モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

No41:無法地帯を旅したヒントン ①その生い立ち

2011-03-09 08:08:06 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No41

ヒントン(Hinton,George Boole 1882-1943)は、49歳から趣味の植物に道を転じたプラントハンターで、これまで登場した中では異色の人物でもある。
死亡するまでのわずか十数年で16,300品種もの植物をメキシコのゲレーロ州・ミショアカン州・メヒコ州で採取し、その中には300以上の新種と4つの新しい属が含まれていたという。
“プラントハンターのプリンス”と呼ばれた プリングル(Pringle, Cyrus Guernsey 1838-1911)には及ばないが、時代が遅れるほど新種の発見が難しくなる中で、素晴らしい結果を残している。

ヒントンがプラントハンターとして活動した1931-1941年のメキシコは、1810年-1821年までのスペインからの独立戦争の100年後から始まったメキシコ革命(1910-1940年)の時期にあたり、権力闘争と政敵を徹底的に排除するという国民同士が殺しあうという革命の時期にあたる。

こんな危険な時代背景で、まったく違う世界へ飛躍したヒントンは、定年になったら何をしたらよいか惑う会社人間・仕事人間にとって、新たな人生の出発を奮い立たせてくれるヒントがあるかもわからない。

ヒントンの科学者家系
ヒントンは、1882年英国、ロンドンで数学者の父チャールズ・ハワード・ヒントン(Hinton ,Charles Howard 1853 – 1907)と母メアリー・エレン・ブール(Mary Ellen Boole 1856-?)の子供として生まれた。
(写真)ヒントンの父Hinton ,Charles Howard

(出典)rudyrucker.com

(写真)ヒントンの母方の祖母メアリー・エベレスト・ブール

(出典)Agnes Scott College

メアリーエレンの母Mary Everest Boole(1832-1916)は、コンピューターサイエンスの創始者とも言われる有名な数学者George Boole(1815 –1864)と結婚し、メアリー・エレンは5人娘の長女として生まれた。母親の苗字はエベレストだが、叔父George Everest大佐は、そのころ無名の山エベレストの高度を測定したのでこれを記念してエベレスト山と命名された人物であり、数学に秀でた家系のようだ。

父親のチャールズは、メアリー・エレン・ブールのほかにも結婚をしようとして重婚罪で刑務所に1日か3日収監されたようであり、これを契機に1886年に英国を家族とともに出国し、日本に来て東京大学で数学を教えることになる。
主人公のヒントンも3歳から10歳まで日本で生活したことになるが、どんな印象を持っていたのだろう。
7年後の1893年には米国に移住し、プリンストン大学に移籍し、1907年に脳出血でなくなる。

父チャールズは、米国の野球界にも足跡を残し、今では高校野球の練習でも使われているピッチング・マシーンの最初の開発者でもあった。この機械は、火薬の爆発力を使ったので事故があり、プリンストン大学を免職となりミシガン大学に移籍したという。どうもトラブルが付きまとう父親のようだ。
今ではこのピッチング・マシーンは、スクリーンに映し出されたピッチャーと一体になり、まるで本物の投球を体験するところまで来ている。

このヒントンの父は数学者であると同時に作家でもあり、この子孫たちには原子物理学者、中国文化大革命時の中国の生活を書いた作家などを輩出している。しかし、プラントハンターとしてのヒントンは紹介されていない。学者とプラントハンターの価値付けが垣間見えるところでもある。

ヒントンの生い立ち
ヒントンは、目が悪かったという。大学に行く前は自宅で両親に教育され、大学は、ミネソタの鉱山学校、コロンビア大学、アリゾナの鉱山学校、カリフォルニアのバークレー校で学んだ。この学費は、夏休みの間にメキシコの鉱山の検査員として働き自分で支払ったというから偉い。
1907年、ヒントン25歳の時に父親がなくなるが、この後は、弟たちの学費を出したというからなお偉い。

彼はメキシコに恋をし、彼が29歳の1911年に新妻Emily Percival Watleyと共にメキシコに移住する。
そして植物学に全力を投入するまでの25年間は、鉱山の検査官、冶金学者、土木技師、建築家として働き資産を形成したが、1929年のウォール街の株式市場崩壊で始まった世界恐慌の影響を免れることができなかった。

ヒントンが植物の採取に興味を持ったのは、彼が49歳の時の1931年の頃のようだ。
そして、1936年には、これまでの仕事を全てやめてフルタイムで植物のコレクターとなる重大決心をし、3人の息子たちにも手伝ってもらいたいという申し入れをした。

三男のJames Hinton (1915–2006)は、カナダの大学で経済学の研究をしていたが、1939年にこの研究を放棄してメキシコに戻り父親の植物探索を手伝うことになった。

彼ら父子は、5年間ゲレーロ州とミチョアカン州をラバで旅したが、この地域は、山賊・強盗が多く出没し、奥地に分け入る探鉱者・宣教師・兵士すら近づけないところがあった。これが幸いであり、植物学的には未踏のところでもあった。
ヒントン父子は、山の民への贈り物・医療などを通じて信頼関係を作り、彼らの協力と保護で旅することができた。
自然の驚異だけでなく人間が脅威となるところがあったから1930年代でもプラントハンターが入れなかったのだが、メキシコが置かれている騒乱を反映していて、この地域を選択したヒントンの鉱山関係での経験と見識が生きたようだ。

後に昆虫学者となる長男のHoward Everest Hinton(1912-1977)も父親の手伝いをしていてヒントン54歳からはプラントハンター一家でもある。今までにないタイプでもある。

ヒントンがプラントハンターになったきっかけはキューガーデンにあった。以下次回に。


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