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モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

その23:コーヒータイム④ オスマン帝国と出合った運

2008-01-30 12:05:21 | ときめきの植物雑学ノート
コーヒータイム④ オスマン帝国と出合った運

イスラム圏へのコーヒーの伝播
現存最古の資料は、パリ国立図書館にある通称『コーヒー由来書』のようだ。
この本は、1587年にアラビアのイスラム教徒アブダル・カディーによって書かれ、
迫害されるコーヒーを擁護する本だ。
この本が出るまでに、
1511年 メッカ事件といわれるコーヒー禁止令、
1524年 メッカでのコーヒー店禁止、メジナではコーヒーに重税を課す
1534年 カイロでコーヒー店襲撃事件
などの迫害があり、統治者が禁止したくなるほどの危惧とその普及のインパクトがあった証左でもある。

オスマン帝国とめぐり合った“運”
また、迫害がありながらもコーヒーがアラビアで普及していくこの時期は、
オスマン帝国が、アラビアまで領土を拡大し、1517年にはカイロ、1536年にはイエメンが征服された。
オスマン帝国(1299-1922年)は、アジア・アフリカ・ヨーロッパ3大陸にまたがる領土で、
コーヒーは、更に大きな渦に飲み込まれ、グローバル化する下地が用意された。

オスマン帝国の首都、コンスタンティノープルにコーヒーが伝わったのは、1517年。
1554年には、コンスタンティノープルに世界最初のコーヒーハウスが開店した。

1454年のアデンで、イスラム寺院の門外不出の秘薬“カフワ”が公開された。
ほぼ1世紀で、氏素性がよくわからない“カフワ”が、弾圧などを乗り越え
コーヒー嗜好飲料としての基盤を獲得する切符を手にいれたともいえよう。



コーヒーとタバコ 
コーヒーとタバコは、ほぼ同時期にハイスピードで世界中に普及する。
グローバル社会への登場もほぼ同じ時期だ。
コーヒーとタバコの普及の類似性と違いをみるために、いずれタバコに関しても調べるが、
両者のハイスピードでの普及は、商業主義だけでは説明つかないものがありそうだ。

17~18世紀は、近代化というその当時にはよくわからなかったであろう大革命での
“興奮”と“覚醒”、これに答えてくれる薬が欲しかったのであろうか?
或いは、こころの交換、意思の交換、コミュニケーションを支援する道具が欲しかったのであろうか

コーヒーハウスの誕生
コーヒー・タバコは、ともに、“神との交信”で使われていたようであり、
寺院から飛び出したコーヒーは、寺院に変わる新たな場・入れ物を必要とし、
その場を創出したのは、当時のグローバルNo1オスマン帝国の首都コンスタンティノープルだ。
世界からの貴人(ヒト)・珍品(モノ)・カネ・情報が集まり、
これらを流通・交換する場が必要であった。
それが“コーヒーハウス”だ。

コーヒーハウスは、ヒトが重要な情報を持っている時代の
コンテンツであるヒトを入れる容器でもあり、メディアでもある。
いわば、双方向型のニューメディアでもあった。
ただ、コーヒーが世に普及していく過程で、危機感を抱かれ迫害されたように、
コーヒーハウスも迫害を受けることになる。
この運命は、すでに誕生した時から内在していた。
コーヒーを媒介とした意見の交換は、“興奮”と“覚醒”そして“権力との戦い”へと拡張する。

“近代化”という“知”が求めたコーヒーとタバコ。
最近は、惰性になっており、感動もなくなった。
これは、低カフェ・低ニコチンなど、安全を求めるがゆえの犠牲なのであろうか?

蛇足ではあるが
コンテンツ(であるヒト)を入れる容器、或いは、乗り物をビークルとかメディアと言っているが、
教室とか牢屋などはメディアとはいえない。
何故だろう? いくつか答えを考えてみたが・・・・・
1.権力と戦ってはいけないから
2.コンテンツではないから
3.価値の交換が出来ないから
4.質問の設定が間違っている
5.その他
その他の答えが結構あるのだろうか?

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その22:コーヒータイム③ なぞに満ちたコーヒーの起源

2008-01-28 08:09:46 | ときめきの植物雑学ノート
コーヒータイム③ なぞに満ちたコーヒーの起源

スーフィと呼ばれる羊の毛を織った白いマントをまとう修行僧は、
8世紀末ごろのメソポタミア・クーファに出現している。
(このクーファは、今では、イスラム教シーア派の聖地の一つとなっている。)

その中で、コーヒーに深くかかわっていたのは、
アル・シャージリーによって開かれたシャージリーア教団のスーフィだ。
この教団は、1258年 シャージリー死後に設立され、神秘主義の教団といわれている。
夜の行を勤めるスーフィたちは、眠気防止のために“カフワ”を飲んでいたという。
ということは、13世紀中頃以降のどこかの時点で、
イスラムの寺院に“カフワ=コーヒーの煮汁”があったということだ。

コーヒー起源での疑問
コーヒーはいまや世界で愛されている飲料となっているが、この発展の基礎は3つに集約される。
この3点がコーヒーの由来の謎そのものなのだ。
Q:コーヒーノキを、原産地エチオピアからコーヒー栽培の地イエメンに誰がいつ持ってきたか
Q:コーヒー飲料はいつ誰が発見したか
Q:焙煎はいつ誰が発見したか
ということだが、謎は埋まらない。ますます謎になる。



欠けた記録を埋める二つの伝説
コーヒーに関する記録が少なく、生い立ちがわからないためか、
“コーヒー起源伝説”として、おおよそのイメージを後世が作ったようだ。
しかも先を見越した2つの説があり、
イスラム教徒オマール発見説とキリスト教徒にも受け入れられるエチオピア高原由来説の2つだ。
オマール発見説は、1258年にオマールが発見し、イエメンのモカがコーヒー発祥の地だと言っている。
この1258年は、冒頭の教団の創設者アル・シャージリーがエジプトに行く砂漠で死亡した年であり、
伝説自体がコーヒー起源を、シャージリーア教団のスーフィを指し示している。

もう一つはコーヒーノキ及びコーヒーの原産地がエチオピアだといっている。

いずれも後付け的な物語で起源がよくわからない。
ちなみに、オマール発見説は、1587年に書かれた『コーヒー由来書』に記載。
エチオピア説(カルディの物語)は、1671年ファウスト・ナイロニ『眠りを知らない修道院』に書かれている。

ノアの方舟伝説
それならば、こんな起源伝説というのも素晴らしいと思うが如何だろうか?

大洪水がおさまった後、ノアの方舟がついたところは高い山頂であり、
船から降りたノアが真っ先にしたことは、ワインのためのぶどう作りだった。(旧約聖書創世記)
イスラムでのワインは“カフワ”と呼ばれ、コーヒーも“カフワ”と呼ばれた。

そして、この高い山にはいくつかの説があり、
・トルコのアララト山(5165m)
・イエメンの古都サヌアの近郊ノビ・チェアッペ山(3760m)。
このサヌアの山麓で、コーヒーの栽培が始まり、
またサヌアは、ノアの息子セムが住んだ街という伝説がある世界最古の街の一つである。
コーヒー伝説は、伝説だからこそ、ノアの方舟伝説までさかのぼっても似合いそうだ。

謎は解けない
このように、
アラビカ・コーヒーノキの原産地はエチオピアだが、
コーヒーは、アラビアのイエメンで飲用されていたようであり、
神秘主義のイスラム球団のスーフィが覚醒の秘薬として宗教儀式で使用し、
秘匿されてきたところまでは良さそうだ。

しかし、コーヒーノキが、コーヒー豆の主生産地イエメンまでに来た動きがよくわからない。
コーヒーノキは繊細で、移植するのが難しい。
それなのに、伝説ではこの点が説明されていず、古文書にも残されていない。
一説では、1470年にエチオピアのアビシニア高原からイエメンに移植されたという。
これではちょっと遅すぎるのではないかと思う。
1454年には、アデンの僧院でコーヒーが公開され、秘密として秘匿することが
出来ない状態になっている。この頃には、コーヒーの需要は急増していると思われる。

コーヒーが最初に記録された歴史への登場は “薬” だった。

(Next)
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その21:コーヒータイム② 植物としてのコーヒーノキ

2008-01-25 08:35:08 | ときめきの植物雑学ノート
コーヒータイム② 植物としてのコーヒーノキ

コーヒーは身近だが、コーヒーノキとその果実は見たことがなく、
温室のある植物園にでも行かないとコーヒーノキを見ることが出来ない。

コーヒーノキの原産地は、エチオピアのアビシニア高原で野生のアラビカコーヒーノキが生えていた。

つやがある濃い緑の葉、ジャスミンに似た香りを放つ白い花を咲かせ、
枝にビッシリとつく果実は、初め緑色だが、熟すると赤身が濃くなりさくらんぼに似る。

コーヒー生育の地図


コーヒーノキの生育環境は条件が厳しく限られる。
地域的には、赤道をはさみ北緯25度から南緯25度の間で、
・年間平均気温20℃で月差がない温暖なところで、天敵の霜が降りないところ。
・年間1500~1600㍉の降雨量があり、開花期と果実の成熟期には必須。
・この条件を備えた谷間の傾斜地に限られる。
高度1000m以下だと暑すぎ、2000m以上では霜の恐れがあるので、限られた場所になる。
また、植えてから実がなるまでに3~5年かかるので、資本力が必要となる。

このように、コーヒーノキは、生育環境を厳しく選ぶだけでなく資本も必要とし、
過保護を要求する繊細な子供のようだ。
“コーヒー文化を支えるのは、ムッシュ資本とマダム大地”といわれる所以だ。

コーヒーノキ
・アカネ科の熱帯性常緑小高木
・学名は、コフィア・アラビカ(Coffea arabica)、和名はアラビカ・コーヒーノキ
・原産地は、エチオピアのアビシニア高原といわれている。
・丈は、6~8mまでなるので、栽培用は2mぐらいに剪定している。
・白い花を咲かせ、果実は初めは緑色、それから数ヶ月は黄色くなり、成熟すると赤味が増し、さくらんぼに似る。
・コーヒーノキの天敵は霜。
・コーヒーノキの種は、10種以上あるが、栽培されているのは、アラビカ種・ロブスタ種・リベリカ種の3種


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その20:コーヒータイム①“イスラムの秘薬カフワのデビューあらすじ”

2008-01-24 10:52:11 | ときめきの植物雑学ノート
そろそろ新たなリメイク曲が出てもいいのではないかと思っている曲がある。
西田佐知子が1961年に歌い、それとともに“琥珀色した飲みもの”に心をとられ、
いまでは、一日5~6杯は飲まないといられない。

2001年には井上陽水もリメイク曲を歌っている。

そう、 『コーヒールンバ』です。

確かこんな出だしだった。
“♪ むかしアラブの~えらいおぼうさんが~ ♪”

ヨーロッパの17世紀は、イスラムからの知識の逆流・ルネッサンスなどによる
知識・科学革命の世紀でもある。
考えるためには、“興奮”と“覚醒”が必要であり、
これを支える“秘薬”が、イスラムの寺院でスーフィー(僧侶)に守られ準備されていた。

アラビヤ語では、カフワ(Qahwa)と呼ばれる琥珀色の飲み物だ。
17世紀にヨーロッパ社会に登場するが、そのデビュー前の物語である。
“カフワ=コーヒー”がなかったら、誕生しなかった或いは誕生が遅れた“近代”があったと思う。

コーヒーは、1454年 イエメンのアデンにあるイスラム寺院で公開されるまで
2世紀もの間、イスラムの僧侶の門外不出の秘薬であった。
コーヒールンバの歌は、核心をついていたことになる。

ヨーロッパへの登場は、1554年に伝わったトルコ経由となるが、
スレイマン2世が統治・繁栄していたオスマン帝国の首都イスタンブールで豪華に磨かれ
1645年イタリアのヴェネチア、1650年イギリスオックスフォードで最初の“コーヒーハウス”が誕生した。
ヨーロッパでは、科学革命の世紀に入る。

世界を魅了するようになった、“コーヒーノキ”“コーヒー”“コーヒーハウス”の
過去を楽しんでみようと思う。
コーヒータイムの時間だ。
最近のニュースでは、女性が1日2杯以上飲むと良くないということが言われているが、
さけ(醸造酒)、タバコ、コーヒーは、アダムとイブの末裔への天からの贈り物だ。
とこれだけは疑わずに楽しんでいる。
ただ、何となく楽しんでいたコーヒーを、意識して飲むようになれればうれしい。
これは、タバコに関してのお医者さんの素晴らしいアドバイスだった。

続く

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ときめきの植物雑学 その19:本草書のトレンド③

2008-01-23 08:50:10 | ときめきの植物雑学ノート
その19:本草書のトレンド③

本草書のナショナリズム。 自国の植物を自国の言語で!

氷河期に南に下がった植物は、氷河期が終わり地球が温暖になっても
アルプス山脈にさえぎられ北上できなかったといわれている。
異なる植物相に気づき、1000年以上も続いたワンパターンからやっと脱しようとする動きが出てきた。
それは、自国の植物を対象にした、自国の言葉でのオリジナルな植物の物語が始まった。
しかも、周縁のところで。
植物画での新しさはないが、植物を見る視線では模倣を脱している。

=本草書は、中心から周縁に拡張=
ピエトロ・アンドリア・マッティオリ(Pietro Andrea Mattioli 1500-1577)イタリア
・1544年 イタリア語で『ディオスコリデス注解』ヴェネツィアにて出版
・チロル大公フェルディナンドのコレクションの館長で医師。
・見事な図版が挿入されているが装飾性を引きずっている。



ウイリアム・ターナー(William Turner 1508 – 1568)イギリス
・1551~1568年 フックスの図を下敷きに『新本草書』を出版
・英語で書かれた初めての本草書。238種の英国の植物を記載。
(注)1568 - Turner, William (author) - Cologne, Germany - Chicago Botanic Garden Library
  ※『新本草書』をクリックした先にある画像は、レア本を拡大してみるページにジャンプします。左下のページ表示したコマを選択・クリックすると拡大画像が右上に表示されます。虫眼鏡で部分拡大などができます。



レンベルト・ドドエンス(ドドネス)(Rembert Dodoens 1516-1585)ベルギー
・1554年 オランダ語で『クリュードベック(Cruydeboeck)』を出版。多くの国で翻訳された。
・1583年 『ペンプタデス植物誌』(全六巻) アントウエルペンのプランティン書店から出版
・ドドエンスの本は、日本に移入され日本の本草学者に大きな影響を及ぼした。
1644年『Herbarius oft Cruydt-Boeck』



ジョン・ジェラード(John Gerard 1545-1611) イギリス
・1597年 ドドエンスの植物誌を下敷きにして『草本書又は博物誌』を出版
・イギリスで最初の園芸書
・草花を専門に育てるアマチュア園芸家の伝統の先駆となる。
・1800種の植物が記載され、ほとんどのハーブが含まれている。



あやふやで不確かな文章、劣化していくビジュアル。
これらは、筆写・写本につき物であり、教祖からの口伝がなければ教科書として使えない。
活字と版画を組み合わせた印刷は、版を変えない限り変質・劣化せず同一性が保てる。
しかも、ナレッジ供給は、早く・安く・大量で・正確に増加させることが出来る。
まるで、1990年代に始まったインターネットのようだ。

16世紀以降のヨーロッパでの知識・科学革命は、
表現の手段としてのBook・印刷が、時代を刺激し、“科学する”という目標を与えたから
起きたとも言えそうだ。
そして印刷メディアが求めたコンテンツとしての本草書は、
画家・アーティスト・職人が、植物をリアルに描くという絵画とは異なる手法を発見し、
身近な植物を写していくという行為からたどり着いた。

ディオスコリデスがローマ軍医として各地を転戦して植物観察をした
この原点にたどり着き、筆写ではない、版画と活字印刷を使った新しい様式に
うまくはまった。というのかもしれない。

しかし、準備をあまりせずに新しいメディアに乗ってしまったので、
ブームを定着させるコンセプトが提起できなかったためか、
17世紀後半からは、薬効の誤りなどを指摘され、本草書ブームは衰退することになる。

しかし、自然を客観的に見つめ、そこにある秩序を求める視線は消えずに残り、
異なるアプローチで発展することとなる。

<<ナチュラリストの流れ>>
・古代文明(中国・インド・エジプト)
・アリストテレス(紀元前384-322)『動物誌』ギリシャ
・テオプラストス(紀元前384-322)『植物誌』植物学の父 ギリシャ
・プリニウス(紀元23-79)『自然誌』ローマ
・ディオスコリデス(紀元1世紀頃)『薬物誌』西洋本草書の出発点、ローマ
⇒Here 地殻変動 ⇒ 知殻変動【その15】
・イスラムの世界へ
⇒Here 西欧初の大学 ボローニアに誕生(1088)【その13】
⇒Here 黒死病(ペスト)(1347)【その10】
・グーテンベルク 活版印刷技術(合金製の活字と油性インク使用)を実用化(1447年)
・レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)イタリア
⇒Here コロンブスアメリカ新大陸に到着(1492)【その4~8】
⇒Here ルネッサンス庭園【その11】
⇒Here パドヴァ植物園(1545)世界最古の研究目的の大学付属植物園【その12】
⇒Here 『草本書の時代』(16世紀ドイツ中心に発展)【その17、その18】
⇒Here レオンハルト・フックス(1501-1566)『植物誌』本草書の手本。ドイツ【その18】
⇒Here 『草本書の時代』(ヨーロッパ周辺国に浸透)【その19】
・李時珍(りじちん 1518-1583)『本草網目』日本への影響大、中国
⇒Here 花卉画の誕生(1606年) 【その1~3】
⇒Here 魔女狩りのピーク(1600年代)【その14】


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ときめきの植物雑学 その18:本草書のトレンド②

2008-01-22 09:08:29 | ときめきの植物雑学ノート
ときめきの植物雑学 その18:本草書のトレンド②

ドイツで勃興する本草書のブーム

1000年以上も持続した本草学の権威、ディオスコリデスを超えるのは、
一体誰だろうか? これが今回のテーマだ。

レオナルド・ダ・ヴインからジョン・ジェラードまで、わずか1世紀もかからずに
対象としての植物をリアルに認識し、写実的に描くことが実現した。
自然・社会を対象として眺め、写実的に特徴を捉える。
この思考の変革は、劇的であり、身近にある植物でなされたことの意味は大きい。

『本草書の時代』をリードしたのはドイツの草本家で、その後同時多発的に
ヨーロッパ各国で同じ動きが起きる。
印刷技術が改革され印刷工業が勃興したドイツでは、聖書に代わる
コンテンツが欲しいという潜在したビジネスのニーズがあった。
この印刷メディアとコンテンツとの新しい緊張関係が、ドイツで始まっていたということだろう。
そして
新しい視線で植物を捉え焼き付けたのは、画家・アーティスト・職人のようだ。
本草家がコピーと構成の役割を担ったようだが、ディオスコリデスをなかなか超えられていない。
アーティストは、既成概念から解き放たれるのも早く、全体を俯瞰する能力が高いのであろうか?
そしてこのような、人材と環境がそろっていたのは、印刷工業が発展しているドイツ以外なかった。

こんな仮説で本草書出版の歴史ドキュメントが読み込めそうだ。

=千年続いた模写の時代=
デイオスコリデス(Dioscorides 1世紀頃)
『薬物について(De Materia Medica Libriquinque)』という本草書を、1世紀の頃に書いた。
・1000年以上もの間イスラム・ヨーロッパの世界で権威ある薬学のテキストとして使用される。



=模写の歴史での最後の本草書=
コンラッド・フォン・メーゲンベルク(Conrad von Megenberg 1309-1374)ドイツ
・1475年『自然の書(Buch der Natur)』最初の印刷版がアウグスブルクで出版。
・母国語(ドイツ語)で書かれた最初の本草書。
・注目点は、木版画が本文を補完する意図で作成・印刷された最初の本。



=本草書の時代の開幕=
ペーター・シェッファー(Peter Schöffer 1430頃-1503)ドイツ
・1485年『ドイツ本草書』出版
・ドイツにない植物を描くために、画家をともなって取材旅行し、
・実写での植物図版が初めて登場した。
・グーテンベルグとの共同経営者だが乗っ取りをおこなった。しかし、写実主義を実践した
ことにおいては貢献度が高い。



オットー・ブルンフェルス(Otto.Brunfels. 1488頃― 1534 )ドイツ
・1530年 シュトラスブルクで『本草写生図譜』第一巻を出版。
・シェッファー以降植物の写実性が劣ってきたが、この本で、ルネッサンスの思想である
写実主義・自然主義を復活した。
・1532年 ドイツ語版『図説本草』を出版。本文はディオスコリデスの複写だが、植物図版が優れており、
植物図の歴史に新時代が開ける。
・この図版を描いたのは、ニューハンブルクの画家 ハンス・ヴァイデイツ(Hans.Weiditz)。
画家の目でありのままに実写し、枯れたところまで描いた。
・ハンス・ヴァイデイツは、アルブレヒト・デューラーと同じ派であり、確かな目を持っていた。
・しかし、植物図版として、必要ないところまで描いてしまったので普遍性が劣った。



レオンハルト・フックス(Leonhard fuchs 1501-1566)ドイツ
・1542年 『植物誌』をバーゼルで出版
(注) 1542 - Fuchs, Leonhard (author) - Basil - The Warnock Library(コピーが出来ませんがかなりのページが見れます)
・約400種のドイツ原産の植物、約100種の外国産の植物を記載。
・植物をアルファベット順に記載し、分類は試みていない。
・内容は過去の模倣であり、科学的な価値には乏しい。
・歴史上高い評価を得ているのは、500を超える植物の図版。
・分業体制で植物図版を作成した初めての本。
・実際の植物を写生したのは、アルブレヒト・メイヤー。図解的に書き直し版木に下絵を描いたのは
ハインリッヒ・フュッルマウラー。版木を彫る仕事をしたのがルドルフ・シュペックル。
・実際の植物をリアルに描くのではなく、種としての共通の特徴的な性質・形態を描き、
オットー・ブルンフェルスの画家ハンス・ヴァイデイツが、ありのままの植物をリアルに描いたのとは大きく異なる。
・植物図鑑の図版としてのあるべき描き方を発見し、確定した。
植物図版アネモネ この高精細度の再構成された精密なアネモネの素晴らしさ。



ヒエロニムス・ボック(Hieronymus Bock 1498-1554)ドイツ
・1538年 シュトラスブルクで『新本草書』を出版。
・1546年 フックスの図版の影響を受け、ブルンフェルス、フックスの図を下敷きにして改定
・ドイツに自生している薬草を自分の目で観察して記述した。



<<ナチュラリストの流れ>>
・古代文明(中国・インド・エジプト)
・アリストテレス(紀元前384-322)『動物誌』ギリシャ
・テオプラストス(紀元前384-322)『植物誌』植物学の父 ギリシャ
・プリニウス(紀元23-79)『自然誌』ローマ
・ディオスコリデス(紀元1世紀頃)『薬物誌』西洋本草書の出発点、ローマ
⇒Here 地殻変動 ⇒ 知殻変動【その15】
・イスラムの世界へ
⇒Here 西欧初の大学 ボローニアに誕生(1088)【その13】
⇒Here 黒死病(ペスト)(1347)【その10】
・グーテンベルク 活版印刷技術(合金製の活字と油性インク使用)を実用化(1447年)
・レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)イタリア
⇒Here コロンブスアメリカ新大陸に到着(1492)【その4~8】
⇒Here ルネッサンス庭園【その11】
⇒Here パドヴァ植物園(1545)世界最古の研究目的の大学付属植物園【その12】
⇒Here 『本草書の時代』(16世紀ドイツ中心に発展)【その17、その18】
⇒Here レオンハルト・フックス(1501-1566)『植物誌』本草書の手本。ドイツ【その18】
・李時珍(りじちん 1518-1583)『本草網目』日本への影響大、中国
⇒Here 花卉画の誕生(1606年) 【その1~3】
⇒Here 魔女狩りのピーク(1600年代)【その14】

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ときめきの植物雑学 その17:本草書のトレンド①

2008-01-20 10:31:51 | ときめきの植物雑学ノート
その17:本草書のトレンド①

アートとサイエンスの婚約まで
本草書は美しい。
それが、ビザンティン写本のように写実的でなく現実の植物と似ていなくとも
あるいは、デューラーのように驚くほどの精緻さでリアルに描かれていたとしても
美術書にはない魅力がある。



絵画でもなく科学でもない。或いは、絵画であり科学でもある。
本草書には、この相矛盾するものを内包した魅力がある。

このような意見で安穏としていることが出来るのも、
現代は、カメラというものがあるからだろう。
カメラは、見えたとおりにありのままに近いものを切り取り記録する道具だ。
認識も、表現手法も、記録・焼付けも、気にすることがない。

しかし、植物画の歴史には、
描かれた植物画から、対象である植物の認識そのものの推移を知ることが出来、
アートとサイエンスとの融合もリアリティを持って伺える。

1000年以上も眠っていた中世社会が目を覚まされた。
といっても知識人だけだが。
ルネッサンス期の3大発明といえば、「羅針盤」「火薬」「印刷技術」であり、
自然をあるがままに正確に捉えるという「自然主義」「写実主義」は、
停滞していた科学的思考と芸術的思考を大きく動かす原動力となった。

15世紀中頃に実用化した印刷技術は、
100年をかけてそのハードを生かすソフトが開発された。
常にハードが先行し、遅れてソフトが追従開発されるが、
印刷技術のように劇的であればあるほど社会の基盤に組み込まれ、
後戻りすることが出来ずに、新たな発見・発明競争が加速するのが常だ。

印刷における科学と芸術の結婚、
すなわち植物学者と画家との共同作業により、植物のことを描いた本草書が
他のあらゆる領域に先駆け、試行錯誤の見事な系譜で16世紀中盤に出来上がった。

現在において、“あるがままにものを正確に見る”ということ自体なんら不思議なことはないが、
クラテウアス(Krateuas 紀元前132-63年)、デイオスコリデス(Dioscorides 1世紀頃)の時代に
出来ていたことに戻るのに1600年もかかった。

1400年代の後半からの1世紀は、特に1500年代は、 『本草書の時代』といわれ、
ルネッサンスの自然主義・写実主義を実現していく。
行きつ戻りつのそのプロセスを知ることは、目標設定してのその達成のためのアクションの参考となる。


<植物画 アーティストの思考の変化の流れ>
クラテウアス(Krateuas 紀元前132-63年) 
・写実性の高い植物画を描く。
・ディオスコリデスの『マテリア・メディカ』でも使用。
・植物画の父といわれる。

想像上の植物マンドラゴラ マンドレーク(1406-1430 コンスタンチノプル製作)
・地面から引き抜かれる時に致命的な悲鳴を上げるということが恐れられました。
・なんと、ディオスコリデスの薬物誌にも掲載されている。
http://www.strangescience.net/stplt.htm

=絵画に科学性を持ちこみルネッサンスをリードしたヒト=
=自然主義、写実主義がルネッサンスの思想=

フィリッポ・ブルネレスキー(Filippo Brunelleschi 1377-1446) 
・遠近法を発見又は再発見した一人ともいわれる。

レオン・バティスタ・アルベルティ(Leon Battista Alberti 1404-1472)
・ルネッサンスの天才、『絵画論』で透視図法に幾何学的な基礎を与える。
・職人の世界を科学・学問の世界に近づけ、画家の地位向上に貢献。

レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci, 1452-1519)
・ルネッサンスの天才は人体・植物などの観察をデッサンとして残している。
・ダ・ヴィンチは現代からワープしてルネッサンス期に行ったヒトではないかと思うほど視通しているからすごい。

アルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer 1471-1528)
・ドイツを代表する画家。北方ルネッサンスの口火を切る。
・1490年代に「風景画」を描いており、ヨーロッパで初めて。
精密な植物画・動物画を描き、16世紀中頃に登場する草本書の挿絵図の先鞭をつける。
The Large Turf (5番目の画像)
1503 (180 kB); Watercolor and gouache on paper, 41 x 32 cm; Graphische Sammlung Albertina, Vienna
木版画を芸術の域に高め、グーテンベルクの印刷革命のコンテンツの品質を向上。

<印刷技術の革新>
ヨハネス・グーテンベルク(Johannes Gutenberg 1398頃―1468)
・1447年に活版印刷技術(合金製の活字と油性インクの使用)を実用化し、初めて旧約・新約聖書を印刷。
・ルネッサンス期の情報伝達スピードを飛躍的に改革。
・同じ情報が広い範囲に同時的に伝達できることは、写本による誤謬を内在した

アントン・コーベルガー(Anton Koberger 1445-1513)
・中央ヨーロッパ最大の商業都市ニュールンベルクの大印刷出版事業者。
・最盛期には、100名の職人、24台の印刷機を有し、質の高い書籍を出版。
・ここからニュールンベルクが印刷・出版の中心地となる。

【次号に続く】

<<ナチュラリストの流れ>>
・古代文明(中国・インド・エジプト)
・アリストテレス(紀元前384-322)『動物誌』ギリシャ
・テオプラストス(紀元前384-322)『植物誌』植物学の父 ギリシャ
・プリニウス(紀元23-79)『自然誌』ローマ
・ディオスコリデス(紀元1世紀頃)『薬物誌』西洋本草書の出発点、ローマ
⇒Here 地殻変動 ⇒ 知殻変動【その15】
・イスラムの世界へ
⇒Here 西欧初の大学 ボローニアに誕生(1088)【その13】
⇒Here 黒死病(ペスト)(1347)【その10】
・グーテンベルク 活版印刷技術(合金製の活字と油性インク使用)を実用化(1447年)
・レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)イタリア
⇒Here コロンブスアメリカ新大陸に到着(1492)【その4~8】
⇒Here ルネッサンス庭園【その11】
⇒Here パドヴァ植物園(1545)世界最古の研究目的の大学付属植物園【その12】
⇒Here 『本草書の時代』(16世紀ドイツ中心に発展)【その17】
・レオンハルト・フックス(1501-1566)『植物誌』本草書の手本で引用多い、ドイツ
・李時珍(りじちん 1518-1583)『本草網目』日本への影響大、中国
⇒Here 花卉画の誕生(1606年) 【その1~3】
⇒Here 魔女狩りのピーク(1600年代)【その14】

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ときめきの植物雑学 その16:1千年以上の時空を越えたディオスコリデス

2008-01-17 05:18:02 | ときめきの植物雑学ノート
その16:1千年以上の時空を越えたディオスコリデス

ディオスコリデス『マテリア・メディカ』
薬学の祖といってもよいヒトがいる。
デイオスコリデス(Dioscorides 1世紀頃)という。
氏素性はよくわかっていないが、小アジアといっていた現在のトルコ、アナトリア半島キリキア地方の出身で、
ローマのネロ皇帝(在位54- 68年)の時代に、軍医として従軍し、各地を旅行して薬物を調査研究したという。

デイオスコリデスは、俗に“マテリア・メディカ”といわれる、
『薬物について(De Materia Medica Libriquinque)』という草本書を、1世紀の頃に書いた。

この本が、ヨーロッパだけでなくイスラムの世界でも、15世紀まで文献として通用し、
16世紀、本草書の時代のNewが出て、普及・浸透するまで使われたというからすごい。

ビザンチン写本(ウィーン本)で時空を超える
また、『マテリア・メディカ』は、現存するものがなく写本が残っているだけだが、
ギリシア語・ラテン語・ペルシア語・ヘブライ語・トルコ語などの書き込みがあり、
西ローマ帝国崩壊後は、イスラムの世界で活用されていた。

写本で有名なのは、512年につくられたビザンチンの画家が写した写本で
ディオスコリデス・ウィーン写本とも呼ばれているが、(Here⇒オーストリア)
1202~1204の第4回の十字軍で、ヨーロッパ側が偶然にこれを手にいれ、
1569年,神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世が購入し,ウィーン帝室博物館に収められた。

1492年 フェラーラ大学医学教授ニコロ・レオニチェーノによって
『プリニウス及びその他の著作家が犯した薬草についての記述の誤り』が公表され、
ディオスコリデスと同時代人のプリニウスの『自然誌』が批判された。
ここから、『自然誌』『マテリア・メディカ』への盲目的な信頼が崩れ始め、新しい思考が誕生する。

アートとサイエンスの結合
それにしても『マテリア・メディカ』は、1千年以上も薬物学・植物学のテキストとして権威を保持し続けたが、
その理由・要因を探ってみよう。

『マテリア・メディカ』は、写本によって異なるが、600種ほどの薬の説明があり、
そのうち500種ほどが植物で占められている。
原著は、文章だけと思われるが、前述の“ウィーン本”では、
植物画の父といってもよいクラテウアス(Crateuas 紀元前132-63年)の写実性の高い植物画を使用しており、
この周囲にテキストを配置している。
確かに、優れている。1500年前の作品・本草書とは思えない。

「百聞は一見にしかず」ということわざがある。
音・コピーは創造を刺激する。
ということは、発想を豊かにするので、見たことのないものは、様々な形状と色彩が可能となる。
アートは、生き方を豊かにするのでこれでよい。
科学は、再現が重要であり、そのためには、同じもの異なるものその違いが明確でなければならない。
植物・ハーブが面白いのは、アートとサイエンスと経験とが一体になって動いている。
しかも、他の領域よりも早く動いているところが面白い。

コピーライター・ディオスコリデスとデザイナー・クラテウアスとが優れていたから
千年も超えられた。
ということで終わりにしたいが、コピーライターのコピー作成の考え方をまとめておかないと終われそうもない。

科学は細分化である
『マテリア・メディカ』は、600種もの薬物を区分けし、体系を作りそれを全5巻に記載した。
区分け、体系がここでは重要であり、これまでは、ABC順とか薬効とか利用の仕方で区分けしていた。
ディオスコリデスは、以下のように分類し
1巻:芳香薬・香油・軟膏・樹脂・樹皮・果木・低木・果物
2巻:動物・蜜蝋・牛乳・獣脂・穀物・疎集・香辛料・毒草
3巻:日常的に使われ薬草になる根・汁・苗・種子
4巻:以上でふれていない草・根
5巻:ぶどう酒・その他の酒・酢・金属・鉱物

個別の薬物に関しては、名称・産地・形態・性質・効用・使用法について記載した。

16世紀までは、新しい知識の追加もなく、薬草だけが植物としての関心であり、
ディオスコリデス以上の分類が考えられるのは、18世紀のリンネとなる。
15世紀以降アメリカ大陸などからの珍しい植物などが増加し、これらを理解するための道具が必要になった。
従って、薬草だけでなく植物自体の分類に関心が向いていき、また、自然の理解の仕方も大きく変わることになる。

蛇足:古代ギリシャの医薬分業
一朝一夕で素晴らしい成果を出せるものではない。
その時代までの社会に存在しているナレッジの水準が高かったので、
これらの集大成と統合の切り口がよかったのだろう。

この時代の医者と薬剤師に当たる者とは、分業体制にあり、
身分の高いヒトを見る医師は神殿の僧侶であり、
世俗の医師・薬剤師的なリゾトモス(rhizotomos)は、大工と同じ様に身分が低い職業であったようだ。
リゾトモスは、野山を駆け巡り、薬草・根などを採取するので“草根採取人”ともいう。

このリゾトモス・世俗の医師・神社の僧侶などの薬草と効果に関してのナレッジ水準の向上
そして薬草園の薬草育成などに1000年以上も貢献したというからすごい。



<<ナチュラリストの流れ>>
・古代文明(中国・インド・エジプト)
・アリストテレス(紀元前384-322)『動物誌』ギリシャ
・テオプラストス(紀元前384-322)『植物誌』植物学の父 ギリシャ
・プリニウス(紀元23-79)『自然誌』ローマ
⇒Here ディオスコリデス(紀元1世紀頃)『薬物誌』西洋本草書の出発点【その16】
⇒Here 地殻変動 ⇒ 知殻変動【その15】
・イスラムの世界へ
⇒Here 西欧初の大学 ボローニアに誕生(1088)【その13】
⇒Here 黒死病(ペスト)(1347)【その10】
・レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)イタリア
⇒Here コロンブスアメリカ新大陸に到着(1492)【その4~8】
⇒Here ルネッサンス庭園【その11】
⇒Here パドヴァ植物園(1545)世界最古の研究目的の大学付属植物園【その12】
・レオンハルト・フックス(1501-1566)『植物誌』本草書の手本で引用多い、ドイツ
・李時珍(りじちん 1518-1583)『本草網目』日本への影響大、中国
⇒Here 花卉画の誕生(1606年) 【その1~3】
⇒Here 魔女狩りのピーク(1600年代)【その14】


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ときめきの植物雑学 その15: 地殻変動から知殻変動になった?

2008-01-15 09:17:14 | ときめきの植物雑学ノート
その15: 地殻変動から知殻変動になった?

16世紀、「草本書の時代」までの知殻変動
16世紀~17世紀中頃までを「草本書の時代」という。
なじみがない言葉のようでもあるが、“草本”つまり植物についての
“これまで”と大きく違う研究成果の発表=著作物が多発された時代でもある。

それでは、“これまで”とは何時のことを言っているのだろうか?
さかのぼることなんと、西ローマ帝国崩壊の476年からともいえそうだ。
或いは、紀元1世紀のディオスコリデス『薬物誌』以来と言い切ってもよさそうだ。
西欧社会での植物への関心は、西ローマ帝国崩壊から1000年以上も
ディオスコリデスの上で足踏みをしていたようだ。

この眠りに入り16世紀に覚醒した要因には、知の移動という大きな地殻変動があった。

最初の地殻変動はローマ帝国の崩壊だ。
ローマの文化は、独創性がないがリアリティがあり実用性に優れていると言われている。
異民族・蛮族などとの戦いで勝利し領土を拡大できたのは、
戦うシステムのロジカルな構築と命を投げ出す兵士の処遇でのロイヤリティ管理に優れていたからといいたい。

塩野七生さんの『ローマ人の物語』では、
これを、“高速道路とハブ&スポーク”および“サラリーと市民権”というように表現していたと思う。
「全ての道はローマに通じる」といわれた道路の幹線ネットワークを構築し、
ケルンのような軍団駐屯地(ハブ)から、高速で兵士・武器・兵糧・指令を移動させ、
命を投げ出す兵士には、給与と定年後にはローマ市民権を与え開拓農民とするなど
征服した民と領土をも生かすシステムまでも構築し、
防衛ライン内の広い領土を、安い税金で効率的に治める統治技術を磨いていた。

ローマ人は、このような社会システムとか建築での現実の課題解決能力に優れていた。
しかし、哲学・芸術などの思考の対象は苦手みたいで、
ギリシャ文化及び国籍にかかわらず知識人・技術者を受け入れる政策を実行した。
このオープンマインド、言い換えれば、実利性・公平性などが
ギリシャの思索・創造性とあいまって、西欧文明のマザーになりえたと思う。

1000年以上もまわり道したのは?
4世紀からのゲルマン人の侵入などで、これまでの覇権システムが内部崩壊し、
身内に取り込んだゲルマン人の傭兵隊長に止めを刺され、西ローマ帝国は滅亡した。
ギリシャ・ローマの世界は、ビザンツ帝国が継承し、ギリシャ古典文化を保護した。
西ローマ帝国という身体は、分割され変遷していくが、
ギリシャ文明を継承できなかったのには何かしら理由がありそうだ。

それは、どうもギリシャ文明が難しかったからのようだ。
現実性・実用性のない学問はどうしたらよいのかわからない。
ということで、意思を持って引き継がなかったのではなく、
引き継げなかったのだと思う。
だから、原典の保存も気にせず、発展させようとすることもなく、
完成されたものとして、検証もせずに丸写ししていたのだろう。

さらに、
キリスト教がローマ帝国及びその後の時代で浸透・拡大するなかで、
文化を担っていたギリシャ人・ユダヤ人などの異教徒の知識人が、迫害を避けるため、
東方の都市に安住の地を求めて逃げ出していったことがあげられる。
異教徒排除のクローズドシステムが、1000年もの眠りにつくベットを用意したとも言えそうだ。

東方(イスラム圏)へ逃げた知殻変動
ヒトが逃げるということは、Know Who・ノウハウそのものがなくなることであり、
重要な書物なども持って行ったので、
イラン南部にあるジュンディシャープールが、イスラム以前からのギリシャ・インドの
学術が研究されており、ヘレニズム化したギリシャ学術の継承者となっていた。
9世紀には、サラセン人がこれらの文献を組織的にアラビア語に翻訳し、発展させることになる。
ギリシャ・ローマ時代の知識の成果は、ヨーロッパではなくイスラム世界で熟成されることになる。

残された
ギリシャ人のように知識を純粋に突き詰め体系化させることが苦手なローマ人、
その後を蛮勇で切り取ったが文明化されていないゲルマン民族国家にとって、
純粋知識よりも世俗での生きる知恵の方が重要であったのだろうか、
上書きされ評価される知識が生産された痕跡が少ない。

脱け殻の西欧社会での小さな光
芯がなくなり脱け殻になってしまった西欧の知の世界では、
1000年以上もの眠りに付くことになるが、
わずかに科学の火をともしていたのが、修道院でありそのネットワークであった。
本業が神に仕える業であるため、科学・芸術全般にまで手を染めるわけにも行かず、
その中では、医学・薬学などは維持された方だと思う。
しかし、ギリシャ・ローマ時代の科学成果を超えるレベルには至らず、
筆写・写本というコピー文化での誤字・脱字なども生産付加して行ったようだ。
アラビア語に翻訳されたギリシャの原典にふれるのは、なんと11~13世紀まで待たねばならなかった。

科学革命をもたらす近代の知の理解
この知識を今度は、アラビア語からラテン語に翻訳し、
ヨーロッパにブーメランのように戻ってくるのが11世紀から13世紀後半であり
ルネッサンスの原動力となった。

ルネッサンスは、
このような誤字・脱字・書き換えされ伝承されたコピー文化に対して、
1000年以上も前の、ギリシャ・ローマ時代のオリジナルに触れ、
これを理解できるレベルに達しているから起きた感動が
ここに戻って、ここからやり直そうと動機付けられたとも解釈できる。
1000年以上もの時間をかけてきたものを捨てようという勇気であり、
懐かしさや懐古趣味でおきたことではなく、オリジナルとの誤差の大きさ、
或いは間違った認識に気づき、科学的な思考を取り戻したのだろう。

植物に関してこれを言えば、
“自然を詳しく見て、正確に記述する。”というスタンスが成立した。
これは、文章でも絵でも同じスタンスだ。
レオナルド・ダ・ヴィンチの植物画のデッサンは、リアリティに描かれており、
画家・科学者ダ・ヴィンチの視線が現代と変わらないことが伺える。
この“見えたことを正確に記述する”ということについては、改めてふれてみたい。


<<ナチュラリストの流れ>>
・古代文明(中国・インド・エジプト)
・アリストテレス(紀元前384-322)『動物誌』ギリシャ
・テオプラストス(紀元前384-322)『植物誌』植物学の父 ギリシャ
・プリニウス(紀元23-79)『自然誌』ローマ
・ディオスコリデス(紀元1世紀頃)『薬物誌』西洋本草書の出発点、ローマ
⇒Here 地殻変動 ⇒ 知殻変動【その15】
・イスラムの世界へ
⇒Here 西欧初の大学 ボローニアに誕生(1088)【その13】
⇒Here 黒死病(ペスト)(1347)【その10】
・レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)イタリア
⇒Here コロンブスアメリカ新大陸に到着(1492)【その4~8】
⇒Here ルネッサンス庭園【その11】
⇒Here パドヴァ植物園(1545)世界最古の研究目的の大学付属植物園【その12】
・レオンハルト・フックス(1501-1566)『植物誌』本草書の手本で引用多い、ドイツ
・李時珍(りじちん 1518-1583)『本草網目』日本への影響大、中国
⇒Here 花卉画の誕生(1606年) 【その1~3】
⇒Here 魔女狩りのピーク(1600年代)【その14】


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ときめきの植物雑学 その14: 魔女狩り

2008-01-11 08:00:00 | ときめきの植物雑学ノート
その14: 魔女狩り

いつの世でも“仲間はずれ”“いじめ”がある。
陰湿なだけでなく、生命までかかわってくるから看過できない。
組織的・国家的な権力者がかかわってくるとなるとなおさらだ。
なんて息をまいていてもしょうがないか~

ふれないで素通りしたかったが、・・・・・
植物とヒトとの関わり合いのテーマでは逃げることはフェアーでないと思い、
1600年頃をピークとして、中世末のヨーロッパを吹き荒れた狂気
“魔女狩り”にふれることにする。

魔女狩りに関しては、“狂気”であるだけにまだわからないことが多いようだが、
従来のイメージを変えなければならないことにこの歳で気づいた。
この確認から行い、植物との関係での見方を展開する。

魔女狩りの間違った認識
1428年にスイス・ヴァレー州で最古の魔女裁判がされたが、
イタリア、スペイン(バスク地方除く)、オランダなどでは、魔女裁判がほとんどなく、
ポーランド、スウェーデン、ハンガリーなどが多いという。
中世末の全ヨーロッパでの狂気かと思っていたが、
グローバル化されていない民衆が多い、豊かでない地域で特に熱くなったようだ。

ヒトがヒトを裁く“排除”のきっかけは、
1229年にグレゴリウス9世教皇が異端審問制度を組織化したことから始まるが、
魔女裁判・火あぶり等の処刑執行は民衆であり、あらかたは仲間内での公開リンチのようで、
カトリック教会は、止めようとはせずに了承をしていた脇役だったようだ。

イエズス会の修道士フリードリッヒ・フォン・シュペ(1591-1635)は、
魔女狩りが激しかった時期に、『犯罪にご用心 魔女裁判における法的疑義』(1631)を出版し、
“魔女は存在しない。異端審問官の妄想がつくりだしたものだ。”
と内部批判をおこない、積極的に狂気に反対した修道士も数少ないが存在し、
組織的な指令で魔女狩りがなされたわけではなさそうだ。

魔女狩りの火種は
ヨーロッパの広い地域で同時多発的・継続的に魔女狩りがされるには
強くて固い信念・意志があるはずで、宗教でないとすると何だったのだろう。

動物の世界では、インプリンティング(すりこみ)という本能のようなものがある。
これは、生まれたばかりの子供が、目の前にいる動くものを親だと思い込み
後を追うそうだが、このような本能的な行為がすりこまれている。

ヒト社会では、赤子を育てるためのすりこみとして、
童話・童謡・民話というものが、重要な役割を果たしている。

ヘンデルとグレーテルの物語は、
森の中にいる怪しげな“ババア”を魔女とし、こんなババアのいる森に注意しましょう。
ということを教えているが、ババアに注意しましょうということになってしまった。
魔女のイメージは、
土着の民話のなかに、ユダヤ人の特色であるカギ鼻、
占星・薬草などの高度な知識を扱う怪しげなふるまいなどを
新たに取り込み、形成されたようだ。
絵本を見るとこんなイメージになっていると思う。

魔女=産婆の図式
初期の魔女は、これらのイメージの焦点として“産婆”にピントが合っていた。
産婆のことを英語では、Wise woman(賢い女性)といい、
医療技術が幼稚な中世では、高度な医療技術を持っていた。
産科、小児科、薬学、心療内科の専門家であり、
朝早く露が落ちた後の生きの良い薬草を摘みに森に入るなど
自然と積極的にかかわってきたナチュラリストでもある。
また、男性至上主義で無知な男にとって、賢い女は嫌な女であることは今でも変わらない。

“産婆”が排除される対象になったのは、誰にとって、何が気に入らなかったのだろう? 
そこには、産婆を排除するメリットがあるはずだ。

魔女狩りが吹き荒れた時期の“狂気”の裏返しである“正気”をおさらいすると
・11世紀以降各地に大学が作られた。
・16世紀半ばから大学付属の植物園が作られ始めた
・16世紀は、植物そのものを研究対象とした本草書が出版された。

“正気”の向かう方向は、科学であり、これを学んだ医学部大卒の人材の活用である。
ストレートにいうと、あやしげな“産婆”の職を奪うということに尽きる。
これほど嫌われたのは、
処女で赤ん坊が生まれるはずがないことを一番知っているのは“産婆”であり、
この点で教会と熱烈な信者から嫌われていたことが指摘できる。

“産婆”の職を奪う方法として
文化度の高い先進地域及び都市では、“産婆”の登録・免許制度をつくり、これを運用することによって
好ましからざる“産婆”を排除する仕組みをつくった。
もう一つが、“魔女狩り”での根こそぎの排除だ。

この動きは今日まで続き、“産婆”は消え、助産婦すら職業から消えてしまった。
ヒトの誕生から死までを自宅から切り離し、医学部・教会に移行させる
国民の生死の国家管理という野望が芽生えていったと思われる。

植物園が誕生し大学医学部が活性化する同時期に、“魔女狩り”がピークを迎えている。
大卒の医師、植物学者が生産される仕組みがつくられることによって
“産婆”に変わる代替が登場した。
経験はないが、マニュアル的で、水準が保証された均質な技術・知識
これを普及させるには、“産婆”の役割を段階的に小さくしていけばよい。
こんな合理的な考えが、“狂気”の増長を助けたのかもわからない。

魔女狩り=狂気の正体は?
この“狂気”の正体はいったいなんだったのだろうか?
いろいろな説があるが、どれも当てはまらず、
現段階で説得力を持っているのが、「集団ヒステリーのスケープゴート」のようだ。

不純物を排除し、混じりけのない純なものにしたいという『純化』
一神教であるキリスト教の本質だろう。
仲間はずれ、いじめの“見せしめ”が、
魔女狩りでの火あぶりまでエスカレートさせたのだろうか?

植物・動物そして人間社会でも、 『多様性』 は生存の基本として重要であり、
生き残る手段でもある。
異質・異物を排除する『純化』は、その方向には強いが、流れが変わると生存を危うくしかねない。
太平洋戦争に突入していった“狂気”“集団ヒステリー”のようなことを
再現させないためにも、異質・異物を尊重し発言を聞く耳を持っておきたいものだ。


<<ナチュラリストの流れ>>
・古代文明(中国・インド・エジプト)
・アリストテレス(紀元前384-322)『動物誌』ギリシャ
・テオプラストス(紀元前384-322)『植物誌』植物学の父 ギリシャ
・プリニウス(紀元23-79)『自然誌』ローマ
・ディオスコリデス(紀元1世紀頃)『薬物誌』西洋本草書の出発点、ローマ
・イスラムの世界へ
⇒Here 西欧初の大学 ボローニアに誕生(1088)【その13】
⇒Here 黒死病(ペスト)(1347)【その10】
・レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)イタリア
⇒Here コロンブスアメリカ新大陸に到着(1492)【その4~8】
⇒Here ルネッサンス庭園【その11】
⇒Here パドヴァ植物園(1545)世界最古の研究目的の大学付属植物園【その12】
・レオンハルト・フックス(1501-1566)『植物誌』本草書の手本で引用多い、ドイツ
・李時珍(りじちん 1518-1583)『本草網目』日本への影響大、中国
⇒Here 花卉画の誕生(1606年) 【その1~3】
⇒Here 魔女狩りのピーク(1600年代)【その14】


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