新型コロナウィルスで感染拡大を防ぐため、外出もままならない。
感染症の専門家のテレビでの解説を聞くことが多く、なるほど、これは、家にいて辛抱するしかないなと、納得の日々。
感染症、特効薬について、専門家の話をテレビで聞いていて思い出すのが、私が50年ほど前、3年間お世話になった学生寮の同志会。
同志会は今も続いている創立120年になる古いキリスト教系の学生寮で、坂井徳太郎という当時25歳の青年が、アメリカで苦学した際、暮らしたボストンのハーバード大学の学生寮と同じものを日本の青年にも経験させたいと、寄付もつのりながら、スタートさせたもの。キリスト教に関心があれば、宗派は問わない、カトリック・プロテスタント・無教会まで定員、18名の寮で、学生の自主運営。
私は、無教会キリスト教の内村鑑三、矢内原忠雄の本を読んだことがあり、惹かれるものがあり、また寮費が安く、学校が近いので、応募、運よく入れてもらったもの。
同志会には大きな組織、教会などの支援があるわけでなく、卒業生の何人かが、社会人になり、運営の指導をしており、私が入った時は、大正14年卒業の石館守三先生が理事長。この石館先生と、牧師さん2人が毎週金曜日の晩、同志会にお見えになり、夕食を取ったあと祈祷会と感話会で、感話会では、学生が近況やら、読んだ本やら、時事問題やら話をして、最後に3人の先生も話。時々、卒業した先輩も加わることも。
同志会には、あまり予備知識無くはいったが、石館先生は、東大薬学部の元教授で、当時は日本薬剤師会の会長と知った次第。毎週必ずお見えになり、ご本人やら、石館先生と年齢的に近い先輩の話から、薬学についての話をいろいろと聞くことが出来た。私は経済学部の学生で、自然科学は門外漢だが、それを点描。
〇生まれは、青森県の青森市で、実家は薬屋。中学生の時、お使いで、近所にあったらい病の隔離施設に薬を届けたことがあった。患者さんを見て、気の毒になり、なんとか力になれないものかと思った。
〇大学に入り、医学部薬学科。同志会に入り、内村鑑三の聖書研究会にも出るようになり、どう生きるべきか迷い、内村鑑三の自宅にお邪魔したことがあった。玄関口で言葉を交わしただけだったが、話し終わって奥に引き上げる内村鑑三の後ろ姿に、命がけでキリスト教伝道をしている人の気迫を感じ、今も鮮明。ある時、内村鑑三のいるところで、自然科学について仲間と論じていると、「君たち、らい病の直し方を発見してから、科学を論じたまえ」と内村から笑われたとか。(旧約聖書のレビ記には、らい病の症状と、とにかく、感染しないため、患者を隔離せよと、繰り返し論じている。1925年前後の内村から諭された時期も3000年前と同じ、らい病患者の隔離しか術はなかった)
〇大学を卒業してからは、大学の研究室に残り、薄暗い地下の研究室で、地味に研究を長く続けていた。パットしなかった。(年齢の近い、卒業生)
〇1945年の終戦末期(と思う)、アメリカでらい病の特効薬が発見されたとのニュースが出ているのに気が付き、この工業科研究を行い成功した。薬投与の結果、劇的に病状が改善し、らい病は不治の病ではなくなった。
中学生の時見た、らい病患者の力になりたいという気持ちと、内村からの一言が特効薬プロミンの日本での生産成功の原動力。
〇1947年から患者へのプロミン投与が始まったが、プロミンのニュースに、全国のらい病患者から厚生省に早く実用してくれるようにとの手紙が殺到。受け取った厚生省の役人は、らい病の感染を恐れて、ピンセットで開封していた。(当時を知る医者になった先輩からの話)
〇仕事は、これをやろうと意気込んでやってもうまくいかなことが多い。私心がはいるから。義務感で嫌々やると、私心が入らず、いい仕事ができることが多い。(これから社会に出る同志会の私たち青二才にアドバイス)
〇石館先生は、人の評価が公平で、下で働く人が働きやすい。(同志会の指導牧師の先生より)
〇石館先生がトップを務めた組織(国立衛生試験所?)で、研究のため、ラットを沢山殺しているので、その供養をしよう(神主か坊主に頼む)という話が持ち上がったが、石館先生は「我々も科学の真理究明のため、身命を犠牲に捧げているのだから、ラットの供養は必要ない」と却下(同志会で指導してくれていた牧師の先生から)
石館先生は、プロミンの他、ビタカンファその他、人命を救う薬を次々と開発、戦後まもなく、東大医学部の薬学科を薬学部に改組し初代薬学部長。私が同志会に入ったころは、年齢は多分72,3歳で薬剤師会会長、医薬分業を進めたりしておられた。(冒頭の写真は、このころの写真で、同志会70年史に掲載されたもの) 私が1973年に大学を出て、社会人になった後は、笹川良一の財団と協同して、低開発国のらい病患者の治療にあたっておられ、大きな成果を上げているとお聞きしている。1901年に生まれ、1996年95歳で永眠。
先日、ネットで、らい病とプロミンを検索してみると、人類の歴史が始まって以来、戦前まで不治の病と言われた結核とらい病の菌は、よく似ており、結核に開発された薬は、全てらい病にも効くのではとテストしていたらしい。プロミンも元々は結核の治療薬として1943年、第二次世界大戦のさ中、アメリカで開発され、らい病に劇的に聞くと分かったとのこと。石館先生は、その化学合成に戦後まもなく成功したと紹介されている。現在の新型コロナウィルスも、類似のエボラ出血熱や新型インフルエンザの薬が効かないか、研究がおこなわれているそうで、状況はよく似ている。
名声と富を得ても、おごることなく、淡々と勤めを果たしてきた石館先生は、立派だが、私が一番尊敬するのは、大学卒業後、地下の大学研究室で、地味な研究を周りからパットしないなと思われても、黙々と続けた生き方で、これはマネすることが出来る。
(石館守三氏が子供の時、薬を届けた青森の療養所・松岡保養園の機関報(甲田の裾)に石館守三先生のプロミン工業化のいきさつを詳しく記述。入所者の滝田十和田氏の記事で、私が同志会で聞いた、「らい病の患者さんを見て、気の毒でどうにか力になりたいと、思った。それで東大の医学部で薬学の研究を始めた」といった話をする石館先生の様子が思い出され、話の背景も、よく分かりました。以上 2023/4/4追記)
感染症の専門家のテレビでの解説を聞くことが多く、なるほど、これは、家にいて辛抱するしかないなと、納得の日々。
感染症、特効薬について、専門家の話をテレビで聞いていて思い出すのが、私が50年ほど前、3年間お世話になった学生寮の同志会。
同志会は今も続いている創立120年になる古いキリスト教系の学生寮で、坂井徳太郎という当時25歳の青年が、アメリカで苦学した際、暮らしたボストンのハーバード大学の学生寮と同じものを日本の青年にも経験させたいと、寄付もつのりながら、スタートさせたもの。キリスト教に関心があれば、宗派は問わない、カトリック・プロテスタント・無教会まで定員、18名の寮で、学生の自主運営。
私は、無教会キリスト教の内村鑑三、矢内原忠雄の本を読んだことがあり、惹かれるものがあり、また寮費が安く、学校が近いので、応募、運よく入れてもらったもの。
同志会には大きな組織、教会などの支援があるわけでなく、卒業生の何人かが、社会人になり、運営の指導をしており、私が入った時は、大正14年卒業の石館守三先生が理事長。この石館先生と、牧師さん2人が毎週金曜日の晩、同志会にお見えになり、夕食を取ったあと祈祷会と感話会で、感話会では、学生が近況やら、読んだ本やら、時事問題やら話をして、最後に3人の先生も話。時々、卒業した先輩も加わることも。
同志会には、あまり予備知識無くはいったが、石館先生は、東大薬学部の元教授で、当時は日本薬剤師会の会長と知った次第。毎週必ずお見えになり、ご本人やら、石館先生と年齢的に近い先輩の話から、薬学についての話をいろいろと聞くことが出来た。私は経済学部の学生で、自然科学は門外漢だが、それを点描。
〇生まれは、青森県の青森市で、実家は薬屋。中学生の時、お使いで、近所にあったらい病の隔離施設に薬を届けたことがあった。患者さんを見て、気の毒になり、なんとか力になれないものかと思った。
〇大学に入り、医学部薬学科。同志会に入り、内村鑑三の聖書研究会にも出るようになり、どう生きるべきか迷い、内村鑑三の自宅にお邪魔したことがあった。玄関口で言葉を交わしただけだったが、話し終わって奥に引き上げる内村鑑三の後ろ姿に、命がけでキリスト教伝道をしている人の気迫を感じ、今も鮮明。ある時、内村鑑三のいるところで、自然科学について仲間と論じていると、「君たち、らい病の直し方を発見してから、科学を論じたまえ」と内村から笑われたとか。(旧約聖書のレビ記には、らい病の症状と、とにかく、感染しないため、患者を隔離せよと、繰り返し論じている。1925年前後の内村から諭された時期も3000年前と同じ、らい病患者の隔離しか術はなかった)
〇大学を卒業してからは、大学の研究室に残り、薄暗い地下の研究室で、地味に研究を長く続けていた。パットしなかった。(年齢の近い、卒業生)
〇1945年の終戦末期(と思う)、アメリカでらい病の特効薬が発見されたとのニュースが出ているのに気が付き、この工業科研究を行い成功した。薬投与の結果、劇的に病状が改善し、らい病は不治の病ではなくなった。
中学生の時見た、らい病患者の力になりたいという気持ちと、内村からの一言が特効薬プロミンの日本での生産成功の原動力。
〇1947年から患者へのプロミン投与が始まったが、プロミンのニュースに、全国のらい病患者から厚生省に早く実用してくれるようにとの手紙が殺到。受け取った厚生省の役人は、らい病の感染を恐れて、ピンセットで開封していた。(当時を知る医者になった先輩からの話)
〇仕事は、これをやろうと意気込んでやってもうまくいかなことが多い。私心がはいるから。義務感で嫌々やると、私心が入らず、いい仕事ができることが多い。(これから社会に出る同志会の私たち青二才にアドバイス)
〇石館先生は、人の評価が公平で、下で働く人が働きやすい。(同志会の指導牧師の先生より)
〇石館先生がトップを務めた組織(国立衛生試験所?)で、研究のため、ラットを沢山殺しているので、その供養をしよう(神主か坊主に頼む)という話が持ち上がったが、石館先生は「我々も科学の真理究明のため、身命を犠牲に捧げているのだから、ラットの供養は必要ない」と却下(同志会で指導してくれていた牧師の先生から)
石館先生は、プロミンの他、ビタカンファその他、人命を救う薬を次々と開発、戦後まもなく、東大医学部の薬学科を薬学部に改組し初代薬学部長。私が同志会に入ったころは、年齢は多分72,3歳で薬剤師会会長、医薬分業を進めたりしておられた。(冒頭の写真は、このころの写真で、同志会70年史に掲載されたもの) 私が1973年に大学を出て、社会人になった後は、笹川良一の財団と協同して、低開発国のらい病患者の治療にあたっておられ、大きな成果を上げているとお聞きしている。1901年に生まれ、1996年95歳で永眠。
先日、ネットで、らい病とプロミンを検索してみると、人類の歴史が始まって以来、戦前まで不治の病と言われた結核とらい病の菌は、よく似ており、結核に開発された薬は、全てらい病にも効くのではとテストしていたらしい。プロミンも元々は結核の治療薬として1943年、第二次世界大戦のさ中、アメリカで開発され、らい病に劇的に聞くと分かったとのこと。石館先生は、その化学合成に戦後まもなく成功したと紹介されている。現在の新型コロナウィルスも、類似のエボラ出血熱や新型インフルエンザの薬が効かないか、研究がおこなわれているそうで、状況はよく似ている。
名声と富を得ても、おごることなく、淡々と勤めを果たしてきた石館先生は、立派だが、私が一番尊敬するのは、大学卒業後、地下の大学研究室で、地味な研究を周りからパットしないなと思われても、黙々と続けた生き方で、これはマネすることが出来る。
(石館守三氏が子供の時、薬を届けた青森の療養所・松岡保養園の機関報(甲田の裾)に石館守三先生のプロミン工業化のいきさつを詳しく記述。入所者の滝田十和田氏の記事で、私が同志会で聞いた、「らい病の患者さんを見て、気の毒でどうにか力になりたいと、思った。それで東大の医学部で薬学の研究を始めた」といった話をする石館先生の様子が思い出され、話の背景も、よく分かりました。以上 2023/4/4追記)
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