僕の最も好きな洋琴家の一人、ラザール・レヴィの自作自演が残されてゐる。しかも国内録音である。世界中のコレクターの垂涎の的であるSP盤、SD-55は我が國Victorが製作したレコヲドなのである。ただし、戦後の貧國が作ったレコヲドである。1950年の録音にしては貧しい音なのはシェラック不足を補う為のダンボール混交じりの粗悪な盤質によるものであろう。 . . . 本文を読む
露西亜の作曲家、スヴェトラーノフの自作自演を愉しんでゐる。提琴独奏はオイストラフの息子である。此れを聴いた人は皆、20世紀の真っ只中に露西亜土着の浪漫派音楽を創り続けた、其の精神に驚かされるに違いない。 . . . 本文を読む
ロベール・カサドッシュはディエメに学んだ仏蘭西の提琴家として知られてゐるが、立派な作曲家でもある。最初の作品は17歳のときに書いた10の洋琴小品「架空の旅」で、その後69の作品を残してゐる。今日は、彼の最初の交響曲を聴いてゐる。 . . . 本文を読む
親父の遺品の中からマゼールの自作自演CDが出てきた。親父はフルートを嗜み、マゼールも好んで聴いてゐた。マゼールが維納フィルハーモニーを振った演奏会のことも話してゐた。そんなことを思い出しながら、マゼール作曲、フルートと管絃樂の為の音楽を聴いてゐる。
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アンドレ・プレヴィンは洋琴弾きとして腕前は確かであり、某CD会社の20世紀のピアニストシリーズの中に一員として加えられてゐるくらいだ。僕自身は洋琴家としてプレヴィンを聴くことの方が多かったやうな気がする。今日もプレヴィンが独奏をつとめ、バーンスタインが指揮を執るユニークな顔合わせによるレコヲドを聴いてゐる。 . . . 本文を読む
作曲家としての腕の足りていない部分を洋琴弾きとしての凄腕で補うやり方は、リストの作品で歴史的に評価済みでありまする。それならば、エミール・フォン・ザウアーの協奏曲が評価されないのは納得がいきませぬ。といふ訳で今日は音楽室の棚に仕舞ってあったHyperionの"The Romantic Piano Concerto"第11巻を取り出してきた。 . . . 本文を読む
昔、友人Iが師匠のN氏からヴェリタス・レコヲドなるものを入手してきて、僕達に紹介してくれた。其の中にはゴドフスキやギーゼキングなどの電気前の復刻があった。全く知らない世界の神秘的な響きに聴き入ってゐたことを想い出す。探すのになかなか苦労したが、その懐かしいヴェリタス盤を棚から出して来た。 . . . 本文を読む
マーラーの複数の交響曲の伯林初演を行うなど、歴史上の大指揮者と認識されながら数多くのレコヲドが忘れ去られたまま放置されてゐるのが今日取り上げるオスカー・フリートである。フリートは作曲家としてもセンセーションを巻き起こし、当時は絶大な支持を得てゐたことも忘れ去られてしまった。
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戦後、一時期人気の高かった亜米利加の指揮者、ブルーノ・ワルターは1901年から1912年まで維納で作曲に真剣に取り組んでゐた。丁度、マーラーが維納で活躍してゐた時期と重なる。今日は、気分転換にワルターの珍曲を面白半分で聴いてみることにした。 . . . 本文を読む
エフゲニ・スヴェトラーノフは言わずと知れた露西亜の作曲家で「赤いゲルダーローズ」が知られてゐる。この作曲家は指揮者としても活躍したそうだが、N響を振った演奏以外は、あまり聴いた記憶がない。今宵はスヴェトラーノフの洋琴弾きとしての素晴らしい一面をメトネルの作品で味わってゐる。 . . . 本文を読む
ドビュッシーの劇音楽「聖セバスチャンの殉教」をミュンシュの語りと指揮で聴いてゐる。この演奏を聴くのは2度目だが、今回は神秘の世界に浸ろうとイアフォンで聴いた。これがいけなかった。 . . . 本文を読む
最近の指揮者で作曲をする人はどのくらい居るのだらう。交響曲を4曲残したマルティノン、歌劇作曲家のマゼールやヤンキーの國の大作曲家バーンスタインなどが有名だ。昔の指揮者は、フルトヴェングラー、ワインガルトナー、マーラー、R・シュトラウス、プフィッツナーなど、どちらが本業なのか、本人の考えと大衆の評価が一致しない人も居るくらいだ。フレデリック・ストックも素晴らしい作品を多く残した指揮者の一人である。 . . . 本文を読む
指揮者クーベリックの父が大提琴家だったことはよく知られてゐる。そのヤン・クーベリックはクライスラーらと同様、現代のやうな職業提琴家としてではなく、音楽家として活動した最後の世代であり、レコヲドだけではなく多くの提琴作品が残されてゐるやうだ。旅先に持参したCDの中にあったクーベリック協会盤を取り出して雰囲気のある提琴演奏をBGMにレトロな街並みを愉しんだ。
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ちんちん電車の走る田舎街への出張から帰ってきた。利口な顔はあまり見当たらないが、田舎にもこんなに人間が住んでるかと驚いたくらいうじゃうじゃしてゐて会場の空き席を探すのに苦労した。やうやく座ると、アトラクションと称して妙な踊りが始まった。漱石の小説に「歌はすこぶる悠長なもので、夏分の水飴のやうにだらしがない」とあった「妙な謡をうたいながら、太鼓をぽこぽん」の踊りは、さすがに現代風のハイテンポに変わり、「本物の抜き身を数十人が同時に振り回す」踊りはおもちゃを振り回すやうに変わってゐて、実につまらないものだったが、満席の会場からは拍手が鳴り止まなかった。今日は、漱石が見た「高知のなんとか踊り」が「太刀踊り」であることが判明し勉強になった。
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フルトヴェングラーも評価してゐた仏蘭西の洋琴家、サンソン・フランソワの作品が存在することは以前から知ってゐたが、先日、三田藩主の友人Yと会った際に、こんなの聴いてみるかと借りることができた。フランソワの演奏自体が面白いので、録音さえもう少し古ければ、もっと聴いてゐただらうが、僕のコレクションにSTEREOといふ文字はあまり似合わないため聴く機会が少なかったのだらう。 . . . 本文を読む