モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

『J・ジュシューの失われたコレクション』

2017-04-02 09:39:29 | Ruiz&Pavón探検隊、ペルーの植物探検
18世紀末、スペインの科学的な植物探検物語 ④

18世紀末、スペインの植民地での科学的な植物調査の始まりは、フランスの大臣チュルゴー(Turgot ,Anne Robert Jacques 1727-1781) の一言からはじまった。

「J・ジュシューの失われたコレクションを取り戻すためにペルーへの科学的な遠征を開始する。」 これを1775年に宣言した。

ジュシューの苦悩
ジュシュー(Joseph de Jussieu 1704-1779)は、コンダミン(Charles Marie de La Condamine 1701 – 1774)達と一緒に南米ペルー副王国に向かって1735年5月にフランスの港を出港し、フランスに戻ってきたのは36年後の1771年だった。

何故こんなにジュシューの帰国が遅くなったかといえば理由は二つある。
最大の理由は探検隊全員が帰れるほどの帰国するための金がなかったこと、
さらには、1745年に天然痘が発生し植物学者・医者であるジュシューは貴重な人材であり植民地政府から帰国を禁じられ治療に当たらざるを得なかった。
また、翌年1746年にはペルー・リマ沖でM8.6の大地震が起き、町・港が崩壊して帰るタイミングをなくしてしまった。

コンダミンより26年遅れの帰国となるが、ジュシューは65歳になっていた。
ジュシューはいわば、矢は使い果たし、刀は折れ、身体・精神ともボロボロ状態で戻ってきた。

それは、1761年に帰国しようと決意し、それまでにジュシューが現在のエクアドル、ペルー、ボリビアなどで採取した貴重な植物標本及び記述したノートブックそして重要な植物の種などで一杯の木のトランク(箱)を彼の使用人に預けたが、宝物が入っていると勘違いされ、ブエノスアイレスで持ち逃げされてしまった。

このショックから立ち直れなかった。
フランスの名門植物一家の一員が証明できる成果無しで帰国出来る筈が無いのに帰国してしまった。

このトランクの中に入っていたモノが『ジュシューの失われたコレクション』だった。

一説によると、トランクの中にはキナノキの種が一杯入っていたという。

歴史に“もし”ということはないが、この種がフランスに持って帰れたら100年後にオランダがジャワ島でキナノキの移植栽培に成功し、世界のマラリアの特効薬キニーネ市場を独占したが、このポジションにフランスが100年早くついていたかも分からない。

オランダがキニーネの市場を独占できたのは、キニーネの含有率が高い品種のキナノキの種から芽を出させ、成木にする技術と長い時間を待てる根気があったからだが、種から育てるところにたどり着くのに時間がかかった。
コンダミンも英国・オランダのプラントハンターも若木を集めて移植栽培しようとしたが全て失敗し、打つ手無しの状態だった。

ジュシューの着眼点は素晴らしい。着地に失敗しただけだと割り切れないところがあるが。

ジュシューは、多くの成果物を失っての帰国であり、失意の中での帰国だったが、ジュシューのコレクションのマイナーな部分はフランスに持ってくることができ、ラマルク(Jean-Baptiste Lamarck, 1744‐1829)は彼の有名な“Encyclopedie Methodique Botanique”の仕上げにおいてそれらを利用したというので、失ったコレクションの価値は非常に高かったのだろうと思う。

(写真)ラマルク著「Encyclopedie Methodique Botanique」


ジュシューの活動記録

まずはジュシューの活動を追跡してみることにする。

(地図)ジュシュー(ブルー)の植物を採取した場所

※ コンダミンがアマゾン川上流で探検した場所(オレンジ)

ジュシュー達がエクアドルの太平洋の港町マンタ(San Pablo de Manta)に到着したのが1736年3月10日だった。
ここからキト(Quito)に向かい、キトとその南にあるクエンカ(Cuenca)との間の距離を測ることになるが、これが完了するのが1743年5月なので、この間のジュシューの活動エリアはエクアドルのアンデス山脈及びアンデス山脈の東側アマゾン川上流地域となる。

アンデス山脈東側に足を踏み入れたのはジュシューとコンダミンが科学者として初めてで、この二人の記録はフンボルト(Friedrich Heinrich Alexander, Freiherr von Humboldt, 1769‐1859)の南米アマゾン探検に刺激を与えたという。

一口に探検といっても現代とは様相が大違いで、パナマ海峡の横断、キトへの道中は、道なきジャングルを切り開き、手足は傷だらけ、虫に刺されて熱を出し(マラリアにかかる)、豪雨で進めず、氷点下の気温で凍りつき、あらゆる苦難が待ち受けていた。

ガイド・荷役として雇った現地人が、自生しているキナノキで熱を下げ、コカの葉で痛みを和らげることをジュシューに教えてくれたが、この現地人達もあまりの厳しい道のりなので逃げ出し、荷物を背負うロバも通れない崖の所ではロバを棄て、自分たちで荷物を担ぐことになったという。
探検の成功は装備と兵糧に負うところが多いが、持てるモノが限られるので棄てざるを得なくなり難渋を極めたようだ。

かくして、ジュシューは、自生している生きているキナノキ及びコカ等を科学的に調査した初めてのヨーロッパ人となった。(栄誉は帰国が早く報告書を書いたコンダミンが獲得した。)

(写真)ペルー、ボリビアで活動したところ


ジュシューは1736年から1748年までエクアドルにいて、
これ以降は南のリマ(ペルー)に下がり、ワンカベリカ水銀鉱山(Huancavelica)、ポトシ銀山(Potoci)などで医者として働きながら植物採取をし、チチカカ湖(Titicaca)では鳥を集めたという記録が残っている。



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