田舎生活実践屋

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斎藤茂吉のスペイン風邪罹患の随筆(2023/10/6)

2023-10-06 16:17:57 | 新型コロナウイルスの頃
40年近く前に買って、読まずにそのまま本箱に飾ってあった「斎藤茂吉選集」を最近、農園への往きの電車の待ち時間に読んでいる。
茂吉の随筆に、1918年から3年間猛威を振るった、スペイン風邪に罹患した時のものがあり、今の新型コロナの災難をようやく終えつつあるこの時期に比べ、昔はもっと酷かったと知ったことでした。
その記録が、下。
大正九年の一月半ばごろであった。長崎にいて重い流行性感冒に罹り、ひどく苦しんだ。けれども、幸いに七十日ばかりで大体癒えた。
 そのころの流行はなかなか猛烈で、同僚の一人の教授は、私と同じころに発熱し、これも幸いに一時癒えたが、中耳炎より乳嘴突起炎(にゅうしとっきえん)を併発し、それから脳膜炎になってついに死んだ。その間に私のいた学校の校長の如きは、発病して七日も経たぬのに死んでしまった。
・・・しかし六月になってから、私にも余病が起こって、私の喉から血が出てきた。毎朝出る僅かばかりの血痰がなかなか止まない。そこで県立長崎病院に入院してそこに二週間ばかりいた。・・・それから、退院をして、東中町の小さい借家で寝ていた。内科の助手がひとり隔日ぐらいに来て、私の静脈の中にカルシウム剤などをさしてくれた。・・・そのうち東京の島木赤人が遥々見まいに来てくれた。そこで連れだって雲仙岳に転地した。7月26日に登山し、次の日赤彦は下山した。私は温泉嶽の温泉地に8月14日までいたが、血痰の出るのが、それでも止まらなかった。・・・私の血痰はそれでも止まらなかった。私は人と談話するのが悪いのかも知れんと思って、それ以来、無言で暮らすように、女中とも来客ともすべて筆談で用を済ますことにした。煙草を飲むこともその頃から廃した。・・・8月30日に長崎を立って、肥前の国唐津海岸に行った。雲仙岳に行っても好くなかったので、海岸に行ってみようと思ったのである。・・・唐津海岸は潮風の強いところである。それに血痰もいまだ止まらぬので、思い切って此処を去ることにした。・・・9月11日に唐津海岸を立った。それからT君に長崎に帰ってもらい、私一人になって、佐賀県小城郡古湯というところに行った。ここは川上川の上流にある、極くぬるい湯の湧く浴場で、・・。私は10月4日まで古湯に居た。そしてその間に私の血痰は止まった。・・」

 斎藤茂吉がスペイン風邪に苦しんだ大正9年は、1920年で、1918年の第一次大戦のヨーロッパの戦場で、スペイン風邪が大流行し、世界に広まった3年目。茂吉は東大の医学部を卒業し、長崎医学専門学校(長崎大学医学部の前身)の教授として、4年間過ごした時の経験談。スペイン風邪に苦しんだのは、茂吉が38歳の時。随筆そのものは、「虫類の記」(冒頭)というタイトルで、病にあちこち転地療法を試みているとき、クモが蛾を餌食にし、そのクモを黒い蜂(多分ベッコウバチ)が襲って埋めて(蜂の幼虫の餌にする)、その黒い蜂をカマキリが食い、そのカマキリを沢蟹が食っていたという、観察の随筆。

 今回のコロナの流行では、幸い、ワクチンが開発され、推計では、このワクチンのお蔭で、2000万人が命を救われたとのこと。スペイン風邪の時は、ワクチンは存在せず、茂吉の随筆にあるように、専門家の医者もバタバタと死んでいった状況が分かる。後遺症も長く続き、茂吉は温泉治療を試みて、古湯でやっと収まったとある。これらの温泉や唐津の浜辺は全て北部九州にあり、私も入浴しているが、この随筆を読むと、古湯温泉が、病を癒すには一番いいのかもと思ったことでした。血痰が収まった一番の原因は、タバコを止めたからではないかと思う。煙草の害は、当時は今ほど明らかではなかった。
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