国立公園・御岳山
御岳山ハイクと云っても今回はレンゲショウマが目的だったので、御岳山神社までとした。
御嶽神社の摂社、産安社(うぶやすしゃ)から御嶽神社に続く山道
ケーブル・御岳登山鉄道
ケーブルカー「滝本」駅 「御岳山」駅
昭和10年開設のケーブカーは、高低差423mを所用6分で上る。最大斜度25度、平均斜度22度の勾配は関東一とのことで、その上昇する様は見応えがあり、車両の先頭に是非乗るべきだ。
武蔵御嶽山神社摂社「産安社」
社の近くには安産杉(安産・子孫繁栄・長寿)、夫婦杉(良縁・夫婦円満)、子授け檜(子授け・男女和合)のご神木がある(画像左から順に)。
御師集落
この辺りは「御師(おし)」という神職で現在は22軒の家が生計をたてている。
御師とは御嶽神社への「講」と呼ぶ信者、参拝者や観光客の宿となる宿坊の運営を行っている。
その歴史は、江戸時代が始まる1600年頃まで遡るようで、その頃、御嶽山で修業をしていた山伏がそのまま定着し、集落を形成したようで、現在まで17代以上続く家系だと云う。
宿坊の長屋門、年代を感じる
馬場家御師住宅
建物は入母屋造り、茅葺で千鳥破風玄関付、客室は書院造の座敷飾りが施されており、1866年に建てられたとガイド板に書かれている。
道筋に道標付き石碑もある
掲示板にこんな案内も貼られていた
武蔵御嶽神社
神社の由緒によると創建は第10代崇神(そうじん)天皇10年と云うから紀元前88年になる。そんなに古いのと驚きである。
平安時代には大麻止乃豆天神社(おおあまとのつのあまつかみのやしろ)と呼ばれていた。
中世に入って鎌倉幕府の有力な武将たちの信仰を集め御嶽権現の名で栄えた。
徳川家康が関東に入国すると、1606(慶長11)年に社殿を改築した。その際に南向きであった社殿を江戸方向の南東向きに家康が変えさせた。
明治維新の太政官布告「神仏分離令」によって平安時代の社名大麻止乃豆天神社と改称したが、他の神社も名乗ったことから御嶽神社の社号となり、さらに1952(昭和27)年、武蔵御嶽神社と改名した。
随身門
守護神の矢大臣、左大臣
拝殿と境内摂社
旧本殿の常磐堅磐社 狛犬ならぬ狼
現在の本殿は、1877(明治10)年に造替されたもので、それまでの本殿は、この常磐堅磐社である。
神様の使いは狛犬あるいは稲荷神社では狐であるのだが、狼とは何故なのか、山岳信仰から来ているのではと云う考えもあり、秩父・奥多摩地域には狼像の神社が多いようである。
それとは別に、白狼は日本武尊御東征で、山中で邪神の妖霧によって道を塞がれてしまった際に白狼によって難を逃れたと云うことが神社の由緒の書かれているが、昔から狼は神聖な動物として崇拝され、この神社でも大神(おおかみ)として祀る大口真(おおくちま)神社が境内にある。
参道(今回の下山道)
集落の生活道にもなっている道で、完全舗装されている。
但し、カーブがきつく軽自動車でも切り返しを行う光景を眼にした。
くろもん
『ここは御師集落の出入口です。かつては、ここに黒い門がありました。』
「昔名由来」と題してガイドされていた。神社入口の鳥居までの参道(登山道)には気づいた数で9つあった。
5人兄弟杉・・5本もの杉の根が一体となっている、珍しい
だんこどう
『昔はここにお堂があり、あちらのお地蔵さん(八大地蔵)が安置されていました。
昔の人は、このお堂を「団子堂(だんごどう)」と呼んでいました。お地蔵さんは、いまも昔も、ここを通り人の道中の安全を願いながら微笑んでいます。』
ケーブルカーの高架下を通ったり、ケーブルを眺めたり参道はくねりながら続く
ろくろっ首
『道(旧道)を眺めてみてください。くねくね・うねうね曲がり道。何みたいですか?大蛇?ミミズ?酔っぱらい?
昔の人は、ここの場所を「ろくろっ首」とよびました。』
左の道はUカーブ、右の「ろくろっ首」はS字カーブになっている。
武蔵御嶽神社の参道入口の鳥居 滝本の大スギ
参道の杉並木の中で最大なのがこの「滝本の大スギ」である。
滝本から山頂まで26丁(3Km余)の参道は、江戸時代初期に整備されたと伝えられ、両側に並んでそびえ立つ杉の巨木は、御嶽神社の参拝する人々に霊山の荘厳さを感じさせている。
幹回りが約6m、樹齢が300年以上と推定されるものもあって、その総数は600本以上を数える。【青梅市教育委員会】
杉並木の本数は神社側から追い番が打たれており、その数、786本である。
参道らしく朱塗りの橋や苔むした石橋がある
御岳山ハイクと云っても今回はレンゲショウマが目的だったので、御岳山神社までとした。
御嶽神社の摂社、産安社(うぶやすしゃ)から御嶽神社に続く山道
ケーブル・御岳登山鉄道
ケーブルカー「滝本」駅 「御岳山」駅
昭和10年開設のケーブカーは、高低差423mを所用6分で上る。最大斜度25度、平均斜度22度の勾配は関東一とのことで、その上昇する様は見応えがあり、車両の先頭に是非乗るべきだ。
武蔵御嶽山神社摂社「産安社」
社の近くには安産杉(安産・子孫繁栄・長寿)、夫婦杉(良縁・夫婦円満)、子授け檜(子授け・男女和合)のご神木がある(画像左から順に)。
御師集落
この辺りは「御師(おし)」という神職で現在は22軒の家が生計をたてている。
御師とは御嶽神社への「講」と呼ぶ信者、参拝者や観光客の宿となる宿坊の運営を行っている。
その歴史は、江戸時代が始まる1600年頃まで遡るようで、その頃、御嶽山で修業をしていた山伏がそのまま定着し、集落を形成したようで、現在まで17代以上続く家系だと云う。
宿坊の長屋門、年代を感じる
馬場家御師住宅
建物は入母屋造り、茅葺で千鳥破風玄関付、客室は書院造の座敷飾りが施されており、1866年に建てられたとガイド板に書かれている。
道筋に道標付き石碑もある
掲示板にこんな案内も貼られていた
武蔵御嶽神社
神社の由緒によると創建は第10代崇神(そうじん)天皇10年と云うから紀元前88年になる。そんなに古いのと驚きである。
平安時代には大麻止乃豆天神社(おおあまとのつのあまつかみのやしろ)と呼ばれていた。
中世に入って鎌倉幕府の有力な武将たちの信仰を集め御嶽権現の名で栄えた。
徳川家康が関東に入国すると、1606(慶長11)年に社殿を改築した。その際に南向きであった社殿を江戸方向の南東向きに家康が変えさせた。
明治維新の太政官布告「神仏分離令」によって平安時代の社名大麻止乃豆天神社と改称したが、他の神社も名乗ったことから御嶽神社の社号となり、さらに1952(昭和27)年、武蔵御嶽神社と改名した。
随身門
守護神の矢大臣、左大臣
拝殿と境内摂社
旧本殿の常磐堅磐社 狛犬ならぬ狼
現在の本殿は、1877(明治10)年に造替されたもので、それまでの本殿は、この常磐堅磐社である。
神様の使いは狛犬あるいは稲荷神社では狐であるのだが、狼とは何故なのか、山岳信仰から来ているのではと云う考えもあり、秩父・奥多摩地域には狼像の神社が多いようである。
それとは別に、白狼は日本武尊御東征で、山中で邪神の妖霧によって道を塞がれてしまった際に白狼によって難を逃れたと云うことが神社の由緒の書かれているが、昔から狼は神聖な動物として崇拝され、この神社でも大神(おおかみ)として祀る大口真(おおくちま)神社が境内にある。
参道(今回の下山道)
集落の生活道にもなっている道で、完全舗装されている。
但し、カーブがきつく軽自動車でも切り返しを行う光景を眼にした。
くろもん
『ここは御師集落の出入口です。かつては、ここに黒い門がありました。』
「昔名由来」と題してガイドされていた。神社入口の鳥居までの参道(登山道)には気づいた数で9つあった。
5人兄弟杉・・5本もの杉の根が一体となっている、珍しい
だんこどう
『昔はここにお堂があり、あちらのお地蔵さん(八大地蔵)が安置されていました。
昔の人は、このお堂を「団子堂(だんごどう)」と呼んでいました。お地蔵さんは、いまも昔も、ここを通り人の道中の安全を願いながら微笑んでいます。』
ケーブルカーの高架下を通ったり、ケーブルを眺めたり参道はくねりながら続く
ろくろっ首
『道(旧道)を眺めてみてください。くねくね・うねうね曲がり道。何みたいですか?大蛇?ミミズ?酔っぱらい?
昔の人は、ここの場所を「ろくろっ首」とよびました。』
左の道はUカーブ、右の「ろくろっ首」はS字カーブになっている。
武蔵御嶽神社の参道入口の鳥居 滝本の大スギ
参道の杉並木の中で最大なのがこの「滝本の大スギ」である。
滝本から山頂まで26丁(3Km余)の参道は、江戸時代初期に整備されたと伝えられ、両側に並んでそびえ立つ杉の巨木は、御嶽神社の参拝する人々に霊山の荘厳さを感じさせている。
幹回りが約6m、樹齢が300年以上と推定されるものもあって、その総数は600本以上を数える。【青梅市教育委員会】
杉並木の本数は神社側から追い番が打たれており、その数、786本である。
参道らしく朱塗りの橋や苔むした石橋がある