彦四郎の中国生活

中国滞在記

黒井城②―氷上郡の室町・戦国時代の歴史と赤井・荻野一族―城郭学研究を担う人たち

2021-02-07 08:46:36 | 滞在記

 黒井城は本城のある城山の郭(曲輪)群だけでなく、城山の尾根とその周辺には8つの砦群を構え要塞化、さらに周囲の山々や丘陵地に22もの支城を擁し、二重・三重に防御力を高めた城塞群だった。

  黒井城のある春日部荘は、1333年の鎌倉幕府討伐(滅亡)、1336年の室町幕府成立の時代に足利尊氏軍の傘下に入り武功の大きかった赤松氏一族(播磨国・美作国が拠点)に対し、尊氏が播磨国とその周辺の他に丹波国の一角を恩賞として与えた荘園であった。以降、ここ春日部荘は赤松春日家が五代、約120年間にわたってこの地を統治していた。

 室町幕府は足利歴代将軍を有力守護連合が支えるという体制で、特に三管領の有力守護「細川、畠山、土岐」の三家と四職の有力守護「一色、京極、山名、赤松」の四家が多くの国々を支配し将軍家を支えた。将軍自体が多くの領国と軍兵力をもっていたわけではないので、将軍の権力基盤としては弱さがあった。室町幕府成立後から約100年後の1444年に嘉吉の乱がおきる。将軍の権力基盤を強化しようと図り独裁将軍とも恐れられた第6代将軍・義教(第3代義満の子)を赤松氏が暗殺したのだ。幕府よりの赤松討伐軍の中心となったのが山名氏。この討伐により赤松家は没落。

  上記著作は西丹波・播磨・美作・但馬地方の歴史を知ることができる三冊。①『赤松一族 八人の姿』、②『ひょうごの城』、③『但馬の中世史―城郭と資料で語る』

 しかし、1446年~1477年の応仁の乱により東軍の細川勝元の陣営に寄った赤松一族は復興を果たし、恩賞として播磨・美作・備前の三か国を領有。一時は「六国殿」との呼び名のあった西軍の中核・山名氏は勢力を大きく失い、のちに但馬国のみの支配となった。赤松氏は置塩城(兵庫県姫路市北方の夢舞町)に拠点を置いた。(※この置塩城もすばらしい巨大山城だった。一部に石垣も残る。マムシが多い。)

 だが、下剋上の時代に入り、赤松氏の拠点から離れているもいる春日部荘のある氷上郡一帯はこの地の豪族国衆たちによっての分割支配が進む。下剋上下、赤松氏も1520年頃から拠点地も含めその求心支配力を失っていく。現在、氷上郡は平成の市町村合併によって7つの町が合併し丹波市となっているが、この1520年以降から赤松春日家も没落し氷上郡は6つの豪族国衆が割拠する支配下に入る。(足立氏・芦田氏・吉見氏・赤井氏・荻野氏・和田氏)

 この6つの豪族国衆の中で赤井氏が最も勢力をもつようになる。春日部荘の黒井城を本拠地とする荻野氏は姻戚関係のある赤井氏から赤井直正(※1529年生まれ。赤井家の次男として誕生。)を養子として迎えることとなり一族の存続強化を図った。このときから直正は荻野姓を称した。1554年、母方の叔父の荻野秋清を殺害し、荻野家内の実権を握る。通称の「悪右衛門」はこの事件からついたとも言われる。また、その勇猛ぶりから「丹波の赤鬼」と恐れられもした。

 同盟関係を結ぶために、正室として多紀郡篠山の八上城に拠る波多野元秀の娘を娶ったが死別し、その後、関白・近衛前久の妹を継室として娶った。1557年、赤井家の当主で兄の家清が西丹波の八木城に拠る内藤宗勝との戦いの傷がもとで死去したため、直正は黒井城を本拠地としながら、兄・赤井家清の幼少の息子である忠家を後見。この経緯から、赤井正直とも呼ばれるようになる。このころには、氷上郡の西丹波一帯だけでなく、北丹波の天田郡(福知山市)や何鹿郡(綾部市)や船井郡(京丹波町)一帯も勢力下に治め、1565年には内藤宗勝を天田郡での戦いで討ち取り、丹波国で最も大きな勢力となった。(近衛前久は一時期ここ黒井に身を寄せていた。)

 1568年、織田信長が足利義昭を擁して上洛し、三好政権とも戦いながらその勢力を近畿一円に広げる。1570年に、赤井家本家の甥・忠家とともに直正は織田信長傘下に下り、三郡支配を安堵される。ところが1571年に、但馬国の山名氏が氷上郡に侵攻、これを打ち破り、逆に山名氏の竹田城を陥落させ、拠点である此隅山城・有子山城(兵庫県出石町―この山城もまた素晴らしい。高い石垣群が残る。)に迫る勢いとなる。山名氏は織田信長に救援を求める。

(※この時代、日本は世界的にも「銀の生産国」として有名になっていた。当時の世界貿易通貨は銀である。日本における銀の二大産地は、竹田城の南方にある「生野銀山」と山陰石見国にある「石見銀山」。赤井直正は一時期、この生野銀山を支配下におさめたとも言われている。重要な資金源だ。)

 1573年、織田信長と将軍義昭との戦いにより義昭は毛利方の領地である瀬戸内海沿岸の鞆の浦に逃れる。このような時勢の流れの中で、赤井(荻野)直正は反信長の諸勢力と連携し信長傘下から離脱することを模索するようになっていった。信長への旗幟下を離れつつあることにより、1575年ころ信長は まずは西丹波の八木城を攻略した後、直正の拠る黒井城攻めを行うことを決断する。赤井直正は、信長軍侵攻に備え但馬から急遽、軍勢を引き上げた。

 1575年に東丹波地方の八木城を落城させた明智軍は、次いで西丹波地方の雄、黒井城への侵攻に向かった。これには八上城の波多野秀治も明智軍に従った。光秀は本陣を黒井城から南西にある柏原(かいばら)の低い丘に置き、赤井直正の籠る黒井城や支城群に対峙していた。1575年の晩秋から対峙する中で、翌年76年1月、赤井直正と気脈を通じていた波多野秀治が織田軍から突如離脱し反旗を翻す。これにより光秀軍団は挟撃され総崩れとなり敗退する。「赤井の呼び込み軍法」と呼ばれる大勝利となった。(第一次織田軍丹波進攻)

 翌年、1577年、軍勢を立て直し再び黒井城周辺に侵攻し陣を敷く。しかし、黒井城の南にある高見山城や三尾城に拠る直正の弟・幸家の軍勢が背後から襲い掛かり、光秀軍がひるんだところを、黒井城から押し寄せた直正軍が2方向から挟撃。光秀軍は崩れて敗退する。二度までも光秀軍を敗退に追い込んだことにより、「丹波の赤鬼」の名声は高まった。これにより、光秀軍は、戦いの矛先の重点を八上城の波多野秀治に変更する。波多野・赤井の連携を分断するために堅固な金山城を街道の峠に築城。1578年2月頃より八上城への徹底した包囲網を作り持久戦を展開。(第二次織田軍丹波進攻)

 ところが、第三次黒井城攻防戦を前にして、1578年3月、直正は突如、病(首の腫瘍とも言われる)によって亡くなってしまった。(50歳)   光秀側による毒殺との説もある。嫡男・直義は僅か9歳であったため、叔父(直正の弟)の赤井幸家が総指揮をとることとなった。(城主には赤井忠家がなる)  しかし、直正の死は黒井城や八上城での防衛戦に大きく影響を及ぼすこととなった。

    波多野氏の八上城が1579年6月に落城し、総力を黒井城攻略に向けた光秀軍に黒井城の22の支城群や西丹波の諸城も次々と落城。毛利方の援軍を待ち続けたがついに来援はなく、そして1579年8月に黒井城はついに落城した。落城の際、忠家と直正の嫡男・直義は城を落ち延びている。そして、武勇をもって知られた赤井氏が断絶することはなかった。忠家はのちに豊臣秀吉に仕え、江戸時代に徳川幕府の旗本となっている。直義も後年には藤堂高虎に仕え、藤堂家の重臣となる。

 最後の降伏・落城まで総指揮をとった直正の弟・赤井幸家も死を免れ、この西丹波で生きながらえ1603年に70歳で没した。ここ黒井城の籠城戦は八上城のような悲惨な状況にはならなかった。

※標高356mの城山の山頂にある黒井城の本丸郭群からは、晩秋には周囲が一面の雲海に包まれた壮大な光景が出現するようだ。一度見てみたものだと思う。JR福知山線の黒井駅前には、光秀の重臣・斎藤利三の娘であるお福(後の春日局)の3歳のころの像が立てられている。

 丹波国が織田軍団の明智軍によって1580年までに平定されたのち、室町幕府四職家の一つ「一色氏」が領した丹後国は細川藤孝(幽斎)と嫡男・忠興軍が侵攻。丹後の建部山城(京都府舞鶴市)や宮津八幡山城(京都府宮津市)を落城させ、一色氏の本城である弓木城(京都府岩滝町―丘陵地や小山を活用した大規模な平山城で巡りやすい。)を1582年に落城させ丹波平定がなった。

 信長は丹後支配を細川藤孝に命じた。藤孝は丹波支配の拠点として、天橋立が望める海辺に宮津城を築き、のちに舞鶴の地にも平城の田辺城を築き本拠とした。室町幕府の三管領・四職の7家のうち、一旦没落はしたが、戦国時代を生き抜き、江戸時代には大藩の一つ肥後熊本藩53万石の細川家として幕末まで存続した細川一族。

 そしてもう一つは、かって近江を支配した四職の家柄であったが、下剋上のなか六角氏や浅井氏が近江支配にとってかわられ、永らく没落していた京極氏。しかし、見初められて秀吉の側室となった姉の存在により弟の京極高次は大津城主となって復興した。秀吉没後の関ヶ原の合戦時に近江の大津城で西軍の大軍に囲まれながら壮絶な籠城戦を戦うこととなった京極家。その他の5家は、全て没落し江戸時代を迎えた。京極高次は籠城戦の大功で丹後一国を後に国替えとなり若狭国を拝領している。また、関ヶ原合戦時に東軍い東北戦線にて戦った高次の弟・高知も丹後国一国を恩賞として領した。ちなみに明智光秀は四職の一つ土岐家につながる出生とされる。

 1582年の本能寺の変、山崎合戦と続く激動の時、光秀が最も盟友と頼んだ細川藤孝は光秀軍に与しなかった。(光秀の娘・玉[のちのガラシャ]を娶った息子・忠興は光秀軍に協力することを主張したとも伝わる。) この中立の立場をとった功により丹後国12万石を秀吉より安堵され家を保った。1600年の関ヶ原の戦いでは、徳川家康の東軍に属し、西軍の1万5千の軍勢に包囲されつつ、たった500の城兵で2カ月間もの間 田辺城に籠城した。息子・忠興は東軍方の武将として関ヶ原で戦った。この大功で細川家は、丹後12万石から豊前小倉40万石に転封、のちに肥後熊本53万石の大藩を徳川幕府より与えられた。

◆第43回の「麒麟がくる」では、黒井城は八木城とともに燃え盛る簡単な略絵と「天正7年(1579年)夏、丹波の八上城と黒井城がようやく落城した」というナレーションが数秒間放映されただけだった。たったこれだけだった。10年間あまり、ドラマ誘致にとりくんできた丹波市市民には落胆も大きかったのではないかと推測もする。

 元プロボクサーでタレント・俳優の赤井英和。アリさんマークの引越社のCMは現在でも放映されている。1959年生まれの彼は現在61歳。かっては「なにわのロッキー」とも呼ばれた。NHKの番組に「ファミリー・ヒストリア」がある。2016年に赤井英和がこの番組に登場した。彼の父の実家は丹波篠山市にある。彼の先祖はあの黒井城の最後の総指揮官・赤井直正の弟・幸家の末裔であることが判明した。

 この「麒麟がくる」で、もっと黒井城の攻防戦が描かれていれば、赤井直正(丹波の赤鬼)役は赤井英和がふさわしい、ぜひ演じてほしいと、丹波市の人たちは願っていたようだ。私も見たかったなあ。容貌からしてもぴったりだ。

 丹波は実に山城が多い。その数は400城余り。小さな集落地区があればそこに山城はほぼ1~2城は存在した。その丹波の山城を長年たくさん実地調査し城の縄張り図(城郭構造図)を丹念に作り続けた人の一人が高橋成計氏だ。最近、『丹波の赤鬼~明智光秀を破った荻野直正と城郭』と題した書籍を出版。氷上郡の城郭を中心に92の山城の調査・縄張り図を掲載しているようだ。また昨年には、『明智光秀の城郭と合戦』を出版した。山城城郭調査のスペシャリスト・職人という感のある2冊の著書で、歴史的な学問的視野と深さや論述は次に紹介する福島克彦氏の著書のようにはない。滋賀県の近江の城郭研究者としての第一人者は中井均氏(滋賀県立大学教授)がいる。福島氏は立命館大学史学科、中井氏は龍谷大学史学科の出身だ。

 また、テレビなどの歴史番組によく登場する千田嘉博氏(奈良大学教授―大阪大学出身)は、最近、『城郭考古学の冒険』という城郭考古学を一般者向けに述べる優れた著作を出版していて、築城した城(※丹波では光秀の福知山城・亀岡城・周山城が述べられている)から、織田信長や明智光秀、徳川家康などの人物像を考察している。城郭学の先駆者の一人が村田修三氏(大阪大学名誉教授・83歳)だ。千田氏も中井氏も、そしておそらく福島氏も村田氏の門下生という感がある。2023年のNHK大河ドラマは徳川家康となる予定だが、東海・関東地方の城郭研究者としては今回の「麒麟がくる」の時代考証を担当している小和田哲男氏(静岡大学名誉教授)がいる。

◆氷上郡内で黒井城に次ぐ素晴らしい山城がある。ここを訪れる人はほとんどいない。丹波市山南町和田にある「岩尾城」だ。山頂の本丸まで1時間ほどの山道だが、本丸郭は石垣が多用され見応えがある。この岩尾城は1516年に豪族国人の和田氏によって築城された。1579年に明智軍によって落城している。1586年に豊臣政権下の時代に土の城から石垣を多用した近世城郭に改修された。1596年に廃城となる。

 丹波国の歴史研究者としての第一人者は福島克彦氏(大山崎町歴史資料館館長)だ。彼の丹波歴史研究は素晴らしく私も大いに勉強させられる。高橋氏も福島氏も地域郷土史学同人誌『丹波』(京都府南丹市と亀岡市や京丹後町を中心とする)の同人の一人だ。

    福島氏の著書は多い。特に秀逸なのは『畿内・近国の戦国合戦』、『明智光秀と近江・丹波』。最近では、『明智光秀―織田政権の司令塔』を出版している。

 最近、京都府丹南市の方から、〇〇周年記念雑誌(歴史に関する)を刊行する計画なので、原稿を書いてほしいとの依頼があった。何を書こうか考えているが、おそらく「城郭比較から見る日本と中国の歴史のちがい―籠城戦で何十万人もが死ぬ、中国の怖ろしい歴史―なぜ日本には農民の城はできなかったのか、中国には農民たちの城があるのだが」をテーマに書こうかと考えてもいる。この論述は、中国の大学での「日本概論」などの講義の一資料内容としても使うかと思う。

 ※上記写真は福建省龍岩市の長丁という地方の小さな町を取り囲む城壁や城門。(2016年7月に撮影)

 日本の籠城戦では農民や町人が死ぬということは中国の歴史に比較して少ない。この大きな要因は日本と中国の城郭立地や構造の違いだ。中国全土の町々のほとんどは、かって町全域を囲む城壁があった。中国の城郭は町全体を高さ10m以上の城壁で囲む。城からの出入り口は数箇所の厳重な警備をされている堅固な城門。いざ、籠城となれば城郭内(城市)内で暮らす数万~何十万の人々は城門から逃げ出すことができず直接に攻城軍に攻め殺される。これに比べて戦国時代の日本の城郭の多くは山城で、そこにはほとんどの場合武士たちだけが籠城をするので、農民や町人たちの死者は少ない。

 現代、中国共産党一党支配が70年間以上続く中国。人権問題等への国際社会からの批判も大きい。ウイグル民族など、この人権問題が発生し続ける要因は、中国共産党一党支配を続ける政治体制に起因するものだが、中国5000年の歴史をみていくと、たくさんの人が殺されるという歴史の連続だった。人口的にも多いということもあるが、「命というものが軽い」という歴史でもあった。こういう歴史的な観点からも現代中国というものをみていく必要もある。

 日本の戦国時代の歴史における「戦争と農民」籠城戦に関する大きな例外は、織田軍団・羽柴秀吉軍の鳥取城包囲干殺し作戦。これは、鳥取城に籠城する吉川氏の武士たちの食糧を早くなくさせるために、城の周囲の農民たち2000人以上を強制的に城に追いやり、城に備蓄していた兵糧米や水の消費を農民たちにも消費させるという作戦。このため、この鳥取城の籠城戦では多くの農民たちも餓死をした。

 黒井城のある春日町黒井から南西方向10kmほどのところに城下町「柏原(かいばら)」がある。小さな町だが城下町の面影をのこす町だ。この城下町はかって織田信長の末裔たちの藩があった。織田家一族の城下町だった。豊臣時代末期の1598年、信長の弟・織田信包はここ柏原3万6000石を領することとなった。1600年の関ヶ原の戦いを経て世は徳川に傾いていく。信包は西軍として田辺城攻撃に加わったが、徳川家康はその罪を咎めず、領地は安堵される。

 信包は大阪城にて豊臣秀頼に仕えるが、1614年の大阪冬の陣が始まる前に大阪城にて死去する。享年70歳。柏原の地は、のちに信包の嫡男や孫が藩主となって続いたが、三代目の時に嫡男が誕生せず、藩は廃絶となる。しかし、1650年ころには、今度は織田信長の次男・織田信雄の末裔が柏原の藩主となり、2万石の柏原藩が成立。1871年の廃藩置県まで続いた。

 柏原の観光案内所に入る。小さい町ながらここの案内所は充実していた。案内所の近くに小さな丘があり、今は神社となっている。ここが第一次明智軍侵攻の時の光秀の本陣だった。1579年、波多野秀治の背反により、黒井城の赤井直正とに挟撃されて、この本陣から命かながら敗走することとなった。この町が永らく織田家の城下町だったためか、赤井の幟(のぼり)はなく、光秀の幟ばかりだった。時の流れというか、黒井城の近くに、黒井城を落城させた織田信長に連なる末裔たちが暮らしている。

 2万石の小藩だったためか城はなく「柏原藩陣屋」が今も残る。陣屋のとなりには、「旧氷上高等小学校校舎」の建物があるが立派だ。この柏原の町から北に2kmほどのところに「水別れ」がある。日本一低い分水嶺だ。標高わずか95mのところにある中央分水嶺。ここの ある地点から北方面の水路は日本海に水が流れる。南方面の水路は太平洋に流れる。

 


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