、2019年10月のアマゾン・シノドスでした。

アマゾン・シノドスの光によって『ラウダート・シ』を見直してみましょう。

教皇フランシスコは、キリストの代理者として聖ペトロの座から権威をもって全カトリック信者たちに教える、兄弟たちの信仰を固める、ということをしているのでしょうか? いいえ。

教皇の教皇としての第一の義務は、カトリック信者たちに教義と倫理について権威をもって教えることですが、しかし、教皇フランシスコは、権威をもって信徒たちを教えているのではいません。

そうではなく「この惑星に住むすべての人々に語りかけたいと思う」(I wish to address every person living on this planet.)と言い、「この回勅で、私はすべての人々と私たちの共通の家について対話をしたいと思う」(In this Encyclical, I would like to enter into dialogue with all people about our common home.)と言っています。

無神論者であろうが、異教徒であろうが、キリスト教徒であろうが、ユダヤ教徒であろうが、この地上にいる全ての人々と対話をしたい、と言うのです。そこで、教皇は「教える」という責務を放棄して、対話に入ろうとするのです。

ですから、この回勅には不可謬性は帯びておらず、私たちはこの内容に賛同するのも、これを批判するのも、自由にすることができます。「信じなさい」ではなく、「対話に入りたい」というだけだからです。

アマゾン・シノドスのInstrumentum Laboris にはっきり書かれています。
Pan-Amazon Synod. The Working Document for the Synod of Bishops

ここでも、教会がこの世に聴従し、「弟子」として「姉妹」としてこの世に従うものに変容することが述べられています。

「人々と自然との相互に聞くことによって、教会は、地理的にも構造的にも出ていく一つの教会に変容し、またシノドス性を通して姉妹であり弟子である教会に変わる。」(92. Through mutual listening to peoples and nature, the Church transforms into a Church that goes out in both geographical and structural ways, and a Church that is sister and disciple through synodality.)

私たちのこの記事での考察は、教皇フランシスコを深く理解したいという望みから出ていますが、教皇様には、教皇として権威をもって教えるという聖なる務めに立ち戻っていただきたいと、心から願います。

教皇職を聖なるものとして愛し守っていただきたい、とカトリック教会と教皇とに対する愛に燃えて、心から願います。




では、教皇フランシスコにとっての最大の関心事は何でしょうか? 何が最も大切で、私たちに何を訴えているのでしょうか?

天主に対して犯される罪、贖いの業、霊魂の救いでしょうか?
大罪一つでも、霊魂が永遠に失われてしまうこと、地獄の恐ろしさ、でしょうか?
天主の御稜威、聖寵の状態を保つ必要性、秘蹟の大切さ、でしょうか?
罪を犯して、天主を捨て去ることでしょうか?

そうではありません。

彼にとってもっとも重大な問題の一つは、廃棄物です。「私たちの家である地球は、ますます巨大なごみ溜めのように見え始めている。この惑星の多くの多くの部分では、高齢者たちはかつては美しかった風景が今ではごみに覆われていると嘆いている。」(21. The earth, our home, is beginning to look more and more like an immense pile of filth. In many parts of the planet, the elderly lament that once beautiful landscapes are now covered with rubbish.)

もっとも重大な問題は、使い捨て文化です。例えば、リサイクルをせずに紙を捨てることです。(22. These problems are closely linked to a throwaway culture which affects the excluded just as it quickly reduces things to rubbish. To cite one example, most of the paper we produce is thrown away and not recycled.)

この回勅においては、霊魂が毎日のように失われていることも、毎日のように超自然の信仰を失い教会を離れていく霊魂たちについては、関心がないようです。ファチマで天使が訴えた、罪の償い、についても、ファチマの聖母がお願いした罪びとたちの回心のための祈りと犠牲もありません。
「罪人たちのために犠牲をしなさい。たくさんこう言いなさい。特に何か犠牲をするときにこう言いなさい。”イエズスよ、これは御身を愛するため、罪人たちの回心のため、そしてマリアの汚れ無き御心に対して犯される罪を償うためです”、と。」

1917年10月13日、ファチマの聖母はますます悲しそうな様子になられて、こう言われました。「もうこれ以上天主なる私たちの主に罪を犯してはなりません。すでに主はあまりにも多く犯されています。」

教皇フランシスコが、全世界にいる全ての人に訴えているのは、永遠に不死の霊魂を救うことでしょうか? そのために天主が人となって十字架の上で贖いを業を成し遂げた霊魂の救いでしょうか? 私たちの主の贖いの御業の無限の価値でしょうか?

そうではありません。

回勅で訴えられているのは、絶滅危惧種の動植物、森林を守ること、生物多様性を保護することです。(32. The loss of forests and woodlands entails the loss of species which may constitute extremely important resources in the future...)

教皇フランシスコが訴えるのは、動植物が失われることの重大さであって、霊魂が永遠に失われることではありません。

何故なら、回勅によると「それぞれの種は、それ自体で価値を持っている」から(ママ)です。(33. It is not enough, however, to think of different species merely as potential “resources” to be exploited, while overlooking the fact that they have value in themselves.)

しかし、カトリック信仰によれば、被造物は天主のより大いなる栄光のために創造されたのですから、どれほど崇高な被造物であったとしても、知性と意志とを備えた人間であったとしても、どれほど高貴な天使であったとしても、それ自体では価値はありません。

回勅は、私たちが直面している悪に対して、全人類にどのような解決策を提案しているのでしょうか?

天主に向かって回心することでしょうか?天主の聖寵の助けを願うこと、秘蹟による恵みを乞うことでしょうか?洗礼の恵みを受けることでしょうか?個人的な聖化に努めることでしょうか?祈りと犠牲とをキリストの十字架に合わせて捧げることでしょうか?すべてを天主の栄光のために秩序付けて、被造物を天主のために、霊魂の救いのためにのみ使うことでしょうか?諸民族が王たるキリストに回心することによるのでしょうか?

そうではありません。

問題の解決は、人間が、動植物や大自然に従うこと、とされます。エコロジーのイデオロギーを信じ、実践すること、とされています。

あたかも原罪が存在していないかのように、罪が存在していないかのように、全ての悪の根源は、社会の構造から、搾取から由来する、とされます。

では、回勅『ラウダート・シ』をもって教皇フランシスコはどこへ教会を連れて行こうとする、教会をどのように「改革」しようとするのでしょうか?

聖ヨゼフ、我らのために祈り給え!

(続く)



教皇フランシスコの考えを理解する:カトリックの信仰生活はどう変わるか?

2020年04月23日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ステイ・アット・ホーム(不要不急の外出自粛)を利用して、教皇フランシスコの考えをよく理解するようにしましょう。

私たち、すでに教皇フランシスコの新しさであると同時に、第二バチカン公会議の展開を見て、

さらに、教皇フランシスコの、教皇職を動かす原理・設計図「天主は自分自身を私たちの大地と決定的に一致させた」について考察しました。

「天主は自分自身を大地と決定的に一致させた」という原理から帰結される究極の倫理基準は「大自然と調和している」ことです。この世と「対話」するとは「聞く」ということであり、この世に聴従し、「弟子」として「姉妹」としてこの世に従うということです。

天主に対する信・望・愛、礼拝と救霊について語らず、むしろリサイクルとか森林保全とかについて語るのが、人類の最高権威である教皇の役割なのでしょうか? これは何を意味するのでしょうか?

まず「司祭職」が、この世の「まつりごと」に飲み込まれてしまいます。言い換えると政治的になります。何故なら、超自然の方向性・要素がなくなるからです。天ではなく、大地に向かうからです。全道徳と倫理すべては、大自然と調和していることにあるとされるからです。だから「エコロジカルな回心」が求められています。

ですから、天主が大地と決定的に一致しており、私たちもその大地の一部であるから、資源の再利用をして自然を保全することが、「私たち人間の尊厳を表明する愛の行為」となりうるといわれるのです。

しかし、その時、人間が大自然と全被造物においておかれている特別の場所・地位は忘れられてしまいます。知性と意志の自由決定能力とをもつ特別な理性的存在、ということが忘れ去られます。

また、始原もなく終わりもない天主の超越性も忘れ去られます。いかなる意味でも被造物とは混同されることのなく、被造物をいま、ここに有らしめている天主については、語られません。

人間は、理性を使って、この全自然を超越する天主であるいと高き主を認識し信じ、創造主のみに捧げるべき礼拝を捧げるために、特別に創造されました。自然保護よりももっと更に崇高な理性的存在である人間のみができる行為、これが天主を礼拝することです。

人間だけが、理性を使って、自然を超越する天主を礼拝することができます。理性的存在だけが、天主と人間との間の無限の隔たりを認識するがゆえに、天主が有りて在るものであり、人間が有らしめられて在る無に等しいものであると理解するがゆえに、天主に礼拝を捧げることができます。

天主の御言葉は人となりましたが、それは大地と一致するためではありませんでした。天主御父の御旨(みむね)を果たすためです。「キリストは世にはいるときいわれた。"…そこで私は、"私について巻物に書きしるされてあるとおり、天主よ、私はあなたのみ旨をおこなうために来る"といった。"」(ヘブレオ10章)

人となった天主の御言葉は、私たちに天主に対する絶対従順の模範を示されました。イエズス・キリストの御人性(人間としての本性)は、私たちに礼拝を教える道具となりました。天主に死に至るまで従順であること、しかも十字架の死に至るまで従うことを教えてくれました。イエズス・キリストの存在はその最初の瞬間から十字架の死に至るまで、絶えざる天主御父に対する従順であり、礼拝でした。

人間にとっての最大の悪は、環境汚染でも地球温暖化でもありません。人間にとって最大の悪であり不幸は、罪を犯して天主を侮辱すること、その結果永遠の地獄に堕ちることです。

しかし、エコロジカルな回心はこれの全く反対を私たちに説きます。何故なら、自然を超えるものについて目をそらさせるからです。

目に見えない天主の超越性、自然を超える超越性を認めることができないとき、絶対の超越する天主に対する礼拝は、捧げることができなくなります。

これが道徳基準に適応されると、環境保護と自然保全こそが、天主に対する礼拝や天主の掟の遵守よりも重大なことになってしまいます。エコロジカルである限り、その他のことは何でも許されて当然と考えられる危険があります。

例えば、絶滅危惧種を守るために闘争することが善とする一方で、母の胎内にいる胎児を堕胎したり老人を安楽死させたりするのは問題としなかったり、自然を守ると言いながら自然に反する同性の結合には賛成したり、殺虫剤や化学薬品の使用に絶対反対と言いつつ避妊薬には賛成したり、二酸化炭素の削減のために、子供たちが多い大家族に反対したりすることでしょう。

アマゾン・シノドスの最終文書でも言われたように「青年を神学的場所として認め、また、対話に専心しエコロジーに敏感で「共通の家」に注意深い青年らを "希望の預言者" として認める」とき、教会は、新しい「預言者」たち、新しい「宣教師」たちをすでに認めているのかもしれません。例えば、その中にはまだ16歳にしかならないけれども、全ての国家元首に働きかける使命を天から受けたと信じている人もいるのかもしれません。

その時、天主がモーゼにシナイ山の上で与えた「天主の十戒」とは似て非なる新しい「エコロジカルな十戒」が作り上げられるかもしれません。たとえば、以下は、まったくの想像で書いてみます。

第一 大自然はなんじの主なり。大自然を保全すべし。
第二 なんじ、水も食べ物も電気もプラスチックも紙もみだりに使うなかれ。
第三 なんじ、絶滅危惧種を保護すべきことをおぼゆべし。
第四 なんじ、再生エネルギーの開発を敬うべし。
第五 なんじ、地を汚すなかれ。
第六 なんじ、海・川を汚すなかれ。
第七 なんじ、リサイクルをせずに捨てるなかれ。
第八 なんじ、公共交通機関を使わずに移動するなかれ。
第九 なんじ、ごみの分類をせずに捨てるなかれ。
第十 なんじ、電気・石油の使用をみだりに望むなかれ。

回勅『ラウダート・シ』の「天主は自分自身を私たちの大地と決定的に一致させた」ので「エコロジカルな回心」をしようと、これをそのまま受け入れるところでは、天主への礼拝が、カトリックの信仰生活を送ることが、不可能になってしまいます。

カトリックの信仰生活の道というよりか、新しい道です。「天主の愛は私たちを常にいくつもの新しい道を見出させてくれる。」(回勅『ラウダート・シ』245)

主よ、我らを憐れみ給え!

聖母よ、我らをして、この地が「追放」「逐謫」の場所であると理解させ給え!
聖母よ、我らをして、この地が、つかの間の儚い「涙の谷」であると理解させ給え!

元后あわれみ深き御母、われらの命、慰め、望みなるマリア、
われら逐謫の身なるエワの子なれば、御身にむかいて呼ばわり、この涙の谷に泣き叫びてひたすら仰ぎ望み奉る!

(続く)


教皇フランシスコの考えを理解する:「天主は自分自身を私たちの大地と決定的に一致させた」(回勅「ラウダート・シ」)の意味

2020年04月22日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ステイ・アット・ホーム(不要不急の外出自粛)を利用して、教皇フランシスコの考えをよく理解するようにしましょう。

前回は、教皇フランシスコの新しさであると同時に、第二バチカン公会議の展開を指摘しました。

教皇フランシスコの、教皇職を動かす原理・設計図はこれです。彼の実質的な最初の回勅『ラウダート・シ』の最後の一節(245)です。
「天主は自分自身を私たちの大地と決定的に一致させた。」

カトリック中央協議会訳では「主はご自身をわたしたちの地球と決定的に結ばれた」となっています。
この意味を探りつつ、考察しましょう。

【教皇ヨハネ・パウロ二世】

ヨハネ・パウロ二世は、その最初の回勅『人間の贖い主』で、自分の教皇職の原理・設計図・基本方針を発表しました。

それは「キリストは、御托身により、自分自身をすべての人間と一致させた」です。

これを土台・原理として、新しい教会の使命が説かれました。

「キリストはすべての人間と一致している」のだから、全ての人はすでに救われている。
しかし「キリストはすべての人間と一致している」ことは目に見えないので、教会は天主を目に見える形で現存させることがふさわしい、ただし、教師として人類に教えるのではなく、超越的な現実を証しするというやり方でそれをなす、とされます。

従って、教会の使命とは、証(あかし)となること、証人となることだとされます。これが教会の預言者としての役割とされます。

聖伝によれば、教会は教導教会(Ecclesia docens)と聴従教会(Ecclesia discens)の二つに区分されます。しかし第二バチカン公会議の新しい神学によれば預言者の役割は、全教会の役割とされます。

第二バチカン公会議の『教会憲章』 Lumen Gentium によれば、教会は人類の一致の「秘蹟」(秘義)であり、教会全体で目に見えない現実を証(あか)しする印(しるし)となる、とされます。世俗の世界で生活しながら、生活において、キリストを現存化させる、これが「新しい福音化」であり、模範によってどうしたら真の人間となるかを証しすることである、とされます。

ところで「キリストはすべての人間と一致している」ので、そしてこの一致はどのようなことがあっても失われないので、全ての人格(ペルソナ)は崇高なものとされます。

そこでヨハネ・パウロ二世においては、人間の人格の崇高さ(尊厳)を倫理道徳の基礎に置きます。キリストが自分を人間に与えたように、人間の人格は、自らを他者に与えることによって完成させられる、とされます。そこで、倫理基準は、その要求度がまだ高く、自分を他者に与えるために、自由が必要であるとされます。

【教皇フランシスコ】

しかし、フランシスコは、ヨハネ・パウロ二世を乗り越えます。ヨハネ・パウロ二世のさらに上を行きます。
「天主は自分自身を大地と決定的に一致させた。」

この原理から帰結される倫理基準は「大自然と調和している」ことです。

人間も環境(大自然・森林・大地・大洋・ジャングル・空気などなど)も、同じ被造物であり、人類は大自然に含まれているその一部に過ぎないのだから、人間は大地や大自然を大切にすべきである、これが道徳と倫理の基準になります。

大地は神聖にして犯すべからず。

従って、たとえば次のように結果に至ります。「アマゾン地域は、教会にとって、そして世界にとって、『全体のための一部 pars pro toto として、一つのパラダイムとして、全世界のための希望として』奉仕するべきである。」(アマゾン・シノドス討議要綱 37) 

「天主は自分自身を大地と決定的に一致させた」のであるから、例えば、アマゾン地域が、または別の先住民地域あるいは共有地域が、"信仰にとって意味を持つ場所" または "歴史の中での天主についての経験"であり、「天主の啓示の特定の源泉」であり、神学の基礎的原理や源泉についての「神学的場所」 loci theologici であるとされます。

アマゾン地域だけでなく「青年たち」も同じく一つの「神学的場所」(羅 locus theologicus, 西 un lugar teológico, 仏 un lieu théologique, 伊 luogo teologico, 英 a theological topic) とされます。

アマゾン・シノドスの最終文書(33)には次のようにあります。
Quiere ser compañera a la escucha reconociendo a los jóvenes como un lugar teológico, como "profetas de esperanza", comprometidos con el diálogo, ecológicamente sensibles y atentos a la "casa común".
「(…)アマゾン地域の教会は、青年たちの伴侶でありたく、また彼らの言うことをよく聞きたいと望む。青年を神学的場所として認め、また、対話に専心しエコロジーに敏感で「共通の家」に注意深い青年らを "希望の預言者" として認める。」

教会は、もはや能動的に人類に対して証人であろうとさえしません。

教皇フランシスコによれば、教会は受け身の立場であり、この世の言うことを弟子のように聞く(a la escucha)だけです。

教会は、聖伝によって伝わる役割、つまり「天主の垂れた啓示を人類に教える、超自然の真理で人類を教導するという権能・役割・カリスマ」を放棄します。そうではなく、聞くだけです。そうすることで「エコロジカルな市民性」(ラウダート・シ 211)を目指します。

もはや教会が言うことは、あまりにも平凡でありきたりのことに成り下がってしまいました!教皇フランシスコが私たちに回勅で訴えることを聞いてください。
「もっと経済的な余裕があっても、暖房をより少なく使い、温かい服を着る、…プラスチックや紙を使うことを避ける、水の消費を削減する、ごみを区別して出す、食べることができるだけ料理する、他の生き物に気をかける、公共の交通手段を使う、木を植える、無駄な電気を消す、… すぐに捨ててしまうのではなく再利用をする、これが正しい理由のために行われたとき、私たちの尊厳を表明する愛の行為となりうる。」(ラウダート・シ 211)

教会の最高の権威が、ごみのリサイクルについて話しています。霊魂の永遠の救いについて、ではなく。超自然の天主を信じ、礼拝し、希望し、天主を愛することではなく。天主の十戒についてではなく。
この地球をきれいに保つ、それはそれでよいことですが、天主の掟を守るというさらに良いことは忘れられています。「よし、全世界をもうけても、自分の命を失ったら、それが何の役にたつだろう。」たとえ環境汚染を終わらせて全宇宙を保全したとしても、永遠に霊魂を失うのなら何の益があるでしょうか?

現在の教会は、世俗のことがらを聖なるものとしようとするかのようです。

それと同時に、教会それ自身は、自らを非神聖化していきます。教皇フランシスコは教皇としての権威を自ら破壊しようとしてます。

カトリック教会が今まで大切にしてきたもの、愛してきたものにたいして、フランシスコは「非神聖化」を行います。

例えば、最近では、2019年12月12日グァダルーペの聖母の祝日では、教皇フランシスコは自分の司祭叙階50周年を祝いつつ(1969年12月13日叙階)、聖母について次の称号のみ本質的として認めました。つまり「女」「母」「婦人」「弟子」です。グァダルーペの聖母については「混血」としました。カトリック教会の聖伝の教えを「ばかげた話」だと反対して、とてもショッキングな発言もします。

「聖母は、自分の師(キリスト)つまり自分の御子である唯一の贖い主に忠実であり、自分のために御子から何かを取ろうとは望まなかった。聖母は自分を決して共同の贖い者(共贖者)として提示しなかった。そうではない。弟子だった。」
Virgen de Guadalupe: María “se mestizó para ser Madre de todos”Homilía del Santo Padre
"Fiel a su Maestro, que es su Hijo, el único Redentor, jamás quiso para sí tomar algo de su Hijo. Jamás se presentó como co-redentora. No, discípula."

この説教の終わりには、教皇フランシスコはこうも付け加えています。
「人々が私たちのところにやってきて、これこれを宣言すべきだとか、あれこれを教義にすべきだという話を持ってくるとき、私たちはそのようなばかげた話に道を迷わないようにしましょう。マリアは女性であり、私たちの婦人であり、御子の母であり、位階制の母なる教会の母であり、混血、私たちの民々の婦人、また、何と天主と「混ざった」方か。」

"Cuando nos vengan con historias de que había que declararla esto, o hacer este otro dogma o esto, no nos perdamos en tonteras: María es mujer, es Nuestra Señora, María es Madre de su Hijo y de la Santa Madre Iglesia jerárquica y María es mestiza, mujer de nuestros pueblos, pero que mestizó a Dios."


あるいは、「教皇庁年鑑」の最新版において、教皇の称号として「キリストの代理者」が取り除かれ、単なる「歴史的称号」(昔はそうだったが今はそうではない)として取り扱われています。教皇庁年鑑では、いまでは「ローマ司教、フランシスコ」だけが保存されて残りました。教理省元長官ミュラー枢機卿は「これは神学的野蛮行為だ」と表現しています。

つまり、教皇フランシスコは、教皇としての権威や名誉や品格をあえて破壊しようとするかのようです。何故なら教会の教導職とはもはや必要がないからです。教会は、天主から受けた啓示を人類に教えるのではなく、教会は人類の言うことを、大自然が言うことを聞くことが使命だ、とされるからです。

何故なら「天主は自分自身を私たちの大地と決定的に一致させた」からです。

続く


フランシスコ教皇に対する理解を深めるために:教皇フランシスコの新しさと第二バチカン公会議の展開

2020年04月21日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ステイ・アット・ホーム(不要不急の外出自粛)の機会を利用して、フランシスコ教皇の思想(在位2013 - 現在)をよく理解するように努めましょう。

昨年は、教皇の訪日以外にも、アマゾン・シノドスやパチャママ、ドイツのシノドスの道、などの報道が大きくなされました。では、私たちの現教皇であるフランシスコは、これからカトリック教会をどのようにしようとするのでしょうか?

教皇フランシスコは、ヨハネ・パウロ二世とは違った道を行こうとするのでしょうか?それとも、同じ方向に動いているのでしょうか?

私たちは、教皇フランシスコは、第二バチカン公会議の路線を忠実に歩んでいる、と主張します。ただし、その進み方が加速度的に早まり、第二バチカン公会議の中に種子として小さく潜んでいたものが、花を咲かせ、実を付けつつあるという意味で「新しさ」も生じています。

これまでの7年にわたる在位期間での活動や発言を振り返り、フランシスコ教皇に対する理解を深めたいと思います。

第二バチカン公会議以後の教皇たちの行動の指針となる原理は、人間中心主義です。第二バチカン公会議が訴えた新しいヒューマニズムです。

「近代」の特徴は、世界が天主から離れること、この世を聖なるものと切り離すこと、世界の世俗化です。市民社会から教会とキリストと天主とを引き離すことです。聖なるもの(宗教)が、世俗の市民社会(政治)を指導することがないように、それ以前は両者のうちにあった調和を否定して、分離させることです。これは革命によってなされました。

新しいヒューマニズムは、革命によって引き起こされてしまった教会と国家の分裂を乗り越えようと、世俗のことがら(環境問題、移民政策、など)に言及し、それを聖なるものとしようとするかのようです。世俗と宗教の混同です。

もはや教会は、天主から啓示された超自然の真理を、世界や世俗の政治指導者たちに教えようとはしません。そうではなく、教会は世俗と対話し、世俗に聴従します。

人間中心主義の原理がどのように適応されるかについては教皇によって違いがあるとはいえ、しかし、公会議後の教皇たちは皆、同じ原理に従って動いています。

ここでは、図式的に第二バチカン公会議の思想の流れを見てみましょう。

【第二バチカン公会議:現代世界憲章 Gaudium et spes, 22】
「事実、天主の子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた。」
Ipse enim, Filius Dei, incarnatione sua cum omni homine quodammodo Se univit.
スペイン語訳:El Hijo de Dios con su encarnación se ha unido, en cierto modo, con todo hombre.)

それが👇こうなる

【教皇ヨハネ・パウロ二世の回勅『人間の贖い主』 REDEMPTOR HOMINIS, 8 & 13】
「キリストは自分自身をすべての人間と一致させた。」

【カトリック教会の公教要理 432】
「キリストは、御托身を通して、自分自身をすべての人間と一致させた。」

それが👇こうなる

【教皇フランシスコの回勅『ラウダート・シ』LAUDATO SI, mi Signore, 245】
「天主は自分自身を私たちの大地と決定的に一致させた。」
「主はご自身をわたしたちの地球と決定的に結ばれた」(カトリック中央協議会訳)
245. ((Dios) se ha unido definitivamente a nuestra tierra.

お気づきになられたでしょうか?

ヨハネ・パウロ二世の「キリストは自分自身をすべての人間と一致させた」ということを乗り越えて、
フランシスコは「天主は自分自身を私たちの大地と決定的に一致させた」と主張しています。

これが教皇フランシスコの新しさであり、それと同時に、第二バチカン公会議の中にあった種子が成長した部分です。

これについて、さらに考察を続けましょう。

(続く)






私たちの主イエズス・キリストの聖像を聖骸布による復元像と比較する

2020年04月15日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

私たちの主イエズス・キリストの聖像をいくつか御紹介いたします。
聖骸布による復元像と比べてみて下さいね。







以下は、聖骸布に基づく復元像














--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】