今年の大晦日は、フルトヴェングラー指揮伯林フィルハーモニーの1937年の演奏を聴いてゐる。1年の悪行三昧を懺悔する、恒例の行事も今年はいつもと少し違う。 . . . 本文を読む
フルトヴェングラーの「マイスタージンガー」は学生の頃に全曲盤のLPを購入し、一度も通して聴いてゐない。一種の罪悪感を持ってゐる。しかし、ストーリーを知らずにワーグナーの楽劇を数時間聴くなどといふことは修行のやうなものだ。つい時間がないことを理由に、ワーグナーからは遠ざかってゐた。 . . . 本文を読む
マリー・エイミー・ヴァローといふ女流洋琴家の演奏を取り上げてみやうと思ふ。この人は巴里コンセルバトアールでコルトーやカサドシュにつき、その後、維納でエミール・フォン・ザウアーのもとで学んだ巴里近郊生まれの洋琴家で、1915年生まれといふから、リパッティ、リヒテルらの世代になる。 . . . 本文を読む
サンサーンスはもう一世代早く生まれてゐれば、歴史的評価はもっと高かっただらうと言はれてゐるが、なるほどと納得できる作品がいくつもある。今日は、その中の一つ、グルックの歌劇の中で使われるバレー音楽をもとに作った奇想曲を取り出して楽しんでゐる。 . . . 本文を読む
エドワード・キレニーはSP時代に名を馳せた洋琴界のスーパーテクニシャンである。レイボウィッツとやった「死の舞踏」の乾いた感触やショパンのエチュードの冷たい印象が記憶に残ってゐる。久しぶりにCD盤でキレニーを聴いてみた。 . . . 本文を読む
ロッシーニの弦楽ソナタは何かのテーマ曲にも使われてゐた有名な作品だが、今宵の我が家を和やかな雰囲気にしてくれてゐるのは、ベーアが管楽四重奏に編曲したものである。1年の仕事の疲れをとるのにうってつけのこの演奏は、維納フィルのメンバーによる戦時中の録音である。 . . . 本文を読む
チャイコフスキーには映画音楽にも使われるほどの美しいメロディもあるが、実につまらぬ旋律に加えて構築性の弱い駄作も多い。この第2協奏曲は明らかに駄作の典型だ。この作品と第1協奏曲は比較するまでもないが、その第1協奏曲の献呈を大洋琴家ニコライ・ルビンシュタインが断ったのは有名な話である。 . . . 本文を読む
今年もクリスマスが巡って来た。NH○のニュースで、「サンタクロースが神戸と富士山の上空を飛行してゐるのが確認された」と伝えてゐた。夕べは、ターキーとチキンを丸ごとオーブンで焼き、庭で採ったハーブと鶏がらなどを2日間煮込んで作ったグレイビーソースをかけて頂いた。満たされた時間だが、今年は長女が居ない。下宿で独り暗しをしてゐるからだ。来年は次女も家を出る予定だ。数年すると子供たちは皆家を出てゆき、最後には嫁さんも出てゆき、どんどんと寂しくなっていくのだらう。シベリウスを聴きながら、そんなことを考えてゐる。
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クリスマス・イヴに600回記念の記事を書いてゐる。昨年5月に仕事の関係でブログなるものを勉強がてら覗き見をして、そのままはまってしまったことを懐かしく思ひ出す。あれから1年と7ヶ月が過ぎ、僕の職場も住まいも変わった。未だにブログは細々ながら続いてゐる。日記が1ヶ月以上続いたためしがないといふ飽きっぽい僕にしては上出来だ。 . . . 本文を読む
手巻き寿司を食べ過ぎて前に屈むことすらできない状態で苦しんでゐる。手巻きを頂くと、我が家では地震の恐怖が蘇ってくるのだ。阪神大震災のあと、震災の前夜に食べた手巻きの寿司桶が3ヶ月ほど放置されてゐたのを思ひ出す。今夜もそのときの桶で手巻きを楽しんだ。巷では南海大地震の噂が飛び交ってゐる。 . . . 本文を読む
出張で高知市に出かけてゐた。久しぶりに会う友人と遅くまで夜の街を飲み歩き、仕事のことや友と語り合った内容は全てアルコールが蒸発するのと同時に記憶から消えてしまった。持参したメルケルのツィゴイネルワイゼンなどの提琴演奏を聴きながらの移動だった。 . . . 本文を読む