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小机城とその支城をめぐる

2016-05-06 16:25:13 | 歴史散策
小机城
小机城(横浜市港北区)は関東官僚上杉氏によって、1438(永享10)年頃築城されたと云われるが定かではない。(室町時代中期)
1478(文明10)年、その小机城は太田道灌によって、落城する。
その後は廃城となったが、この地域が小田原北条氏の勢力下に入ると北条氏綱の手により大規模な改修が施された。城の周囲に現在も残る土塁や空堀、高台の2カ所には本丸と二の丸を配置、城のふもとには城を防御する家臣の居住地区を設けた。
信綱は早雲時代からの家臣笠原越前守信為を「城代」に任じた。以後、笠原家は代々小机城の城代を務める。
1590(天正18)年、豊臣秀吉の小田原攻め、無血開城によって小机城は廃城となった。
笠原氏は、北条氏没落後徳川家康に仕え、都築郡台村(緑区台村町)を知行し、200石の旗本として代々続いた。
また、小机城周辺の領地は徳川氏の領地として、側近の代官が支配し、旧小机城の小机衆は、代官の手代としてそのまま城の周りに住んだ。

小机城は別名「飯田城」とも呼ばれていた。『新編武蔵国風土記稿』によると、「この城は、別名で飯田城ともいうことがある。隣村の下菅田村(現、神奈川区菅田町)に飯田道と称す道路が通じており、小机城址に通ずるので、そのように称されたと住民は言っている。」と記述される。
この飯田道は神奈川宿の中心部飯田町に通じる道である。飯田町は現在の神奈川警察署や成仏寺・熊野神社あたりとされる。
本丸
           

          

二の丸
          
二の丸と呼ばれているが、明確に断言できないそうだ。

井楼
          
井楼(せいろう)とは、敵陣を偵察するために,木材を井桁(いげた)に組み立てた物見やぐらのこと。

櫓台
          

           
「櫓は、矢蔵すなわち兵庫や高櫓井楼(こうろうせいろう・火の見やぐらのこと)と呼ばれる見張り台を云う」と解説されている。

根古屋
           
「城山の根の処(こ)にある屋」、つまり、麓にあった城主の館やその周辺の屋敷地。主に東国で用いられた語で,後に集落の地名となって根古屋、根小屋、猫屋などと書かれる。         

空堀
          
富士仙元
          
「富士仙元大菩薩」の石碑、1861(文久元)年建立で、江戸末期の時代となるので小机城とは関係ないのだろう。富士仙元大菩薩は、木花咲耶姫神のことで、富士講の信者が出城だった位置に、奉ったと思われる。
          
「富士仙元」への道で写す。
下に第三京浜、右上がJR小机駅、左上に日産スタジアム。その日はゲームがあって多くのマリノスファンが押しかけていた。 
竹林
          

          


小机城址は現在「小机市民の森」となっており、その遺構はほぼ原型が残されていると云われるが、第三京浜道路によって分断されている。


支城篠原城
『新編武蔵国風土記稿』によると、「篠原村の古城跡は、村の北方にある。」とされ、鎌倉時代初め、或いは戦国時代に金子氏が築いた城とされ、「現在、見たところによると、わずか4反か5反(約1200~1500坪)ばかりの芝地とし、あるいは断崖の所にあり、空堀の形も残っている。」と記述される。
別名金子城と呼ばれていた。地元の武士と農民が、戦の際の防御・避難目的で築いた平山城である。小机城の支城といわれるが、小田原北條氏の小机城ではなく、戦国時代初期の上杉氏時代の小机城の支城である。但し、金子氏は代々当地に住み、小机城の直轄代官を勤め、江戸初期には篠原村の名主を務め現在に至っているようだ。
城址は、現在住宅地の雑木林で「篠原城址緑地」となっている。


空堀




支城大豆戸城
東急東横線の菊名駅と、JR新横浜駅のちょうど中間地点である港北区大豆戸(まめど)町の八杉神社の裏手はかつて城があったとされる。



『新編武蔵国風土記稿』によると、「大豆戸村の小畑泰久の屋敷跡について:同村の東南にある八王子社(現、八杉神社)の西に続く場所にある。現在は、すべて陸田となっている1反5畝余りの地(およそ450坪)
が、これは本乗寺を創建した小幡伊賀守泰久の居館跡である。(略)泰久の子は勘解由左衛門政勝というが天文の頃(1532~54)の人と言われる。この人もこの館に居住したことになっている。」ということで、小田原北條氏に仕える父子二代の館であった。小机城の東2キロに位置し、その支城として機能していたといわれる。
別名安山城、小幡泰久館とも云われる。
『新編武蔵国風土記稿』には大豆戸村の屋敷跡と書かれおり、城址というよりも屋敷跡に分類する歴史家もいる。
小幡家もまた徳川氏の旗本として代々勤めている。家康は北條氏の多くの家臣を取り立てている。
 
周辺は坂道の続く丘陵地域の住宅地と化して、遺構がないようだ。


支城佐江戸城
都筑区佐江戸町に小机衆のひとり、猿渡氏が佐江戸城を築いた。本丸・西丸などが鶴見川北岸の台地に築かれている。かつては中原街道と、南多摩から神奈川に達する古道の交差する要衝であったという。
戦国時代に扇谷上杉氏と北条氏による覇権争いで、北条氏が撃破しこの地を領有することに成功。小机城を整備し南武蔵の防衛ラインとして幾つかの支城を設けたが、そのひとつとされる。しかし築城年代など詳細は不明である。
、『新編武蔵国風土記稿』に、「塁蹟:平台と云うところは猿渡佐渡守一族の住まいである。ここは山に築造した砦で、今は畑になっているが、西丸などがあった。」と記されている。
塁とは土や石などを積んで作った防御用の土手を巡らした砦を云う。

          
               左:杉山神社                         右:無量寺
 
         佐江戸城は猿渡氏が城の鎮守のために勧請した杉山神社から無量寺の背後にかけての丘が城域

支城茅ヶ崎城
茅ヶ崎城(横浜市都筑区)は、早渕川を北に臨む自然な丘を利用して、14世紀末から15世紀前半に築城されたと推定され、15世紀後半に最も大きな構えとなる。16世紀中ごろは二重土塁とその間に空堀が設けられ強化されている(この築城方式は小田原北條氏独特のものとされる)。築城にはそれぞれの時期に相模・南武蔵を支配していた上杉氏(室町時代)や小田原北條氏(戦国時代)が関与していたと推定され、小田原北條氏での城主は小机衆のうちの座間氏や深沢備後守という説がある。
中世城郭は、軍事拠点だけではなく、戦時における地域の避難施設でもあった。城内には籠城に備える食べ物を蓄え、井戸が掘られている。また、食料になるような植物も植えられて管理されていたと考えられる。
江戸時代は廃城となって、徳川氏の領地となり村の入会地(共有地)などとして利用された。
          

      

   
          




数年にわたった発掘調査では、かわらけ・陶磁器をはじめ、石臼・硯などのかけらや鉄釘・銭などの茅ヶ崎城に関係する出土品があった。
それ以外に、弥生時代後期・古墳時代後期・平安時代の竪穴住居跡など古い時代の遺構も見つかり、それらの時代の土器のかけらや、縄文土器のかけらもみられた。


小机城の支城は、このほか荏田城(横浜市青葉区)と川和城(横浜市都筑区)もある。
小田原北條氏は現在の関東の茨城・栃木県をのぞく広範囲で、およそ240万石の領地を所有していたとされ、主要な城も30余となっている。
戦国の世の城なので、小田原城を除けば大したことがない城址なのかもしれないが、これからも北條氏の城を巡りたい。
                       
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