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前方後円墳の特徴に政治背景 京都・向日、寺戸大塚古墳例に

2015-09-28 19:52:22 | 歴 history
 古墳時代について学ぶ講演会「寺戸大塚古墳と大和政権」が23日、イオンモール京都桂川(向日市、京都市南区)のイオンホールで開かれた。国立歴史民俗博物館名誉教授の広瀬和雄さんが、寺戸大塚古墳(向日市寺戸町)の副葬品などを例に、前方後円墳の特徴と政治的背景を解説した。

 同古墳は全長98メートルの前方後円墳。4世紀前半の築造とみられ、大和政権と強い関係を持った有力首長の墓と推定されている。

 広瀬さんは、国内に5200ある前方後円墳の構造上の共通点を指摘した上で、「(被葬者である)政治的リーダーが全国規模で仲間意識を持ち、それを表すために同じような古墳をつくったのでは」と話した。古墳の規模の違いについては「より大きな古墳をつくることで、『うちのボスはここより勝っている』といった階層性も見せている」と説明した。

 寺戸大塚古墳の副葬品に武器や農具が多く含まれている特徴を挙げ、「政治的リーダーが集団を統治するために使っていた道具を副葬することで、『死後にもうひと働きさせる』という観念があったのではないか」と持論を強調した。

 講演会は市教育委員会と市埋蔵文化財センターが主催し、約150人が参加した。

【 2015年09月24日 10時22分 】

「長岡京の中心は向日市!」 歴史で観光振興なるか

2015-08-28 07:30:17 | 歴 history
 京都府向日市が国の歴史まちづくり法に基づく計画(歴まち計画)認定を受けて半年が過ぎた。長岡宮をPRするロゴマークを募ったり、西国街道を石畳風に舗装する工事設計に着手するなど、「長岡宮のあるまち」のアピールに向け動き出しており、住民側もまちづくり構想を市に提言するなど、機運が高まりつつある。だが、長岡宮の中心が隣の長岡京市にあったと認識している人は多い。ハード整備に加え、市職員や市民一人一人の発信力が問われる。

 「あの長岡京の中心地は、向日市にあった!」。市が作製した長岡宮ロゴマークのPRポスターにはそう書かれている。天皇が政務を執った大極殿は、現在の同市鶏冠井町にあった。現在は大極殿公園として史跡整備はされているものの、そこに誘導するための観光案内板は不十分だ。

 貴重な歴史遺産をまちづくりに生かすための仕掛けが求められている。市は今後10年間で阪急西向日駅から長岡宮跡、向日神社へのルート整備や、江戸期の旅籠(はたご)・富永屋の観光情報発信拠点化などの事業に取り組む。すでに会員制交流サイト「フェイスブック」の公式ページを開設したり、市職員から市のキャッチコピーを公募するなど、一歩を踏み出した。

 観光客を呼び込み、にぎわいを生み出すためには、発信力の向上が欠かせない。

 「この数字、何か知ってる?」。今月中旬、安田守市長は「784」の背番号が書かれた京都サンガFCのユニホームを身につけ、市職員に尋ねて回った。長岡遷都の年号だが、首をひねる職員も多くいたという。安田市長は「まずは職員一人一人が意識を変えていかないと」と課題を見据える。

 住民側にもまちづくりに積極的にかかわる姿勢が求められる。3月に西向日駅周辺のまちづくり構想を提言した「長岡宮まちづくり協議会」の片岡長久会長(76)=鶏冠井町=は「向日市はまちづくりに取り組む人が少ない。行政と市民がうまく連携しないと、いいまちはつくれない」と訴える。

 市内には大規模駐車場はなく、狭い道路が多いため大型観光バスの通行が難しい。宿泊施設もない中、どういった観光を目指すのか、将来ビジョンの提示は不可欠だ。市企画調整課は「今後策定する観光振興プランなどで方向性を示したい」としている。

【 2015年08月25日 10時00分 】

京都・向日出身、戦死129人町葬 市民から寄託の資料で判明

2015-08-16 08:51:11 | 歴 history
 日中戦争から太平洋戦争にかけ、戦死した京都府向日町(現向日市)出身者が少なくとも129人に上ることが、市民から市文化資料館に寄託された資料で分かった。この資料や町葬の様子を捉えた写真などを集めた「くらしのなかの戦争展」が、同資料館で30日まで開かれている。

 資料は当時の町収入役が残していた「町葬会計一件」。1938(昭和13)年から46(同21)年の9年間で、町出身者の町葬が31回行われ、計129人が弔われたことが分かる。被葬者数は太平洋戦争の開戦以降大幅に増えており、終戦直後の45(同20)年12月21日の町葬では最多の28人に上った。

 町葬会計一件の最後に記録された奥山伊佐雄さん=寺戸=は、出征の日に撮影された写真パネルが展示されている。寺戸町梅ノ木にあったマルイ百貨店の跡取りで、出征直後に撮影された店内写真には仕事中の両親の姿が写る。

 師範学校を卒業し、22(大正11)年に「一年現役兵」として大津の第九連隊に入隊した中山新一郎さん=物集女=の日誌には、厳しい訓練や指導の様子が記されている。一方で、外出先でピアノを弾いたり、テニスのラケットを握るなどの記述もあり、戦争前の日常が垣間見える。

 出征前の生嶋徳治郎さん=鶏冠井=に贈られた寄せ書きの日章旗には、「桓武長岡都」という文字が書かれており、長岡宮の中心が鶏冠井にあったことに対する住民の誇りがうかがえる。

 このほか、出征を見送る手旗や防空頭巾、海軍兵からの手紙などが展示されている。

 同展は毎年開催されているが、戦後70年の節目で例年より多くの市民から寄贈・寄託があり、新たに9点が展示に加わった。

【 2015年08月15日 11時23分 】

戦争の悲惨さ、平和の尊さ訴え 京都・長岡京市役所と市立図書館

2015-08-14 10:11:40 | 歴 history
 長岡京市役所(京都府長岡京市開田1丁目)と市立図書館(天神4丁目)で、戦争と平和に関する展示会が開かれている。平和ポスターや戦時中の人々の暮らしを伝える資料の展示、図書紹介を通じて、戦争の悲惨さと平和の尊さを訴えている。

 市役所では、大雨で中止となった「平和を考える市民フォーラム」で展示予定だったポスターとメッセージを8月末まで飾っている。

 ポスターは乙訓高の1~2年生9人が手がけた作品で、白いハトや世界の国旗の衣装を着た人たちが手をつなぐ姿などを描いた絵画が並ぶ。メッセージは「あなたが平和を感じる瞬間」について、市民が「友だちや家族と笑顔でいられる時」「孫と遊んでいる時」「朝、健やかに目覚めた時」などとつづった。

 一方、図書館は「昭和の戦争と長岡の人々」がテーマ。出征兵士と地域▽増産と倹約▽空襲への備え-を内容に、応召兵の見送りや軍需用食料の供出割り当て、防空演習などを記した下海印寺区有文書を展示。

 戦死者を弔う新神足村の村葬や神足小学校勤労奉仕団の作業風景をとらえた写真パネルも飾った。9月末まで。

 また、「特攻日誌」や「子供たちに残す戦争体験」「太平洋戦争下の学校生活」といった書籍を集めた特別コーナーも8月末まで設けている。

【 2015年08月12日 19時46分 】

京都・長岡宮跡のPRロゴ考えて

2015-08-14 10:07:12 | 歴 history
 京都府向日市は「長岡宮跡PRロゴマーク」を募集している。市の広報物やPR活動グッズなどに幅広く活用し、長岡京の中心地が同市にあったという歴史的事実をアピールする。

 同市は2月に歴史まちづくり法に基づく計画(歴まち)認定を受けたのをきっかけに、歴史を生かしたまちづくりを推進しており、そのシンボルとしてロゴマークを作ることにした。

 考古画家の早川和子氏らが選考委員を務め、最優秀賞(1点)の受賞者には図書券3万円分と市特産のタケノコ、優秀賞(4点)では図書券5千円分と市特産品の詰め合わせが贈られる。

 21日必着。誰でも何点でも応募できるが、未公表の作品に限る。応募用紙は市ホームページからダウンロードでき、電子メールでも応募できる。

 問い合わせは市役所代表TEL075(931)1111から秘書広報課へ。

【 2015年08月11日 11時41分 】

「あの地獄絵図、二度と」 被爆の男性、京都・向日で力込め語る

2015-08-14 10:03:07 | 歴 history
 広島で被爆した米澤鐵志さん(81)=京都府宇治市=の体験談を聞く会が8日、向日市寺戸町の絵本・児童書専門店「ワンダーランド」であった。約30人の参加者は、当時11歳だった被爆者が語る「ヒロシマ」に耳を傾け、戦争がもたらす悲劇を学んだ。

 戦後70年に不戦の思いをより深めてもらおうと企画した。

 爆心地から750メートルの電車内で被爆した時は「突然真っ暗になったかと思うと、ガラスが一気に割れ、窓側にいた人々に突き刺さった。車内は血のにおいで満ち、外には黒焦げの死体が転がっていた。何が起きたか分からなかった」と振り返った。

 防火水槽に飛び込んで体の火を消す人や、悲鳴を上げるけが人でいっぱいの駅のホームは「あの地獄絵図が二度とあってはならない」と力を込めた。

 米澤さんは、電車が鉄製で、満員の車内の中心部にいたことから一命を取り留めたという。生き延びた後も髪が抜け落ち、嘔吐(おうと)と発熱に苦しんだ経験から「放射線による内部被ばくで今も苦しむ人がいる。政府が言う『除染したから安全』というのは間違っている」と述べた。

 最後に「子孫たちの代に絶対に戦争をさせてはならない」と訴えた。広島県出身の主婦江守宏栄さん(69)=京都市西京区=は「爆心地の近くで生き残れたのは奇跡のよう。米澤さんが命と真剣に向き合っていることが伝わってきた」と話した。

【 2015年08月09日 11時53分 】

「乙訓郡誌」ロマン読み解く 京都・向日の愛好家ら古寺など巡る

2015-08-03 10:51:23 | 歴 history
 今年生誕100年を迎えた故中山修一さん(1915~97年)による長岡京発掘のきっかけとなった未完の歴史書「乙訓郡誌」を読み解き、古寺などを訪ねる活動を京都府向日市の歴史愛好家らが行っている。乙訓郡誌は乙訓地域の通史として評価が高く、往時の寺社などの細かな描写もあり、参加者は歴史ロマンに思いをはせている。

 乙訓郡誌は地理編、歴史編、文化編、史料編の4編(史料編については諸説ある)で構成。大正時代末期に編纂が計画され、大部分が完成していたが、歴史編の奈良時代前後の項目が抜けたまま、出版は見送られていた。

 中山さんは奈良時代の執筆依頼を受けたことがきっかけで長岡京研究に取り組み、文献上の存在で「幻の都」とされていた長岡宮の朝堂院中門の実在を証明した。

 乙訓郡誌の読解は、市文化資料館(寺戸町)を拠点に活動する「むこうまち歴史サークル」の3班が2013年から始めた。月2回行い、手書きの原稿と、それをワープロで打ち出したゲラ3080枚を見比べ、校正の役割も果たしている。

 乙訓地域の城跡や古寺などについて勉強する傍ら、実地も訪ね歩く。昨年11月に京都市西京区の集会所に安置されている仏像を見に行き、今年5月には大山崎町円明寺の円明教寺を訪問。同町唯一の愛宕灯籠(あたごどうろう)を観察し、周辺に大きな家が多いことから「貴族の子孫が住んでいるのでは」などと会話を交わした。

 3班班長の南橋康博さん(65)は「乙訓郡誌は難しい漢字が多く、小さな寺社まで掲載されている。行けるところはたくさんあるので今後も続けたい」と話している。

【 2015年08月02日 19時30分 】

千利休が縁、観光での連携探る 京都・大山崎と堺

2015-07-15 11:27:17 | 歴 history
 茶道を大成した茶人・千利休が生まれ育った堺市と、利休が手がけた茶室で唯一の遺構とされる国宝「待庵」がある京都府大山崎町。ともに中世に繁栄するなど共通点があることから大山崎町の山本圭一町長が6月の議会で「連携を図りたい」と表明した。連携の機運を高めたい大山崎町だが、政令市である堺市とは人口や財政規模をはじめ、情報発信力に大きな差がある。相互連携を模索するためにも、大山崎町は観光情報の発信力を強化していく必要に迫られそうだ。

 「堺市と何らかの連携を図ることができれば、互いに観光客の往来が期待でき、大変有意義だ」。町議会6月定例会で山本町長が答弁した。町は「まずは事務レベルで」と、観光パンフレットを相互に配置することを堺市に打診し、実現することになった。

 2006年4月に政令市になった堺市は、人口83万人と同町の55倍。15年度の一般会計当初予算は3712億円で、同町の70倍に近い規模がある。

 3月に利休と明治~昭和期の女流歌人・与謝野晶子を紹介する観光施設「さかい利晶の杜(もり)」をオープンした。施設の目玉は、1583年に山崎城に創建された当初の待庵を再現した「さかい待庵」だ。江戸時代のカレンダー「伊勢暦(ごよみ)」を茶室の壁に張るなど、大山崎の待庵とは異なる意匠を凝らす。すでに17万人以上が来場し、人気観光スポットとなっている。

 見学していた五十川斗南さん(74)=岐阜県揖斐川町=は「2畳しかないのに、立体感があって広く感じる。本物の待庵はどうなっているのだろう。大山崎にぜひ行ってみたい」と声を弾ませた。

 待庵を有する妙喜庵によると、すでに茶道に興味を持つ堺からの観光客がたびたび訪れているという。武田士延住職(83)は「再現茶室があることで、本物が残っていることも知ってもらえる。両市町で何かしらのつながりができるのはいいこと」と話す。

 「さかい待庵」の集客をうまく呼び込むことができれば、町の観光振興の起爆剤になる可能性がある。町内では堺見学ツアーを模索する動きもあり、盛り上がりに期待する人は多い。一方で、行政の発信力の不足を懸念する声も聞かれる。

 「少し前の映画『利休にたずねよ』が公開時はPRするチャンスだったのに、あまり盛り上がらなかった。堺市とうまくやれるか心配だ」。町内で観光業に携わる男性は不安を隠さない。映画は13年に歌舞伎俳優の市川海老蔵さんの主演で公開された。

 連携を町に提案した西田光宏町議は「堺市にもメリットを感じてもらえるようなアプローチが必要だろう」と話す。ある観光関係者は「発信力を高めないと相手にしてもらえないのではないか」と打ち明ける。

 町は本年度から企画観光係を新設。待庵に限らず、天王山やエゴマの独占販売で栄えた離宮八幡宮、昭和期の名建築「聴竹居」など、町の豊かな観光資源を戦略的にPRする狙いだ。今後の市との連携に向けた動きはまだ未定だが、関係構築には町全体の魅力を伝える情報発信力が鍵を握りそうだ。

【 2015年07月13日 10時10分 】

古都・長岡京の中心は向日市?長岡京市? 京都の両市、対抗心

2015-06-15 10:58:56 | 歴 history
 「長岡京市には負けない」―。12日の京都府向日市議会総務文教委員会で、安田守市長が長岡京の中心は向日市にあったことを強調、長岡京市への対抗心をあらわにする場面があった。

 安田市長は市議への答弁で長岡京市を「市長が全国市長会で『長岡京があった長岡京市から来ました』とあいさつしたり、公用車のナンバーを(長岡京遷都の年にちなみ)『784』にするなど、戦略的に取り組んでいる」と評した。

 「長岡京ばかり言うと、長岡京市のアピールになる」とジレンマを吐露する一方で、向日市検定や出前講座など同市をアピールする政策例を挙げ「遅れを取り戻すのはなかなか難しいが、戦略的にやっていきたい」と意欲を示した。

【 2015年06月13日 17時58分 】

長岡宮の栄華に思いはせ 歴史ファンら京都・向日で遺跡巡り

2015-06-01 17:44:14 | 歴 history
 長岡宮跡の発掘調査に携わった元向日市埋蔵文化財センター長の山中章さん(66)=京都市伏見区=の解説を聞きながら現地を巡る「長岡京歴史散歩」が30日、京都府向日市内であった。強い日差しが照りつける中、歴史ファン約50人が朝堂院跡や大極殿跡などを見て回り、いにしえの都に思いをはせた。

 参加者は阪急西向日駅近くの朝堂院公園に集合した。長岡京は今年生誕100年となる故中山修一さん=1915~97年=が朝堂院会昌門(南門)を発掘して実在が証明されたことや、難波宮で使われたのと同じ瓦が出土していることなどを、山中さんから直接聞きながら、タブレット端末に映し出されるかつての都の再現画像を楽しんだ。

 その後、離宮・嶋院跡や向日神社、元稲荷古墳なども見学した。参加者は山中さんに「朱雀門は発掘されていないのか」「長岡京時代の道幅はどのくらいだったのか」と熱心に質問しつつ、歴史豊かなまちを歩いていた。

 長岡京歴史散歩は9月と11月、来年3月にも開かれる予定。

【 2015年05月31日 10時41分 】

京都・長岡京「壮大だった」 発掘2200回、都市生活を解説

2015-03-19 15:54:27 | 歴 history
 長岡京遷都1230年を迎えたことを記念した特別歴史講演会「壮大な王都・長岡京の実像-充実した長岡京の都市生活を再現する」が15日、京都府長岡京市天神4丁目の市立中央公民館であった。参加者は約2200回に及ぶ発掘調査から分かった都の姿や住んでいた人たちの暮らしを学び、当時に思いをはせた。

 本年度は、学校教諭だった在野の故中山修一さんが向日市鶏冠井町で発掘調査を始めてから60年にもあたる。

 講演会は、NPO法人長岡京市ふるさとガイドの会が主催した。向日市教育委員会の職員として20年以上にわたって長岡京の調査をした経験がある三重大の山中章名誉教授が講師を務めた。

 山中名誉教授は、桓武天皇がしがらみを断つために遷都した背景や経緯を話した。10年間の都だったため、小規模とされていたものの調査で覆されたと指摘し、「平安京や平城京に負けない壮大な都だった」と強調した。

 平城京と違って区画の均一化を図るなど新しい都市設計を用いた点からは、「前の都で起きた問題の解消など従来にない都を造ろうと意図していたことが分かる」と説明した。

 都の東西にあった市の周辺から出土した工房跡や木簡から解明された当時の様子、識字層の増加や風呂、トイレの文化についても触れた。

【 2015年03月16日 11時08分 】

長岡宮の歴史PRへ 京都・向日市、国の「お墨付き」活用

2015-03-12 10:01:40 | 歴 history
 地域の歴史や風土をまちづくりに生かす「歴史まちづくり法」に基づく京都府向日市の計画が国の認定を受けた。かつて都だった長岡京の中心地・長岡宮があるにもかかわらず、隣りに「長岡京市」があるため、古都であったことを認知されにくい同市。認定による国の「お墨付き」を活用して、歴史や魅力をPRする考えだ。

 「3年掛けて、ようやくこぎ着けた。長岡京遷都1300年に向けた礎になる」。先月24日に行われた記念式典で久嶋務市長は感慨深げだった。市では、2010年の天皇、皇后両陛下の大極殿跡ご訪問をきっかけに、長岡宮を中心とした「歴史まちづくり」の機運が盛り上がった。国や府の助言を受け、市民意見を募るなどして認定に取り組んできた。

 計画区域は市域全体の約8割に及ぶ。まち全体が各時代の息づかいを感じさせるのが向日市の特徴だ。国からの補助は5年間で総額10億円を見込む。しかし、京都市や宇治市にあるような、誰もが知っている歴史的建造物が乏しく、観光地としての認知度は高くない。市は認知が進まなかった要因として、長岡宮跡が原形をとどめていないため実態を把握しづらい点や、情報発信が不足していた点を挙げている。

 認定による具体的な事業計画には、▽約400年前の古文書にも記載がある須田家住宅(府指定有形文化財)の一般公開に向けた改修事業▽約400年前からあるとされる旅籠(はたご)富永屋の観光情報発信拠点化▽西国街道の石畳化▽重要文化財の本殿がある向日神社境内の休憩施設設置▽阪急西向日駅から史跡長岡宮、向日神社へのルート整備▽案内板設置▽回遊ルートなどを記した観光マップの作成-などが挙がっている。

 今月4日には補助を活用して、JR向日町駅前広場にある光明寺(長岡京市)への道しるべとなっている石碑を、近くに整備中の憩いの場「ポケットパーク」へ移設するための作業を開始した。

 市は「各史跡や文化財を保存するだけではなく、『まちづくり』の中で向日市の歴史的な魅力を知ってもらい、市民が誇りを持って住めるようにしていきたい」としている。

 住民にも、訪れた人にも、「かつてここに都があった」と感じられるようなまちづくりが求められているのではないだろうか。

【 2015年03月10日 11時27分 】

西国街道賑わいの象徴の石碑移転、整備へ 京都・向日

2015-03-05 16:28:59 | 歴 history
 京都府向日市は、同市寺戸町のJR向日町駅前広場にある光明寺(長岡京市)への道しるべとなっている石碑を、近くに整備する道路の一角を利用した憩いの場「ポケットパーク」へ移設する。かつて多くの人の往来があった西国街道や、府内初の駅だった向日町駅の歴史を伝える貴重な石碑を後世に残す。

 石碑は高さ約3・7メートルで、「浄土門根元地粟生光明寺道」と彫られている。石碑の背面にある文字によると、1900(明治33)年5月に豊前小倉(現・福岡県)の人たちによる寄付で建てられたという。

 向日町駅は1876(明治9)年、府内初の鉄道駅として開業した。西国街道と鉄道の東海道線が交わる場所で、周辺は商店が立ち並び、光明寺を目指す人たちを含めた大勢の人でにぎわった。

 移設は、街の姿が変わって石碑が目立たなくなったため、地域の歴史をもっと知ってもらうために行う。同駅と阪急東向日駅を結ぶ地域のまちづくりに取り組む「向日ゲートタウンまちづくり協議会」が提案した。

 石碑は、現在地から南西に約150メートル離れた深田川橋公園前の交差点南側に整備されるポケットパークに移す。4日に撤去作業を開始し、4月上旬には整備を完成させる予定。

 市道路整備課の木村正義課長補佐は「この石碑が昔のように、西国街道のシンボル的な存在になってほしい」と話している。

【 2015年03月04日 10時59分 】

京都・長岡京の発掘振り返る 調査60年、スライド報告

2015-03-05 16:23:40 | 歴 history
 平安京遷都まで10年の都だった京都府長岡京の発掘を振り返る「スライドでみる長岡京発掘60年」が1日、長岡京市天神4丁目の市立中央公民館で開かれた。専門家の講演やスライド報告などがあり、参加した約250人はこれまでの成果や今後の展望について考えた。

 乙訓2市1町の教育委員会と、長岡京、向日両市の埋蔵文化財センターでつくる乙訓文化財事務連絡協議会が主催した。長岡京の存在を証明した故中山修一氏が発掘調査を始め、本年度で60年を迎えた記念に企画した。

 講演は、京都産業大の井上満郎名誉教授が「長岡京から平安京へ-『平安』な都をつくった長岡十年」と題して話した。

 井上名誉教授は、長岡京と平安京を造った桓武天皇が奈良時代の政治的激動期に即位したことを説明した。クーデターなどの危機を克服し、都の造営や政治によって安定した社会を目指し、死後に評価されたと指摘し「長岡京の10年は、後の平安な時代を築く基礎となった」と評価した。

 スライド報告では、調査担当者らが写真や図、資料を示して「桓武天皇の宮殿と今」「都の台所・『市』を考える」などをテーマに紹介した。今後の展望を話し合うコーナーもあった。

【 2015年03月02日 11時42分 】

巨大数珠繰り、6年ぶり復活 京都・長岡京

2014-12-19 14:09:10 | 歴 history

 十数人が円になって、一心に念仏を唱えながら巨大な数珠を時計回りにたぐる「百万遍数珠繰(ひゃくまんべんじゅずぐ)り」が、京都府長岡京市浄土 谷の柳谷観音楊谷寺で今秋から6年ぶりに復活し、無病息災などを願う人々が毎月たくさん訪れている。同寺は「たいへんありがたい。来年も続けていきたい」 としている。

 数珠繰りは江戸中期に始まり、開創した延鎮の月命日である17日に行われている。支え手の高齢化により6年前に休止した。しかし仏教に親しんでもらうきっかけになればと、今年9月に再開した。

 大数珠は全長約20メートルで、1024個の玉が連なる。一つだけ白い房が付いた大玉が含まれ、大玉が手元に回ってくると、参拝者は額に引き寄せ願いをかける。

  朝から厳しい冷え込みとなった17日、本堂に集まった約15人の参拝者が、白い息とともに「南無阿弥陀仏」と唱えながら大数珠を回した。約30年前から毎 月来ているという曽束泰嗣さん(66)=京都市伏見区=は「無心で回している。10年前に目の手術がうまくいったのもお参りのおかげかな」と話し、厳かな 雰囲気の中で願をかけていた。

 5月、8月、11月には、数珠繰りの中心に参拝者が入り、独特のリズムで鉦(かね)をたたくなど、熱心な参拝者が中心となっているという。

【 2014年12月18日 11時31分 】