雛とべに花の里 かほく
紅花資料館
紅花資料館は、富豪だった堀米四郎兵衛の屋敷跡で、敷地3,100坪余に かつては土蔵が6棟、板倉が7棟もあったが老朽化が甚だしく母屋をはじめ多くの建物が整理解体されて現在は住時の姿を留める武者蔵・御朱印蔵・長屋門などの建物や武器・生活用品および古文書など5,000点を保存していると云う
この地方は江戸時代から明治初期にかけて 最上川舟運によってもたらされた京文化を色濃く花開かせ 米と紅花で栄えた
堀米家は文政年間(1804~1818)から明治期まで名主や戸長を勤めた家柄であり その間 米や紅花などによって財をなした 特に紅花は 文化年間より精力的に取扱い指折りの豪商となった
紅花
古名を末摘花(すえつむばな)と呼ばれるキク科の一年草
原産はエジプトナイル川流域 中国よりシルクロードを伝い6~7世紀ごろに日本に伝来
最盛期 この地域には36軒の紅花商家があったそうだ
そして 紅花の価格は米の100倍と途方もない価格で売買したと当時の資料が伝えている
資料館案内図
①長屋門 ②武者蔵 ⑤御朱印蔵 ⑥母屋
長屋門
江戸末期に建てられた格子片番所付長屋門 簓子(ささらこ)塀の上壁は紅殻を加え加工してある
塀の上壁が紅殻によって紅色になっている
座敷蔵(一番蔵)・母屋
御朱印蔵
御朱印蔵とは朱印状の収蔵庫で御朱印状を納めるために1863(文久3)年に建立した唐破風向拝付入母屋造の土蔵である 建築もそこに施した堀物も名のある手による建物である
御朱印蔵は幕府の権威を誇示した建築なので明治政府の代になるとすべて取り壊す命令が出されたがこの地は辺地であったほか朱印状の宛名がよその名であったこともあり難を逃れ残った
御朱印蔵としては県内唯一のものであり全国的にも珍しい建物とされる
武者蔵(二番蔵)農兵隊武器庫
1853(嘉永6)年に建てられ1866(文久3)年以後農兵隊の武器庫として活用
農兵隊
江戸末期から百姓一揆を鎮圧し農村の秩序を守る目的で167名の地主 富農層の組織
県内でも最強の組織の水準まで高めた 大砲7挺をはじめ多くの武器・具足を所有
戊辰戦争では庄内酒井藩や官軍に接収され農兵隊は解散させられた
湯殿
当時は湯を母屋で沸かし運び入れた
入浴の際 脱いだ衣類を包むために敷いた布のことを「風呂敷」と呼ぶようになった 風呂桶は漆塗り
水車・釜
堀
屋敷周りに堀を巡らすとは大名貸ししていたと云う堀米家の力を窺い知る
紅花の豪商でもうひとり名を残した人物がいる それは尾花沢の鈴木清風(別名島田屋八右衛門)と云う豪商である
彼は俳人でもあり芭蕉と旧知の友で奥の細道を辿った時も芭蕉は清風宅に長逗留している
また清風は江戸吉原の逸話もあり「紅花大尽」と呼ばれるほどの豪商であった
今回は回れなかったが尾花沢には「芭蕉・清風歴史資料館」なるものがあるそうだ
紅花資料館の余談であるが
内田康夫が1990年に描いた浅見光彦が登場する「紅藍の人」に紅花資料館が登場していると云う どのように描かれているかは本を読むべし
山形の旅2日目の午後は旅の一番の目的である「出羽三山神社」を訪れた
それは『山形の旅 3/4』へお楽しみ
(『山形の旅 3/4』へ続く)