Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ礼拝し希望し御身を愛します!御身を信ぜぬ人々礼拝せず希望せず愛さぬ人々のために赦しを求めます(天使の祈)

王たるキリストへの賛歌 Te sæculórum Príncipem と Vexilla Christus inclita を(聖務日課から)羅和でご紹介いたします

2020年10月20日 | カトリックとは

王たるキリストへの賛歌を(聖務日課から)羅和でご紹介いたします。

Te sæculórum Príncipem, 千代の八千代の君主なる御身

Te sæculórum Príncipem, 千代の八千代の君主なる御身を
Te, Christe, Regem Géntium, キリストよ、諸国の王なる御身を
Te méntium te córdium 御身を精神と心の唯一の
Unum fatémur árbitrum. 判定者と私たちは告白する。
   
Scelésta turba clámitat : 邪悪な群れは叫ぶ
Regnáre Christum nólumus : 「俺たちはキリストの支配を望まない」と
Te nos ovántes ómnium 私たちは御身を全て人々の最高の王と
Regem suprémum dícimus. 拍手喝采して宣言する。
   
O Christe, Princeps Pácifer, おお、キリストよ、平和を与える君よ、
Mentes rebélles súbjice: 逆らう人々の心を平定し、
Tuóque amóre dévios, 御身の愛によって道を外れた人々を
Ovíle in unum cóngrega.  一つの群れと集め給え。
   
Ad hoc cruénta ab árbore それのために、流血の木に
Pendes apértis bráchiis, 御身は掛けられ両の腕(かいな)を開き
Diráque fossum cúspide 剣にて開かれた
Cor igne flagrans éxhibes. 火に燃える聖心を見せ給う。
   
Ad hoc in aris ábderis それのために、御身は祭壇に隠れ給う、
Vini dapísque imágine, ブドウ酒と食事の姿で。
Fundens salútem fíliis 子供たちに救いを注ぎながら
Transverberáto péctore. 胸を突き刺されて。
   
Te natiónum Præsides 諸国民の指導者(政府)たちは
Honóre tollant público, 公けの名誉を捧げつつ、
Colant magístri, júdices, 学者たちも、裁判官らも、御身を崇敬し
Leges et artes éxprimant. 法律も芸術も、それを表明せんことを。
   
Submíssa regum fúlgeant 奉献された王たちの御旗らが
ibi dicáta insígnia: そこで輝き出んことを。
Mitíque sceptro pátriam 柔和な支配に祖国を
Domósque subde cívium. 全ての家庭を奉献せよ。
   
Jesu tibi sit glória, イエズスよ、御身に栄光あれ、
Qui sceptra mundi témperas, 御身はこの世の支配を司り給う、
Cum Patre, et almo Spíritu, 御父と、聖霊とにも、栄光が
In sempitérna sæcula. Amen. 代々、とこしえに。アメン


Vexilla Christus inclita キリストは誉れ高き御旗

Vexilla Christus inclita キリストは誉れ高き御旗を
Late triumphans explicat: 凱旋して大きく広げ給う、
Gentes adeste supplices, 民々よ、跪いて来たれ、
Regique regum plaudite. 王の王に喝采せよ。
   
Non Ille regna cladibus: 彼が諸国を服従させるのは、破壊によるのでもなく、
Non vi metuque subdidit 暴力によるのでも、恐怖によるのでもない。
Alto levatus stipite, [十字架の]木に高く挙げられて、
Amore traxit omnia. 全てを愛によって引き寄せた。
   
O ter beata civitas 三重(みえ)に幸いなる国よ、
Cui rite Christus imperat, そこにキリストが合法的に命令し、
Quæ iussa pergit exsequi 天からこの世へ命じられた
Edicta mundo cælitus! 法の順守を実行する社会!
   
Non arma flagrant impia, 不敬な戦争は火を噴かず、
Pax usque firmat fœdera, 平和は条約を固め、
Arridet et concordia, 心の一致も微笑み、
Tutus stat ordo civicus. 市民秩序は安全に立ち留まる。
   
Servat fides connubia, 忠誠は、婚姻を守り、
Iuventa pubet integra, 若者は、貞潔を尊び、
Pudica florent limina 家庭生活の諸徳により、
Domesticis virtutibus. 慎み深い家族は花咲く。
   
Optata nobis splendeat 望まれたこの光は私たちに光り輝かんことを、
Lux ista, Rex dulcissime: いとも甘美なる王よ、
Te, pace adepta candida, 燦然たる平和を楽しむことにより、
Adoret orbis subditus. [御身に]服従したこの世が御身を礼拝せんことを。
   
Iesu, tibi sit gloria, イエズスよ、御身に栄光あれ、
Qui sceptra mundi temperas, 御身は世の王笏を統括し給う、
Cum Patre, et almo Spiritu, 聖父と聖霊と共に、
In sempiterna sæcula. Amen. 代々に至るまで、アメン。

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2020年10月25日は、王たるキリストの祝日(耶稣基督君王 예수 그리스도 왕 첨례)です。聖伝のミサのラテン語・日本語・中文・韓国語の対訳のテキストをご紹介いたします

2020年10月20日 | ミサ聖祭

2020年10月25日は、王たるキリストの祝日(D. N. IESU CHRISTI REGIS 耶稣基督君王 예수 그리스도 왕 첨례)です。聖伝のミサのラテン語・日本語・中文・韓国語の対訳のテキストをご紹介いたします

【ミサ聖祭』ピオ十一世教皇は一九二五年の聖年の記念として、一九二五年十二月十一日付回勅をもって、キリストの普遍的王制の祝日を定め、一九二六年から祝うことになった。典礼暦年の終わりに、公教会は、天の諸聖人の祝日を行い、煉獄の霊魂のために祈る。あたかもこのころに定められている王たるキリストの祝日は、キリストの神秘体という大いなる真理を黙想させるのである。「主、王の王」(ピオ十一世の言葉)なるキリストは、天地万物をさばき、すべてを一つに結ぶために、光栄を帯びて再臨し給うであろう。

教宗庇护十一世,鉴于世俗放任主义的猖獗,整个的世界为着国内和国际的战争,混乱得不可言状,在一九二五年圣年将告终之时,特定了耶稣君王的瞻礼,为使普世的信友承认祂有统治万民和个人的权力。非在祂“人而天主”普世唯一的君王之下,人类断不能享受和平的幸福。耶稣的王位在圣教其它的瞻礼中也屡次明白揭示着:请看三王来朝和耶稣升天等瞻礼,不是很明显指示我们的吗?至于在耶稣受难的时节,圣教的礼仪也显示祂因绝对服从圣父,受苦受难,得到了光荣的胜利,以致上天下地闻祂的名而皆起敬;这不是指基督享有无上的王位是什么呢?在今天的弥撤中,我们该求基督为万民之王,使宇宙的秩序重新恢复(集祷经)。因基督是真理的王(福音),把我们的理智须隶属于真理之下,这便是说:基督王在我们心中的。我们若欲进基督的真理和生命之国,圣德和圣宠之国,正义、仁爱及和平之国,必须把我们所有的整个灵魂和肉身属祂的权下(颂谢引)。

예수 그리스도 왕 첨례 '저는... 이 세상 끝까지 통치하시리니 만왕이 저를 흠숭하고 만민이 저를 섬기리로다'(층계경) '현대'인은 학문의 연구, 향락, 국가에 대한 존경 등 온갖 면에 있어서 '그가 관련하는 것들에 대하여는 군주'처럼 행세한다. 그렇지만 우리는 자원의 창조자가 아니라 창조주의 수익자에 지나지 않는 것이다. 오늘 첨례는 '만백성'에게 있는 '상처'는 죄로 인하여, 즉 이러한 타고난 선물을 남용함으로써 생긴다는 것과 '만물은 그리스도 안에 복귀되어야 한다는 것'을 다시금 확인하게 된다.(축문) 예수 그리스도만이 홀로 '죽임 받았던 양'(초입경)을 구속하실 권을, 아니 당연히 가질 권을 가지신 분이며, 온 '땅'위의 왕이시고(층계경), 우리 마음 안의 진리의 왕이시며(복음), 당신 법의 '기준' 밑에 우리 의지의 왕이시고 (영성체후 축문). 우리 마음 안에 사랑의 왕(서간경)이 되실 당연히 가지실 권을 가지신다. 사람들이 그리스도를 왕으로 모실 때에만 '주는 당신의 백성들에게 평화중에 강복하시리라'(영성체경) 하셨다.

Dominica ultima octobris 十月最後の主日 10月最后一个主日 .
D. N. IESU CHRISTI REGIS 王たるイエズス・キリスト 耶稣基督君王 예수 그리스도 왕 첨례
I classis 一級祝日 一等复式【白】 .
Ant. ad Introitum. Apoc. 5, 12 ; 1, 6. 入祭文 黙示録 5ノ12、 1ノ6 进台咏(默5:12,1-6) 초입경(성요왕묵시5.12,1,6)
Dignus est Agnus, qui occísus est, accípere virtútem, et divinitátem, et sapiéntiam, et fortitúdinem, et honórem. Ipsi glória et impérium in sǽcula sæculórum. 屠られた羔(こひつじ)は、力と天主性と上智と剛毅と名誉とを受けるにふさわしい。この方に世々に光栄と権能とがあらんことを。 被杀的羔羊,实在配得领受权势、万美万善、智慧、能力和尊位;愿祂获得荣耀和王权,世世无穷。 죽임을 받은 고양이 권능과 천주성과 지혜와 능력과 명예를 받기에 합당하시니 저에게는 영광과 통치권이 세세에 있으리로다.
Ps. 71, 1. 詩篇71ノ1 咏71:1 (성영71.1) 
Deus, iudícium tuum Regi da : et iustítiam tuam Fílio Regis. 天主よ、王に御身の審判権を与えよ。王の子に御身の正義を[与えよ]。 天主啊!求祢将审判的权能赐给王,将祢的正义赐与王的儿子。 천주여 네 심판을 왕에게 주시고 네 의덕을 왕자에게 주소서. 
V/. Glória Patri. V/. 願わくは聖父と・・・(栄誦)。 光荣归于父……。 영광이 부와 자와 ...
Dignus est Agnus, qui occísus est, accípere virtútem, et divinitátem, et sapiéntiam, et fortitúdinem, et honórem. Ipsi glória et impérium in sǽcula sæculórum. 屠られた羔(こひつじ)は、力と天主性と上智と剛毅と名誉とを受けるにふさわしい。この方に世々に光栄と権能とがあらんことを。 被杀的羔羊,实在配得领受权势、万美万善、智慧、能力和尊位;愿祂获得荣耀和王权,世世无穷。 죽임을 받은 고양이 권능과 천주성과 지혜와 능력과 명예를 받기에 합당하시니 저에게는 영광과 통치권이 세세에 있으리로다.
Oratio. 集祷文 集祷经 축문
Omnípotens sempitérne Deus, qui in dilécto Fílio tuo, universórum Rege, ómnia instauráre voluísti : concéde propítius ; ut cunctæ famíliæ géntium, peccáti vúlnere disgregátæ, eius suavissímo subdántur império : Qui tecum vivit et regnat. 全能永遠の天主よ、御身は、御身の愛する御子、宇宙の王において、全てを復興させることを欲し給うた。願わくは、罪の傷により不一致となったそれぞれの民族の家族らを、主のいとも甘美な覇権に服さんことを。御身と共に、(…)。 全能永在的天主,祢曾愿立祢的爱子为普世的君王,藉以光复字宙的一切;求祢慨发仁慈,使那因罪恶创伤而分裂的天下万国,仍归属于祂至甘饴的统治之下。祂和祢……。 전능하시고 영원하신 천주여 너는 천상천하의 왕이신 네 사랑하온 아들을 인하여 만사를 바로잡고저 하셨으니 빌건대 죄의 상처로 불목하게 된 모든 백성들을 네 은혜로 저의 지극히 어지신 통치권에 속하게 하소서. 저 너와 성신과...
Léctio Epístolæ beáti Pauli Apóstoli ad Colossénses. 使徒聖パウロのコロサイ人への書簡の朗読。 书信 서간경
Coloss. 1, 12-20. コロサイ1ノ12-20 (哥1:12-20) (골로새서1.12-20)
Fratres : Grátias ágimus Deo Patri, qui dignos nos fecit in partem sortis sanctórum in lúmine : qui eripuit nos de potestáte tenebrárum, et tránstulit in regnum Fílii dilectiónis suæ, in quo habémus redemptiónem per sánguinem eius, remissiónem peccatórum : qui est imágo Dei invisíbilis, primogénitus omnis creatúra : quóniam in ipso cóndita sunt univérsa in cælis et in terra, visibília et invisibília, sive Throni, sive Dominatiónes, sive Principátus, sive Potestátes : ómnia per ipsum, et in ipso creáta sunt : et ipse est ante omnes, et ómnia in ipso constant. Et ipse est caput córporis Ecclésiæ, qui est princípium, primogénitus ex mórtuis : ut sit in ómnibus ipse primátum tenens ; quia in ipso complácuit omnem plenitúdinem inhabitáre ; et per eum reconciliáre ómnia in ipsum, pacíficans per sánguinem crucis eius, sive quæ in terris, sive quæ in cælis sunt, in Christo, Iesu, Dómino nostro. 兄弟たちよ、私たちをして、光にある聖徒らの遺産にあずかるにふさわしいものとなし給うた御父なる天主に、われわれは感謝する。天主はわれわれを、闇の力から救い出し、愛し給う御子の国に移し給うた。私たちは、御子において、彼の御血によって贖い、罪の赦しを得る。御子は、見えざる天主の姿(イメージ)であって、すべての被造物の長子である。万物は彼において創られた、天にあるもの、地上にあるもの、見えるもの、見えないもの、玉座も、主権も、権勢も、能力も、みな彼によって、彼のために創られた。御子は万物の先に存し、万物は彼のために存在する。彼は、体なる教会のかしらであり、因(もと)であって、死者の中から最初に生まれ給うた者である。それは、すべてにおいて、首(かしら)となり給うためである。御父は、すべての充ち足りたものを御子に宿らせ、そして、彼によって、彼において、すべてのものを和睦させ、御子の十字架の御血によって、地にあるものも、天にあるものも、平和にさせようと望み給うた。われらの主イエズス・キリストにおいて。 弟兄们:我们感谢天主圣父,因为祂使我们配在光明中与圣徒共同分享遗产。天主把我们从黑暗的势力抢救出来,把我们引入祂爱子的王国。因着这爱子、借着祂的血、我们获得了救赎之恩和罪过的赦免。天主是不可见的,圣子是祂的肖像,在一切受造物中作首生子。的确,天上地下的一切都因着祂才受造了;可见的一切,和不可见的一切:上座者、宰制者、统权者、异能者、都藉着祂并以祂为目的而受造。在没有万物以前,就有祂;万物都借着祂而存在。教会是祂的身体,祂是这身体的头。因为祂是一切的根源,祂是从死者中首先复活者,这样,祂在一切方面高占首位。圣父乐于使完满无缺的美善居住在祂内,并且藉着祂在十字架上所流的圣血,建立了和平,便因着祂,使地面和天上的万物与自己重归于好:在我们主耶稣基督内。 형제들아 우리로 하여금 광명중에 성인들의 몫을 얻기에 합당한 자 되게 하신 천주 성부께 감사하나니 저는 저 어두움의 권하에서 우리를 구원하사 사랑하온 아들의 나라에 옮겨주셨도다. 우리는 그 아들 안에 그의 피로 말미암아 구속 즉 죄의 사함을 얻었도다. 저는 볼 수 없는 천주의 모상이요 만물중에 첫째로 나신 자시니 대저 저로 말미암아 천상천하의 유형무형한 만물이 조성되었고 좌, 권, 주, 능 등의 만물이 다 저로 말미암아 저 안에 조성되었도다. 저는 만물이 있기 전에 계시고 만물이 저로 말미암아 있도다. 저는 비롯음이시요 죽은 자 가운데로조차 첫째로 부활하신 자시며 그 몸인 성교회의 머리시로다. 저는 만물중에 초월하시니 대저 천주 저 안에 (천주의) 충만함이 거하기를 원하시고 천상천하의 만물을 십자가에서 흘리신 피로써 우리 주 예수 그리스도 안에 화목케 하사 저를 인하여 당신과 화해시키셨도다.
Graduale. Ps. 71, 8 et 11. 昇階誦 詩篇 71ノ8,11 台阶咏(咏71:8-11) 층계경(성영71.8,11)
Dominábitur a mari usque ad mare, et a flúmine usque ad términos orbis terrárum. [主は]海から海まで、川から地球の果てまで、君臨し給うだろう。 自这海直到那海,从大河直到地极,祂必要为王。 저는 바다에서 바다까지 또 강에서 땅지경까지 통치하시리니 
V/. Et adorábunt eum omnes reges terræ : omnes gentes sérvient ei. V/. 地のすべての王は、主を礼拝するだろう。すべての民は、主に仕え奉るだろう。 诸王必要崇拜祂,万民必要奉事祂。 만왕이 저를 흠숭하고 만민이 저를 섬기리로다.
Allelúia V/. Dan. 7, 14. アレルヤ誦 ダニエル 7ノ14 阿肋路亚!阿肋路亚!(达7:14) 알렐루야 알렐루야.(다니엘선지서7.14) 
Allelúia, allelúia. V/. Potéstas eius, potéstas ætérna, quæ non auferétur : et regnum eius, quod non corrumpétur. Allelúia. アレルヤ、アレルヤ。 V/. その権力は、永遠の権力であり、取り去られることはないだろう。その国は亡ぶことがない。アレルヤ。 祂的王权永存不替,祂的国度永不沦亡。阿肋路亚。 저의 통치권은 영원한 권이니 빼앗지 못할 것이요 저의 나라는 없어지지 않으리로다. 알렐루야.
+ Sequéntia sancti Evangélii secúndum Ioánnem. .ヨハネによる聖福音の続誦。 福音 복음
Io. 18, 33-37. ヨハネ 8ノ33-37 (若18:33-37) (성요왕18.33-37)
In illo témpore : Dixit Pilátus ad Iesum : Tu es Rex Iudæórum ? Respóndit Iesus : A temetípso hoc dicis, an alii dixérunt tibi de me ? Respóndit Pilátus : Numquid ego Iudǽus sum ? Gens tua et pontífices tradidérunt te mihi : quid fecísti ? Respóndit Iesus : Regnum meum non est de hoc mundo. Si ex hoc mundo esset regnum meum, minístri mei útique decertárent, ut non tráderer Iudǽis : nunc autem regnum meum non est hinc. Dixit ítaque ei Pilátus : Ergo Rex es tu ? Respóndit Iesus : Tu dicis, quia Rex sum ego. Ego in hoc natus sum et ad hoc veni in mundum, ut testimónium perhíbeam veritáti : omnis, qui est ex veritáte, audit vocem meam. そのとき、ピラトは、イエズスを呼び出して、「あなたはユダヤ人の王か?」ときいた。イエズスは、「あなたは、自分でそういうのか?あるいは、ほかの人が私のことをそう告げたのか?」とおおせられた。するとピラトは、「私をユダヤ人だと思うのか。あなたの国の人と司祭長たちがあなたを私にわたしたのだ。あなたはなにをしたのか?」ときいたので、イエズスは、「私の国は、この世のものではない。もし私の国がこの世のものなら、私の兵士たちは、ユダヤ人に私をわたすまいとして戦っただろう。だが、私の国は、この世からのものではない」とお答えになった。ピラトが「するとあなたは王か?」ときいたので、イエズスは、「あなたのいうとおり、私は王である。私は真理を証明するために生まれ、そのためにこの世に来た。真理につく者は私の声を聞く」とお答えになった」。 那时候,比拉多对耶稣说:“祢是犹太人的国王吗?”耶稣回答说:“这由你自己说的?还是别人论及我而对你说的?”比拉多说:“难道我是犹太人吗?祢本国人和司祭长把祢交给我……祢做了什么?”耶稣回答说:“我的王国不是这世界的;假使我的王国是这世界的,我的臣仆势必反抗,不让把我交给犹太人;但我的王国不是这里的。”比拉多对祂说:“那么,祢是国王吗?”耶稣回答说:“你说了:我是国王。我正是为真理作证而诞生,来到世界上。凡属真理的人,听我的话。” 유시에 비라도 예수께 이르되 '네가 유데아인의 왕이냐' 예수 대답하시되 '네가 스스로 이 말을 하느뇨 혹 다른 이가 나를 들어 네게 말하였느뇨.' 비라도 대답하되 '네가 유데아인이냐. 네 나라 사람들과 제관장들이 너를 내게 잡아 보내었으니 너 무엇을 하였느뇨.' 예수 대답하시되 '내 나라는 이 세상 것이 아니니 만일 내 나라이 이 세상 것이런들 내 신민들이 일정코 대적하여 나로 하여금 유데아인에게 잡히지 이니케 하였으리라. 그러나 내 나라는 여기 있지 아니하니라.' 이러므로 비라도 예수께 이르되 '그러면 네가 왕이냐.' 예수 대답하시되 '네가 바루 말하니 나 과연 왕이로다. 나 이를 위하여 탄생하여 세상에 옴은 하여금 진리를 증거코자 함이니 무릇 진리를 쫓는 자는 다 내 말을 듣느니라' 하시니라.
Credo 信経 信经 (신경 외움)
Ant. ad Offertorium. Ps. 2, 8. 奉献文 詩篇 2ノ8 奉献咏(咏2:8) 제헌경(성영2.8)
Póstula a me, et dabo tibi gentes hereditátem tuam, et possessiónem tuam términos terræ. 私に求めよ、そうすれば私はあなたに諸国をあなたの遺産として与えるだろう。地の果てまでをあなたの所有として。 祢求我吧!我便将万民赐与祢,作祢的基业,将地极赐给祢,做祢的领土。 너 내게 청하면 나 네게 백성들을 유업으로 주고 땅 지경을 소유로 주리로다. 
Secreta 密誦 密祷经 묵념축문
Hóstiam tibi, Dómine, humánæ reconciliatiónis offérimus : præsta, quǽsumus ; ut, quem sacrifíciis præséntibus immolámus, ipse cunctis géntibus unitátis et pacis dona concédat, Iesus Christus Fílius tuus, Dóminus noster : Qui tecum. 主よ、御身に、人間の和解のいけにえを捧げ奉る。願わくは、私たちがこの犠牲によって屠る方、われらの主イエズス・キリスト御自身が、各々の国々に一致と平和との贈り物を与え給わんことを。御身と共に、天主として、聖霊との一致において、世々に生き且つ治め給う主よ。 主,我们将为人类向祢求和解的牺牲,呈奉于祢;求祢恩准:使我们在此圣祭中,所用以祭献的祢圣子我们主耶稣基督,将统一与和平之恩,赐给天下万国。祂和祢……。 주여 우리가 인류의 화해의 예물을 네게 드리나이다. 이 제사에 네 아들 우리주 예수 그리스도를 네게 제헌하오니 빌컨대 저로 인하여 모든 백성들에게 합일과 평화의 은혜를 태워 주소서. 저 너와 성신과 ...
Præfatio   序誦 王たるキリストの序誦 耶稣君王的颂谢引 .
Vere dignum et iustum est, æquum et salutáre, nos tibi semper et ubíque grátias ágere : Dómine, sancte Pater, omnípotens ætérne Deus : Qui unigénitum Fílium tuum Dóminum nostrum Jesum Christum, Sacerdótem ætérnum et universórum Regem, óleo exsultatiónis unxísti: ut seípsum in ara crucis, hóstiam immaculátam et pacíficam ófferens, redemptiónis humánæ sacraménta perágeret: et suo subjéctis império ómnibus creatúris, ætérnum et universále regnum, imménsæ tuæ tráderet Majestáti: regnum veritátis et vitæ, regnum sanctitátis et grátiæ, regnum justítiæ, amóris et pacis. Et ídeo cum Angelis et Archángelis, cum Thronis et Dominatiónibus, cumque omni milítia cœléstis exércitus, hymnum glóriæ tuæ cánimus, sine fine dicéntes:  Sanctus 主よ、聖なる父よ、全能永遠の天主よ、われらが御身に、いつもどこにても感謝を捧げるのは、実にふさわしく正しいこと、義務と救いである。御身は、御独り子なるわれらの主イエズス・キリスト、永遠の司祭、万物の王を、喜びの聖油で塗油し給うた。それは、御子が、十字架の祭壇で、汚れなき且つ平和をもたらすいけにえとして自分自身を捧げつつ、人類の贖いの玄義を果たし給うためであった。また、すべての被造物がその支配に服し、永遠で普遍の王国を、御身の計り知れない御稜威に渡し給うためであった。真理と生命との王国、聖性と聖寵との王国、正義と愛と平和との王国を、である。故に、天使らと大天使らと共に、座天使らと主天使らと共に、また天の万軍と共に、われらは、終わりなく、御身の御光栄の讃歌を歌い続ける。 聖なるかな、… 主、至圣的父、全能永生的天主,我们时时处处颂谢祢,实是正义而必须的,属于我们天职的,也属我们得救的。祢曾以喜宠之油、敷圣了祢的惟一圣子、耶稣基督我们主,成为永远的司祭兼普世的君王,为使祂于刑架的祭坛上奉献自己,做个无玷的与和平的牺牲,以完成救赎人类的奥迹;并为使祂把一切受造之物隶属于祂的权下之后,将永久普遍之国,即真理、生命之国,圣德、宠爱之国,正义、仁爱与和平之国,交于祢无限尊威之前。为此、我们随同诸位天神、总领天神、上座者和宰制者以及天上万军、合唱光荣祢的圣歌,无穷期地说:圣、圣、圣……。 .
Ant. ad Communionem. Ps. 28, 10 et 11. 聖体拝領誦 詩篇 28ノ10,11 领主咏(咏28:10-11) 영성체경(성영28.10,11)
Sedébit Dóminus Rex in ætérnum : Dóminus benedícet pópulo suo in pace. 王なる主は永遠に座し給うだろう。主は、御民に平和のうちに祝福し給うだろう。 主坐着为王,直到永远;主必将和平之福赐给祂的百姓。 주 영원히 왕으로 임하시며 주 당신 백성들에게 평화중에 강복하시리로다.
Postcommunio 聖体拝領後の祈 领后经 영성체후축문
Immortalitátis alimóniam consecúti, quǽsumus, Dómine : ut, qui sub Christi Regis vexíllis militáre gloriámur, cum ipso, in cælésti sede, iúgiter regnáre póssimus : Qui tecum. 主よ、不死の糧を拝領し奉った我らはこい願い奉る。王たるキリストの御旗のもとにたたかうを誇りとするわれらが、天の玉座において、キリストとともに、とこしえに統治するを得んことを。御身と共に、天主として聖霊との一致において、生きかつ治め給う主よ、 Rアメン。 主,我们业已领了常生之粮,求祢恩赐我们:凡在基督君王的旗帜下从事作战以为荣耀的,日后也能同祂一起在天国的宝座上永远作王。祂和祢……。 주여 우리가 불후의 양식을 영하고 간절히 비오니 그리스도 왕의 기 아래서 너를 섬김을 영광으로 아는 우리로 하여금 저와 함께 천상좌 위에서 영원히 왕하게 하소서. 저 너와 성신과...

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カトリックの本当のハロウィンを過ごし方を知っていますか?諸聖人の大祝日、その最高の祝い方を知っていますか?

2020年10月19日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2020年10月18日、聖霊降臨後第20主日に東京で録画した小野田神父のメッセージをご紹介いたします。

チャンネル登録をなさいますと、新しくアップされた動画の通知が届くので便利です。チャンネル登録は、ここ「SSPX JAPAN 聖ピオ十世会日本」をご覧ください。

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離教にあらず、破門にあらず 1988年6月30日の司教聖別の考察:時間と空間を超えた教会の伝えられた真の一致を守るために (その4)

2020年10月19日 | カトリックとは


 宗教統一:教会の一致に対する攻撃

 信仰の一致は「意志の調和」と「行動の合致」との「必要不可避の基礎」であるから、すなわち、教会におけるすべての一致の基礎であるから、教会当局が、「信仰の一致」に多かれ少なかれ深刻に反する「交わりの一致」又は「統治の一致」を要求するとき、その要求は教会の一致に対する攻撃となる。

 教皇レオ十三世は、既に1899年に、Testem benevolentiaeのなかでこう書いている。

 「彼ら[活動主義のアメリカニストの司教たちのこと]は、実に、『道を離れたものたちの心を得るために、教義のある部分に関してあたかも重要ではないかのように口を閉ざし、あるいは、教会がいつもそのように信じていた意味を彼らにもはや悟らせないようにある点に関して意味を弱める、お茶を濁すことがふさわしい』と考えている。この考え方がどれほど排斥するに値するかは、わざわざ長い演説をする必要もない。…カトリック教義のある原理を忘却の闇の中に包み込むためにそれを覆い隠そうとする沈黙に、咎めるべき誤りが全くないなどと信じてはならない。なぜなら、キリストの教えのすべてを形成するこれらすべての真理の作り主にして教師はただお一人しかおられないからである。…したがって天主から受けた御教えのいかなる部分も、それがたとえいかなる理由であろうとも、取り除いたり省略することがないように誰しも気をつけなければならない。なぜなら、もしそうするものがいるとすれば、彼は教会から離れてしまったものたちを教会に呼び戻すよりもむしろ、カトリック信者を教会から離れさせることになるであろうからである。願わくは離れたものたちが帰ってくるように! 全くわたしの心にとって、それより願わしいことはない。 彼らが帰ってくるように!キリストの本当の家から遠くさまようものたちがすべて帰ってくるように!しかし、キリストご自身がお示しになったまさにその同じ道以外のいかなるほかの道によらずに! である。」

 これについて、いかなる解説も不要である。レオ十三世はここで、平和だけを叫ぶ宗教統一運動は信仰の純粋さと完全さを損なわせるものであること、そして、そのこと自体が教会内の交わりの一致を損なわせるものであることを明らかに示されたのである。

 そして、第二バチカン公会議以来長々と説かれ続けているのはまさにこの平和一本槍の宗教統一運動なのであり、この宗教統一運動の「もはや後戻りできない」道を歩み続けることは、信仰と完全性と純粋さを損ない続けようとすることに等しいことはわざわざ証明するに及ばない。そしてそのことは完全にアシジでの宗教統一祈祷会が示しているように、教会内の一致を引き裂いているのである。

 レオ十三世が「カトリック信者を、教会から離れさせることになるであろう」と言っていることに戻れば、実に、もし信者が自分自身により、自分から、非難されるに値するやり方で離れない限り、誰ひとりとしてカトリック信者を教会から離れさせることはできないからである。教会当局の指針の為に一時の間これから距離を置いたとしてもそれは教会から離れたことを意味しているのではない。むしろその反対である。『カトリック神学大辞典』はこう書いている。

 「少なくとも十四、十五、十六世紀の中世の神学者たちは、離教(schismus)とは教会の一致からの非合法的な分離を意味するのだということを記そうと大変注意を払っている。なぜなら、彼らによれば、教皇が誰かに悪いことをあるいはふさわしくないことを命じた場合、彼が教皇に従順たることを拒んだときのように、至って合法的な分離がありうるからである(Terrecremata著: Summa de Ecclesia)。このことを考察するのは当然で全く余計なことかのように思われる。[しかし今日ではそうではない!]そして、不正当な破門のような場合など、一致からの、単なる外的で表面的にしかすぎない分離のケースがありえる。」
(comme dans le cas de l'excommunication injuste, il y aurait là une séparation de l'unité purement extérieure et putative. )
Dictionnaire de Théologie catholique, sous schisme, t. XXVII, col. 1302.


コメント

【再掲】教皇ピオ十一世の回勅「クアス・プリマス Quas Primas」- キリストの御国におけるキリストの平和 -

2020年10月19日 | カトリックとは
教皇ピオ十一世の回勅「クアス・プリマス Quas Primas



一、問題の提起

 教皇になってすぐに(Quas primas post initum Pontificatum)、私は全教会の司教に最初の回勅を送り、人類が味わっている様々な困難の主な原因がどこにあるか指摘しました。

 人類の大部分が、個人生活からも家庭や国家からも、イエズス・キリストとその貴い掟を閉め出してしまったために、これ程多くの不幸が世界に広がったのです。そして、個人と国家が救い主の支配に背き、これを拒み続ける限り、諸国民の間に永続的な平和が打ち立てられる見通しは全くありません。

 私達が追求しなければならないのは、「キリストの御国におけるキリストの平和」です。私もこの点に関して、及ぶ限り力を尽くすことを約束しました。世界にキリストの平和を回復し、確立する最上の手段は、主に支配を委ねるよう努力することであると私は思っています。

 それでも人々のうちに、キリストおよび唯一の救いの道である教会に対する関心が芽生え、或いは盛んになってきたことは、よりよい時代への明るい希望を私の心の内に起こしました。これは救い主の支配を踏みにじり、その王国から追放されていた人々が、再び服従の義務につく準備をし、急いで帰ってくる印です。

 聖年を通じて行われた数々の忘れがたい出来事は、教会の創立者であり王である主に、輝かしい栄光を誉れをもたらしました。

 布教展覧会が催され、人々は教会が花婿の王国を地の果てまで拡大するため、不断の努力を傾けているのを目撃し、非常な感動を覚えたのです。そして宣教師たちの不屈の努力と犠牲によって、多くの国々がカトリックになったのを眺めると共に、まだ主の救いと慈しみの統治に服していないところがあることも知りました。

 また、聖年の間に、司教や司祭の引率でローマに来た人々は、ただ一つの目的、すなわち、聖ペトロ、聖パウロ両使徒の墓と私の前で、キリストへの忠誠を誓うために来たのです。そして私が六人の証聖者、および童貞女を、その英雄的な徳を立証して聖人の位に上げたとき、キリストの王国の上に光が注がれたと感じました。聖ペトロ大聖堂における荘厳な列聖宣言の後、感謝の祈りを唱える信者の群が「キリストよ、御身は栄光の王なり!Tu Rex gloriae, Christe!」と叫んだとき、私の心は言いようもない喜びと慰めに満たされました。天主を離れた人々や国々が妬みと不和にあおられ、滅びと死に向かって急ぐときも、天主の教会は聖なる男女の家系を絶えずキリストのために、生み育てています。この地上の御国で忠誠と従順を示す人々を、天国の永遠の幸福にキリストは招きます。

 それに、この祝いの年は、ニケア公会議から数えて千六百年目にあたりましたので私は記念の催しを行うように命じ、私自身バチカンの大聖堂でこれを行いました。それは特別に喜ばしいことです。というのは、ニケア公会議は信ずべきカトリック教義の一つとして、御一人子が御父と一体であることを、公言し、決定した上、使徒信経に、「その国は終わることなし cuius regni non erit finis」という言葉を付け加え、キリストの王としての権威を確認したからです。

 この聖年は、キリストの王国を称える数々の機会を提供してくれました。ですから、多くの枢機卿、司教、信者がた個々の、或いは連名の願いをいれて、私達の主、イエズス・キリストの王たる尊厳を祝う特別の祝日を典礼に加えて、この聖年を完結するのは、教皇権に相応しいことだと思います。

 尊敬する司教、司祭の皆様、このキリストの王位こそ私の大きな喜びであり、これについて少しお話ししたいと思います。

 私がキリストの王位について語ることを全て信者にわかりやすい方法で説明して下さい。そうすれば、私の宣言しようとする祝祭日が毎年祝われ、現在も将来も豊かな実りをもたらすことになるに相違ありません。

二、教義の解説、王たるキリストの支配権

1 キリストの王位の2つの意味

 キリストは、全てのつくられたものに優る、最高の地位を占めておられますから、比喩的な意味で「王」として称えられるのは、かなり以前からの習慣です。

 この意味で、キリストは「王として人々の知性を支配する」と言われます。これは、その知性の鋭さや知識の広さのためばかりではなく、キリストが真理そのものであり、すべとの人間がその真理をくみ、心から受け入れねばならないからなのです。

 キリストはまた「王として人々の意志をも司っておられる」のです。それは、キリストが、御自分のうちに聖なる天主の意志と人間としての完全に正しい意志を合わせて持っておられるため、ばかりでなく、キリストが霊能を持って、私達の自由意志をもっと高い行いに向かわせ動かしているからです。

 キリストが私達の心の王であると言われるのは、「一切の知識を越える愛」(エフェゾ3:19)そのものであり、主の慈悲と温良が、全ての人を引きつけているからです。まことに、イエズス・キリストほど強く広く愛された人間は今まで存在しなかっただけでなく、これからも存在しないでしょう。

 しかし、もし一層深く考えるなら、王の称号と権能は、比喩だけではなく、本来の意味で、人としてのキリストに属することを認めなければなりません。というのは、御父から「権力と栄光と御国」(ダニエル7:13ー14)を与えられているということは、人たるキリストについてだけしか言い得ないからです。つまり、<天主の御言葉>として見れば、御父と一体であり、既に万物を御父と共有し、全被造物の上に最高絶対の主権を有しておられるからです。

2 聖書からの証明

 キリストが王であることは聖書の至る所に現れています。彼こそヤコブから出た統治者であり(民数4:19)、聖なる山シオンを統べる王として御父に任命され、全ての国民を遺産として与えられ、地の果てまでもその領土とされた御者(詩編2)です。また婚宴の賛歌は将来のイスラエルの王を最上の富と権力をもつ王と称え「おお天主よ、御身の王座はとこしえに続き、御身の王国の杖は正義の杖なり」(詩編44:7)と歌っています。これと似た句は他にも沢山見いだせます。

 もっとはっきりキリストの君臨が示されている句を見ましょう。主の王国は境が無く、正義と平和によって栄えると詠まれています。「彼の世、正義が栄え、深い平和があるだろう、彼は海から海まで、川から地の果てまで治めるだろう」(詩編71:7ー8)。

 預言者の証言もこれに劣らず沢山あります。まず、よく知られているイザヤの預言を挙げましょう。「一人のみどりごが我々のために生まれた。一人の男の子が我々に与えられた。その肩に王の印があり、その名は霊妙、顧問、大能の天主、とこしえの父、平和の君と唱えられる。彼の治めるところは広大、限りなき平和のうちに、ダヴィドの座を、その国を、法を正義を持って今もいつまでも固め強められる」(イザヤ9:6ー7)。他の預言者たちもイザヤと同様なことを言っています。エレミアはダヴィドの家から出る「正しい枝」が「王となって世を治め、栄え、公平と正義を世に行う」(エレミア23:5)と預言し、ダニエルもまた、天上に天主がお築きになる王国を告げています。「これはいつまでも滅びることなく、・・・立って永遠に至る」(ダニエル2:44)と。また少し後の章では、次のように言っています。「私はまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が雲に乗ってきて、日の老いた者のもとに来ると、その前に導かれた。彼に主権と光栄と国とを給い、諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、無くなることが無く、その国は滅びることがない」(ダニエル7:13ー14)。ザカリアは慈しみの王が「ロバに乗る、すなわちロバの子である子馬に乗る」と言い、エルザレムに入るにあたって、群衆が彼に向かって「正しい者、救い主」と叫ぶだろうと預言しています(ザカリア9:9)。後に福音史家によって、これが全うされたことが認められました。

 旧約聖書の中で見いだしたキリストの王位についての教えは、新約聖書のうちに一層はっきり教えられ、認められています。

 例えばお告げの史実に簡単に触れると、大天使はマリアに向かって子を産むことを告げて、その子は「主なる天主によって父ダヴィドの王座を与えられ、永遠にヤコブの家を治め、その国は無窮のもの」(ルカ1:32ー33)と言っています。

 なおキリストも御自ら王としての権能について話しています。すなわち、義人と悪人の永遠の報いと罰について群衆に行った最後の説教の時、また、ローマ総督の公の質問にお答えになった時、また御復活の後使徒たちに全ての国民に教え、それに洗礼を授ける使命をお与えになったときなどです。このような機会にキリストは自分が王であると言われ(マテオ25:31ー40)、その称号をはっきりと示し(ヨハネ18:37)、天においても地においても、一切の権能が自分に与えられていることを荘厳に宣言されました(マテオ28:18)。

 特に最後の言葉は、彼の権能の偉大さと王国の無窮の広さを物語るものです。ですから、聖ヨハネが「地上の王の君」(黙示録1:5)を見て、「その上衣と股とに<王の王、主の主>という名が書かれていた」(黙示録19:16)と言ったのも不思議ではありません。御父が「万物の世継ぎにお定めになった」(ヘブレオ1:2)のは、このキリストなのです。キリストはこの世の終わりに、全ての敵を父なる天主の御足の下に置かれるまで(1コリント15:25) 統治しなければなりません。[oportet autem ipsum regnare, donec, in exitio orbis terrarum, ponat omnes inimicos sub pedibus Dei et Patris.]

 <すべての国に広がるべき、地上のキリストの国>であるカトリック教会が、毎年種々の典礼を使って、その創立者を、王、主、或いは諸国の王として一つの心をもって称えてきましたが、これも上述の聖書の教えから見れば当然でしょう。

 昔から詩篇を詠うとき儀式の中でキリストの王位を表す様々な称号を使ってきた教会は、今なお公式の祈りや、ミサ聖祭を捧げるとき、毎日これを用いています。この王たるキリストを絶え間なく賛美する点では東方典礼も私達の典礼と完全に一致しています。やはりこの場合においても「祈りの法は信仰の法」を示すのです。

3 キリストの王権の根拠

 主のこの尊厳と権能が何に基づくかと言うことをアレキサンドリアのチリロは次のようにはっきり示しています。すなわち「キリストが全被造物の上に主権を有しておられるのは強奪によって獲得したり、譲り受けたものではありません。御自らの本性と存在とによって、御自分のものなのです」(ルカ聖福音書注解)と。キリストの主権は位格的結合に基礎をおいています。従って天使や人間はキリストをただ天主として礼拝するのみでなく、人としてのその支配にも服しなければなりません。人たるキリストはその位格的結合によって全被造物の上に権力を獲得されているからです。

 しかし、私達に一層大きな喜びと慰めを与える考えがあります。キリストが生まれながらの権利だけでなく、救い主として獲得された権利によっても私達を支配すると言うことです。救い主にどれほどの恩を被っているかを忘れたものは次の言葉を思い出していただきたいものです。「あなたたちが・・・贖われたのは、金銀などの朽ちるものによるのではなく、傷もなくしみもない子羊のようなキリストの貴い御血による」(ペトロ前1:18ー19)。

 私達はもはや自分自身のものではありません。なぜなら、キリストが私達を「高値で」(1コリント6:20)買われたからです。そして私達のからだも「キリストの肢体」(1コリント6:15)なのです。

4 キリストの王権の本性

 ここでキリストの主権の意味と本質を簡潔に説明しておきましょう。今さら言うまでもないことですが、主権には3つの権能[立法・司法・行政権]が必要です。これを持っていないとその王権は無意味になります。贖い主の普遍的支配権については既に引用した聖書の箇所がはっきり証明しております。

 またイエズスが人間の贖い主であるのみでなく、(1)人々が服従すべき立法者でもあるということは信仰箇条として認めなければなりません(トリエント公会議VI-21)。福音書は主が法を既にお立てになったということを伝えていると言うよりもその法を定めたイエズスの姿を私達に示しています。その掟を守る人々はイエズスに対して自分たちの愛を示し、様々の形でその愛のうちに留まると言われています(ヨハネ14:15ー15:10)。

 また(2)裁判権も御父から与えられたことをイエズスはおん自ら言明されました。例えば安息日に奇跡で病人をいやしたと言ってユデア人たちがイエズスを訴えたとき「父は裁判なさらず、子に審判のことを全くお任せになった」(ヨハネ5:22)と言われたのです。この権能と一体となって全ての人々に対しても賞罰を与える権利があります。

 それから、(3)行政権もキリストに属しています。それは違反者が避けることのできない制裁を命ずるキリストに誰もが従わなければならないからです。

 しかしこの王国は何よりもまず精神的なものであり、精神的な事柄に関するのです。先に挙げた福音書の引用がこのことを十分に証明していますが、キリストは自らの行いによってそれを確証されました。当時はユデア人だけでなく使徒たちでさえ、メシアはイスラエルの自由を回復しその王国を再建するだろうと言う誤った期待を持っていました。イエズスはその様な空しい意見や希望を排斥されたのです。群衆が歓呼して取り囲み、イエズスを王にしようとした時も主はその栄誉を振り切って身を隠し群がる人々から逃げれられました。

 そして最後にローマ総督の前で自分の王国がこの世のものでないとはっきり宣言されました。

 その国に入るには生活を改めて準備し信仰と洗礼によらなければならないと福音書は言っています。その洗礼は外的な儀式ではあっても内的な再生をしるしもたらすのです。つまりキリストとその王国はただサタンと暗闇の力にだけ対立しています。そしてこの王国の国民は、富と地上の事物からの離脱、心の柔和、正義に対する飢え渇きを持つだけでなく、自分を捨て十字架を担って行かなくてはならないのです。

 キリストは御自分の御血で教会を贖い取られ、また人類の罪のために自分自身をいけにえとして捧げられ、常に捧げ続ける司祭なのです。ですから主の王職は贖い主と司祭の性格を帯びるのではないでしょうか。

 しかしキリストの王職がそうであるからと言ってこの世の事柄について人たるキリストが何の権威もないと考えるのは大きな誤りです。

 というのはキリストは御父から被造物に対する絶対の権利を与えられ全ての者を意のままにすることがお出来になるからです。それにもかかわらずこの世で生活された間は、主はこの支配権を行使されませんでした。そしてこの世の事物を所有したり管理したりすることをあえて望まず、それを所有者に当時も今も委ねておられるのです。「天上の王国を与えるものは、地上の王国を奪おうとされない Non eripit mortalia, qui regna dat caelestia」(御公現の賛歌より)。

 こうして贖い主の主権は全ての人々に及ぶのです。レオ13世のお言葉によれば「キリストの支配権はカトリック信者ばかりでなく、異端によって脇道に逸れたもの、或いは離教によって愛の絆を切って離れた派のものであっても、正しい洗礼によって清められ、法の上から見てやはり教会に属している人々にまで及びます。しかしそれのみならず、その支配権はキリスト信者以外の全ての人々をも包括するものでありますから、全人類がイエズス・キリストの権力のものに」あるのです(回勅「アンヌム・サクルム」1899年5月25日)。

 この点では個人も家庭もまた国家も何の相違もありません。なぜなら人間は社会を構成しても、個人の場合と同じようにキリストの主権のもとに服しているからです。

 従ってキリストは個人の救霊の泉であると同時に社会の救いの源でもあります。「救いは主以外のものによっては得られません。全世界に私達が救われる名はこれ以外には人間に与えられませんでした」(使徒行録4:12)。

 キリストはまた国民一人一人や国家全体の繁栄と真の幸福をもたらす御者です。「国家と国民は別々に幸福になるのではありません。何故かと言えば国家とは多数の人々が一緒に生きていく集まりだからです」(聖アウグスチヌスのマケドニアへの書簡)。

 従って、国の為政者は自分の権威を保ち、国の繁栄を望むなら、自分がキリストの支配に対して公に尊敬と従順を表すのみでなく、国民にもそれをおろそかにさせてはなりません。

 教皇位について私は法的権威の失墜と権威に対する尊敬が一般的に欠けてきたことについて話しましたが、それは今でも変わらぬ事実です。

「天主とイエズス・キリストが法と国家から除外され、権威が天主からではなく、人間に由来するように考えられてきたため、ついに権威の基礎そのものが取り去られることになりました。これは支配権と服従の義務の本質を無視したからです。その結果当然人間社会全体がぐらつくことになりました。なぜなら、その社会はもはや堅固な基礎も保護も持っていないからです」(回勅ウビ・アルカノ)。

5 その王国から生じる効果

 人間が公私両生活において、一度キリストの王権を認めるならば、信じがたいほどに社会は真実の自由、秩序と静穏、調和などの恩恵で満たされるのです。例えば主の主権は元首や為政者の人間的権威に宗教的な意味を与え、市民の服従の義務を高めるに違いありません。

 使徒聖パウロは妻は夫のうちにキリストを敬い、奴隷は主人のうちにキリストを崇めるよう命じましたが、人間として崇めるのではなく、ただキリストの代理者であるから服従するようにと忠告しました。「あなたたちは高く買われたのである。人間の奴隷にはなるな」(1コリント7:23)。なぜなら、キリストによって贖われた人が人間に服属するということは道理に適っていないからです。

 もし正しく選出された元首や為政者が支配権は自分のものではなく天主である王の命令によってその代理者としてこれを行っているに過ぎないのだという確信に満たされるなら、これらの人たちは必ずその権威を敬虔に賢明に行使するに違いありません。また法律を作成しそれを実施するうえにも共同善と国民の人間的尊厳を忘れることはないでしょう。そうすれば反逆の原因もなくなり静穏な秩序が確立され、社会が繁栄するでしょう。その場合には、国民が元首や為政者のうちに天主であり人であるキリストの姿と権威とを見るようになるのですから、元首や為政者が同じ人間であり、たとえ不適任で非難すべき点があるのが分かっても、それだけの理由で服従を拒むようなことはなくなります。

 更に一致と平和については一般に次のことが言えるでしょう。王国が広がり人類全体に及ぶようになれば人類も一致の絆を一層自覚するようになるに違いないでしょう。この自覚があれば、数々の闘争は予防され、全くその跡を絶ってしまうか、少なくともその過激さはなくなるでしょう。

 ですから、もしキリストの王国が権利として及ぶと同じく実際にも全ての国民に及ぶようになれば、王たるキリストがこの世にお与えになった平和について失望する理由は全くなくなります。この平和の王は「全ての者を和睦させ」るために「仕えられるためではなく、仕えるために来られ」ました。そして全ての者の主であられたのに、自ら謙遜の模範を示し、愛の掟に加えて謙遜の徳を自分の国の第一の法と定められたのです。しかも「私のくびきは快く、私の荷は軽い」といわれました。もし個人や家庭や国家が全てその支配をキリストに委ねるなら、非常に大きな幸福を得ることが出来るでしょう。先任者教皇レオ十三世も、25年前、全教会の司教に宛てて次のようにいわれました。

「万民がキリストの支配権を喜んで受け入れ、それに服し、また『全ての舌が主イエズス・キリストは父なる天主の光栄のうちにましますことを公言する』(フィリッピ2:11)時のみ、私達はこの多くの傷を癒すことが出来ましょう。その時こそ、一切の法は昔の権威を取り戻し平和が回復して剣と武器は手放されるでしょう」(回勅アンヌム・サクルム1899年5月25日)。

三、王たるキリストの祝日の設定

 全ての人々の上にこれらの祝福が豊かに実り、また、キリスト教的社会のうちにそれがいつまでも続くためには、救い主の王としての尊厳が出来るだけ広く認められなければなりません。

 このためには王であるキリストの特別な祝日を設けるのが一番良いでしょう。なぜなら、人々の心に信仰を起こさせ、内的な生活の喜びを感じさせるようにするには、教会のどんな公文書よりも信仰の奥義を毎年くり返して祝うほうが効果があるからです。そういう公文書が、信者の中でも比較的学識のある少数の人にしか理解されないのに反して、祝日はすべての信者を励まし教えます。書き教えるのはただ一度だけでしょうが、祝日は毎年、いいえ永久に語り続けるのです。文書は主に知性に働きかけるのみですが、祝日は知性と心、つまり人間全体によい影響を与えるのです。人は肉体と霊魂から成り立っています。従って目に見える盛大な祝日によって感動させられ、内的刺激を与えられるのです。そして様々の美しい儀式を通して天主の御教えを一層豊かにくみ入れ、自分のものとし、霊的生活の完成に役立てるようになるでしょう。

1 新しい祝日の制定は珍しくない

 時代の流れのうちに、このような祝祭日がキリストの民の必要に応じて次々と設定された来たことは歴史が教えています。例えば信者が一般的な危険にさらされ、これに対抗する力が必要となったとき、或いは忍び寄る異端の誤りを防ぐため、或いはまた、信仰の奥義や天主の恵みに対する尊敬を強めるために必要なときなどです。

 それで、キリスト教徒がひどく迫害された初代教会の時代に殉教者に対する信心が行われ始めたのです。聖アウグスチヌスは「殉教者を祝うことが殉教への励ましとなるためである」といっています。また後に証聖者、童貞女、更に、寡婦に対して典礼による祝祭が始められました。これも各人に必要な徳を信者が熱心に求めていく上に非常に大きな効果をもたらしました。しかしそれより一層豊かな実りを生じたのは聖母マリアの種々の祝日を設けたことです。その結果人々は天主の御母、身近な代願者に対する信心に大いに成長したばかりでなく、贖い主が十字架から与えた聖母を自分たちの母として、更に熱心に愛するようになったのです。聖母マリアや聖人達に対する公の正しい信心に由来する多くの祝福のうちでも特に著しいものは、教会が誤謬や異端からいつも完全に守られた来たことです。この点に関する天主の御摂理はただ感嘆するほかありません。天主は悪からでも常に善をお引き出しになります。天主は人々の信仰や敬虔さが弱められたり、カトリックの真理が誤った教えによって攻撃されるようなことさえ、たびたびお許しになりました。しかし常にその結果真理が新しい光を帯びて輝き、人々の信仰や信心は惰眠からさまされ、一段と強くなっていくのです。

 比較的近代になって教会暦に入れられた祝日も、同じような理由で起こり、同じような効果をもたらしています。御聖体の秘蹟に対する尊敬と信心が冷えてきたとき、御聖体の祝日が設けられました。これは荘厳な行列やそれに続く八日間の祈りによって、キリストを再び公に礼拝するように人々を促すためでした。またイエズスの聖心の祝日が設けられたのは、ヤンセニズムの暗さと陰鬱な厳格さに圧倒され、人々の心が冷たくなり、天主の愛と救いの希望を全く失ってしまったときでした。

2 世俗主義に反対してこれを設定する

 ですから全カトリック信者がキリストを王として崇敬することを私が定めたのも、現代的要求に応えるものであり、同時に社会を毒しつつある病害に対する特別な薬としたいからです。

 現代の病、それは、いわゆる世俗主義、その誤りと悪質な策動です。尊敬する皆様、皆様もご存じの通り、この悪は一日でできあがったものではありません。それはもう長い間いろいろな国のうちに隠れていたのです。

 そしていつの間にかキリストの全人類に対する支配が拒まれ、教会がキリストご自身から受けた権利さえも否定されてしまったではありませんか。そのため教会がその権利を持って人類を教え、法を制定し、永遠の救いに導くために人々を治めることが認められなくなったのです。

 そしてついに、キリストは誤った宗教と同列に扱われ、それと同等の地位にまで落とされるようになりました。

 その上、教会は国家の権力のもとにおかれ、元首や為政者が多かれ少なかれ意のままに扱っています。ある人たちは、更に進んで天主が啓示された宗教を捨てて自然宗教、つまり自然的な心情をその代わりにしなければならないとさえ考えてきました。

 また国家のうちにも、天主なしにやっていけると考えているものがあるのです。その国では邪悪と天主とを疎んずる思想を自分たちの宗教観と思っているのです。

 このような個人および国家のキリストに対する反逆はたびたび嘆かわしい結果を生んできました。既に回勅「ウビ・アルカノ」で遺憾の意を表しましたが、今再びそれについて新たに考えたいと思います。

 つまり、このような人々と国々の反逆の結果、広範囲にわたる国家観の激しい敵意や憎しみの不和の種を生じ、あらゆる和合と平和を阻害してきました。また共通善とか愛国心とかの美名に隠れた飽くことを知らない欲望やそれによる個人間の争い、或いは過度の盲目的自己愛などを生じ、人々は自分の安楽と利益のみを求め、全ての物事をそれで測るようになってしまいました。そしてまた、義務を忘れたり軽んずることから家庭の不和を生じ、家庭の一致も安定も弛みました。こうして一言でいえば人間社会は揺らぎ、正に滅びに向かっているのです。

 しかし、私はこれから毎年行われる王たるキリストの祝日が社会をして、愛する救い主に立ち戻らせるだろうと言う希望を抱いております。

 そこでカトリック信者は様々の活動や自らの業によって、この復帰を早め準備させるように務めるのが義務でありますが、実際に多くの信者は社会に真理の光を掲げるために当然持つべき地位も権威も持っていません。こういう悪条件は恐らく善良な人々の持つ一種の弱さと臆病によるものでしょう。これらの人たちは、反対するのを断念するか、抵抗はしても余り強くはしないのです。従ってこの当然の結果として教会の敵の厚かましさや大胆な計画は更に力をふるうのです。

 ですから信者が一般に王たるキリストの旗のもとに勇ましく戦い続けねばならないことを悟るなら、使徒的熱意に燃え上がり、主に背いたり或いは主を知らない人々を主と和解させるように努め、主の権利を守るために努力するに違いありません。

 確かに、王たるキリストの祝日を毎年全教会で行うことは世俗主義によりもたらされた社会の諸悪を責め、何らかの方法でそれを癒すのに大いに役立つことでしょう。贖い主のいとも甘美な御名が、国際会議や国会において不当に黙殺されていますから私達はそれに対し一層声を大にして主の御名を称え、王としてのキリストの尊厳と権能を広く確認するように努めなければならないのです。

3 その設定の準備

 この祝日の設定のために、前世紀の末以来、幸いにも準備がよく整えられてきました。ご存じの通り、世界各地でこの信心を裏付けるたくさんの本が種々の国語で書かれ、またイエズスの聖心への家庭奉献によって、キリストの主権と支配が認められてきました。今やこの美しい習慣に従って無数の家庭が聖心に奉献されています。家庭だけではありません。都市も国家もこの奉献を実行に移してきました。いいえ、全人類も至聖なる聖心に奉献されたのです。この奉献は千九百年の聖年にあたりレオ13世教皇によって行われました。

 また最近頻繁に行われている聖体大会も、人間社会に対するキリストの王権が荘厳に認められる上に大いに寄与しました。聖体大会の際には、各教区、地方、国家さらに全世界の人々が、秘蹟のうちに隠れてましますキリストを、こぞって尊敬し礼拝するために集まります。教会で一緒に説教を聞いたり、顕示された御聖体を公に礼拝したり、荘厳な行列を行ったりして、天主から王として与えられたキリストを皆共に称えるのです。不敬虔な人々は主が自分のほうにおいでになったとき、受け入れるのを拒みました。しかしキリスト教徒は今、そのイエズスを教会の沈黙の隠れ家からお連れして、歓呼のうちに町を歩み、全ての王的権能を再び主のものにしようとしています。これは天主から来る一つの息吹によるものと言えましょう。

 これらの計画を完成するために、まさに終わろうとしている聖年はこの上ない機会となりました。というのは、この聖年の間慈悲に富まれる天主は信者の知性と心に、あらゆる理解を超える天の祝福への招きと、成聖の聖寵を再び与え、またより高い賜物を望む新たな刺激を起こして正しい道を歩み続けるように強めて下さったからです。私に宛てられた数々の願いを見、或いはこの聖年に行われた様々なことを顧みるにつけても、キリストを全人類の王として祝う、特別な祝日を定める喜ばしい時がついにやってきたと考えられます。最初に述べたように、全ての聖人のうちで感嘆されるこの王は今年地上でも光輝溢れるみいつを称えられました。それはこの王の軍隊の一部が新たに聖人の列に加えられたからです。また、人々が展覧会の出品物から御国を発展させるための宣教師たちの事業や苦労を眺め、それらによってもたらされたキリストの勝利に感嘆したのも、やはり今年でした。そして今年はまたニケア公会議千六百周年を荘厳に祝うことによって、キリストの王国の基礎である、<人となられた御言葉>の御父との同一本性(consubstantialitatem)が裁可されたことを新たに記念しました。

 そこで、私はここに王である私達の主イエズス・キリストの祝日を設け、毎年、十月の最後の日曜日、すなわち諸聖人の祝日のすぐ前の主日に、全世界でこの祝日が祝われるように定めます。前任者ピオ十世が毎年更新することを命じた至聖なるイエズスの聖心に対する全人類の奉献の更新も、毎年この日に行うように定めます。しかし、今年に限り、それは今月31日に行います。なお当日、王たるキリストの誉れのため、私は教皇ミサを執行し、その奉献が私の前で行われるようにします。この聖年を閉じるにあたり、永久不滅の王であるキリストに私の心からの感謝を表すのに、これ以上ふさわしい方法はないと思います。この機会に私は全カトリック信者と共に、この聖年の間、教会、全カトリック信者に注がれた聖寵に対して私自身感謝の念を表したいと思います。

4 その設定の動機

 ところでキリストの王としての権威を間接に示し祝う祝日が他にもあるのにどうしてこれとは別に王たるキリストの祝日を制定したかということは、今さら説明する必要もないと思います。これについてはただ一つのことに注意すれば十分でしょう。すなわち、今までの主の祝日は全部その礼拝の対象、いわば素材的対象(対象そのもの)はキリストのペルソナですが、形相的対象(観点)は、キリストの王権と王の称号ではありませんでした。

 私がその祝日を日曜日にしたのは、ただ聖職者のみがミサ聖祭や聖務日課によって礼拝を捧げるのではなく、信者たちも参加することが出来るようにしたために他なりません。日曜日ならば信者たちは日々の仕事から解放され聖なる喜びの精神をもってキリストに対する服従を公に表明することが出来るからです。また他の面でも十月の最終の日曜日はこの目的のために最も適した日ではないかと思います。なぜならその日が典礼暦の終わりに近いので、その一年を通じて記念されたキリストの御生涯の数々の玄義の上に、あたかも光栄の冠を戴かせるのがこの王たるキリストの祝日ということになるからです。それにまた、諸聖人の光栄を祝う前に、聖人として選ばれた全ての人々のうちに勝利を占めるキリストの光栄を宣言し称揚することにもなるからです。

 尊敬する司教の皆様、そこで毎年その祝日の前に、各小教区で何日か特別に説教が行われるように配慮して下さい。これはあなたたちの義務です。そうすれば信者たちもその祝日の性質、意味、また重要性を聞いたはっきり分かり、天主である王の支配に忠実と熱誠を捧げるものにふさわしく自分の生活を律し、整えることが出来るでしょう。

5 その祝日から生じる効果

 尊敬する皆様、私は今この書簡を結ぶにあたって、王であるキリストに対する公の崇敬から期待される教会と社会とに対する効果、個人に施される恵みを簡単に列挙してみたいと思います。

 まずこのように、キリストの主権に誉れを帰するならば人々はキリストによって完全な社会として創設された教会が、本来持つ権利をどうしても思い出さずに入られないのです。放棄してはならないこの権利によって、キリストの王国に属する天主から託された人々を支配し永遠の幸福へ教え導く使命を果たすために、教会は国家権力から完全な自由と独立を要求します。教会はこの使命のためにいかなる他の権力にも服してはならないのです。

 また国家は同様の自由を男女両修道会にも与えなければなりません。これら修道会は司教達の有力な助け手となって、キリストの王国を広げ、確立するために大きな働きをしています。というのは、修道者たちは聖なる三つの誓願を持って、この世の三つの欲望と戦い、一層完全な生活を公言することによって天主なる創立者が教会の印とされたあの聖性が絶えず人々の前に輝きを増し、認められるように力を尽くしているからです。

 毎年くり返されるこの祝日は、個人と同様に、政府も為政者もキリストに対して公の誉れと服従を示さねばならないことを全ての国々に思い出させるでしょう。そして人々は最後の審判のことを思い、公の生活から締め出され軽蔑され無視されたキリストが、どれほど厳しくその不正を責めるかということも考えるに相違ありません。

 キリストの王としての権威は全ての国家が天主の掟をキリスト教の原則に従い、それによって法を作成し、裁判を行い、青少年には健全な知識と道徳を教えるのを要求する以上それは当然なのです。

 その上信者は、これらの真理を黙想することによって、真のキリスト教的理想に向かって歩む大きな力と勇気とを受けるでしょう。というのは私たちの能力は主の支配から除外されているものは一つもないからです。そのことは次の三つの理由によってはっきり分かるでしょう。

私達の主キリストには、
(1)天と地の全ての権能が授けられ、そして
(2)その高価な御血によって贖われた全人類は、新たにキリストの権威のもとに置かれ、また
(3)その権能は全人類を含んでいるのですから、
私達がキリストの王権から逃れてならないのは明らかでしょう。

 従ってキリストが人間の知性を支配するのはふさわしいことです。それで人間の知性は謙遜に啓示された真理と、キリストのみ教えに完全に従い、これを奉じなければなりません。

 そしてまた、キリストが意志をも支配するのはふさわしいことです。意志は、天主の法と掟に従わねばなりません。

 更にまた、キリストは心の王でもなければなりません。従って心のなすべきことは本能的な要望を捨てて全てに越えて天主を愛し天主だけを追い求めることです。

 また手足と身体においてもキリストを王としなければなりません。それらは道具であり、使徒パウロの言うように、天主のために正義の武器となって(ローマ6:13)、霊魂の内的聖化のために仕えなければならないからです。

 信者がこれらの真理をよく考えよく悟るようにすれば、人々はもっと容易に完徳に向かって進むでしょう。それで未信者たちが自分の救いのためにキリストの甘美なくびきを求めてこれを受け入れるように、また天主の慈悲によって信者となった私達もそのくびきを不承不承耐えるのではなく、かえって望みと愛と信心を持って担うように私は切に願っています。そして私達が天主の王国の法と一致した生活を営み、その実りを溢れるばかりに受け、キリストによって忠実な良い僕のうちに数えられ、天上の王国においてキリストと共に永遠の幸いと栄光に与ることが出来ますように、私は切望しています。

 主イエズス・キリストの御降誕の大祝日が間近に迫っているこの時にあたり、尊敬する皆様、この書簡を父の愛の印として受け取り、天主の恵みをもたらす教皇掩祝をお受け下さい。私はこの掩祝を愛の心をもって聖職者の皆様、ならびに信者の皆様に送ります。

 聖年の1925年12月11日

ローマ、ヴァチカン宮殿において 教皇在位四年目

ピオ十一世教皇

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