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小田原城を歩く

2012-04-11 11:47:23 | 街道を歩く
小田原城

  
小田原城が始めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中頃のことと考えられる。
1500年頃に戦国大名北条氏の居城となってから、関東支配の中心拠点として次第に拡張され、豊臣秀吉の来攻に備え城下を囲む総構を完成させると城の規模は最大に達し、日本最大の中世城郭に発展した。
しかし、その小田原城も1590(天正18)年、天下統一を目前にした豊臣秀吉21万の軍勢に包囲され、約4ヶ月の篭城虚しく落城、北条氏五代の100年にわたる関東支配が終焉した。
江戸時代を迎えると徳川家康の家臣、大久保氏が城主となり、城の規模は縮小された。稲葉氏が城主になってからは大規模な改修工事が行われ、近世城郭として生まれ変わった。その後、再び稲葉氏が城主になり、箱根を控えた関東地方の防御の要衝として、また幕藩体制を支える譜代大名の居城として、幕末まで重要な役割を担ってきた。
明治維新を向かえ、小田原城は1870(明治3)年に廃城となり、ほとんどの建物が解体される。残った石垣も1923(大正12)年の関東大震災によってことごとく崩れ落ちた。

天守閣
              
天守閣は城の象徴として本丸に構えていた。
三代将軍家光が天守閣に上って武具を見たり、展望を楽しんだという記録が残っている。
1703(元禄16)年の大地震で崩壊、1706(宝永3)年再建され、1870(明治3)年に壊された。
1960(昭和35)年、宝永年間時に作成された設計図を参考に鉄筋コンクリートで外観復元した。

本丸
               
東西約150m(83間)、南北114m(63間)ほどの規模をもち、その西端に天守閣、中央に本丸御殿が存在した。
本丸の周囲は石垣と土塀がめぐらされており、東南に常磐木門と北側には裏門にあたる鉄(くろがね)門が設置されていた。
小田原城は江戸城の出城であり徳川家の所有であったようで、本丸御殿も将軍が宿泊するために建築されていたものである。1703(元禄16)年の地震によって焼失して以来建設されなかった。

>本丸東堀跡
              
江戸時代の小田原城は、本丸を堀が囲んでいた。絵図によると堀は二の丸堀とつながって水堀となっていた。

本丸の巨(おお)マツ
                   
「御本丸に七本松という老松・・・」と天保年間の雑誌に書かれていた松の生き残りと思われ、樹高30m、樹齢400年以上のクロマツである。 

二の丸
              
江戸時代の小田原城には、将軍の宿泊専用の「本丸御殿」と、藩主在国中の居館として、また藩の行政を行う政庁としての役割を持つ「二の丸御殿」のふたつの御殿を有していた。
「二の丸御殿」は寛永年間(1624~44年)のころが最も壮麗で、能舞台や唐門も備えた立派なものであった。しかし、1703(元禄16)年の大震災により小田原城は甚大な被害を受け、「二の丸御殿」も倒壊炎上した。その後再建、増築されているが、以前のような姿には及ばなかったという。

二の丸隅櫓
              
曲輪(くるわ)の隅に配置される櫓(やぐら)。廃城の際にも壊されなかったが、関東大震災で崩落した。現在の櫓は1934(昭和9)年に復元したもので形状は当時と異なる。

常磐木門
              
本丸の正面に位置し、城内で最も大きく堅固に造られていた。記録から江戸時代初期から設けられており、1703(元禄16)年の地震で崩壊した後、多門櫓と渡櫓から構成される枡形門形式で再建されている。
常磐木とは常緑樹の意で、小田原城が永久不変に繁栄すること願って名付けられている。
1971(昭和46年)復元。

銅門(あかがねもん)
              
江戸時代の二の丸表門で、江戸時代を通してそびえていたが、1872(明治5)年解体される。
1997(平成9)年、門や土塀は古写真を基に江戸時代工法で復元される。銅門の名前の由来は、大扉などに銅の飾り金具が使用されているからである。

馬出門(うまだしもん)
              
二の丸正面に位置する重要な門で、江戸時代の初期から現在の場所に存在し、1672(寛文12)年に枡形形式の門に改修され、江戸時代の終わりまで存続した。
2009(平成21)年に総工費5億円余りをかけ復元される。

大手門跡
  
稲葉氏が城主であった1633(寛永10)年、三代将軍家光が京に上る際に、箱根口付近にあった大手門を江戸に向く現在の位置に移し、大手門前までの道を将軍が入るための御成道として整備、江戸見附もその時に、現在の国道1号線の位置に移された。
この門を入ると三の丸となり、道の両側には家老級の屋敷が建ち並んでいた。
鐘楼の石垣は、大手門枡形虎口の石垣である。
この鐘楼の鐘は「時の鐘」として長い間昼夜の隔てなく突かれていて、1686(貞享3)年の記録にも「小田原町の時の鐘は昼夜ついている。鐘つきの給金は6両・・・」と記載されていることで300年以上つかれていることとなる。

幸田門
       
江戸時代には、三の丸の入口のひとつで、お堀端通りの中ほどにある。戦国時代は上杉謙信や武田信玄が小田原城を攻めた時に、この門から攻めたと考えられる。幸田とは、もともと神礼の費用を賄う田圃を指す。

学橋
     
この橋は江戸時代にはないもので、1929(昭和4)年に城内小学校が二の丸に移転した際に架けられた。現在の学橋は、1949(昭和24)に再建された。

二の丸東堀  
 
本丸・二の丸を守る堀の中で最も大きな堀で、幅は最大で約40mで、現在よりもさらに60m北に広がっていた。現在の石垣は1923(大正12)年の大震災で崩れたものを昭和初期に復元した。江戸時代の石垣はいまのものより高かった。

御茶壺橋
                       
箱根口より入場する際に使われる橋で、正しくは小峰橋と呼ばれる。
江戸時代に京の宇治より、徳川将軍家に茶を献上するために、お茶壺様と称するご一行が城内の御茶壺蔵に納めるために、この橋を往復したことから、お茶壺橋と呼ばれるようになったといわれる。

御用所
               
この地に藩の御用所があったのでこの名がついた。御用所とは藩の執務所で、元禄のころは箱根口門にあったが、文政(1818~30年)の頃にこの地(現検察庁並び)に移った。幕末には母屋を囲んで敷地内に6棟の建物があった。

弁財天
                      
江戸時代初期、この地(弁財天通り)を「弁財天曲輪(くるわ)」と呼んでいた。しかし1690(元禄10)年に蓮池の南側にあった「評定所曲輪」を「弁財天曲輪」と名称を変えたのでこの地は単に「弁財天」と呼ぶようになった。
幕末には、この地に6~7軒ほどの中堅藩士の屋敷があった。
曲輪とは、城や砦(とりで)の周りに築いた土塁や石垣などをいう。また囲まれた一区画の地域。

日向屋敷
              
1614(慶長19)年、城主大久保忠隣が改易になった時、その夫人である日向御前が閉居した屋敷があったため地名となった。江戸時代末期には、約14軒の藩士の住いがあった。

小峯曲輪北堀
              
報徳二宮神社の境内は北条氏によって造成された小峯曲輪にあたる。小峯とは天守閣の裏手、西側一帯を指す古い地名である。

御用米曲輪
              
ここは現在発掘調査中の御用米曲輪土塁の部分で、石組水路や戦国時代の遺構や墨で字が書かれた素焼の土器(墨書かわらけ)などが発見されたという。
これまで野球場、臨時駐車場として利用されていた場所で、小田原城本丸北部の御用米曲輪があったところである。
御城米曲輪とも呼ばれており、北条氏時代・江戸時代には百軒蔵と呼ばれていた蔵があったといわれる。
2014(平成26)年まで発掘調査が続くというので新たな発見を期待できるかな。

                      




                                               参考資料:小田原市ほか