中原街道4日目
前回は中原街道から外れた位置で終了したので、中原街道に戻るべき、市営地下鉄センター南駅のひとつ横浜よりの仲町台駅よりスタートした。
駅の脇を走っている片道2車線の広い道路が向原で右から来た中原街道とぶつかり、次の交差点の大塚原までは中原街道と共通の道となって、その後中原街道は左折し片道1車線の細い道になる。
暫く行くと右手に東方農業専用地区の看板が立っている。
この辺りは、港北ニュータウン計画の一環として、農地を計画的に保全する場所ということだ。
東方原まで緩やかに上っている。そこから下りが始まる。
原バス停付近右手に庚申塔祠が、その先左手に馬頭観世音祠が続く。
町の人が大事にしているのであろう、祠に安置されている。
馬頭観世音は世代交代して古い石塔は脇に置かれ、新しい石塔が前面になっている。
その後も石仏像が続く。
開戸の交差点を過ぎる。
右手に庚申塔と御伊勢大神宮の祠と続く。
滝ヶ谷バス停付近の庚申塔群、地蔵尊と続く。
第六社神社
山王神社
山王神社前の分岐を右手に行く旧道は、歩道も確保できないほど細い。
右手に東漸寺の参道入口があり、地蔵・庚申塔群が置かれている。
東漸寺の階段を上がる。
東漸寺は佐江戸城主・竹尾左五左衛門元孝の墓がある。
また、徳川家康・秀忠・家光三代の将軍に加え秀忠の正室で家光の母・崇源院(於江与)の御霊碑が祀られており、江戸時代、境内の敷地は御朱印地内の3,691坪で、寺領5石の御朱印を賜っていた。とても大きなお寺だったようだ。於江与の方といえば、今年放映の「お江」である。
大御所様の街道らしく沿道には徳川家の歴史がある。
東漸寺から佐江戸の交差点に行く。
佐江戸は、「西土」と書いた地名が「佐江戸」に変化したといわれる。また、中原街道を通る旅人の「さあ明日は江戸に着く」ことに由来しているともいわれる。佐江戸には、中原街道の荷物の受け渡しをする継立場が設置されていた。
交差点を渡ってすぐ右手に子育て地蔵が道路に接した祠に置かれている。
この辺りも道路は狭く、道の端に白線が描かれただけの歩道を歩く。
右手を少々入ったところに無量寺と杉山神社が隣り合ってある。
先ず、無量寺に。
古義真言宗に属するお寺で、徳川三代将軍家光より寺領を賜り1,500坪(約5,000平方m)の境内があったという。ここにも徳川家の息がかかるお寺がある。
杉山神社の勧請の年代は伝わっていないが、『新編武蔵国風土記稿』によると1613(慶長18)年再興の棟札があったと記されている。
参道の階段脇に関東大震災の震災復興碑が建てられている。
杉山神社の北側には、鎌倉時代初期に猿渡氏が佐江戸城を築城したといわれ、神社の参道が当時の大手門筋であったようだ。
猿渡氏は佐江戸城築城の際に杉山神社を奉斉し、社殿を築造したとの説もある。
地蔵尊前交差点に出る。
祠に祀られた二体の地蔵尊と隣には地神塔がある。
この辺りは道路の拡張工事が行われ歩道も整備され地蔵尊の前をお参りするために道巾半分をスロープ状に高く配慮されている。
中原街道はここからは暫く片道2車線の広い道路となる。
鶴見川を落合橋で渡る。
横浜市旭区に入る。
ファミレス「バーミヤン」の先に庚申塔が二体祀られている。
JR横浜線を中山橋で渡り、宮の下交差点を右折すると、またまた杉山神社である。
ミニの若い女性がお参りして、車でさっと帰って行った。何の願いごとだろうか。
隣が、長泉寺である。真言宗のお寺。
境内と思う敷地にいつの時代のものか大砲と弾が祀られ、先の大戦の忠魂碑も建てられている。
寺の入口に庚申塔がある。1693(元禄6)年と刻まれている。
宮の下交差点まで戻り中原街道の左側を短い距離だが旧道があるのでそこを歩く。
その先は長坂である。その名の通り長い坂道が続く。
坂のピーク手前右手に県立四季の森公園の入口がある。公園の広さは10万坪余(35ヘクタール)。
この辺りは見るべきものがないので街道を先へとどんどん歩く。
ズーラシア動物園前交差点の少し先左に入る僅かな長さの旧道がある。旭陵高校交差点に出る道である。
庚申塔、日蓮大菩薩塔、都筑郡役所創設之跡が続く。
帷子(かたびら)川を御殿橋でわたる。
御殿橋と呼ばれるのは、案内板によると、徳川家康が、江戸城入場の際にこの橋を渡ったこと、鷹狩や民情視察、平塚の中原御殿に向かう際に利用したという。
また、中原御殿に向かう際に家康が休息の利用した武蔵川井御殿がこの先右手に建っていたという。
奥の木々が茂る辺りが下川井御殿跡と思われる
そこで家康が休息した御殿に因んで橋の名をつけたといい、以前は太鼓型の土橋であった。
その先、三猿を刻んだ地蔵尊がコンクリート造りの祠に納まっている
。
雨がしのげるよう地域の方が配慮されていることに感謝。
左手に三嶌神社参道の石柱がある。
少々入ると三嶌神社の鳥居が目につく。
イベントが行われたのか境内には白線が引かれていた。今は、人っ子ひとりもいない静かな境内だ。
中原街道に戻る。
左手に相鉄バスプール。バスと運転手の通勤用に使用していると思われる車群が止まっている。
右手には相鉄バスの営業所が奥にあり、その手前に消防団の建物がある。その右手にいくつかの石造物が見える。
石像物のひとつが、狐や狸がこの道を避けて通ったという伝承がある青面金剛が刻まれた庚申塔ではなかろうか。
矢指川を桜橋で渡る。
保土ヶ谷バイパス下川井インターのガードを潜る。
その先左手の石段が旧道の入口のようだ。階段を上がるとそこは老人介護の施設の敷地のようだ。
施設内を進んで道をひとつ越えた先の電柱の陰に矢指の一里塚跡の傍示杭がある。中山の宮下から一里、大和の桜株から一里の位置である。
その先、岩船地蔵に行く。
岩船地蔵には1724(享保9)年の銘が刻まれている。この地蔵は病気平癒の御利益があると伝えられ、近郷の人々が参詣したという。
旧道を西部病院入口交差点に向かう。途中、追分市民の森に立寄る。
散策した時は、コスモスの咲く季節である。夏にはひまわりやサルビアの花が一面に咲いていた。
ブルーの橋が中原街道
ひまわりが咲く夏の矢指しの森
中原街道に戻り、トンネルに入る。かなり長いトンネルである。トンネルに入って暫くすると救急車がサイレンを鳴らして入ってきた。サイレンの音がトンネル内に響きけたたましく大きい。ウォークマンのレシーバをしていても素晴しく大きな音である。運が悪い時にトンネルを歩いたものである。
相鉄線のトンネルを潜って、二ツ橋に達する。
二ツ上橋交差点を渡った左手に二ツ橋地名由来の碑、道標、石橋供養塔、歌碑が置かれている。
歌碑と地名由来の碑には1612(慶長18)年家康がこの地に休息した折詠んだ「しみじみと 清き流れの清水川 かけわたしたるたる 二ツ橋かな」が刻まれている。また、地名由来の碑には道光親王が1484(文明16)年に「相模野の 流れもわかぬ 川水を 掛けならべたる 二ツ橋かな」と呼んだことを併せて紹介している。
道光親王がどんな人物かは不明だ。
中原街道は二ツ上橋、すぐ脇を通っている厚木街道に二ツ橋が和泉川に架かっている。二ツ橋とはその二つの橋を指すようである。
家康に関する話はほかにもあり、
三ツ境駅北部にある楽老峰という地名があるが、名前は、徳川家康が訪れた際に命名したと言われている(当時は美屋古山と呼ばれていた)。家康が駿河に行く途中ここで休憩をし、住民が差し出した茶湯を飲んだといわれ、記念碑も楽老峰南公園にたっている。
それ以来この辺りは御茶の産地となり、近くの小学校の校章はお茶の花をデザインしている。
お茶の花の校章
また、楽老峰は小田原北条氏が中原街道を直線的に開削するために狼煙を挙げた場所のひとつとされている。
徳川家康が瀬谷を通過した際、瀬谷の絶景を「瀬谷八景」と命名したとの言い伝えもある。
中原街道を進む。
坂を上り詰めたところは南台。厚木街道との交差点である。
そこから緩やかな長い下り坂となる。
坂の下りきった辺りに梛(なぎ)の木の碑がある。
ひょろっと伸びた梛の木
碑の前のサツキが伸びていて読みにくくはなっているが、江戸時代寛文年間(1661~1673)この地を治めていた島津久利が薩摩から取り寄せた梛の木を植えた。1844(弘化元)年江戸城で大火があった時に梛に木を伐採して中原街道を急送し、復興に貢献したと伝えられる。
碑に左側にヒョロっと植わっている木が梛だという。
梛の木の碑のほぼ真下を相沢川が中原街道を横切っている。橋の名は山野橋である。
相沢川
足もだいぶ疲れたことで本日は梛の木の碑で終了。
前回は中原街道から外れた位置で終了したので、中原街道に戻るべき、市営地下鉄センター南駅のひとつ横浜よりの仲町台駅よりスタートした。
駅の脇を走っている片道2車線の広い道路が向原で右から来た中原街道とぶつかり、次の交差点の大塚原までは中原街道と共通の道となって、その後中原街道は左折し片道1車線の細い道になる。
暫く行くと右手に東方農業専用地区の看板が立っている。
この辺りは、港北ニュータウン計画の一環として、農地を計画的に保全する場所ということだ。
東方原まで緩やかに上っている。そこから下りが始まる。
原バス停付近右手に庚申塔祠が、その先左手に馬頭観世音祠が続く。
町の人が大事にしているのであろう、祠に安置されている。
馬頭観世音は世代交代して古い石塔は脇に置かれ、新しい石塔が前面になっている。
その後も石仏像が続く。
開戸の交差点を過ぎる。
右手に庚申塔と御伊勢大神宮の祠と続く。
滝ヶ谷バス停付近の庚申塔群、地蔵尊と続く。
第六社神社
山王神社
山王神社前の分岐を右手に行く旧道は、歩道も確保できないほど細い。
右手に東漸寺の参道入口があり、地蔵・庚申塔群が置かれている。
東漸寺の階段を上がる。
東漸寺は佐江戸城主・竹尾左五左衛門元孝の墓がある。
また、徳川家康・秀忠・家光三代の将軍に加え秀忠の正室で家光の母・崇源院(於江与)の御霊碑が祀られており、江戸時代、境内の敷地は御朱印地内の3,691坪で、寺領5石の御朱印を賜っていた。とても大きなお寺だったようだ。於江与の方といえば、今年放映の「お江」である。
大御所様の街道らしく沿道には徳川家の歴史がある。
東漸寺から佐江戸の交差点に行く。
佐江戸は、「西土」と書いた地名が「佐江戸」に変化したといわれる。また、中原街道を通る旅人の「さあ明日は江戸に着く」ことに由来しているともいわれる。佐江戸には、中原街道の荷物の受け渡しをする継立場が設置されていた。
交差点を渡ってすぐ右手に子育て地蔵が道路に接した祠に置かれている。
この辺りも道路は狭く、道の端に白線が描かれただけの歩道を歩く。
右手を少々入ったところに無量寺と杉山神社が隣り合ってある。
先ず、無量寺に。
古義真言宗に属するお寺で、徳川三代将軍家光より寺領を賜り1,500坪(約5,000平方m)の境内があったという。ここにも徳川家の息がかかるお寺がある。
杉山神社の勧請の年代は伝わっていないが、『新編武蔵国風土記稿』によると1613(慶長18)年再興の棟札があったと記されている。
参道の階段脇に関東大震災の震災復興碑が建てられている。
杉山神社の北側には、鎌倉時代初期に猿渡氏が佐江戸城を築城したといわれ、神社の参道が当時の大手門筋であったようだ。
猿渡氏は佐江戸城築城の際に杉山神社を奉斉し、社殿を築造したとの説もある。
地蔵尊前交差点に出る。
祠に祀られた二体の地蔵尊と隣には地神塔がある。
この辺りは道路の拡張工事が行われ歩道も整備され地蔵尊の前をお参りするために道巾半分をスロープ状に高く配慮されている。
中原街道はここからは暫く片道2車線の広い道路となる。
鶴見川を落合橋で渡る。
横浜市旭区に入る。
ファミレス「バーミヤン」の先に庚申塔が二体祀られている。
JR横浜線を中山橋で渡り、宮の下交差点を右折すると、またまた杉山神社である。
ミニの若い女性がお参りして、車でさっと帰って行った。何の願いごとだろうか。
隣が、長泉寺である。真言宗のお寺。
境内と思う敷地にいつの時代のものか大砲と弾が祀られ、先の大戦の忠魂碑も建てられている。
寺の入口に庚申塔がある。1693(元禄6)年と刻まれている。
宮の下交差点まで戻り中原街道の左側を短い距離だが旧道があるのでそこを歩く。
その先は長坂である。その名の通り長い坂道が続く。
坂のピーク手前右手に県立四季の森公園の入口がある。公園の広さは10万坪余(35ヘクタール)。
この辺りは見るべきものがないので街道を先へとどんどん歩く。
ズーラシア動物園前交差点の少し先左に入る僅かな長さの旧道がある。旭陵高校交差点に出る道である。
庚申塔、日蓮大菩薩塔、都筑郡役所創設之跡が続く。
帷子(かたびら)川を御殿橋でわたる。
御殿橋と呼ばれるのは、案内板によると、徳川家康が、江戸城入場の際にこの橋を渡ったこと、鷹狩や民情視察、平塚の中原御殿に向かう際に利用したという。
また、中原御殿に向かう際に家康が休息の利用した武蔵川井御殿がこの先右手に建っていたという。
奥の木々が茂る辺りが下川井御殿跡と思われる
そこで家康が休息した御殿に因んで橋の名をつけたといい、以前は太鼓型の土橋であった。
その先、三猿を刻んだ地蔵尊がコンクリート造りの祠に納まっている
。
雨がしのげるよう地域の方が配慮されていることに感謝。
左手に三嶌神社参道の石柱がある。
少々入ると三嶌神社の鳥居が目につく。
イベントが行われたのか境内には白線が引かれていた。今は、人っ子ひとりもいない静かな境内だ。
中原街道に戻る。
左手に相鉄バスプール。バスと運転手の通勤用に使用していると思われる車群が止まっている。
右手には相鉄バスの営業所が奥にあり、その手前に消防団の建物がある。その右手にいくつかの石造物が見える。
石像物のひとつが、狐や狸がこの道を避けて通ったという伝承がある青面金剛が刻まれた庚申塔ではなかろうか。
矢指川を桜橋で渡る。
保土ヶ谷バイパス下川井インターのガードを潜る。
その先左手の石段が旧道の入口のようだ。階段を上がるとそこは老人介護の施設の敷地のようだ。
施設内を進んで道をひとつ越えた先の電柱の陰に矢指の一里塚跡の傍示杭がある。中山の宮下から一里、大和の桜株から一里の位置である。
その先、岩船地蔵に行く。
岩船地蔵には1724(享保9)年の銘が刻まれている。この地蔵は病気平癒の御利益があると伝えられ、近郷の人々が参詣したという。
旧道を西部病院入口交差点に向かう。途中、追分市民の森に立寄る。
散策した時は、コスモスの咲く季節である。夏にはひまわりやサルビアの花が一面に咲いていた。
ブルーの橋が中原街道
ひまわりが咲く夏の矢指しの森
中原街道に戻り、トンネルに入る。かなり長いトンネルである。トンネルに入って暫くすると救急車がサイレンを鳴らして入ってきた。サイレンの音がトンネル内に響きけたたましく大きい。ウォークマンのレシーバをしていても素晴しく大きな音である。運が悪い時にトンネルを歩いたものである。
相鉄線のトンネルを潜って、二ツ橋に達する。
二ツ上橋交差点を渡った左手に二ツ橋地名由来の碑、道標、石橋供養塔、歌碑が置かれている。
歌碑と地名由来の碑には1612(慶長18)年家康がこの地に休息した折詠んだ「しみじみと 清き流れの清水川 かけわたしたるたる 二ツ橋かな」が刻まれている。また、地名由来の碑には道光親王が1484(文明16)年に「相模野の 流れもわかぬ 川水を 掛けならべたる 二ツ橋かな」と呼んだことを併せて紹介している。
道光親王がどんな人物かは不明だ。
中原街道は二ツ上橋、すぐ脇を通っている厚木街道に二ツ橋が和泉川に架かっている。二ツ橋とはその二つの橋を指すようである。
家康に関する話はほかにもあり、
三ツ境駅北部にある楽老峰という地名があるが、名前は、徳川家康が訪れた際に命名したと言われている(当時は美屋古山と呼ばれていた)。家康が駿河に行く途中ここで休憩をし、住民が差し出した茶湯を飲んだといわれ、記念碑も楽老峰南公園にたっている。
それ以来この辺りは御茶の産地となり、近くの小学校の校章はお茶の花をデザインしている。
お茶の花の校章
また、楽老峰は小田原北条氏が中原街道を直線的に開削するために狼煙を挙げた場所のひとつとされている。
徳川家康が瀬谷を通過した際、瀬谷の絶景を「瀬谷八景」と命名したとの言い伝えもある。
中原街道を進む。
坂を上り詰めたところは南台。厚木街道との交差点である。
そこから緩やかな長い下り坂となる。
坂の下りきった辺りに梛(なぎ)の木の碑がある。
ひょろっと伸びた梛の木
碑の前のサツキが伸びていて読みにくくはなっているが、江戸時代寛文年間(1661~1673)この地を治めていた島津久利が薩摩から取り寄せた梛の木を植えた。1844(弘化元)年江戸城で大火があった時に梛に木を伐採して中原街道を急送し、復興に貢献したと伝えられる。
碑に左側にヒョロっと植わっている木が梛だという。
梛の木の碑のほぼ真下を相沢川が中原街道を横切っている。橋の名は山野橋である。
相沢川
足もだいぶ疲れたことで本日は梛の木の碑で終了。