前回、ヨッフムのブラームス第4交響曲を聴いて久々の感動に酔いしれてゐた。そのためか、ここ数日、新しいCDを聴く気分にはなれず、ヨッフムによるこの曲の別の演奏を取り寄せて聴くまで、音楽はあへて聴かずに居たのだった。 . . . 本文を読む
オイゲン・ヨッフムが85歳で世を去ってもう20年が経つ。ベーム、カラヤンといふ同時代の大指揮者が相次いで他界した1980年代だが、独逸の伝統を最も正当に受け継いだヨッフムの死が僕にとっては一番残念なことに思へたのだった。 . . . 本文を読む
僕はクラシックと言ふ分野の中で、どうしても好きになれない旋律がいくつかある。その旋律を聴くだけで気分はめいり、何をする気力も無くなるのである。フモレスケもその一つなのだ。蓄音機の中から聴こえてくる提琴の音色なら構わないのだが、最新録音やオーケストラ編曲ものなどはたまらなく不愉快である。 . . . 本文を読む
クレンペラーについては、三文オペラのSP盤を復刻して遊んだ記事を載せたことがあった。それ以来、1年以上聴く機会は無かった。僕にとっては結構距離感のある指揮者ではあるが、今日は久しぶりの休日をクレンペラーとともに音楽室で過ごしてゐる。 . . . 本文を読む
アウアー門下の提琴家を多く取り上げながら、ジンバリストは初めての登場だと思ふ。1910年に、20歳でニキッシュ指揮するゲバントハウス管絃團で華々しくデビューした彼は、1949年には紐育で引退コンサートを開き、カーティス音楽院で後進の指導に当たった。弟子にはシュムスキーが居る。 . . . 本文を読む
子供の頃、SP盤が何処の家にもあった。親戚の家や友達の家に遊びに行っても必ずSP盤があり、中学生くらいになるとクラシックのレコヲドなどはレーベルを見て、大概のものは聴いて知ってゐるものばかりだった。たまに知らないものを見つけると不要ならば譲ってもらうといふあつかましさで、いつしかLPコレクションの横に同じくらいのSPコレクションができてゐた。これが僕の中学生時代の想い出である。 . . . 本文を読む
僕にとってブラームスの第4番は格別なのだが、これが実に多様な演奏解釈の存在する作品なのだ。テンポ設定からアーティキュレーションまで幅広い解釈がある中、フルトヴェングラーの解釈だけが突出してゐる(と僕は思い込んでゐる)。そのやうな訳だから、クナパーツブッシュのウラニア盤を入手してもすぐには聴かずに今日まで放置し、旅先でならといふことで聴いてゐる。
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ワインガルトナーは多くの作品を残した墺太利の作曲家で、指揮者としても有名である。この当時の指揮者、洋琴家の殆どは作曲を手掛け、そもそも作曲家を目指した者が非常に多いのは、音楽家たるものはやはり作曲家が創造主、つまり神であり、再現芸術家はその僕(しもべ)であるといふ、ごく当たり前のことが当たり前に理解されてゐたからである。現代は神不在の時代であり、再現芸術家である神の僕(しもべ)が神の如く振舞ひ、我が物顔で居る。 . . . 本文を読む
フルトヴェングラーの提琴奏鳴曲第1番を聴いてゐる。今日、これを聴くのは7回目である。僕は、少し気にいるとこのやうに一度に何度も繰り返し聴いて、その日のうちに自分の頭に仕舞いこんでいく習性がある。しかし、最近はアルチュウハイマーの影響で記憶に残る作品が激減してゐる。 . . . 本文を読む
前回のアルゲリッヒと同様、グールドについてもサブタイトルにあるSP時代とは関係無いが、どういふわけか何度か登場してゐる。理由は特に無い。聴衆との対話を拒否するといふ僕にとっては許し難いタイプの演奏家だが、過去の記事はいずれもライブ録音について書いてゐる。今回も、1959年8月25日のザルツブルグ音楽祭での実況録音である。 . . . 本文を読む
シューベルトより1歳年上のベルワルドは生涯に4曲の交響曲を残してゐるが、現代では殆ど忘れ去られた感がある。それもそのはずで、この交響曲などは存命中には初演されておらず、存命中から忘れ去られた作曲家だったことが分かる。しかし、古典的な響きの中にも今までに体験したことのない奇抜なアイデアや、北欧の幻想的な風情を聴かせてくれる。 . . . 本文を読む
洋琴家ジョージ・セルについては、独奏者として、また、伴奏者として、素晴らしいレコヲドをのこしており、以前にもご紹介したことがある。彼は、欧州や米國で指揮者としても活躍していた。今日は、セルが18歳のときに作曲したオリジナル・テーマによる管絃樂のための変奏曲、作品番号4をご紹介したい。 . . . 本文を読む