福岡市の天神地区は、行ってみると、賑やかで、品がある。
3年前、釣りによく連れて行ってくれるN艇長と世話好きのS女史と3人で博多で食事をしたとき、時間待ちで天神のスターバックコーヒーで道行くあふれる人波を眺めていると、若い人も多く、明るく清潔な街並みに、心がウキウキしたのを思い出す。
やはり時間つぶしで、大丸百貨店の2棟のビルの間の歩行者天国に面した、オープンカフェでビールを飲んでいると、賑やかで気持ちのいい街並みだと、一人で感心したのも懐かしい。
天神の街並みの基礎を作ったのは、後に電力の鬼と言われた、松永安左エ門。
松永安左エ門は戦前、東邦電力を率いて日本の電力業の1/3を傘下に収め、戦時中は隠棲、戦後、電力業の民営化と経営健全化のための、電力料金の大幅値上げ(前後2回、あわせて2倍近くの値上げだったと思う)を官民上げてのブーイングを押し切って断行し、戦後の高度経済成長の基礎を作った人。
その過程で、当時の首相の吉田茂とも仲たがいして、周りがお膳立てして、仲直りで、小田原にあった松永安左エ門の住まいを吉田茂が訪ねて、お茶を楽しんだことがある。
そのあと、吉田茂は「松永安左エ門さんの茶器は見るべきものがあるが、庭は今一」と感想をのべたとのこと。
これを聞いて、「庭は国づくりと一緒で、10年、15年の時間をかけて出来ていくもの」と笑ったとか。
なお、このとき吉田茂が見るべきものがあると誉めた小田原の自宅の茶器・掛け軸は全て、松永安左エ門の死後、小田原の松永記念館に寄贈され、現在は、それが福岡市美術館に移り、松永コレクションとして、展示されている。
お茶に造詣の深い人からは(小林一三)、「松永安左エ門は庭に金を使わないが、年がたつにつれ、いい庭に育っていく」との評価。
天神の街は、松永安左エ門が50年、100年後をにらんで作った庭園のようなもの、年とともに、いい街
並みになっていくと、下の手記を読んで思った次第。
松永安左エ門が昭和39年1月に寄稿した「日経新聞 私の履歴書」 松永安左エ門著作集第一巻
「(九州鉄道<昭和17年に西日本鉄道になる>のこと)
ここらで九州鉄道のことを述べておこう。東電と東力が合併した直後の昭和3年5月から私は東邦社長になっていたが、傍系事業のなかで力を入れたのがこの経営であった。・・・
福岡~二日市間の工事は大正9年にできたが、このとき天神町を起点にしたのは次のような事情からである。博多駅を起点にすることは国営鉄道を喜ばす、一方そのころ福岡市民のなかには福岡側の繁栄を望む声が強かった。福岡市といっても中州を境に博多と福岡に分かれ、博多は神谷宗湛以来の商業地であるが、福岡側は旧城下町を主体に住宅街をなしており、福岡市は下町と山手に別れていた。その福岡というわけである。
そこで天神町に着目したのであるが柳原白蓮が住んでいた伊藤伝右衛門の”あかがね御殿”や取引所の建物くらいが目ぼしいものでまだ静かな住宅街だった。地元の木幡一という男に依頼して、この辺の土地を買い付け、九鉄本社を天神町に置きここから工事を始めた。同時に福岡市の糀屋町で呉服屋をやっていた博多の古い商人、中牟田喜兵衛を説きつけて、ターミナル・デパートを建設させることにした。このため中牟田を小林一三に紹介してその援助を頼んだが、これが現在の岩田屋である。またこのとき九鉄の付帯事業につくったのが春日原球場で、これは長く九州の”甲子園”だった。
筑後川を渡って久留米市まで延びたのは13年の4月で、市街電車と区分して”急行電車”と呼ばれるようになっていたが、これから大牟田までが長かった。津福まで延びたのが昭和7年、それから先が出来たのは昭和も14年になってからだ。
長い間赤字を続け50円株が10円台になっていたこともあり、その打開は炭都大牟田に延長することであったが、資金は思う通り集まらず、土地の買収も進まず、さらにここでも国鉄側が大牟田乗り入れに反対ということであった。最も苦心したのは中島・大牟田でこの間、栄町からは国鉄と並行して走っているが、この用地の買収も容易に進まなかった。九鉄の不振打開に東邦社員のうちで戦闘力のある進藤甲兵(東力時代の常務で、東京進出部隊の師団長格)を岐阜電力から呼び戻し、九鉄の経営に当たってもらった。
私もたびたび督励に出かけた。大牟田市内の用地は「相場よりも高いものを要求してくるので困る」と進藤が言う。現場の責任者としては無理はないが、
「いくら高くとも買ってしまえ、土地というものは、必ず値上がりするもので少々高く買っても先にいってあのときは安かったと思うものだ。価格にこだわらず、早く片付けろ・・・」などと激励半分しかりつけたものだが、のちには大牟田駅への乗り入れも進藤が話しをつけて解決した。九州鉄道の初めから考えると大牟田~福岡間の開通には22年かかったのであった。
天神町の開発とこの乗り入れは思い出の一つである。」
竹田農園のお隣に住む、江藤正翁(元南海ホークスのエース、88歳)とビールを飲みながら、八幡中学時代の思い出をお聞きすると、よく、「われわれのチームは弱く、春日原球場へ行こうが合言葉。北九州大会で勝ち残らないと行けなかった。」とお聞きして、私が、よく分からないという顔をするので、なんで春日原球場を知らないのかと、怪訝な顔をされる。
松永安左エ門の上の手記で春日原球場は、長く九州の甲子園とあり、やっと意味が分かった次第。
11月21日、飲み仲間で有田方面のバス旅行。福岡市美術館にある松永コレクションを見物予定だか、もしバスが天神を通れば、「ここは松永安左エ門が手がけた、庭園のような街、だから見飽きない」と威張って解説したいもの。
今度の日曜日・月曜日、ラーメン屋のI氏、M画伯等、ビール好きの不良爺さん達と境港に水木しげるロードを見物に行く予定。
お天気でありますように。
3年前、釣りによく連れて行ってくれるN艇長と世話好きのS女史と3人で博多で食事をしたとき、時間待ちで天神のスターバックコーヒーで道行くあふれる人波を眺めていると、若い人も多く、明るく清潔な街並みに、心がウキウキしたのを思い出す。
やはり時間つぶしで、大丸百貨店の2棟のビルの間の歩行者天国に面した、オープンカフェでビールを飲んでいると、賑やかで気持ちのいい街並みだと、一人で感心したのも懐かしい。
天神の街並みの基礎を作ったのは、後に電力の鬼と言われた、松永安左エ門。
松永安左エ門は戦前、東邦電力を率いて日本の電力業の1/3を傘下に収め、戦時中は隠棲、戦後、電力業の民営化と経営健全化のための、電力料金の大幅値上げ(前後2回、あわせて2倍近くの値上げだったと思う)を官民上げてのブーイングを押し切って断行し、戦後の高度経済成長の基礎を作った人。
その過程で、当時の首相の吉田茂とも仲たがいして、周りがお膳立てして、仲直りで、小田原にあった松永安左エ門の住まいを吉田茂が訪ねて、お茶を楽しんだことがある。
そのあと、吉田茂は「松永安左エ門さんの茶器は見るべきものがあるが、庭は今一」と感想をのべたとのこと。
これを聞いて、「庭は国づくりと一緒で、10年、15年の時間をかけて出来ていくもの」と笑ったとか。
なお、このとき吉田茂が見るべきものがあると誉めた小田原の自宅の茶器・掛け軸は全て、松永安左エ門の死後、小田原の松永記念館に寄贈され、現在は、それが福岡市美術館に移り、松永コレクションとして、展示されている。
お茶に造詣の深い人からは(小林一三)、「松永安左エ門は庭に金を使わないが、年がたつにつれ、いい庭に育っていく」との評価。
天神の街は、松永安左エ門が50年、100年後をにらんで作った庭園のようなもの、年とともに、いい街
並みになっていくと、下の手記を読んで思った次第。
松永安左エ門が昭和39年1月に寄稿した「日経新聞 私の履歴書」 松永安左エ門著作集第一巻
「(九州鉄道<昭和17年に西日本鉄道になる>のこと)
ここらで九州鉄道のことを述べておこう。東電と東力が合併した直後の昭和3年5月から私は東邦社長になっていたが、傍系事業のなかで力を入れたのがこの経営であった。・・・
福岡~二日市間の工事は大正9年にできたが、このとき天神町を起点にしたのは次のような事情からである。博多駅を起点にすることは国営鉄道を喜ばす、一方そのころ福岡市民のなかには福岡側の繁栄を望む声が強かった。福岡市といっても中州を境に博多と福岡に分かれ、博多は神谷宗湛以来の商業地であるが、福岡側は旧城下町を主体に住宅街をなしており、福岡市は下町と山手に別れていた。その福岡というわけである。
そこで天神町に着目したのであるが柳原白蓮が住んでいた伊藤伝右衛門の”あかがね御殿”や取引所の建物くらいが目ぼしいものでまだ静かな住宅街だった。地元の木幡一という男に依頼して、この辺の土地を買い付け、九鉄本社を天神町に置きここから工事を始めた。同時に福岡市の糀屋町で呉服屋をやっていた博多の古い商人、中牟田喜兵衛を説きつけて、ターミナル・デパートを建設させることにした。このため中牟田を小林一三に紹介してその援助を頼んだが、これが現在の岩田屋である。またこのとき九鉄の付帯事業につくったのが春日原球場で、これは長く九州の”甲子園”だった。
筑後川を渡って久留米市まで延びたのは13年の4月で、市街電車と区分して”急行電車”と呼ばれるようになっていたが、これから大牟田までが長かった。津福まで延びたのが昭和7年、それから先が出来たのは昭和も14年になってからだ。
長い間赤字を続け50円株が10円台になっていたこともあり、その打開は炭都大牟田に延長することであったが、資金は思う通り集まらず、土地の買収も進まず、さらにここでも国鉄側が大牟田乗り入れに反対ということであった。最も苦心したのは中島・大牟田でこの間、栄町からは国鉄と並行して走っているが、この用地の買収も容易に進まなかった。九鉄の不振打開に東邦社員のうちで戦闘力のある進藤甲兵(東力時代の常務で、東京進出部隊の師団長格)を岐阜電力から呼び戻し、九鉄の経営に当たってもらった。
私もたびたび督励に出かけた。大牟田市内の用地は「相場よりも高いものを要求してくるので困る」と進藤が言う。現場の責任者としては無理はないが、
「いくら高くとも買ってしまえ、土地というものは、必ず値上がりするもので少々高く買っても先にいってあのときは安かったと思うものだ。価格にこだわらず、早く片付けろ・・・」などと激励半分しかりつけたものだが、のちには大牟田駅への乗り入れも進藤が話しをつけて解決した。九州鉄道の初めから考えると大牟田~福岡間の開通には22年かかったのであった。
天神町の開発とこの乗り入れは思い出の一つである。」
竹田農園のお隣に住む、江藤正翁(元南海ホークスのエース、88歳)とビールを飲みながら、八幡中学時代の思い出をお聞きすると、よく、「われわれのチームは弱く、春日原球場へ行こうが合言葉。北九州大会で勝ち残らないと行けなかった。」とお聞きして、私が、よく分からないという顔をするので、なんで春日原球場を知らないのかと、怪訝な顔をされる。
松永安左エ門の上の手記で春日原球場は、長く九州の甲子園とあり、やっと意味が分かった次第。
11月21日、飲み仲間で有田方面のバス旅行。福岡市美術館にある松永コレクションを見物予定だか、もしバスが天神を通れば、「ここは松永安左エ門が手がけた、庭園のような街、だから見飽きない」と威張って解説したいもの。
今度の日曜日・月曜日、ラーメン屋のI氏、M画伯等、ビール好きの不良爺さん達と境港に水木しげるロードを見物に行く予定。
お天気でありますように。
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