以前、シャラーの演奏で取りあげた此の作品を久々にチェルカスキの名演で聴いてゐる。リトルフの交響的協奏曲第四番からスケルツォ楽章のみが録音されてゐて、伴奏はサージェント指揮BBC響である。 . . . 本文を読む
シューベルトには未完成の作品がいくつかあるが、この三重奏曲も第2楽章途中までしか残されてゐない。これをメンデルスゾーンの子孫、ウラディミール・メンデルスゾーンが補筆完成させたのが、今日聴いてゐる演奏である。 . . . 本文を読む
うちの嫁さんが何度も旅してきた英國はコッツウォルズに生まれたホルストは「惑星」だけではなく、英國の民謡を取り入れた実に美しい作品を多く残してゐる。今日はそれらの中から、歌劇「どこまでも馬鹿な男」のバレエ音楽をプレヴィンの指揮で愉しんでゐる。
. . . 本文を読む
カロル・ミクリの名は洋琴を嗜む方の多くが知ってゐる。ショパンの助手として最も近いところに居た洋琴家であり、ショパンの楽譜の校訂や直伝の演奏解釈に関するコメントなどを残してくれた歴史上の大恩人なのである。今日はミクリの作曲家としての遺産を愉しんでゐる。 . . . 本文を読む
19世紀末から20世紀初頭にかけ、浪漫派音楽の中から民族色を色濃く出した作家が独墺の周辺国に現れ、これを後に一つの楽派として括るやうになった。其の中でも最も有名なドヴォルザークに師事したスークが1904年に作曲した交響曲をノイマンの指揮で聴いてゐる。 . . . 本文を読む
先日の交響曲第0番に続いて第00番を聴いて祝日の朝を寛いでゐる。此の番号も野球選手の背番号のやうで裏話が有りそうだが特に面白い話は無い。独逸語で0を「ヌル」と云ふ。だから僕は此の作品を「ヌルヌル」と呼んでゐる。 . . . 本文を読む
ラボーといふ巴里音楽院長の手による異国情緒に満ちた謎めいた管絃作品がある。カイロの靴直しマルーフとはたれのことぞ。最近になって此の歌劇の全曲版CDが発売されたと聞く。購入して聞いてみようとは思はないが、其の人の事は気に掛かってしょうがない。
. . . 本文を読む
ヴォーン・ウィリアムズといふ英國の作家が居て、古謡をもとに現代人に癒しの空間を与えてくれる。今日取り上げる「チャーターハウス組曲」は、前奏曲に始まり、遅い舞曲、速い舞曲、遅いアリアと続くが、中でもロンドは忘れかけた記憶を妄想とともに甦らせてくれる。 . . . 本文を読む
冬の訪れとともに乾燥した日が多くなる。気温が下がるのは構わないが、空気が乾燥すると風邪が流行ったり、ウイルスが活発に活動し始めると言ふ。今日は、嫁さんとボージョレーを買いに出たついでに、パソコンをウイルスから守る為に加湿器を買って来た。快適な環境でイギリスの弦楽作品集のCDをトレーに入れた。 . . . 本文を読む
日曜日の朝、爽やかな曇天のもと、サティの「組み立てられた3つの小品」を聴いてゐる。僕が始めて買ったCDである。CDには馴染めずに相変わらずLPばかり聴いて、此の1枚のまま数年間CDは買わなかった。そんな昔のことを思い出しながら聴いてゐたが、暇なのでブログのお勉強でもしやうと思ひついた。 . . . 本文を読む
この2週間はLPとCDの整理とブログのメンテナンスに時間が掛かり、投稿できずにいた。しかしこの2週間にはかなり多くの音楽を聴くことができた。其の中で、アルゲリッヒのモーツァルトの25番協奏曲と、今日のミクリのCDが最も印象に残った。
. . . 本文を読む
ミュンシュの息のかかった指揮者であり、ラザール・レヴィの弟子でもあるミシェル・プラッソンのCDには以前から注目してきた。きっかけはサンサーンスの「死の舞踏」の演奏であったが、これが極めて個性的で、しかも徹底した楽曲分析を根拠とした解釈だと直感したからだ(此の直感が正しいといふ保証は何ひとつない)。この指揮者が発掘してくる仏蘭西近代の秘曲の数々は、今では一つのジャンルを築くまでになった(ただし、僕のCDの棚で)。 . . . 本文を読む
フォーレの後を受けて巴里音楽院の院長に就任したのがアンリ・ラボーである。サンサーンスと同様、近代音楽への反発からより古い音楽への回帰を試みたが、当時、時流を作りつつあったドビュッシーやラヴェルらの新しい動きには勝てず、暫くして完全に忘れ去られた作曲家である。 . . . 本文を読む