田舎生活実践屋

釣りと農耕の自給自足生活を実践中。

野母崎に一泊ドライブ(2009/3/30)

2009-03-30 20:35:13 | 笑える話
田舎生活の好きな皆さんお元気ですか。
昨日、今日と一泊二日のドライブに、飲み仲間8人で行ってきました。
行先は、長崎県の野母崎、九州最西端の半島らしい。
メンバーは、私がしょっちゅうお邪魔する小倉室町のラーメン屋の錦龍のI氏とその友達の焼鳥屋のIY氏に工務店のS氏。
I氏の昔馴染みの絵描きのM氏とその友達3人。

(高速道路1000円)
景気対策で、高速道路はどこまで行っても土日1000円。
昨日は日曜日で、この恩恵に浴することに。
午後出発で混雑は緩和されていると思われるが、古賀、基山のサービスエリアは、駐車場95%が車でいっぱい。
普段だと70%くらいと思われる。一般道を走らず高速を走る車が増えたと思われる。
帰りの今日は普段の料金で、5000円。
大雑把に見て、料金は1/5になった勘定。
お金が浮いた分、宿で注文するビールの数が増えたようで、消費刺激にはなっている。

(野母岬)  
野母岬は、M画伯の友人のMT氏が行こうと提案した場所。
MT氏がハンドルを握り、8人を乗せた自動車は快調に長崎市内に。
ここを走りぬけ西に走ること30分、野母岬に。
海水は、関門海峡より透明度があり、入り組んだ海岸線は漁港だらけ。
宿泊の宿の健康村のすぐ裏手も漁港で、この日の夕食は、とれたてのカワハギの一匹丸ごとの刺身が各人に。
安い料金から推測して、裏の漁港で水揚げされたカワハギと思われる。
沖合に、炭鉱の島、軍艦島の廃墟が浮かぶ。
近くの樺島に足を延ばすと、大ウナギが島の井戸に住んでおり、2匹が水槽に(下に写真)。
温泉も地下から湧いており、一日のんびりしたい岬でした。
今朝、8人で記念写真。
シャッターを押してくれたフロントのお嬢さんに、M画伯が「バターと言えと言え」とヨタを飛ばすと、素直なお嬢さんで、「バターといってください」と言うので、ゲラゲラ。

(寝言といびき)
宿で一人寝、二人寝でいつのまにか、全員白川夜舟。
しかし、廊下を隔てた隣の部屋のM画伯の友人H氏のイビキ、いままで聞いたことのないすさまじい響きにスワと目覚める。
寝れないのでトイレに立ち、部屋を覗くと、一緒の部屋のはずの焼鳥屋のIY氏、布団ごと見当たらない。
近くの談話室に蒲団を引きずり避難して寝たとのこと。
私は5人部屋。
隣でM画伯。
突然、寝言。
2分程続く寝言を間欠的に。
誰かと喧嘩をしてる夢を見ているらしい。
その隣で寝ていたラーメン屋のI氏、「よしよし、夢を見ていたのか」とあやすも、効果なし。
ゴロゴロI氏の布団に転がってきたそうで、朝、目が覚めると、M画伯と入れ替わってI氏が私の隣で軽いイビキ。
おかげて、今日は寝不足、今晩熟睡見込み。

 無事、小倉まで戻り、また行こうと。
皆さん、やや粗暴だが、楽しい旅の仲間でした。
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樺島の大ウナギ(2009/3/29)

2009-03-30 20:16:00 | Weblog
悪友8人で、長崎の野母崎ドライブ。野母崎の近くの樺島まで足を延ばすと、大ウナギの看板。
下車、矢印の方向を歩くと、近くのおばあさん親切に案内してくれる。
古井戸があり、おばあさん、覗き込んで
「ここにいるはず、ちょっと見えないか、あっ、見えた、尻尾が黒く見えているじゃろう」と。
目を凝らすと、底がうっすら分かるが、ウナギはどれか、よくわからぬ。
幸い、井戸のそばに水槽があり、直径10センチはあろうかという大ウナギをつぶさに見ることができました。
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江藤正氏に和田氏(回天の乗組員)について話す 農園草ボウボウ(2009/3/23)

2009-03-23 22:36:28 | 戦前・戦中の日々
田舎生活の好きな皆さんお元気ですか。
桜も3分咲き、木々の新芽も至る所に。
WBCの日本対アメリカを勝負あったの8回まで見て、帰省中の次男と竹田農園に。
木陰のバーベキューと大根の収穫。

(草萌える春)

農園の空き地に車を止め、畑を眺めると、草ボウボウ。
特に玉ねぎの畝がひどい草。
今日は時間なく、放置。
この30年の経験から、苗を植えるなり、種をまいておくと、草ボウボウでも、とにかく何か成ると分かっているので、畑さんよろしくと、林の木陰にバーベキューの用意。
妻から、面白かったと渡された「奇跡のリンゴ(木村秋即氏の半生記)幻冬社」読んだばかり。
無農薬、無化学肥料の栽培がいいと言うが、リンゴの場合、非常に難しい。
これを10年死ぬ思いでやりぬいた物語。
ご一読お勧め。(本屋の目立つ所に山積みされている)
まず土づくり、虫やら細菌どっさり、できたリンゴは味が違う。
竹田農園、この路線で耕作してゆきたいもの。

(バーベキュー)
次男と手分けして、椅子を並べたり、火をおこしたり、木切れを集めたりで、焼き肉スタート。
農園の隣に住む、江藤正翁(元南海ホークスのエース)も加わり、ビール。

(江藤正翁の話)
○先週、訪れた大津島の回天記念館の墓碑名にあった、和田稔氏(映画、出口のない海のモデル)を江藤正翁がご存じないか、聞いてみた。
年齢は和田氏が一つ上、小学校は和田氏が北九州の小倉の堺町小学校(後、静岡の沼津中学)、江藤翁は北九州の八幡小学校。
共に野球好きで、和田氏は一高~東大、江藤氏は八幡中学から法政の予科から大学。
どこかで接点があったのではと思ったが、記憶にないとのこと。
江藤翁が六大学でプレーしたのは、予科2年の時、打撃を買われてファーストでプレー、昭和16年には優勝。
しかし戦争で昭和17年野球中止、18年に学徒出陣。
和田氏の墓碑の写真を見てもらいながら、東大は当時強かったのかと聞くと、笑うだけ。
「東大もいないと、6大学でない。」
○印象に残った同年齢の選手の話になり、小鶴誠氏(ホームラン51本の日本記録を長く持っていた)は飯塚商業の選手で同い年。
八幡製鉄に入り、プレー。
江藤正翁も八幡中学で八幡製鉄と合同練習してたので、よく知っていた。
別当薫選手も同年齢。
慶応の選手。
○田中マー君がスタルヒンによく似ていると以前、江藤翁が話していたので、もう少し詳しく聞きたいと水を向けるも、同じ若い選手ということで、江藤翁がキャッチャーからピッチャーに転向をアドバイスした高校生の稲尾選手(西鉄)の話になり、あそこまで素晴らしい選手になるとは思わなかった。と。
若い人の可能性は、計り知れないということらしい。
 食事とビールが終わったところで、江藤翁とパチリ(冒頭の写真)
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関門でおかずたくさんゲット(2009/3/20)

2009-03-20 22:01:06 | Weblog
田舎生活の好きな皆さんお元気ですか。
春分の日、コーラル丸で関門のアラカブ釣りに行きました。
当初は、私と薩摩隼人のO氏の二人の予定でしたが、友達の持船に乗る予定が、友達の都合が悪くなった工務店のS氏、玄界灘が波高く青物釣りが中止になったおでん屋のS氏が急遽参加で4人の釣り人。(写真はアラカブを釣り上げたところ)
4月からは、フィリピンバギオから冒険家のM先生が戻ってくるので、ますます賑やかに。

(ワカメ)
前回の釣りで岸壁のワカメを刈り取り(長い柄の鎌使用)、もっと食べたいと思っていましたが、川端船長の一言で、アラカブ釣りの前に、ワカメ取り。
歯ごたえもあり、気のせいか、体調も良くなったようで(風邪をひいて治ったが、その後遺症か腹筋・背筋・腰の筋肉が痛んでいたのが、、ワカメを食べていたら、すっかり良くなった)
一人10L程刈り取り、ホクホク。

(タコ5匹)
妻より、冷凍庫のタコ、無くなったので、タコ釣ってきてとの要望。
今日は、関門は小潮の最後の日で、終日海峡の流れはせいぜい2ノット。
アラカブ、タコの生息する狭い海峡の瀬の上を一日コーラル丸は流す。
アラカブを10匹釣ったころ、私はタコに切り替え。
いい型が一匹上がると、薩摩隼人のO氏、
「あと3匹釣れ。みんなに配当できる」と。
底をチューチュータコカイナと小声で歌いながら上下すると、ムズとした重み。
思いきり合わすこと4度、結局1キロ前後のマダコが5匹釣れました。
釣り人全員タコをお土産に。

(寒むー)
昨日は、ポカポカと5月の陽気。
天気予報では、「今日も20度近くに気温上昇。
朝曇りだが昼からは太陽も照る。」
この天気予報を見て、私とおでん屋のS氏、薄着。
朝から結構寒い。
昼になっても日は照らない。
手も凍える。
釣り手袋もってきたら良かったと後悔しきり。
S氏も、「寒むー」を連発。
特に春先、天気予報は鵜呑みにせず、暖かい服装が正解。
暑いと、脱げば事足りる。

 今日の夕食は、釣りたてのタコを湯がいて、刺身醤油で。
味がよく、歯ごたえもあり、食べ飽きない。
明日は、妻、タコ飯を作るとか。
湯がいたワカメも冷凍庫にたっぷり。
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大津島への旅(2009/3/15、16)

2009-03-16 18:11:33 | Weblog
田舎生活の好きな皆さんお元気ですか。
昨日、今日と徳山市の沖合の大津島に一泊二日の旅でした。
小倉室町のラーメン屋錦龍のI氏と、小倉駅前の焼鳥屋のIY氏に世話好きのS女史の息子さん19歳の4人。
大津島の回天記念館を見てこようとなったもの。
天気よく、鈍行列車でのんびりの旅でした。

(チヌとアサリ)
大津島の港(馬島)に着き、記念館を見学して、港に戻り一休み。
島全体が花崗岩からできており、砂浜は、石英・長石がくだけた真白。
孟宗竹が50本ばかり、規則正しく、港近くの入り江に立ててある。
I氏がこれを見つけて、「これは何じゃ」と。
皆、頭をひねるがさっぱり分からない。
民宿に行く時刻にまだ時間があるので、港の前でサザエ・アムール貝を焼いて食べさせる店があるので、ここに腰をおろす(写真)。
サザエ屋のご主人とすっかりうちとけて、
「あの孟宗竹、何のためにあるのか」と聞くと、
「以前あさりを養殖しようと、稚貝をあそこに撒いた。
竹はそのための道具立て。
しかし、大きなチヌが沢山やってきて、あさりを食べてしまい、失敗。
群れをなしてチヌが泳いでおり、網でも捕まえれそうだったが、味の悪い時期で、あきらめて放置した」とのこと。
魚影の濃い、いい島。

(島の人親切)
ここでサザエ、アムール貝をたらふく食べて、ビールを飲んで腹いっぱいに。
すると軽自動車が止まり、
「竹田さんですか?」と運転の女性。
港から船を使って民宿のある集落(刈尾)まで移動する予定だったが、迎えに来てくれたもの。
4人は乗れないし、すでに船の切符を買っていたので、荷物だけ運んでもらうことに。
すると、それを見ていたサザエ屋のご主人、
「私がみなさんを宿まで車で運んであげよう、切符は払い戻してもらいなさい」と。
切符を売っているのがこのご主人の奥さんで、払い戻ししながら、
「どうせなら、島の裏側の夕陽の沈む光景をみせてあけなさいよ」とご主人に。
おかげで、見事な瀬戸内海に沈む夕日を高台から堪能できました。
島の人、皆さん親切でスレテいない。

(鈍行の旅)
山陽道をJRで移動するときは、いつも新幹線。
しかし、I氏の発案で、鈍行列車は沿線の景色が堪能できていいぞと。
3月も半ば、田んぼや畑は緑の草に覆われ、モモの花があちこちにピンクの彩。
行きは缶ビール3本、帰りは2本、楽しい旅でした。

(回天記念館)
関係者により大切に資料が管理・保存されており、下にご紹介。
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回天記念館で見た遺書

2009-03-16 16:55:48 | 戦前・戦中の日々
回天記念館の展示の資料の中にあった、20歳の青年の遺書。(写真)
ちょうど帰省中の次男とよく似た年齢で、胸が痛みました。
また私は59歳ですが、この青年のような集中力はないと、敬服しました。
内容は
「恩師先輩親類近所ノ方へ 
皆様有難ウ 
思ヘバ 楽シイ二十年ノ人生 
皆様ノご厚意ヲ体シ 笑ッテ突ッ込ミマス 
軍人精神 忠節礼儀武勇信義質素誠ヲ以テ一貫ス 
若桜万朶ノ桜 海軍二等航空兵曹 松田光雄」
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映画出口のない海のモデル(2009/3)

2009-03-16 16:19:29 | 戦前・戦中の日々
3/15に初めて訪れた、山口県、徳山沖の大津島の回天記念館で、係りの方に、出口のない海の映画を見てやってきた、このモデルになった方がいたのかとお聞きすると、
「東大の和田稔氏、野球が好きな方で、映画と同じように、昭和20年7月回天の訓練中浮上できず、米軍の空襲が激しいため救助もできず、亡くなられた。
同年9月、枕崎台風の波により岸に回天が海岸に打ち上げられ、遺体は回収された。
記念館入り口の通路の両側の戦死者の墓碑銘に和田氏のものもある」とのこと。
案内された、地元の特産の御影石に掘られた墓碑銘を撮影。
江藤正翁とほぼ同じ経歴で、生きておられたら良い仕事をしたろうにと、思いました。
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江藤正翁の往時の記事(週刊ベースボールより)

2009-03-10 00:26:12 | Weblog
(竹田農園の隣にお住まいの江藤正翁と、バーベキューとビールを楽しんでいましたら、こんなものが出てきたと、南海ホークスのエースとして活躍していたころを書いた週刊誌。以前、「さらば南海ホークス」
( http://blog.goo.ne.jp/takeda12345_2006/d/20080401 に詳細)の記事と同じ内容ですが、面白い。週刊誌4ページとちょっと長い。ご参考です。写真は、その週刊誌。)



週刊ベースボール昭和54年12月3日発行号より
日本プロ野球異色選手列伝
連載① 江藤正(南海)

一方が荷物をさらい、一方が身柄をさらった。まるで略奪、誘拐である。昭和24年、大阪駅頭で起こった阪神・南海の江藤争奪事件。それだけの紛争を巻き起こした主人公がユニフォームのポケットにしのばせて、マウンドに上がった「守り神」がなんと芸者のヘア3本だったとは・・・・往年の南海のエースにまつわる、なんともオカシな物語。

(南海・阪神の大阪駅江藤争奪事件)
江藤正は信じられない、といった表情で阪神代表の富樫興一を見詰めた。
「富樫さん、それは本当ですか。いまおっしゃったことは事実なんですか」
「すべて事実だ。本当なんだ。南海は君と入団の仮契約をしているが、もう要らないといっている。入団の仮契約も破ってしまったらしい」
 富樫は、そういって江藤の胸中をさぐった。
「本当に、南海は私をいらないといっているんですか」
 江藤は同じ質問を何度も繰り返した。
「そうなんだ。ところで君は、すでにプロ入りの意志をかためているのだろう。南海が必要としなくなったのを機会に、阪神に入団してもらえないかね。条件は南海と同額。いや、少し上積みしてもいいとおもっているんだが・・」
 富樫はヒザを乗り出して江藤に阪神入団を迫った。江藤はしばらく考えた末、決断したかのようにうなづくと、
「私は、もう後戻りはしたくはありません。お世話になります」
といって富樫に頭を下げた。
 これが昭和24年3月に起きた大洋漁業の江藤投手をめぐるプロ野球史上例をみない「江藤問題」の幕開である。
 江藤は、それ以前に当時、山本姓を名乗っていた南海監督の鶴岡一人の前で入団仮契約をかわしていた。この席には大洋漁業の監督であり、外野手で4番打者の戸倉勝城も同席している。戸倉は1年後、毎日の旗揚げに加わり、のちに阪急の監督になっている。法大で鶴岡の先輩である戸倉は、
「江藤を早く一人前にしてやってくれ。江藤も法大出だし、君なら、一人前にしてくれると思って送り出すのだから・・」
 と鶴岡に江藤を頼んでいる。
それが、自分を必要としないとは・・・江藤は鶴岡の変心が信じられなかった。
 それから数日後、大阪に帰った富樫は阪神球団事務所で記者会見を行い、江藤の阪神入りを発表した。翌日の新聞を見た阪神ファンは狂喜した。大洋漁業の江藤といえば、22年から3年連続して都市対抗野マウンドに立った本格派投手で、子供のメンコにまで登場している男だ。スター誕生と思ったのも当然である。
 鶴岡はぼう然とした。
「そんなアホなことがあるかい。とにかく江藤を大阪へ呼べ。球団へ呼べ」
鶴岡は球団職員にそう伝え、江藤に呼び出しをかけた。江藤はすぐさま、山陽本線で下関から大阪へ出てきた。
 南海はタクシーを用意して球団職員を数人つけ、大阪駅へ向かった。この情報をキャッチした阪神も球団職員を動員して大阪駅へ駆けつけた。
 出改札口から江藤が姿を見せると、南海の球団職員は、阪神に江藤を渡すまいと一斉に取り囲んだ。
 阪神の球団職員は、わずかのスキを見て江藤の手から荷物を取り上げると、球団事務所へ向かった。
 荷物を取れば江藤がついてくると思ったのである。
 しかし江藤は南海球団職員にタクシーに押し込められ、難波へ向かって走った。
 これが、いまもなお語り草になっている南海、阪神の江藤をめぐる「大阪駅争奪戦」である。
 球団職員に護られて球団事務所に着いた江藤は、鶴岡に阪神との一件をありのままに報告した。
 鶴岡は、
「よっしゃ、わかった。当分の間、雲がくれや」
 というなり資金を鶴岡の友人に持たせ、江藤は大津市の旅館を10日間、転々とした。
 この間、阪神の監督、若林忠志が鶴岡に妥協案を出してきたのである。
「ことし一年は阪神で投げてもらい、来年は南海に移籍させる。これで手を打とうじゃないか」
 この妥協案を、鶴岡は一蹴した。
 江藤問題はコミッショナー裁定となったが、その裁定は、
「江藤は南海に入団、ただし一年間出場停止とする」
という重罰であった。
 一年間といえば、選手生命にも影響しかねないペナルティである。

(殺到した出場停止処分解禁の手紙)
こうして江藤は、第一線のベンチにも入れてもらえず、堺市中モズでの練習に明け暮れた。そこへ起こったのが、4月12日から後楽園球場で行われた巨人~南海戦でのエキサイト・ゲームである。
「巨人はウチの別所毅彦を強引に引き抜いていながら、その別所は出場停止2か月、ウチの江藤は一年間の出場停止。こんなバカなことがあるか。巨人の横暴は許されん」
 というのも、南海が燃えた原因であった。別所問題を裁定したのも江藤に一年間の出場停止を決めたのも、コミッショナーである。ところが、そのコミッショナーは巨人創立者の正力松太郎であった。
「別所を横取りされた悔しさと巨人の横暴。江藤の無念を晴らしてやる」
 と意気込んだ南海選手の気持ちは手に取るようにわかる。
 巨人~南海のエキサイト・ゲームは14日の第三戦で巨人監督の三原脩が南海の捕手、筒井敬三を殴るという、「ポカリ事件」が起こった。
 三原はペナトンレース終了まで出場停止処分を受けたが、7月21日に解禁になった。
 この解禁に、南海の選手はまた怒った。
「みんな巨人の味方か。江藤もなぜ解禁にしてやらん。江藤がかわいそうじゃないか」
 選手たちはコミッショナーに不満をぶっつけた。江藤の出場停止処分を解け、という投書が日本野球連盟に殺到したのもこの頃である。
 江藤は中モズで若手と一緒に、ただひたすら練習に打ち込んでいた。「忍耐」の二字を背負っての練習であった。
 同期の桜である西日本鉄道から入団した下手投げの武末悉昌が21勝17敗の成績をあげてスターダムにのしあがったが、江藤は来る日も来る日も中モズにいなければならなかった。
 このシーズン、別所を横取りした巨人は圧倒的な強さを見せて優勝した。1リーグ制最後のシーズンを戦後初の優勝で飾ったのである。
 別所を取られ、江藤が一年間の出場停止を受けた前年のチャンピオン南海は、8球団中の4位に落ち、首位の巨人に18.5ゲーム差という無残な成績に終わった。
 明けて25年、プロ野球は1リーグ制から2リーグ制になった。
 江藤の出場停止は解禁になった。

(守り神は芸者のヘア3本だった)
その江藤が初めてマウンドに姿を見せたのは3月20日、西宮球場での近鉄戦であった。フランチャイズが確立していなかったため、近鉄は西宮球場を使っていたのである。
 江藤は見事な投球で近鉄を4-0で完封して、一年間の空白を取り戻した。
 右腕からの鋭いカーブと右打者外角いっぱいに決まる速球で、新興の近鉄をねじ伏せたのであった。
 しかし、江藤には大きな欠点があった。ブルペンでは素晴らしい投球をするのだが、いざマウンドに立つと球威が落ちることであった。法大時代もそういったきらいはあったし、大洋漁業でも見受けられた。
 この弱気だけは、一年間の中モズ生活でも矯正されなかった。
 ブルペンの投球がそのままマウンドで通用するにはどうすればいいか。そのことを鶴岡は考え抜いたが、なかなか名案は浮かんでこなかった。
 ところが、ある日、ひょんなことを思い出した。
 軍隊時代、水商売の女性のヘアをお守りとして肌身離さずもっていた戦友の事が頭に浮かんできた。
「そういや、タマよけ、女のヘアを持っていたのがいたな。よし、あの手をやってみたろ」
 というわけで鶴岡は大阪・宗右衛門町にいる顔見知りの芸者を思い出すと、さっそく宗右衛門町に足をのばして、その芸者に会い、事情を説明した後、
「なんとか協力してくれんか。3本抜いてくれんか」
 と持ちかけた。天下の大監督が、芸者にヘア3本を寄付して欲しいという陳情である。その芸者は
「私のが役にたつのなら、どうぞ」
と3本を抜き取り、鶴岡に渡した。それを鶴岡は紙に包んで江藤に渡し、こういった。
「このお守りのご利益は、きっとあるはずや。試合中はユニフォームのポケットに入れておけ。きっと、ええことが起こるぞ。マウンドに立っても、心配なしや」
「親分、ありがとうございます」
 江藤は神妙な表情で紙に包んだヘア3本をお守り袋にしのばせて、マウンドに上がるようになった。
 これもまた前代未聞ではなかろうか。
 とろこが、ご利益はあった。
 江藤は14勝9敗、2.92の防御率をマークしたのである。
「親分、やっぱり効きました。あれさえ持っていれば、どんとこい、でいけました。やれました」
 江藤のうれしそうな声に鶴岡は、その夜、彼を伴って宗右衛門町に向かった。
 あの芸者にお礼をするためであった。
「私のが役に立つなんて、うれしい、おめでとう」
といって芸者は照れ笑いした。
 14勝の成績は3本のヘアから生まれたと話題となった。

(日本シリーズでみせた男の意地)
3年目の江藤には、もうヘアの必要はなかった。鋭いカーブをうまく使って、24勝5敗、2.28の防御率でリーグ最多勝利をマークして南海2リーグ分裂後初優勝の立役者となった。そして、セ・リーグで初優勝した巨人と日本シリーズの対決である。
 日本シリーズは大阪球場で幕を開けた。その開幕前日、鶴岡は巨人の練習ぶりを全員に見学させた。巨人は真新しいボールを惜しげもなく使い、その白球を与那嶺、青田昇、川上哲治や平井三郎、千葉茂が思う存分に叩き込んでいるではないか。
 この豪快な打撃練習を見た南海の選手は恐怖心に取りつかれてしまった。そんななかで平然と見つめていたのが、江藤だった。
「巨人はよく打っている。けれど、おろしたてのボールだからよく飛ぶんだよ。新品だもんね」
 江藤の言葉に選手は我に返った。確かに江藤のいう通りである。それにしても一年前、これがあの弱気な江藤かと選手たちは思わず、彼の顔を覗き込んだほどであった。
 しかも江藤は2日前に第一戦の先発を命ぜられている。それでも平然としていられる江藤を選手たちは別人のように思ったに違いない。
 鶴岡は、その著「栄光と血涙のプロ野球史」(恒文社刊)でこう書いている。
「大試合には老朽投手を起用する方が有利だ、というたてもえからすれば、南海は柚木君を起用する場面であった。ボクも柚木君の先発ということは考えたが、柚木君は当時ちょっと肘を痛めていた。そこで、この年24勝をあげて、もっとも好調だった江藤君を起用したわけであった。リーグ一の勝利を稼いだエースに初陣を飾らせるのが、選手権試合という大試合へのエチケットだという気持ちだった」
 この文章の裏には、入団一年目のシーズンを出場停止で棒にふりながらも、実働2年目でエースに成長した江藤の意地を買ったことがうかがえる。
 事実、鶴岡は江藤に第一線の先発を命じたとき、これまでに聞いたことのなかった迫力のある声を耳にした。
「親分、やります。全力をつくします」
 と自信に満ちた返事だった。
 その言葉通り、江藤は25回を投げ、被安打5、奪三振8、失点2という内容であった。救援の中谷信夫が巨人の猛打を誘発して敗れたが、この試合に見せた江藤のピッチングは気迫にあふれていた。リーグ最多勝の意地をかけてのマウンドだった。

 その江藤も日本シリーズではついに一度も勝つことなく、しかも成績は下降線をたどっていった。27年は11勝10敗、防御率3.35に終わり、28年はついに一勝もできずにこのシーズン限りでユニフォームを脱いだ。
 実動3年間の成績は49勝26敗、防御率2.83であった。
24年、阪神の「だまし作戦」に引っ掛からなければ、一年目10勝は軽く超えていたであろう。
 彼は大阪に住み、電電公社の管理職になっている。ときおり大阪球場のスタンドでその姿を見かけるが、江藤を知る人は少ない。大阪駅前の争奪戦に走った球団職員も、いまはもう一人もいない。30年も昔の出来事である。それにしても白昼の大阪駅で江藤の荷物をひったくって逃げた阪神の球団職員、いまなら引ったくりの現行犯でブタ箱入りのうきめをみていたかもしれない。
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農園で一仕事、後宴会(2009/3/9)

2009-03-09 17:42:29 | Weblog
田舎生活の好きな皆さんお元気ですか。
今日は帰省中の次男と竹田農園に行ってきました。

(鬼の居ぬ間に)
妻は、用事で次男と二人だけ。
農園への途中にDIYのナフコ。
もうすぐ、景気対策の給付金1.2万円がはいる。
休耕田にイチヂクを植えようと、ナフコに寄り、苗6本を購入。
イチジクの木が炭酸ガスも吸収し、環境に良い。
なにより、炎天下草刈を私がする際の、やる気を出させる。
妻は、先祖伝来の田んぼに木を植えるとはと、良い顔をしないが、植えてしまえばこちらものと、妻のいない今日がチャンスと次男と2反の田んぼのあちこちに苗を植えました。
これでいままでに植えた分と合わせて15本のイチヂク。
本格的収穫は5年後か。

(バーベキュー)
時々、小雨も降るので、林にブルーシートを張り、バーベキューの用意。
焼き肉、おにぎり、パン、ビール。
野菜が無いので、畑にみずみずしく育ったネギを掘り、近くの泉の水で洗って、そのまま炭火で丸焼き。
近所に住む、江藤正翁(元南海ホークスのエース)も加わり、楽しく2時間近く宴会となりました。
炭火とたき火でポカポカ。(冒頭の写真)
特にパンをこんがり焼いて食べたのが一番美味しい。

(江藤翁の話)
○「NTTを退職して、生まれ故郷の田舎に引っ越してきてよかった。
ここでは、掃除、料理何でも自分でしなくてはならん。
それが体にいい。
今の家を建てる時、大工さんがもう一部屋作ろうと言っていたが、一部屋で良い、掃除が楽だからと、一部屋にしたのも正解。」
○私が、昨日は釣り中止で家にいたら、却って疲れたと言うと、
「私も同じ。
一人で家にじっとしていると、どうかなりそう。
雨の時など。」
○今度の日本の野球代表チームはどうですか、強そうだがと、私が聞くと
「韓国も強いよ、投手が良い。
私の若いころも、野球は、韓国の全京城が都市対抗でとても強かった。
ボクシングの軽量級では韓国選手はいい選手が多かった。
マラソンも強かった。」
○次男が22歳だと言うと
「若くてこれからでいいな。
私の22歳の頃は、仲間は戦争に行き、大半が戦死した。
移動中の船で事故にあい、悲惨な最期のものもいた。
仲間の多くはパイロットになり(江藤翁の仲間はスポーツマンが多く、パイロットになった人が多かった)大半が死んだ。
私もパイロットを希望したが、一人くらい野戦重砲隊に入れと陸軍になった。
生き残ったのはたまたま。」
○江藤翁がいままで見た中で、一番のバッターは、大岡虎男氏だといつも話しているが、ピッチャーでは誰だったか。
江藤翁は別にして。と聞くと、
「大岡のトラチャンは、デマジオと同じで、自然体で何処にでも投げてよさそうだが、どこに投げても打たれた。
ピッチャーでは、そこまでの投手はだれだったか。」
5分程考えて、
「これだけ考えて出て来ないのは、いないのかも。戦前、八幡製鉄のピッチャー角地孫之助はいい投手だった。
若くして亡くなったと思う(ネットで見ると、戦死)。
巨人の藤本英雄投手もいいビッチャーだった。」 
藤本投手は球が速かったのかと聞くと、笑いながら
「投手が球が若い時分早いのは当たり前。
コントロールを磨くのがいい投手。
球は速いが暴投ばかりの投手でコントロールをつける努力をしない投手は、うまい投手にはなれない。
藤本投手はうまい投手だった」
○「私は性格はプロ野球の選手には向いていない。苦しんでいる人を見て、気の毒だと同情するような人は、プロ野球の世界では、長くやっていけない。
アマチュア野球では、私の性格でよい」
○昔の資料を見ていたらこんなものが出てきたと、昭和54年(今から30年前)の週刊ベースボール。江藤正翁の特集記事が4ペーシ出ていました。
借りてきたので、後日ご紹介。
タイトルは「力もあるが奇癖もある。日本プロ野球を騒がせた破天荒なサムライたちのロマンの数々」です。

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ワカメの料理(2009/3/8)

2009-03-08 21:20:10 | Weblog
田舎生活の好きな皆さんお元気ですか。
今日は、コーラル丸で釣りと思ったら、船長の川端さんより、「船のスパンカーの帆布が破れて、釣りは出来ん」と。
釣り具の手入れをしたり、本を読んだりで家の中でダラダラ。
夕方、船長が我が家に寄ってくれて、昨日採ったワカメ、今日まで船の生簀にいれていたのを、ビニール袋に一杯持ってきてくれる。
一部、ご近所におすそ分け、残りは湯がいて、クキの部分は、輪切りにして、三杯酢で、本体は酢味噌で夕食に用い、残りは、冷凍。
写真は、クキの輪切りと、ワカメの酢味噌あえ。
手前は、湯がいたワカメを適当に分けて、デパートなどで雨降りの時用意している細長ビニール袋に入れて、結び目で分けたもの。
この冷凍の方法は、川端船長に教えてもらったもの。
袋は、井筒屋近くのバッケージ材料専門店で買ったもの。
これを冷凍して、ひと固まりずつ、切り取り解凍していただく。
実においしい。
釣りに行けなかったガッカリも少し解消。
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