モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

『The French Geodesic Mission(フランスの測地学ミッション)』

2017-03-14 08:09:00 | Ruiz&Pavón探検隊、ペルーの植物探検
18世紀末、スペインの科学的な植物探検物語 ②

ジョセフ・ジュシュー(Joseph de Jussieu 1704-1779)『失われたコレクション』は、南アメリカ、エクアドル・ペルー等で集めた植物の標本だった。
南アメリカに何故行ったかという経緯は地球の形状に関する大議論にあった。

1735年パリにある王立科学アカデミーは、地球の子午線の長さを測るプロジェクトを決定した。

  

というのは、ニュートン(1642-1727)が “地球は完全な球ではなく赤道の周りで膨らんでいて極地では平らになっている。”という問題提起をしフランスの科学者の間で大論争を引き起こしていた。
この論争に決着をつけるために、北極と赤道付近でそれぞれ子午線1度の長さを測ることになり、赤道方向に伸びた楕円なのか?局地に伸びた楕円なのか? 世紀の科学論争に決着をつける探検隊の派遣となった。

北極ラップランドでの測地探検隊は割愛することにし、赤道での測地探検隊は、フランスの探検家・地理学者のコンダミン(Charles Marie de La Condamine 1701 – 1774)をリーダーに、数学・天文学のブゲール(Pierre Bouguer 1698 – 1758)、天文学のゴーディン(Louis Godin 1704 Paris – 1760)、アシスタントとして当時31歳のフランスの植物学者ジュシュー(Joseph de Jussieu 1704 – 1779)及びルイス・ゴーディンのいとこで地図製作者のジーン・ゴーディン(Jean Godin des Odonais 1713-1792)が同行した。

このフランスチームが行く場所はエクアドル・ペルーなのでスペインの領土となる。
何世紀も他国の人間が入ることを禁じていたが初めて外国の科学者が踏査することになる。しかも数学・天文・測地学の専門家だけならプロジェクトに対応しているので分かりやすいが、植物学者ジュシューがアシスタントとして紛れ込んでいるところに別の意図が隠されているようだ。

スペイン側は、フランスの科学者を監視することを含めて何をやっているかがわかる人間を送り込んだ。数学者で海軍士官のスワン(Jorge Juan y Santacilia 1713 – 1773)、同じく海軍・天文学者のウリョーア(Antonio de Ulloa y de la Torre-Giral 1716 – 1795)の二人であり軍人であることでもメンバー選択の意図が明らかに分かる。

コンダミン探検隊の活動
コンダミン達は1735年5月にフランスの港を出港し、途中、のちのナポレオン皇帝の后ジョゼフィーヌが育ち、コロンブスをして世界で最も美しい島と言わしめたマルティニーク島などに寄航し、パナマ海峡を徒歩で横断してエクアドルの太平洋の港町マンタ(San Pablo de Manta)に到着したのが1736年3月10日だった。
コンダミンはここで隊から分かれ、現在のエクアドルの首都キト(Quito)に向かった。この途中で、ヨーロッパ人として初めて「ゴムノキ」に遭遇した。


(地図)コンダミンの探検コース


1736年6月4日にキトに到着し、他のメンバーと一緒になり、1736年10月3日からキトとその南にあるクエンカ(Cuenca)との間の距離、これは赤道で3度の子午線の長さに当たり、この距離を1ヶ月かけて測り11月3日にキトに戻った。
しかし、パリから送られてくるはずの探検隊の費用が届いていないことが分かり、万一のためにペルー・リマの銀行に送金しておいたお金を取りに行くために、コンダミンは1737年前半はリマに旅をした。

このリマへの旅のコンダミンのもう一つの目的がペルーのキナノキの調査だった。
マラリアの治療薬としてのキナノキからのキニーネはイエズス会の修道士コボ(Bernabé Cobo 1582–1657)が1632年にペルーからスペインに戻った時にヨーロッパにキナノキの皮を持って行ったが、1世紀も経ったコンダミンの時代でもヨーロッパではあまり知られた存在ではなかった。

コンダミンがキトに戻ったのは1737年6月20日で、ここから子午線の長さを計算しミッションの目的を完了する1743年5月までの6年間はコンダミン、ゴーディン、ブゲールが仲違いをし口を利かない状態が続いた。
意志の強さもこのぐらい続けば立派なものだが、原因はゴーディンが測量した結果を他の二人に教えないということから始まり、今度は、ブゲールがコンダミンの計算のミスを指摘することにより三者三つ巴の険悪な関係となる。

「知」での争いは人間関係まで阻害されることになってしまった。
最初は帰路はブゲールが最初に一人で帰り、陸路をカリブ海に出てフランスに戻り、コンダミンは地元エクアドルの天文学者でこの探検隊に協力していたマルドナド(Pedro Vicente Maldonado 1704 – 1748)と共にアマゾン川を探検してフランスに帰り、ゴーディン及びジュシューは現地に残るという3者三様の現地解散となった。来るときは一緒に来たが、帰りは別々のルートで帰ることになったというから中途半端な仲違いではなかった。

このミッションのリーダー、コンダミンは子午線1度の長さを測るだけが目的でないことが帰路でも明らかになる。
彼は、フランスに帰るには長くて危険なルートであるアマゾン川を下っていくコースを選択した。目的はキナノキ、ゴムノキ、アマゾン族が矢毒として使っている植物性の毒、クラーレなどを調査し、種或いは苗を採取しフランスに送ることにあった。
キトで採取したキナノキの苗はアマゾン川をカヌーに乗せて下り、フランス領ギアナのカイエンヌ(Cayenne)に送りパリの王立植物園に送ったが、高度が低いところでは育たないという栽培条件を知らなかったため失敗に終わった。
コンダミンはヨーロッパでは知られていない次のような植物の種をも採取した。
ipecacuanha(トコン・吐根、嘔吐剤)、simarouba(シマルバ、赤痢治療薬、家具材)、sarsaparilla(サルサパリラ、性病の治療薬)、guaiacum(ユソウボク、梅毒の治療薬・木材)、cacaos(カカオ)、vanilla(バニラ)。
とはいえ、コンダミンは植物学の専門家ではないので、これらの採取もジュシューが手助けしたのだろう。

かくして、スペインには隠れてアマゾン川初の科学的な調査がコンダミンによって実施された。
1743年9月19日にアマゾン川の下流、大西洋に到着し、ここからフランス領ギアナのカイエンヌ(Cayenne)まで行き、オランダ船に乗りアムステルダム経由で1745年2月にパリに戻った。ほぼ10年間の旅だった。

子午線1度の長さを測り、地球の形状を導き出すと、北極・南極の方向に長い縦形の楕円形ではなく赤道方向が長い横長の楕円形状であることが分かり、ニュートンの推論が正しいことが証明され科学論争に決着をつけた。
今では常識に近い知識となっているが、そのためには証明されなければならない。このようなドラマが積み重なって今日があるのだろう。

フランス王室の金庫からこの科学論争のためだけに多額のお金を出したとはとても思えない。子午線の長さを測るという大義名分があれば、他国の領土の自然資源を調べることが出来るので、植物学者ジュシューを同行させていることに真の目的があったのだろうとしか考えられない。
キナノキなどスペインが秘匿してきた南米植民地の資源にフランスが気づきターゲットとして的を絞った感がある。


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