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歴史散策まち歩きの記録
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羽村の花と水のまつり

2013-04-07 22:36:01 | 東京散策
 
 

わが家から丁度2時間、青梅線のおざく(小作)駅に降り立つ。
小作駅から羽村駅の間を歩き、羽村の「花と水のまつり」に親しむ。


                      
「小作」と書いて「おざく」と読む。
名のいわれは、
(1)古くは「小佐久」と記していたことから「狭く細く行きづまりの谷」の意とする説。
(2)西隣の青梅市友田の人々が川を渡って小作をしていたからとする説。
があるというが。


大原稲荷神社
 
江戸時代中期頃より個人の屋敷神として祀られていた祠だという。

最初の神社で本日の安全祈願をする。住宅街にあって、隣は保育園。園児の声が聞こえてくる

聖書宣教会日本福院ルーテル教会・羽村教会
今回歩いた地域に2カ所のキリスト教関係の施設があった。

聖書宣教会(左)は全寮制の超教派の牧師・伝道者の養成学校。大学卒業程度の学力を持つクリスチャンに、聖書に基づいた訓練と教育を与えることを目標としている。日本をはじめ世界に約500名の卒業生を輩出している神学校のひとつ。東京基督神学校と並んで福音派の中心的な教派を越えた神学校ということ。
キリスト教界には、プロテスタント、ローマ・カトリック、正教会の3つの大きな流れがあり、その下にそれぞれ無数に分かれている。
ルーテル教会(右)はプロテスタントの流れをくむルター派の教団である。

阿蘇神社
古墳時代の終わり、601年。推古天皇の時代に創建。鎮座して1,400年余の歴史を持つ。

北参道にある鳥居(左)と多摩川沿いの南参道にある鳥居(右)


 
本殿は江戸時代初期の1676(延宝4)年の建造とされる。また祀られている神輿も江戸後期1818(文政元)年製作とされる。
               
904(天慶3)年、社殿を造営した際に植樹した椎の木。実に1,100年余の歳月を経ている。

龍珠山一峰院の鐘楼門
龍珠山一峰院(りゅうしざんいっぽういん)は、1424(応永31)年開基の臨済宗建長寺派の寺である。

この山門の特徴は、二階造りの門で、屋根が上層にだけある楼門と鐘楼を兼ねている造りで、2階に鐘楼を吊るすことで一般の楼門より建物が高い。建築様式は、和様を基本として禅宗様との折衷様式である。現在は瓦葺であるが当初は茅葺の屋根であった。
         

根がらみ前水田のチューリップ栽培
 
ここは、6月~10月が稲作で水田として使用するが、11月~5月は休耕田となるため、チューリップ植栽を裏作として行い、水田を有効利用しようと始まったものである。


およそ8万平方メートルの根搦み前水田にはチューリップやシャクナゲなどの景観植物が季節ごとに咲き乱れる。4月に行われるチューリップまつりは、チューリップの摘み取り、農産物・切花直売、模擬店などが出店。熱気球で上空から20万本ものチューリップが観賞できる催しもある。

 
2連揚水水車(実物の1/3大の模型)


八幡稲荷神社
 
稲荷神と八幡神(はちまんじん)が合祀されているため、八幡稲荷神社となっているが、地元の方は間坂の稲荷様と呼んでいるそうだ。
もとは根搦水田前の屋敷神であったようだが稲荷講の人によってこの地に祀られた。社の扁額には「倉稲魂(うかのみたま)社」と書かれており、手水舎(ちょうずや)には「蒼生魂稲荷神社」と書かれている。いったいどんな神社なのだろう。
社の奥には池があり豊富な湧水が流れ出ていた。

不動堂
 
いわれは解らぬが八幡稲荷神社の隣の祠の中には立派なお不動様が祀られている。

玉川神社
 
寿永年間(1182~85)に畠山重忠一族が信州諏訪大社から勧請。もと諏訪大明神、多摩大明神と称した。
1869(明治2)年諏訪神社と改め、その後日枝神社と合祀し玉川神社と改称した。
1882(明治15)年、この境内に羽村小学校が建設された。

多摩川堤の桜並木
玉川上水沿い・羽村堰周辺を中心におよそ200本の桜が咲くなかで、さくらまつりが開催されている。
夜にはライトアップされるエリアもある。
 
 
 
 
 
福島県人会寄贈の三春桜


玉川水神社
東京水道の守護神で玉川上水が1654(承応3)年、徳川幕府によって完成した際の水神宮としてこの地に建立された。
以来350余年、江戸町民及び浄水路沿いの住民より厚く信仰せられて来たもので1893(明治26)年に玉川水神社と改称した。本殿は天保時代(1830~44)の建造、1895(明治28)年に改築。

水神社としては最も古いもののひとつ。
 

羽村陣屋跡
玉川上水が通水した1653(承応2)年に、水路や堰の管理をするために設置された江戸幕府の役所で「水番所」ともいわれている。 管理の内容は主に上水道の取り締まり、水門・水路・堰堤等の修理・改築などであった。
 


玉川上水取水堰 
1654(承応3)年、玉川上水開削時に設置される。現在の形態になったのは1900(明治33)年。
 
玉川上水については改めて書きこむ予定にしている

羽村市郷土博物館
 
多摩川、玉川上水・養蚕農業や羽村生まれの中里介山の世界が常設展示している。また屋外展示として旧下田家住宅、旧田中家長屋門や赤門がある。
この羽村市郷土博物館は改めて書き込みをしたい

羽村橋のケヤキ
幹周りおよそ7.2m、樹高25m、樹齢が400年とも600年ともいわれる。樹枝全体が鞠状をなした樹容は壮観で都内有数のケヤキの名木である。
             

馬の水飲み場 
ここに、湧水を利用した馬の水飲み場があった。
この坂下に住む農家の人たちは、段丘の畑に向かうことが大変苦労をした。そこで肥料や収穫物の運搬に馬が引く荷車に頼った。このため坂を上ったこの地に馬の水飲み場を設け労をねぎらった。
1894(明治27)年に青梅鉄道が開通すると、多摩川から羽村駅までの砂利運搬に活躍した荷車を引く馬もこの水飲み場を大いに利用した。
この坂は、近くに禅林寺があることでお寺坂と呼ばれている。
  

稲荷神社
創建は不詳であるが、江戸時代後期の『新編武蔵野風土記稿』に「稲荷社」と記述されている。
本殿の形は一間社流造で、社殿全面に模様が施された江戸時代後期の社寺建築様式の典型をなしている。1848(嘉永元)年に竣工したものとされる。 
 

旧鎌倉街道
この道は800年の昔を語る古道で旧鎌倉街道のひとつと考えられる。
 
取水堰から羽村駅に向かう道が新奥多摩街道と交差するところに旧鎌倉街道の解説板が置かれていた。鎌倉街道と知り詳しく知りたいと思っていたら、その先に臨時の観光案内所が丁度あったのでそこで訪ねた。
多摩川を渡し舟で越えて羽村に入り駅の西側を通っている道で、鎌倉街道の上・中・下道の分類は解らないとのこと。調べてみたがそこには含まれない独自の鎌倉街道のようだ。


五ノ井神社のまいまいず井戸
創建は601年、推古天皇の時代と伝えられる古社である。
熊野五社大権現を祀ったことからもとは、熊野社と称し、五ノ神の地名が生まれたといわれる。現本殿は1862(文久2)年に竣工されたと推察。彫刻や絵・文様など江戸時代後期におけるこの地方の寺社建築の特徴がうかがえられる。
 
「まいまいず」とはかたつむりのことで、井戸に降りる通路の形が似ているから名づけられた。地表面からおよそ2周下って井戸に達する。
地元伝説では大同年間(806~810)に創始されたとしているが、形態および出土品から鎌倉時代と推定される。
井戸掘りの技術が未発達の時代に、このような形態をとるに至ったとされる。
隣接の五ノ神社(熊野社)とともに村落の中心となって永く使用されたと思われる。
地表面の直径はおよそ16m、掘り井戸は底面からの深さ6mになっている。
 

  
帰りは、朝降りた小作駅のひとつ手前である羽村駅から帰宅する。電車のツナギからか往きより30分も多くかかる。

羽村を訪れた日は強い風と雨が2日降り続いた翌日の4月4日のことである。
ここを選んだのは、先ずは「ちい散歩」のDVDを観て、散った花びらとたわむれ散歩を楽しんだ地井さんが歩いた道をたどってみたいと思ったからだ。
それに江戸城をはじめ江戸の町を潤した玉川上水の出発点でもあることも選んだひとつである。
また、羽村市を含む青梅は養蚕が盛んな地域であった。そこに開設している羽村市郷土資料館も見学のひとつで楽しみなひとつであった。
所用と天候の関係で訪れが遅くなってしまい桜の盛りが過ぎてしまったが、まだまだ花の見応えはあった。
そして午後には地井さんが楽しんだ桜の花吹雪がたのしむことが出来た。


   関連 羽村市郷土博物館を訪ねる
       玉川上水 : 後日記載
 


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