シューマン作曲提琴と洋琴の為の奏鳴曲をゼルキン・ブッシュの演奏で愉しんでゐる。シューマンの作品は句読点の明確でない主題や次々とたたみ掛けるやうな動機の展開が聴く側を戸惑わせることが多々在るやうに感じてゐる。此の奏鳴曲の第壱樂章も其の一つの例ではないだらうか。 . . . 本文を読む
シリル・スミスについては英國APPIANからラフマニノフとドホナーニの全録音が復刻され発売されてゐるが、夫妻のデュオは入ってゐなかった。ミヨーの自作自演アルバムのボーナストラックに夫妻の演奏による「スカラムーシュ」(空飛ぶ医者)があった。 . . . 本文を読む
いまでは思ひ出せないが、昔なにかのFM番組のテーマ曲になってゐたサンサーンスの提琴協奏曲第三番をルイス・カウフマンの演奏で聴いてゐる。オランダフィルハーモニーとの協演が市販されてゐるが、聴いてゐるのは1945年のSP録音の瑞々しい演奏である。 . . . 本文を読む
ベートヴェンの提琴奏鳴曲第八番は其の番号から晩年の作品だと思ってゐる方もおられるだらうが英雄交響樂と同時期に筆が進められてゐた作品である。クライスラーの此の演奏はLPでの復刻(たぶんRCAのラフマニノフ全集アルバムだったと思はれる)で聴いた録音ではあるが、Biddulphの復刻CDは以前からいつかコレクションに加えようと思ってゐた盤だった。念願かなって今聴いてゐる。 . . . 本文を読む
久しぶりにゆったりとした時間を味わってゐる。こうしたときにふと聴きたくなるのは提琴の甘い音色だ。エルマンをとも思ったが、どういふ訳かハイフェッツが目に留まった。ベル=テレフォン・アワーの復刻アルバムが数巻あるが、其の中から軽いタッチの小品を集めた第6巻を取り出して愉しんでゐる。 . . . 本文を読む
16年といふ月日が経った。シベリウスの提琴協奏曲を聴きながら、手を合わせ黙祷を捧げた。1995年1月17日、僕の実家は5時46分に全壊した。親父が海外で生活した際に蒐集してゐたLPレコヲドも土に埋まった。16年経った今でも、想い出のいっぱい詰まった懐かしいジャケットを僕は探し続けてゐるのだ。 . . . 本文を読む
英國で親父がイダ・ヘンデルを聴いたときの様子を語ってくれたことがあった。以前にも書いたが、派手ないでたちでステージに上がると其処には華があったといふ。今宵は久々にブラームスの哀愁を帯びた第壱番の提琴奏鳴曲をヘンデルの演奏で聴いてゐる。 . . . 本文を読む
ミュンシュ指揮ボストン交響楽團の演奏会は身近な存在だったが、残念なことに僕は未だ6歳にもなってゐなかった。1962年1月12日は僕はロチェスターといふ街に住んでゐた。もし、今僕がそのやうな状況にゐたなら、フォレストガンプのやうに何日も走ってでもボストンまで聴きに行ったであらう。 . . . 本文を読む
久しぶりに音楽を聴いてゐる。親父が死んで、其の事を振り返る間もなく時は過ぎてゆく。無常を感じつつも日々の詰まらぬ仕事に大切な時間を割いて毎日を過ごしてきた。自分の親が他界しても人間とはこのやうなことしかできないものなのだ。いずれは自分も此のやうにして忘れられてゆくのだらう。今日は久しぶりに提琴のやさしい調べに耳を傾けてゐる。 . . . 本文を読む
この齢になって自動車免許の取得やオサムシ捕りなどと、今までやらなかったことに挑戦して気分転換を図ってきたせいか、哀しみも少しずつではあるが癒えてきた。よく晴れた日曜日の朝に久しぶりに提琴を聴きたくなった。プシホダの甘い音色で懐かしさを感じるドヴォルザークの田舎節を1年ぶりに愉しんでゐる。 . . . 本文を読む
明日から、年末年始の休日を利用して日本に帰國する予定だ。帰國すると先ず一番にしたいことは温泉に浸かることと関西の味を堪能することだ。以前から、正月は黒川温泉で年に一度の贅沢な時間を過ごすのが何よりの楽しみだったが、今年も阿蘇、伊万里、有田、九重といふ予定で買物と温泉を楽しみ、体がしわしわにふやけたら神戸に帰る予定だ。 . . . 本文を読む
メンデルスゾーンの美しい旋律は特に歌曲に多い。エリザベート・シューマンの歌声がよく合う。女声に似た音色の提琴への編曲が心地よいのは当然のことなのかも知れない。サンタクロースの誕生日(息子はそう言ってゐた)に、ブスターボの1935年のSP録音を愉しんでゐる。 . . . 本文を読む
ツェムリンスキーがブラームスの後継者ならルクーはフランクの魂を継いだ作家だと思ふ(のは僕くらいのものだらう)。二人は独逸と仏蘭西を代表する同じ時代に生まれた天才だ(と思ってゐるのは僕を含めて26人くらいだらう)。残念なのは、1年早く生まれたルクーが24歳といふ若さで此の世を去ってしまったことだ(と多くの人々が思ってゐるだらう)。 . . . 本文を読む