あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

横浜金澤七福神をめぐる

2020-01-04 16:44:39 | 散策





富岡山長昌寺(臨済宗建長寺派) 本尊:釈迦如来
小田原北条の家臣の柳下豊後守が亡き妻(法名桂窓長昌大姉)の菩提を弔うために当時の鎌倉禅興寺(現在は明月院)明月院の仙渓和尚を招いて1574(天正2)年長昌庵を創建したことがはじまりとされる。寺号の長昌はその法名に由来。
観音堂には楊柳観音(芋観音)が安置されている。
芋観音はほうそう(天然痘)除けの神で、もともと富岡北の鳥貝塚にあったが、1936(昭和11)年に横浜海軍航空隊が開設された時にこちらに移された。





毎年3月上旬に開催される芋観音ご開帳は、江戸の昔より多くのご参詣客でにぎわっている。

布袋和尚は900年頃(平安時代中期)、中国の禅僧で福を呼ぶ弥勒菩薩の化身と尊ばれた。


1191(建久2)年、源頼朝が摂津国西宮の蛭子神(恵比寿神)を勧請して創建、安貞年間(1227~29年)に八幡神が合祀されたという。八幡宮の山が応長の大津波から富岡地区を守ったことから「波除八幡」の別名を持つ。
深川の富岡八幡宮はこちらの分霊が祀られている。






蛭子は芦の舟に乗って海路を開き西宮の浜にたどり着いたという神話から「海上安全」「海の守り神」として崇敬されて来ました。
江戸時代、関西の商人はおもに千石船で江戸との交易を盛んに行い、海上安全イコール商売繁昌の神様との信仰が盛んとなり、商売繁昌の福の神としても崇敬されるようになった。


此木山寶蔵院(真言宗御室派) 本尊:大日如来 他に阿弥陀三尊、十三仏尊像等
1858(安政5)年に末寺西方寺が火災に遭ったため、創建の由来や由緒を伝える資料は殆ど残されていない。そのため創建や縁起は不詳である。しかし、本尊や寺に残る諸仏が鎌倉時代のものであるため、恐らく開基は鎌倉時代後期であろうといわれている。明治維新まで真言宗宝蔵院が小柴熊野神社の別当寺であった。
伝承によると、鎌倉時代末期、1311(応長元)年、隣村の長浜村で大津波が起こり、長浜千軒と言われた村は一瞬にして海に流されました。
海中に流されて漂う村人達は、この寺の公孫樹の木の麓のかがり火を目安に辿りつき、この土地に住み着き、村の名前をお寺の山号の此の木村とした。その後、柴村になった。
以来現在に至るまで、柴村の人々の信仰によって永きにわたりお寺を守ってきた。そのためか古い形態を残す一村一寺のお寺である。






寿老人は長寿・福徳のご利益があるとされる。


嗣法山伝心寺(しほうざんでんしんじ)(曹洞宗) 本尊:釈迦如来
創建後、数回の火災により衰運したが、1521(大永元)年、小田原北条氏の玉縄場主・氏繁が養拙宗牧(ようせつしゅぼく)大和尚を招いて開山とされる。 氏繁の墓碑が墓地中央にある。




毘沙門天は知恵と武勇、戦勝の神で、スポーツの試合や受験の守護、開運出世、厄除けに良いとされる。


知足山龍華寺(真言宗御室派) 本尊:大日如来
源頼朝が文治年間(1185~90年)中に六浦山中に建てた浄願寺が始まりとされる。1499(明応8)年、融弁上人によって、光徳寺併合され移築、龍華寺となった。






大黒天の功徳は食物財宝ばかりではなく、招運開運のめでたい神としても人気がある。


元来、この地は入海の狭い海峡(瀬戸)で干満時に急流となり、海上交通の難所であったため、5~6世紀の頃から海神を祀っていたようだ。その霊地に源頼朝が挙兵に際して戦勝を祈願して、伊豆三島明神を勧請したのが瀬戸神社の始まり。そのため瀬戸三島明神とも呼ばれる。主祭神は大山祇神( オオヤマツミ)。






妻、政子が日頃崇敬していた弁財天を祀ったのが境内社の琵琶島神社で舟寄弁天や立身弁財天とも呼ばれる立ったままの弁財天が祀られている。



弁天は立身出世、夫婦和合、縁結びまた音楽・技芸の守り神として古来崇敬されている。


赤井山正法院(あかいさんしょうぼういん)(真言宗御室派)  本尊:阿弥陀如来
今から約1200年程前、弘法大師がこの地に来て井戸を掘り、この井戸水を真言密教で加持し、この水で不動明王像を描き護摩の祈祷を行ったのが、正法院の始まりと伝えられている。
当時の村人は地下水を利用する知識がなく、水不足に苦しみ、疫病がはやり苦難にあえいでいた。
釜利谷が一望できる当院の裏山には、不動堂が祀られており、「赤井の不動様」として親しまれている。また、この赤井の井戸が、山号となり、地名となり、金沢の七井(ななせい)の一つに数えられている。




散華を頂いた。これまでいくつかのお寺で散華を頂いたが、一番カラフルである。




中国では、福・禄・寿を象徴する三体一組の神像とされ、次のような願いが込められている。「福」は健康で素晴らしいい家族、「禄」は仕事や勉強、お金などに恵まれる。「寿」は元気で長生きできる。





かつては富岡漁港として入江であったが、埋立後は昔の海岸線の面影を残す入江となっている。
当時の富岡地区の海は、海苔の養殖を始めとする漁業が盛んであった。
金沢地先埋立に際し、主に富岡八幡宮の800年以上の伝統をもつ「祇園舟神事」の水域を残すことを目的として造られた。





金沢山(きんたくさん)称名寺 (真言律宗) 本尊:弥勒菩薩(国指定重要文化財)
金沢北条氏一門の菩提寺。
鎌倉幕府の要人・北条実時が六浦荘金沢の屋敷内に建てた持仏堂から起源とされる。
実時の孫・貞顕の時代には三重の塔を含む七堂伽藍を完備した大寺院として全盛期を迎えた。
朱塗りの赤門、突き当りには鎌倉時代に造られた高さ4mの仁王像が祀られる仁王門。
阿字ヶ池を中心とした「浄土庭園」が広がり、四季折々の景観が楽しめる。

参拝客が楼門の手前まで行列が伸びていた








初代内閣総理大臣伊藤博文が1898(明治31)年に建てた茅葺寄棟屋根の田舎風海浜別荘建築。伊藤博文が風光明媚な金沢の地を好んで建てたといわる。
明治時代、富岡などの金沢近辺は、東京近郊の海浜別荘地として注目され、第4・6代内閣総理大臣の松方正義や大蔵・外務大臣等を務めた井上馨、日本画の大家の川合玉堂などが別荘を設けた。その後、大磯や葉山などが別荘地として栄え、金沢はその役割を終えている。当時の別荘地の数少ない貴重な建築遺構である。
庭園からは海が一望できる。



もしかしたらとわずかながらの期待をしてきたのだが、年末年始の休刊日であった。


1887(明治20)年、伊藤博文を中心とした政府要人らが東屋旅館に集まりで明治憲法の草案づくりをした。
東屋旅館は江戸時代、金沢八景が観光名所として栄えていた頃、瀬戸橋近く立ち並ぶ旅館のひとつ。


1935(昭和10)年、東屋の庭に「憲法草創の碑」が建てられるが、東屋の廃業により、一時野島に移され、その後、現在の三叉路ロータリーに移設された。



京浜急行金沢八景駅から称名寺までの道を「歴史の道」と名付けている。途中には中世から現代までの歴史を感じさせる寺社仏閣・遺跡などががある。
姫小島水門跡
永島家六代目段右衛門が、金沢入江新田開発の際に海水流入防止の目的で1785(天明5)年に水門を造った。
姫小島の名前は、この地域にある「照手姫と小栗判官」伝承からという。




●八景島シーパラダイス
七福神のスタンプシートには八景島を加えて八カ所回るようになっている。





これまで鎌倉・浅草・日本橋・池上の七福神や瀬谷区の達磨大師を加えた八福神或いは川崎桜本の坂本九さんと福招猫を加えた九福神をめぐった。
今年は大きな自然災害が無いように金澤七福神をめぐった


資料:横浜市金沢観光協会他

訪れた日:2020.1.1





横浜金沢に野口英世博士の偉業をたずねる

2019-12-15 13:55:50 | 横浜歴史散策
1879(明治12)年、コレラの蔓延を防ぐため三浦郡長浦(現横須賀市長浦)に消毒所が設けられ、外国からの船舶が入港する前に乗客・乗員を検査し、感染症が見られた場合には隔離し治療する施設が設けられた。のちに1895年に現在地の横浜市金沢区長浜に長濱検疫所(横浜検疫所の前身)として移転された。現在、この付近は日本の高度成長期に埋立られたが、当時は海岸線に、桟橋や、迎賓館など40棟ほどの建物が設けられていた。
1899(明治32)年、「横浜海港検疫所」と改名される。


伝染病研究所の北里柴三郎所長の助手であった野口英世博士は同所長の推薦により、22歳の夏の1899年5月から9月までここで検疫業務に携わった。

長濱検疫所時代の野口英世博士

神戸港経由で横浜港に入港しようとしていた「亜米利加丸」の乗員から、ペスト患者を発見、隔離という成果をあげた。防止されていなければ横浜中蔓延したのではなかろうかと云われている。
この偉業は大ニュースとなり、野口英世の世界的な活躍のきっかけとなる出来事であった。

旧細菌研究室
細菌検査室は、この地に1895(明治28)年、長浜検疫所が創設された時に、その建物群のひとつとして現在の位置に建てられた。1923(大正12)年の関東大震災で他の建物とともに倒壊し、翌年に再建された。
このとき、屋根は瓦葺屋根を在のかたちに変更した。それ以外の部材はそのまま使用されている。
野口英世博士の関係資料や当時使用された器具類が展示され、博士ゆかりの研究施設としては日本に現存する唯一のもの。




 

  
地下冷暗所:床下に2坪ほどの穴を掘り、医薬品などを保存した





一号停留所
一号停留所は、上等船客用が一定期間停留する施設として、明治28年(1895年)3月に完成。定員は16名。
建物は、東京湾を見下ろす高台に、ほぼ東西に長く、南面の両端が突出したコの字型、左右対称の平屋。所内には8つの部屋(一室2人用)、食堂及び談話室がある。
検疫資料館(一号停留所)は、長濱検疫所の建物のなかでも趣がある施設であり、長濱検疫所の建築の粋がこの建物にまとまっており、明治の面影を残すものとして評価される。
現在は、「検疫資料館」として検疫業務等に使用した資料が展示されている。
一号停留所と云うから二号停留所もあった。こちらは下等船客用であった。定員は100名

下の写真は年に1回の11月中旬の公開日にたまたま訪れた日に撮影。




長浜ホール
長浜野口記念公園の整備に際し、旧事務棟の外観をほぼ忠実に復元し、地下に音楽ホール(104席)をもつ施設としてよみがえった。








現在の長浜検疫所付近


検疫所前の海は埋め立てられ臨海工業地帯や住宅となっている。
僅かに野鳥観察園に海岸線の名残がある。


参考資料:野口英世細菌検査室保存会「長浜通信」
      厚生労働省横浜検疫所

訪れた日;2019.11.16
        12.03
12.14



横須賀製鉄所見学ツアーに参加して

2019-11-19 14:17:27 | 歴史散策

現在の米海軍横須賀基地周辺には、明治になる3年前、1865(慶応元)年に建設が始まった横須賀製鉄所という造船施設があり、同年11月15日に造船技術者であるフランス人のヴェルニーと徳川幕府の小栗上野介による鍬入れの竣工式が行われた。
現在でもその功績を称え、その日に合わせた日程で「ヴェルニー・小栗」祭式典が行われ、横須賀製鉄所のドッグの見学ツアーが行われる。



     👆3号ドッグ                👆2号ドッグ                   👆1号ドッグ
このドッグは現在でも使用されている。

配られた資料からであるが、上の写真は明治初期の横須賀製鉄所全景。
下は1881(明治14)年製、横須賀製鉄所の絵図である。この絵図に似たものが旅館のお土産として横須賀を訪れた旅人に配られたそうである。


船舶修理施設「米海軍横須賀基地艦船修理廠」(略称SRF-JRMC)

米海軍横須賀基地内の「艦船修理廠及び日本地区造修統括本部」という組織。
米海軍第七艦隊の艦船修理、改造工事、ドック内や海上での工事や緊急修理などを行っている。設立は1947年4月、従業員は佐世保も含め2,588人。


1号ドッグ
1871(明治4)年完成、全長137m。



2号ドッグ
1884(明治17)年完成、全長151m。





1、3号ドックは艦船が止まっていたので撮影が不可、唯一2号ドックのみが内部の撮影が許された。

3号ドッグ
1874(明治7)年完成、全長96m。

見学ドックは3号までであるが、ドッグは全部で6つあり、4号以降は艦船の大型化の流れで規模が大きくなっている。
4号ドッグ 1901(明治38)年、全長240m
5号ドッグ 1916(大正6)年、全長324m
6号ドッグ 1935(昭和10)年、全長366m
6号ドッグでは、戦艦・大和、武蔵に次ぐ第3の戦艦製造の予定であったが、1942(昭和17)年のミッドウェー海戦で敗北し、多くの空母を失ったことであり、空母・信濃が建造された。しかしその信濃は、呉海軍工廠へ回送される途中、米海軍潜水艦の魚雷攻撃を受け、戦う前に沈没した。
現在、6号ドッグは大型ドッグと云うことで原子力航空母艦・ロナルド・レーガンの整備に使用されている。

下士官クラブ
旧横須賀工廠時代の昭和初期の建物。
現在は米海軍のCPO(Chief Petty officer:下士官)クラブとして利用されている。


イオンゲート
以前は「ダイエーゲート」と云われていた。京急・汐入が徒歩8分で最寄り駅である。今回の見学ツアーの出入に使用した。




どぶ板通り





どぶ板通りに喫茶店「まどか」は数年前までは存在していたが、時代の流れで今はなくなっていた。


訪れた日:2019.11.16

海上自衛隊の空母に乗る

2019-10-07 14:33:01 | その他
このほど空母化が決定された海上自衛隊最大の護衛艦「いずも」が10月5日(土)、6日(日)の2日間、横浜港大さん橋国際客船ターミナルで一般公開された。
6日(日)は護衛艦「むらさめ」も公開された。

関内駅を降りて横浜公園内を歩いていくと、前日不甲斐ない負け方をして後がないベイスターズの練習風景が覗けた。


大桟橋に着いたのは10時半大勢の見物人が列をなしていた。時折濡れない程度の雨が降ってきた。




全長248m 幅38m 排水量(満載)26千トン




ヘリを収納

艦載機最大14機


1時間待って「いずも」に乗艦。
6月だったか首相と大統領が降りてきたエレベータに乗る。今回これが最大の期待であった。









船尾には旭日旗が掲揚されている。朝8時から日没まで掲げられている。
甲板はそれほど長く広いとは感じない。垂直発信の戦闘機だから可能なのだろう。


次は護衛艦「あさぎり」の見学、40分ほど待って甲板に立つ。







この銃器は62口径76mm速射砲 射程およそ16km





全長151m 幅17.4m 排水量(満載)6,100トン 哨戒ヘリ1機搭載


魚雷発射管





JKの1日艦長



前回の観艦式当日の横須賀港の風景。観艦式は本来3年に一度開かれるのだが、諸事情によりしばらく開催されていなかった。
令和元年、久々に10月の三連休に開かれる予定であるが、猛烈台風の接近によってどうなることになるだろう。


帰りも寄ってみた。節目にショーが開かれた。

祝 瀬谷区制50周年

2019-10-05 20:27:19 | 我がまち


令和元年10月1日、区政50周年を迎え5日に式典が瀬谷公会堂で模様された。
記念式典は事前申込者や招待客らで立ち見者が出るほどの参加者の中、勧められた。








区長挨拶


個人の感謝状授与はこの方、瀬谷の名士ひとりであった。何せ額が企業の十数倍の寄付だとか。
午後は緑区50周年の式典に呼ばれているとか。本当に名士だ。











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                 伊藤かずえさん                   近藤真彦さん
                    (女優・タレント・歌手)            (会社役員・歌手・タレント・俳優他)
                    (瀬谷小・中学校卒)



May Jさん








平成元年3月に行った区制20周年記念事業で、「瀬谷区の未来(現在)」をテーマに、区内の小中学校から募集した絵画と文集・560点をカプセルに収納し、30年後の区制50周年の今年開封された。
中には今はなくなった日向山小学校、下瀬谷小学校の生徒作品もある。
また、御夫婦でカプセルに作品を入れた、今は家族になった方が壇上に出場した。








田代講師は6年間瀬谷西高校の地理の教師をされており、瀬谷には詳しい方で、瀬谷の地理的特徴を様々な地図を用いて紹介。瀬谷の歴史まで踏み込んだ内容となった。
また、自ら「富士山遠望鑑定士」を名乗り、各地からの富士山を紹介した。
瀬谷は富士山の前面に丹沢山系等を望むのでその山並みついても紹介された。その中でも金峰山の五丈岩がここから確認できることには驚きであった。
地図センターが発行する月刊誌「地図中心」に横浜・瀬谷地図くらぶの記事が載せられたと地元サービスも忘れていない。
その他様々な内容を織り込んだ講演であった。










第33回丹沢ボッカ駅伝競争大会終わる

2019-06-03 14:46:27 | 丹沢大倉尾根

第33回丹沢ボッカ駅伝競争大会が丹沢の大倉から花立山荘迄の大倉尾根、4区間で曇天のもと103チームが出走し、6月第一日曜の2日に開催された。



大会は、40kg(男子)、20kg(男子、男女混合)、10kg(女子and高校生)の4クラスがそれぞれの重さの荷物を背負って走るユニークな大会である。


第3区中継点の競技模様を紹介する











駒止茶屋中継点通過順位(参考)
  クラス   40kg              20kg           女子(10kg)
  1位  ゆるゆるハイカーズ      HENTAI         アラジン女子#レンレン  
  2位  草食動物            ハンサム団A       青竹荘(風)
  3位  キタタンどかちん隊        イケメン団A        南蛮女子A 
  4位  アラジンやるときやる部      青竹荘(竹)        ひとめぼれ
  5位  商大ワンダーラ―          チーム晴れ男たち     小林喜び組
  参加   11チーム             71チーム          18チーム


                美しい緑の中にヤシオツツジが赤く咲いていた。

訪れた日:2019.6.2

桜の京都をめぐる

2019-04-23 11:47:36 | 京都
桜が咲く季節に京都を歩く。

伏見稲荷大社





3万社の「お稲荷さん」の総本宮。和銅4(711)年にご鎮座され、平成23年には1300年を迎えた。
境内には、本殿に脇に枝垂桜が1本、社務所前に八重桜が1本、植えられている。


琵琶湖疏水沿い


蹴上インクライン





南禅寺近くの琵琶湖疏水に沿っておよそ90本の染井吉野が咲いている。

南禅寺











安土桃山時代の大泥棒で豊臣秀吉の手勢に捕らわれた、石川五右衛門が山門の上で「絶景かな」と云ったそうで、その山門の楼上から境内の桜を一望できる。

禅林寺永観堂



"もみじの永観堂"と呼ばれるほど、紅葉のイメージが強い永観堂であるが、庭園内には数種類の桜が咲く。

熊野若王子神社



裏山には、陽光桜が植えられている。室町幕府足利尊氏・義政がのこの辺りで花を愛でる宴を開いたと云われる桜の名所。

哲学の道







熊野若王子から銀閣寺参道までの琵琶湖疏水路に沿っておよそ2kmにわたり、染井吉野など500本ほどの桜がトンネルをつくっている。近くに居を構えていた日本画家の橋本関雪(かんせつ)と夫人が、大正(1922)年に桜の苗木を植樹したことから誕生した。そのため、桜並木を「関雪桜」とも呼ばれる。この道は、もともとは疎水管理用の小道であった。

岡崎神社





紅枝垂れ桜、八重の紅枝垂れ桜が植えられている。
ウサギは多産なことから、子宝に恵まれ、子授け・安産の神とされる祭神(奇稲田姫命=くしいながひめのみこと)の使者とされた。

平安神宮

左近の桜












八重紅枝垂桜を主に20種類300本が植わっていて、花の季節にはライトアップされる。応天門を通って境内に入ると、向かって右側に「左近の桜」が見える。
谷崎潤一郎の『細雪』、川端康成の『古都』の春の舞台になった。


疏水の桜を舟から楽しむ


知恩院



風格ある三門の左右に、また境内で、200本余の染井吉野や山桜などが咲く。

建仁寺





境内のあちらこちらに桜を見る事ができる。また塀越しに咲く桜も京都らしい風情がある。華やかな花街と隣り合わせに位置するが、境内は静かで落ち着いた雰囲気がある。



安井金毘羅宮





悪縁を断ち良縁を結ぶご利益を授かる神社。祇園花街に近いことから、桜が咲く春はピンク色に染まり、ご利益は一層と思われる。

祇園白川沿い





染井吉野32本、枝垂桜7本、山桜3本、さと桜1本の桜を見る。特に巽橋・辰巳大明神付近は、桜と石畳と柳が相まって京都らしさがかもしだされる。

京都御所

紫宸殿前の左近の桜





下鴨神社



京都で一番古い神社のひとつ(紀元前90年以前)。朱塗りの社殿に桜が映える。

清水寺





音羽山一帯の境内に染井吉野、山桜など1000本ほどの桜が咲き誇り、雄大な景色が堪能できる。「清水の舞台」からの桜も絶景。また、三重塔の周辺の桜も見応えがある。


松原通り



地主神社(じしゅじんじゃ)



一樹に八重と一重の花を持つ「地主桜」まだツボミ

平安時代の初め、嵯峨天皇は、あまりの美しさに二度、三度と車を引き返しては眺めたと云われることから「御車返し(みくるまかえし)の桜」とも呼ばれた。

四条鴨川沿い





鴨川左岸の三条通~七条通は「花の回廊」と呼ばれる地域。ここを中心に御池通~五条通の約1.8キロに桜並木がある。特に三条大橋~四条大橋辺りが花見客で賑わう。

 


高瀬川沿い











森鴎外の小説「高瀬舟」に出てくる高瀬川。伏見に通じる高瀬川沿いの四条から五条の間に染井吉野が植えられており、その数およそ200本。


訪れた日:2019.4.1~4.3


京都桜の名所・円山公園 朝6時

2019-04-10 16:58:07 | 京都
円山公園は京都屈指の桜の名所である。
園内には680本のソメイヨシノやシダレザクラが咲く。見ごろの期間はライトアップもされる。





















二代目シダレザクラ
通称「祇園の夜桜」と云われている。
二代目シダレザクラ(一重白彼岸枝垂桜)は樹齢90年、高さおよそ12m、根周り4m。
初代は樹齢200年余りで昭和22(1947)年に残念ながら枯死した。現在の二代目は初代の種子から成長したもの。「区民の誇り シダレザクラ」の札が立っている。













訪れた日:2019.4.2


蹴上インクラインから銀閣まで桜の下を歩く

2019-04-09 15:41:51 | 京都
 蹴上インクライン



蹴上インクラインは、高低差36mの琵琶湖疏水の急斜面で、船を運航するために敷設された全長582mの世界最長の傾斜鉄道跡である。
沿路には桜が植えられていて、桜並木の下を歩いて楽しめる。












南禅寺
臨済宗南禅寺派の大本山、京都洛東に位置する。山門上からも桜が眺めれれ、石川五右衛門同様「絶景かな、絶景かな」。






禅林寺永観堂
浄土宗西山派の総本山。哲学の道の出発点。




哲学の道
日本を代表する哲学者西田幾多郎(1870~1945)が思案にふけって散策した、疏水べり2kmの道。
道の両側には関雪桜が植えられている。




















熊野若王子神社
足利尊氏・義政がこの辺りで花を愛でる宴を開いたという桜の名所。
日本サッカー協会のシンボルマークである八咫烏はこの神社のシンボルでもある。








大豊神社
宇多天皇の病気平癒祈願のために889年に創建された。
古事記の記述による大国主命が野火に囲まれたときにネズミが洞穴導いて救った記述に基づいている。
全国で8万社神社が存在するが、狛ネズミがあるのはここだけ。








銀閣寺(慈照寺)
室町時代建築の国宝建造物。室町幕府八代将軍・足利義政(1436~90)が西芳寺(苔寺)の瑠璃殿にまねて建てた観音殿。
江戸時代になって金閣に対して銀閣と呼ばれた。



花まつり 花御堂


参道


満開前の4月2日、蹴上インクラインから哲学の道を通って銀閣寺迄を歩く。

春・祇園巽橋・朝5時半の風景

2019-04-07 07:30:15 | 京都
巽橋は祇園の北側に位置し、この辺一帯が伝統的建造物群保存地域に指定されており、祇園の中でも特に風情がある場所として人気を集めている。
雑誌やテレビなどで祇園が紹介される際には巽橋と周辺の風景使われることも多く、ドラマや映画などにも登場する。
























車を3台揃えて記念写真、これも早朝だからだ






辰巳大明神
その名の通り、京都御所の辰巳の方角の守護神として祀られた。
今日では、祇園の芸妓や舞妓が芸事の上達を願う神として、また商売繁盛の神として信仰されている。
伝説によると、辰巳大明神横の巽橋には狸が住んでいて、橋を渡る人を騙して川の中を渡らせると云う悪戯をしていたため、困った人々が狸を祀る祠を祀ったところ悪戯が収まったと云われる。