不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

ジェノサイド、二階と林が反対!、中国を非難できない国会の不思議

2021-06-26 05:14:54 | 政治

 

プロフィール画像

NO!残紙キャンペーンサイト

⇒最初にクリックお願いします

政治月旦】中国を非難できない国会の不思議

配信

産経新聞
<picture><source srcset="https://news-pctr.c.yimg.jp/uUzvQ3lML_bkIqyakc1vFhcD1LjPo8yt_iUb5dR3d8r5m8rSD2r1Nf-NxZJIuHs6L5bUiFx3UVXKmhB1HrhFvIHnNM4PDJtnivlAu53wERr-0FZ1um-7KXEmEtvTHiEeAisCMqYBs7DzmlQFQQaKIk4kO0afGu3kzRuxb9fg1ebB2_ue5K0uX527jptVA66I1Mhpg78Rb_jy0WBBMHT-HsZNWtFjKUNZmQ5JeTdbaDY=" type="image/webp" /><source srcset="https://news-pctr.c.yimg.jp/uUzvQ3lML_bkIqyakc1vFhcD1LjPo8yt_iUb5dR3d8r5m8rSD2r1Nf-NxZJIuHs6L5bUiFx3UVXKmhB1HrhFvIHnNM4PDJtnivlAu53wERr-0FZ1um-7KXEmEtvTHiEeAisCMqYBs7DzmlQFQQaKIk4kO0afGu3kzRuxb9fg1ebB2_ue5K0uX527jptVA66Idl3PpGZPf9fyX9AtqSvSgEC3YOF18ga0YQWIMtMkXiE=" type="image/jpeg" /></picture>

13の民族団体でつくるインド太平洋人権問題連絡協議会主催の《ミャンマー問題を非難する国会決議の成立を歓迎すると共に、「中国における人権問題を非難する国会決議」の今国会における成立を求める共同記者会見》で登壇した民族団体のメンバー。(左から)同協議会の石井英俊事務局長、在日チベットコミュニティーのテンジン・クンガ氏、日本ウイグル協会理事のグリスタン・エズズ氏、世界モンゴル連盟のチメド・ジャルガル氏、 香港の民主活動家のウィリアム・リー氏。

2021年6月14日、中国によるウイグル自治区や香港などへの人権侵害に対して、自民党の下村博文政調会長、古屋圭司元国家公安委員長、高市早苗元総務相、長尾敬衆院議員らが、二階俊博と林、森山裕国対委員長をそれぞれ訪ね、対中非難決議文の国会提出承認を求めた。

だが、二階俊博が承認のサインをしようとペンを手に取ろうとした際、林幹雄が「ちょっと待ってください」と制止したことで今国会での採決が見送られたとされる。

 

二階の懐刀林幹雄⇒二階の腰ぎんちゃく


2021年6月15日に門田隆将は、代表的な"媚中三人組"として林幹雄、二階俊博、森山裕の3名を挙げている。

 

【追記】

⇒最後にクリックお願いします

 

コメント (10)

尖閣周辺に中国船3隻 132日連続、仲間均市議、尖閣周辺の「漁」ライブ中継企画

2021-06-26 04:36:58 | 外交・安全保障

プロフィール画像

NO!残紙キャンペーンサイト

⇒最初にクリックお願いします

尖閣周辺の「漁」ライブ中継企画 石垣市・仲間均市議「海の豊かさと、中国船の暴挙伝える」 クラファンに2600人以上の応援コメント

配信

 
夕刊フジ
<

尖閣諸島周辺での漁のライブ中継を準備している仲間市議

 

  • pas*****

     | 

    日本国尖閣海域の豊かさをライブで伝えるついでに、中国の横取り暴挙も配信するとは素晴らしいことを考えましたね。自然破壊が国際問題の一つに取り上げられる昨今ですが、日本に自然豊かな海域があることを世界に配信することはとても良いことと思います。
    同時に中国の領海侵犯もライブ配信できるので一石二鳥ですね。

  • ber*****

     | 

    これは本来、国がやるべきことだ。

    偶然この活動を知り134人目の支援者となったがあっという間に応援者が増えた。
    5千円~1万円の応援が多いが、100万円の支援者もいるという。
    もう一度言う。本来は国がやるべき事だ。

  • sk******

     | 

    やはり、海上保安庁を公明党が大臣ポストを握る国交省傘下に置くと、我が国の領土領海もロクに守れない。政府は公明党との連立を早期解消するか、海上保安庁を国交省から引き剥して法務省など別の省庁傘下に再編すべきである。

     

    尖閣周辺に中国船3隻 132日連続

    配信

     

     

    八重山日報

 

コメント (3)

新(6)貶められた旧日本兵、座間味村の援護宮村幸延が 詫び状/梅澤氏に「詫び状」で謝罪

2021-06-25 10:38:46 | ★改定版集団自決

プロフィール画像

NO!残紙キャンペーンサイト

⇒最初にクリックお願いします

■世界日報 2013年7月14日掲載

【連載】貶められた旧日本兵-「援護法」に隠された沖縄戦の真実 (6)

座間味村援護係が「詫び状」/「隊長命令」申請を謝罪

 沖縄戦における座間味村の民間人の犠牲者は358人で、そのうち少なくとも3百人が集団自決したとされている。


 座間味村の遺族会長であり,当時の援護係として「座間味戦記」を取りまとめた宮村幸延(戦後、宮里より改姓)という人物がいる。座間味島の守備隊長を務めた梅澤裕氏らが作家の大江健三郎氏と岩波裁判を相手取った「大江・岩波集団自決訴訟」では被告側に立って証言した人物だ。


 終戦を福岡で迎えた幸延氏は、故郷の座間味村に帰ると、長男の盛秀を含む男兄弟4人のうち3人が戦死したことを知る。しかも、助役を務め兵事主任を兼任していた盛秀は集団自決を先導した張本人と噂されていた宮城晴美著「母の遺したもの」(高文研)によると、宮里助役は梅澤隊長に自決用の爆薬を求めた村の有力者の一人。村役場に常備されていた銃と銃弾帯を常に携帯し、16歳以上の若者で組織された民間防衛隊の隊長を務め、軍人より軍人らしい民間人といわれていたという。


 座間味村役所の援護係となった幸延氏は、補償申請の書類を遺族に代わって書き、厚生省援護局へ郵送した。ところが、書類が全部送り返されてきた。
 

業を煮やした幸延氏は、厚生省との直談判のため何度も上京をした。その結果、0歳児を含め6歳未満も、昭和38年以降、準軍属として確定する。こうした努力について、座間味村役所は昭和41年功労者としてとして表彰している。
 

昭和56年、幸延氏は座間味村の慰霊祭の日、梅澤氏と鉢合わせた。援護金申請書に「隊長命令による自決」と記入し、多額の給付金受給の手続きをした張本人が、梅澤隊長の姿を見て動揺したことは想像に難くない


 その当時、梅澤氏は、マスコミにより「慶良間島で住民に自決命令を出した残虐非道の隊長」との汚名を着せられ、家族崩壊の危機にあったと伝えられている。「せめて家族にだけも汚名を晴らしたい」と考えた梅澤氏は、援護法の真実を記した「詫び状」を幸延氏に要求した。梅沢氏の許可なく「隊長命令による」 と書いた贖罪意識にさいなまされた幸延は、言われた通り自筆押印の「詫び状」を昭和62年3月28日付で書いて梅澤氏に手渡した。


 この「詫び状」が後になって「大江・岩波集団自決訴訟」の原告側の証拠資料として提出された。


 通常、民事裁判で争われる事例では、契約の「有効」か「無効」かを争う場合が多い。本人が自筆押印した書類があれば、絶対的な証拠となる。
 「詫び状」が援護金の受給申請業務に影響を与えることを恐れた幸延氏は、当初「梅澤氏が勝手に書いた偽物」などと強弁したが、筆跡鑑定で本人の自筆と鑑定された。


 しかし、大阪地裁は平成20年(2008年)、「梅澤氏に無理やり泥酔させられて書いたため記憶がない」という幸延氏の弁解を受け入れて「詫び状」の有効性を否定した。裁判官がこのような判断を下した理由の一つは、ノーベル賞受賞を最高のブランドとする日本の裁判官の「ノーベル賞作家への配慮」にあると現代史家の秦郁彦氏は指摘している。


詫び状



■宮村が「侘び状」を書いた理由■

元座間味村遺族会会長宮村幸延氏は、座間味島の自分が経営するペンションに訪ねてきた梅澤元戦隊長に「軍命を出した」と濡れ衣を着せたことを謝罪し、自筆捺印の「詫び状」を梅澤氏に書いた。

座間味村役所の援護担当の宮村氏は、『鉄の暴風』に死亡したと記述されていることを良いことに、梅澤氏の署名捺印を偽造して厚生省に「命令書付き申請書」を提出していた。

そして、宮村氏は、死んだはずの梅澤さんが目前に現れ生きていると知って驚天動地の心境に陥った。

何しろ、梅澤氏の署名捺印を偽造していたのだから、「公金横領」、少なくとも公文書偽造の個人責任はまぬかれない。

梅澤氏に対する「侘び状」は、そんな宮村氏の個人的な後ろめたさも加わって書いたのだろう。

ところが、宮村氏はその後突然、「梅沢氏に無理やり泥酔させられて書いた」として前言を翻す。

その態度豹変の裏には沖縄タイムスの強力な圧力があった。

■「侘び状」による沖縄タイムスの衝撃■

それには、その後の梅沢さんの行動から、宮村氏の心の動きは容易に推定できる。

その時点(1987年)で、沖縄タイムは『鉄の暴風』の「梅澤死亡」の誤記を、口止め料を富村順一氏に払った上、人知れず削除している(1980年版から削除)。

ところが、梅澤さんが沖縄タイムスを訪問し、「侮辱的誤記」に関し謝罪を求めたため、事態は思わぬ方向へ進展していく。

梅澤さんは昭和63年(1988年)11月1日、沖縄タイムスで対応した新川明氏に「誤記」の謝罪を求め、宮村幸延氏の「侘び状」を見せる。

「軍命派」の総本山の沖縄タイムスは、梅澤さんの「誤記」に対する謝罪要求に動揺はした。

だがが、謝罪はともかく、軍命を否定した「侘び状」をそのまま是として受け入れるわけにはいかなかった。

沖縄タイムスがこれまでまき散らした「軍命による集団自決」というタイムス史観が根底から覆るからだ。

詫び状は沖縄タイムス史観の瓦解

沖縄タイムスは次のように考えた。

富村氏の恐喝による口止め料支払いは、万が一露見してもあくまで「誤記」という些細な問題である。 

だが梅澤氏の示した「詫び状」を沖縄タイムスが認めて、梅澤氏に謝罪文を書いたとしたら、戦後40年近く主張してきた『鉄の暴風』の歴史観が完全に覆ってしまう。

そうなれば沖縄タイムスの屋台骨を揺るがしかねない重大事件になる。

そこで、タイムスは時間稼ぎのため次回の面談を約束し、座間味村当局に「侘び状」の件と村当局の「軍命の有無」についての公式見解を問いただす。

驚いたのは座間味村当局。 

宮村幸延氏の「侘び状」をそのまま認めたら、村ぐるみで「公文書偽造」をして「公金横領」したことを公的に認めたことになる。

そこで苦渋の結果考え出した結果はこうだった。

最初は「侘び状は偽物」と主張したが、本人の筆跡だと分かると急遽「泥酔させられて書いた。記憶がない」という苦し紛れの弁解を考え付く。

沖縄タイムスの問い合わせが同年の11月3日なのに、座間味村の回答が半月も遅れた理由は「侘び状」の言い訳を考えるため、宮村氏と座間味村長宮里正太郎氏が四苦八苦したことが推測できる。

結局、同月18日付けの宮里村長の回答は「村当局が座間味島の集団自決は軍命令としている」と主張、沖縄タイムス史観を踏襲したので、沖縄タイムスの新川明氏を安堵させることになる。

約10年前、富村順一氏に梅澤死亡の記事で恐喝された沖縄タイムスにとって、宮村氏の「侘び状」を座間味村当局が認めてしまったら、『鉄の暴風』の最重要テーマの「軍命説」が一気に崩壊してしまう絶体絶命の危機であった。

そこで、「公金横領」や「公文書偽造」で村の弱みを握る沖縄タイムスが座間味村当局に強い圧力を加えた。

沖縄タイムスは社運をかけて宮村氏自筆の「侘び状」を無効化させるため、座間味村と宮村氏個人に圧力を加え、最終的には運命共同体として共同戦線を張ったのだ。

「泥酔して書かされた侘び状は無効だ」という口実で。

■梅澤さんの心境

「集団自決を命じた男」として濡れ衣を着せられていた梅澤さんは、次の二つの理由で「汚名返上」と心の余裕があり、「梅澤軍命説」の元凶沖縄タイムスに対しても寛大であった。

①梅澤さんは、その頃既に宮城初枝氏の「梅澤さんは命令していない」という証言を得ている。

②宮村氏の「侘び状」まで得た。

梅澤さんの寛大な心境は、座間味村や宮村氏を苦しい立場に追い込むことは避けたい様子が、タイムス訪問時の次の発言から垣間見ることが出来る。(梅澤さんの生前、実際本人に確認済)

座間味の見解を撤回させられたら、それについてですね、タイムスのほうもまた検討するとおっしゃるが、わたしはそんなことはしません。あの人たちが、今、非常に心配だと思うが、村長さん、宮村幸延さん、立派な人ですよ。それから宮城初枝さん、私を救出してくれたわけですよ、結局ね。ですから、もう私は、この問題に関して一切やめます。もうタイムスとの間に、何のわだかまりも作りたくない。以上です。」(梅澤氏の沖縄タイムスでの発言)

その時、梅澤氏は後年宮城初枝氏の実の娘晴美氏が母の遺言を否定したり、「侘び状」を書いた宮村氏が前言を翻すなどとは夢想もしていない。

したがって、このような余裕の発言をして、村当局や宮村氏を窮地に追い込むくらいなら、沖縄タイムスとの謝罪交渉を打ち切っても良いといったニュアンスの発言をしている。

事実その後交渉は打ち切られている。

■厚生省の担当者に沖縄出身者を配属■

当時の厚生省は、校長など地域のリーダーがほとんど無条件に署名した現認証明書をそのまま受け付けるという極めて大雑把な審査をしていた。

政府側は今から考えると違法性を問われかねない措置をしていたが、何とか沖縄側の申請に対応しやすいように、東京側の厚生省担当者にわざわざ沖縄出身者を配属して、出来るだけ援護法の適用の拡大を計った。

その当時東京側の厚生省担当に配属された沖縄出身者の証言が沖縄タイムスの2005年3月5日付朝刊に掲載されている。

< 沖縄戦の住民犠牲者が、援護法の対象となる「戦闘参加者」として、「該当」するか否か。最終的に決定したのは厚生省だ。その決定に携わっていたのが、沖縄県出身の祝嶺和子さん(77)=静岡県=だ。

 一九八九年に厚生省を退職するまで、中国残留孤児問題を含めて、援護畑一筋に働いた。

 沖縄戦当時、女子師範本科に在学していた。四五年三月、女師、一高女の学生が、看護隊として出陣する集合に、空襲に遭い、祝嶺さんは間に合わなかった。

 大勢の同級生や後輩が「ひめゆり学徒」として、亡くなった。戦後、そのことは「ずっと、頭を離れることはなかった」という。

 多くの友人を亡くし、生き残った元特攻隊員の祝嶺正献さん(故人)と結婚。沖縄から密航で日本本土へ渡った後、五四年、厚生省に入省した。

 沖縄出身ということで「『沖縄のことをこれからやるからね、援護局につくられた沖縄班に来なさい』と上司に言われ、決まっていた配属先から異動させられた」。

 前年から、米軍統治下の沖縄でも、軍人軍属に対して、日本の援護法適用が始まっていた。祝嶺さんの異動は、援護法の適用拡大に向けた動きだったようだ

 「援護では最初に、軍人軍属の、その次に沖縄では学徒たちも戦ったらしいな、ということで、私が引っ張られたのだと思う」

 当時、沖縄班の人員は七、八人。祝嶺さん以外に、もう一人県出身で、後に国民年金課長を務めた比嘉新英さん(故人)がいた。

 沖縄の市町村が受け付け、琉球政府を経由して、厚生省に送られる援護の申請資料。防衛隊など軍人軍属への申請書類に目を通していた同僚が、祝嶺さんに、尋ねた。

 「普通のおじさんやおばさんも、軍のために働いたのか」

 沖縄戦では、一般住民が、武器らしい武器もなく、米軍への切り込みを命じられ、日本軍のために弾薬を運び、「集団自決」を強いられた。・・・ (社会部・謝花直美) >

                    ◇

「集団自決」は戦時中の特殊な状況の下で行われた事件であり、金城重明氏の例のように、たとえ他人の「自決」に手をかして、本人が生き残ったとしても現在の価値観や法律でこれを裁くことは出来ない。

同じように、実際には存在しない軍の命令を政府指導で捏造し、「援護金」と言う形の公金を横領したことも現在の価値観や法律で断罪できない。

しかも、これらの「犯罪」を事実上指導・誘導した当時の厚生省、そして現在の厚労省が先輩の行った「過誤」を認めるはずはない。

勿論「捏造命令書付き申請書」の存在を認めるはずはない。

したがって厚生省に代わって当日記が厚生省の「捏造命令書付き申請書」の存在を暴いているのが当シリーズ「貶められた旧日本兵」である。

⇒最後にクリックお願いします

コメント

沖縄タイムスよ、恥を知れ!沖縄戦で住民を虐殺した日本軍を自衛隊が顕彰

2021-06-25 07:50:31 | 外交・安全保障

プロフィール画像

NO!残紙キャンペーンサイト

⇒最初にクリックお願いします

 

きょうの沖縄タイムスは一昨日の慰霊の日の大発狂からまだ

覚醒していない。

自分が捏造した「残酷非道な日本軍」というウソを押し通すため狂い続けている。

沖縄タイムスが拡散した「沖縄戦で住民を虐殺した日本軍」という捏造報道を押し通すためには、永久のこのような自衛隊憎悪の報道を続けるだろう。

それにしても沖タイの常識と全国民の常識が年々かけ離れていく。

これでは読者が減るのも無理はない。

沖縄タイムス紙面掲載記事

陸自 黎明之塔を参拝 陸幕が「熟慮」求める中 旅団長「私的」を強調

2021年6月25日 05:00有料

 沖縄の陸上自衛隊トップ、佐藤真第15旅団長ら幹部3人が23日午前5時前、日本軍の牛島満司令官らを祭る糸満市摩文仁の黎明(れいめい)之塔を集団参拝した。陸自中枢の陸上幕僚監部(陸幕)が昨年以降、15旅団に対して「地域の住民感情に十分配慮し、今後はより熟慮の上で対応するように」と継続的に注意していたことも判明。その後初めて迎えた慰霊の日も、集団参拝を続けた。

 沖縄戦で住民を虐殺した日本軍を自衛隊が顕彰することへの批判、批判を受けても参拝を止められない理由について本紙が質問したが、佐藤旅団長は「私的参拝だ」と説明を避けた。

 牛島司令官は午前4時半に自決したとされ、ほぼ同じ時間に参拝した。昨年は約30人が集まったのに対し、今年制服で訪れたのは旅団司令部総務課長、最先任上級曹長を合わせた3人だった。

 参拝規模が小さくなったことについて、佐藤旅団長は「(新型コロナウイルス)緊急事態宣言下でそれぞれが考慮して行動したと思う。指示はしていない」と語った。他に私服姿の幹部らが同行し、メディアの取材を規制した。

 佐藤旅団長らはしづたまの碑、島守の塔も参拝した。「沖縄戦で亡くなられた全ての方にご冥福を祈るために来た」と述べたが、全ての犠牲者を祭る国立沖縄戦没者墓苑は通り過ぎてしまい、引き返さなかった。

 陸幕の指導は、立憲民主党の小西洋之参院議員が集団参拝の問題点を指摘したことを受けて昨年8月などに実施された。小西氏は「国民を守る自衛隊が住民に犠牲を強いた日本軍を参拝すれば誤解を受ける。指導を受けたのにまた参拝したのは残念だ」と語った。県平和委員会も抗議文を郵送した。

 15旅団は集団参拝続行が「住民感情に十分配慮した対応」に当たるかどうかを尋ねる本紙の取材に「私的参拝であり答えられない」と述べた。

(写図説明)黎明之塔に献花する陸自第15旅団の佐藤真旅団長=23日午前4時51分、糸満市摩文仁

コメント (5)

英露戦争の危機!クリミヤ半島、露側「進路変えなければ砲撃」

2021-06-25 05:33:27 | 外交・安全保障

プロフィール画像

NO!残紙キャンペーンサイト

⇒最初にクリックお願いします

露側「進路変えなければ砲撃」英で映像放送

中国に尖閣を領海侵犯され、韓国に竹島不法占拠されても遺憾砲しか放てない日本政府とは訳が違う。

Nippon News Network(NNN)

露側「進路変えなければ砲撃」英で映像放送

配信

             ★

  • 8

     | 

    ロシアの警告射撃をイギリスが認めないのは「それを認めてしまうとロシア領だと道めることになる」からって理由だって知って、なるほどなと思った。
    これはロシアとしても仮に実際にイギリス艦を攻撃してしまうと、即戦争になることはないまでも国際的に更に孤立して経済が冷え込むからそれもしずらい。
    仮に本格的にクリミアを巡って局地的な紛争になれば、ロシアが手を引く事は考えずらいから、いずれ第三次世界大戦の引き金になる可能性もあるような気はする。
    第三次世界大戦は結局最終的には核兵器の撃ち合いになる可能性も十分あるし、そうなれば人類が経験したことのない未曽有の世界的被害になるんじゃないかなと。

  • ntz*****

     | 

    ロシアと中共は強気だからね、大戦時の戦勝国として存在し、西側で何か纏めようとすると国連でもいつも拒否権を行使しするしね…

    国連やWHOも中共に買収されているし、ロシアと中国を外し何か異なる新たな団体を早急に作った方が良い。

    ロシアも中国も覇権主義だしね、領土領海領空を広げる事ばかり考えている…

    やはり経済制裁をもう少し強めに行った方がいい。

  • syo*****

     | 

    BiG-25っぽいかな。

    クリミア半島はウクライナ紛争の係争地。
    イギリスとしては射撃されたことを否定するより「ウクライナ領域で活動中に不当に射撃された」というべきなのでは?

  • eco*****

     | 

    ミサイル数発駆逐艦に打ち込んでも沈みはしないよ。その際に駆逐艦の攻撃機能が生きていればミサイル打ちこんだ戦闘機たちは海に沈むことになる。その損失と国際社会からの猛烈な避難を考えれば挑発しか出来ないだろうと思うけど。

  • lmm*****

     | 

    ロシアの内情、新規ビジネスゼロ、
    夢ゼロ、あれだけデカイ大陸で資源もお金もないから、ちょっと威嚇しますから、
    お金ください、戦争するより全然安いでしょ作戦。
    中国と、同盟アピールし、貿易強化して、
    外交から稼がないといけない。

    それなら、開発ビジネスを強化すればいいが、
    偏差値の問題に行き着く。

  • ずるい狐

     | 

    軍隊は
     いかなる時も「記録係り」が必要。ドライブレコーダーの様な物。
     第二次世界大戦当時から採用されていた。

  •  | 

    これが現実の世界。

    我国の様に
    平和を望み 領海侵犯されても
    政治家が遺憾砲打つだけ。口を少し動かすだけでは。
    外国に守って狙っているから
    国の形が保たれているだけ。

    我国は何時まで弱い振りを続けるのか?

    平和は力と力の均衡でのみ保たれる。
    それが世界の常識。

⇒最後にクリックお願いします

コメント (3)

沖縄のデニー知事、土地規制法の運用に懸念示す

2021-06-25 02:13:53 | 外交・安全保障

プロフィール画像

NO!残紙キャンペーンサイト

⇒最初にクリックお願いします

 

土地規制法で困るのは中国様と工作員だけ。

デニー知事はこの事実を知っているのか。

もっとも中国の一帯一路に沖縄を利用してくれというほど能テンキな男。

売国奴の沖縄弁護士会の「プライバシー権や思想良心の自由など基本的人権が侵害されるおそれがある」という意見を忖度したのだろう。

そうそう、もう一つの売国奴を忘れていた。

土地規制法に猛反対している工作員集団沖縄タイムス。

デニーは中国様のみならず売国奴の操り人形。

一刻も早く引退して欲しい。

「国の動向を注視したい」 沖縄のデニー知事、土地規制法の運用に懸念示す

配信

沖縄タイムス
  • l43*****

     | 

    外資が土地を買うときに報告させるだけなのに、プライバシー権や思想良心の自由が侵されるってどういうことよ?
    日本の防衛機密を盗み出そうとする思想ってこと?

  • sak*****

     | 

    何に対する懸念なのかがさっぱりわからない。外国に対して国土を守るのは当然のこと。媚中の日本人にも規制したい。

  • ayn*****

     | 

    法の適用は厳格に運用されるものであり、地域、その他の諸事情により手心が加えられるものであってはならないものであると承知致しております。

    知事、一国民からの回答ですが、ご納得頂けましたでしょうか。

  • ygh*****

     | 

    土地規制の厳格化は今を生きてる方に
    限らず50年100年150年先の
    未来の子達に必要な法案
    共産党政権は子孫の為には日本の土地を
    買い上げて海を荒らし移住しようとしている
    日本の国土も周りの海も日本の文化
    中国が共産主義を変えないかぎり
    アメリカとの基地や日本の防御力は
    代えるべきでない
    中国は共産主義のため
    いつでも法律を変えてくる
    コロナで苦しむ日本は、実感したではないか
    まだ、共産主義国に
    媚をうりたいのかこの知事は

  • Gh******

     | 

    コロナ対応もグタグタなのに基地となればどや顔するのやめてくれ 基地より今はコロナ対応だろ 県民の事より自分の再選とオール沖縄への忖度しかない

  • rrn*****

     | 

    県民として見て、土地規制法に関して沖縄だけ異様に騒いでいるように思うと同時に、今の沖縄にはそれだけ不穏な輩が多くいるのだなと思う。
    県内メディアも含めて。
    普通に生きてりゃ何でもないと思うんだが。

  • ryu*****

     | 

    (「法の運用が、県民の基本的人権の侵害や、社会経済活動の支障となることがないよう、国の動向を注視したい」と述べ、法律の運用に懸念を示した。)懸念というより何も言えないが正しいのでは?それに北谷町が反対しているのは北谷町の地域開発には多数の海外投資家などがかかわっているプロジェクトがあるから投資家を逃がしたくないのでは?

  • …---…

     | 

    そうだよね。でも中国人が買い漁っている方が問題じゃない?
    移住しようと思ってたけど、なに那覇の家賃・土地の値段の高さ。都内かよ。

  • ms0*****

     | 

    疚しい事がない人間なら何も問題がない法な筈
    それに普通は国よりは侵略勢力側を優先的に注視するだろう

  • yak*****

     | 

    安全保障上、重要な施設(基地や原発等)周辺の土地利用を、
    規制するのは至極当然。

    率直に言って、今まで放置されてきたことのほうが、問題だ
    と私自身は思います。

    機能を阻害するような、行為を行うような者は厳罰に処して
    頂きたい。

⇒最後にクリックお願いします

コメント (1)

新(5)貶められた旧日本兵、一人196万円の援護金で家を建てた

2021-06-24 12:41:13 | ★改定版集団自決

プロフィール画像

NO!残紙キャンペーンサイト

⇒最初にクリックお願いします

連載】貶められた旧日本兵-「援護法」に隠された沖縄戦の真実 (5)

0歳児にも援護法を適応/援護金で「家を建てた」

 遺族連合会による座談会では、援護金が原因で家族不和があったことも赤裸々に話されている。


 <Z 援護法制定は昭和二十七年ですが、沖縄の方々が受給できたのは昭和三十二から三十三年、数年遅れでした。数年分のお金がまとまって入ったら、親戚から厄介者にされていた未亡人が一転して親戚から大事にされるようになったとか、家を建てたとか、お墓を建てたという話も聞きました。といっても当時の遺族の生活は本当に大変で、ともかく遺族会の業務は遺族を陰に日なたに助けることでした。
 さらに、架空の書類を作成することで0歳であっても戦闘協力者とみなされ、援護法の対象となった経緯にも触れている。


 <U 「六歳未満戦没者の戦闘協力扱い」は遺族会運動の一つである「国家補償」の中から芽生えて実現しました。地上戦があって県民戦没者が多い沖縄の遺族会の取り組みは、皆さんから詳しく聞いて記録に残して置くべきですね。
 

Z 補足しますと、「戦闘協力者」の申し立ては昭和三十二年七月から適用を受けて、申立書を作成提出するときに、壕の提供や食糧提供など二十項目を挙げました。当初は七歳以上しか処遇しない、「小学校一年生なら自分の意思で戦闘に協力する。それ以下は自分の意思ではない」というのが理由でした。小学校一年生までを「戦闘協力者」と処理する一方で、戦争犠牲者の処遇問題について「戦争犠牲者の処遇をやってくれ」と遺族会で大会をうっていました。
 

沖縄県社会福祉協会の大会でも取り上げてもらい、十年余り運動を展開して、昭和五十六年八月に六歳未満の処遇が認められました。長い運動の成果です。>
 

Z氏の発言は、「沖縄戦の戦闘参加者処理要項」とそれの記載マニュアルである「戦闘参加者概況表」の内容を裏付けするものとなっている。座談会はまた、沖縄側のしたたかな策略についても語っている。
 

<Z 係の者が厚生省資料を「保管する」という名目でお二人に置いて帰ってもらい、夜、援護課職員が必死で資料を書き写すのに我々も加勢し(笑)、写したものをガリ版刷にして各市町村へ送り、それをもとに書類を作らせて死没処理はうまくいきました。>


 <M 当時はコピー機もなく必要な書類は一切書き写し、書き写したら謄写版で印刷、大変な作業でしたね。青年部の人たちと書類を写しに関係官庁に行って「妻特給の名簿」などを全部書き写しましたよ。
 申請書も、戦闘と関係がある書き方ならいいのですが「防空壕から自分たちで逃げた」という書き方だとその一行で返される。一人ひとり遺族をよんで教える時間はないし、説明会をして、各自で手書きをしてもらいましたが、代書してもらう人もいました。一寸でも違うとすぐ返されるので、代書の方も気を使ったと思います。 >


 援護法を沖縄に適用拡大させるため、沖縄戦の真実がいかに書き換えられたかが如実に分かる部分である

写真 
女子学徒のほとんどが犠牲になったひめゆり学徒隊を顕彰するひめゆりの塔(糸満市)

ひめゆり平和祈念資料館には、戦死した学徒の写真が展示されている(糸満市)

                    ☆

>「防空壕から自分たちで逃げた」という書き方だとその一行で返される。一人ひとり遺族をよんで教える時間はないし、説明会をして、各自で手書きをしてもらいましたが、代書してもらう人もいました。

官民一体となって援護法の民間適用を努力する様子がうかがえる。

結局、援護金を支給するためには「防空壕から自分たちで逃げた」と書くより「軍に防空壕を追い出された」と書く方ががベターであり、「軍に防空壕で射殺された」あるいは「集団自決の犠牲になった」と書けばベスト、つまり確実に援護金が支給される、ということだ。


■沖縄経済を支えた援護金

米軍統治下の沖縄の経済に大きく貢献したのは「米軍用地代」と「援護法受給」といわれている。

軍用地については、新聞などで絶えず取り上げられるので、その是非はともかく、軍用地代金が沖縄経済に貢献したことは誰もが認めることである。

 だがもう一つの援護法受給金については、プライバシーの要素などが絡み、マスコミの話題になることもなく、その実態は当事者だけの内密の問題とされていた。

 戦後、子どもを抱え親戚の厄介者扱いされていた未亡人が、突然莫大な援護法の支給を受け、親戚が群がってきたという話も仄聞する。

だが、受給者の大多数は受給を内密にしており、表立って受給を語る人は少なく兄弟でさえ秘密にしている人もいるくらいだ。

渡嘉敷島の集団自決の生き残りで、親兄弟5人の家族を手にかけたことを「軍の命令」だと証言し、大江・岩波集団自決訴訟では被告側証人として証言台に立った金城重明氏は、星雅彦氏のインタビューに答えて自身が援護法を受給したことを否定している。

 金城重明氏は兄重栄氏と2人で5人の家族を含む、複数の村人を殺害したと証言している。

 援護法の受給手続きさえすれば、金城兄弟は「軍の命令により」親兄弟を殺害したのであるから、少なくとも親兄弟5人分の遺族として莫大な額の援護金を受給しているはずだが、金城重明氏はこれを否定しているのだ。

 重明氏は青山学院大で神学を学びその後沖縄キリスト教短大の設立にもかかわった。後には教授から学長まで務めているが、その当時の一連の学費はキリスト教教会の援助によるものであり、援護金の給付によるものではないという。
重明氏に取材した星雅彦氏によると、当時のキリスト教会は重明氏の大学進学の援助をするほど資金的余裕がなかったとのこと。

 ただ重明氏は、戦後座間味村に留まってペンション経営をした兄重栄氏(故人)の方に援護金が行っている可能性は否定しなかったという。

■沖縄経済を支えた軍用地料と援護金

石原昌家沖国大教授は、ジャーナリスト佐野真一氏の取材に答え戦後沖縄経済を支えた「軍用地料と援護金」について、次のように答えている。

ー「援護法」で最も重要なポイントは、その適用者が”戦闘参加者”として靖国に合祀されるという”栄誉”だけでなく、遺族年金という実質的な”利益”も得ていることです。沖縄戦で”英霊”になった人の遺族はいくらぐらいもらっているんですか。四万円ぐらいですか?

「いえいえ、これがすごいんです。年度によって違いますが、ここ何十年前からは、年間一律でおよそ196万円」

ー 一人頭ですか?

「ええ、だから慶良間(諸島)で家族のうち四人が集団自決した場合は、196万円かける四人で、800万円近くになります」

ー 一人頭ですか?

「ええ、だから慶良間(諸島)で家族のうち四人が集団自決した場合は、196万円かける四人で、800万円近くになります」

ーそれはバカになりません。

だから僕は、産業らしい産業がない沖縄で大きな収入になったのは軍用地料と遺族年金だと言ってきたんです」

ーつまり金でがんじがらめにされている。これじゃ靖国合祀を取り消せという声が大きくならないわけです。石原さんは旧厚生省の役人は物凄く頭がいいと思った理由が、やっとわかりました。(佐野眞一著『僕の島は戦場だった』39頁~40頁)

 

⇒最後にクリックお願いします

 

コメント

続・安里巡査の証言、赤松隊長と食料を分け合う、

2021-06-24 09:56:00 | ★改定版集団自決

プロフィール画像

NO!残紙キャンペーンサイト

⇒最初にクリックお願いします

赤松隊長と食料を分け合う、続・安里巡査の証言、

2011-02-05

安里巡査の証言の後半部分。

安里喜順氏は戦後比嘉家の養子となり比嘉喜順と改姓した。

本島から渡嘉敷島に赴任したばかりの若いおまわりさんが、島を取り囲んだ米軍の「鉄の暴風」に遭遇し、住民を避難させるため悪戦苦闘する様が描かれ、集団自決の核心に触れる部分です。 

安里氏は渡嘉敷島の「集団自決」当時、島に駐在した警察官だが、「鉄の暴風」の著者は何故か安里氏には取材をしていない。

 

渡嘉敷島の駐在であった安里巡査は、集団自決の現場を目撃した生き残り証人として最重要証人であり、曽野綾子氏の『集団自決の真相』には登場する。

だが、地元マスコミにその名を見ることはなかった。

改めて安里氏の証言を読むと、『集団自決の真相』やその他の文献で断片的に得た知識が一つの線となって繋がってくる。

下記に『集団自決の真相』に登場する安里喜順氏の関連部分を抜書きしておく。

渡嘉敷島「集団自決」の真相を解く鍵は安里喜順氏の証言の中にある。

曽野さんが、当時の渡嘉敷村村長だった古波蔵惟好氏に取材した時の様子を次のように記している。(『集団自決の真相』より抜粋)

安里(巡査)さんは」と古波蔵氏は言う。

「あの人は家族もいないものですからね、軍につけば飯が食える。まあ、警察官だから当然国家に尽したい気持もあったでしょうけど。軍と民との連絡は、すべて安里さんですよ」

「安里さんを通す以外の形で、軍が直接命令するということほないんですか」

「ありません」

「じゃ、全部安里さんがなさるんですね」

「そうです」

「じゃ、安里さんから、どこへ来るんですか」

「私へ来るんです」

「安里さんはずっと陣地内にいらしたんですか」

「はい、ずっとです」

「じゃ、安里さんが一番よくご存じなんですか」

「はい。ですから、あの人は口を閉して何も言わないですね。戦後、糸満で一度会いましたけどね」

古波蔵村長が軍から直接命令を受けることはない、と言い、あらゆる命令は安里氏を通じて受け取ることになっていた、と言明する以上、私は当然、元駐在巡査の安里喜順氏を訪ねねばならなかった。赤松隊から、問題の自決命令が出されたかどうかを、最もはっきりと知っているのは安里喜順氏だということになるからである。

曽野氏は、『鉄の暴風』(昭和25年初版)の著者が安里氏に一度の取材もなく記事を書いた様子を次のように書いている。

おもしろいことに、赤松大尉の副官であった知念朝睦氏の場合と同じように、安塁喜順氏に対しても、地元のジャーナリズムは、昭和四十五年三月以前に訪ねていないことがわかったのである。問題の鍵を握る安里氏を最初に訪ねて、赤松隊が命令を出したか出さないかについて初歩的なことを訊き質したのは、例の週刊朝日の中西記者が最初であった、と安里氏は言明したのである。

一方、地元マスコミだけでなく、本土新聞でも取り上げる証言者に安里氏の名前は出てこない。

小さな島の唯1人の警察官で、不幸にも「集団自決」に遭遇した最重要証人である安里氏を主題する地元マスコミは一社もない。

安里氏の証言は地元マスコミでは無視されている照屋昇雄さんや金城武徳さんの証言とはほぼ完全に一致している。

地元マスコミが避ける証言者の言葉に、

真実がある。

沖縄県警察史 平成5年3月28日 (1993.3.28)発行
第2巻第3章 警察職員の沖縄戦体験記より抜粋 

比嘉 喜順(旧姓・安里、当時 那覇署渡嘉敷駐在所)

安里喜順氏の証言-2

赤松隊長に面会
 艦砲が激しくなって渡嘉敷の山は焼けてシイジャー(しいの木)だけが残っていた。
 阿嘉島にも水上特攻隊が駐屯していた。
 その頃渡嘉敷島には招集された防衛隊員がいたが、小さい島なので招集されても家族のことが心配になり、自宅に帰って家族の面倒を見ながらやっていた。
 防衛隊員は軍と一緒に仕事していたので情報はよく知っていた。その防衛隊員の人たちが敵は阿波連に上陸して次は渡嘉敷島に上陸して来ると言うので、私は慌ててしまった。
 赴任してまだ間がなく現地の情勢も良く分からない頃だったので、米軍が上陸して来たら自分一人で村民をどのようにしてどこに避難誘導をしようかと考えたが、一人ではどうする事もできないので軍と相談しようと思い赤松隊長に会いに行った。
 赤松部隊の隊長は民家を借りていたが、昼は海岸の方に行っていた。その海岸は秘密地帯になっていたらしく、私は行ったことはなかった。
 赤松部隊は特攻を出す準備をしていたが艦砲が激しくなって出せなくなり、船を壊して山に登ったと言うことであったので、私は赤松隊長に会って相談しようと思いその部隊を探すため初めて山に登った。
 その時は大雨でしかも道も分からず一晩中かかってやっと赤松隊に着いた。その時、赤松部隊は銃剣で土を掘ったりして陣地を作っていた。私はそこで初めて赤松隊長に会った。

住民の避難誘導の相談


 このような状況の中で私は赤松隊長に会った。
 「これから戦争が始まるが、私達にとっては初めてのことである。それでの住民はどうしたら良いかと右往左往している。このままでは捕虜になってしまうので、どうしたらいいのか」と相談した。すると赤松隊長は、「私達も今から陣地構築を始めるところだから、住民はできるだけ部隊の邪魔にならないように、どこか靜かで安全な場所に避難し、しばらく情勢を見ていてはどうか」と助言してくれた。私はそれだけの相談ができたので、すぐに引き返した。
 赤松部隊から帰って村長や村の主だった人たちを集めて相談し、「なるべく今晩中に安全な場所を探してそこに避難しよう」と言った。その頃までは友軍の方が強いと思っていたので、心理的にいつも友軍の近くが良いと思っていた。全員が軍の側がいいと言うことに決まり避難する事になった。から避難して行くときは大雨であった。
 私が本島にいた時もそうであったが、その頃は艦砲や空襲に備えてそれぞれ防空壕や避難小屋を作っていた。私が渡嘉敷に赴任する前から渡嘉敷島の人たちは、恩納河原に立派な避難小屋を作ってあった。
 私は恩納河原にこんな立派な避難小屋があることを知らなかった。避難して行ったところは恩納河原の避難小屋の所ではなく、そこよりはずっと上の方で、赤松部隊の陣地の東側であった。を出発したのは夜で、しかも大雨であった。真っ暗闇の中を歩いてそこに着いたときには夜が明けていた。その時の人たちのほとんどが着いて来ていたと思う。避難して来た人たちの中には防衛隊員も一緒にいた。

渡嘉敷島の玉砕
 私は住民の命を守るために赤松大尉とも相談して、住民を避難誘導させたが、住民は平常心を失っていた
 空襲や艦砲が激しくなってから避難しているので、を出発する時からもう平常心ではない。
 集まった防衛隊員達が、「もうこの戦争はだめだから、このまま敵の手にかかって死ぬより潔よく自分達の手で家族一緒に死んだ方がいい」と言い出して、村の主だった人たちが集まって玉砕を決行しようという事になった。
 私は住民を玉砕させる為にそこまで連れて来たのではないし、戦争は今始まったばかりだから玉砕することを当局としては認めるわけにはいかないと言った。しかし、当時の教育は、「生きて虜囚の辱めを受けず」だったので、言っても聞かなかった。
 そこで「じゃあそれを決行するのはまだ早いから、一応部隊長の所に連絡をとってからその返事を待って、それからでも遅くないのではないか」と言って部隊長の所へ伝令を出した。
 だがその伝令が帰って来ないうちに住民が避難している近くに迫撃砲か何かが落ちて、急に撃ち合いが激しくなった。
 そしたら住民は友軍の総攻撃が始まったものと勘違いして、方々で「天皇陛下万歳、天皇陛下万歳」と始まった。その時、防衛隊員は全員が敵に遭遇した時の武器として、手榴弾を持っていたと思う。
 その手榴弾を使って玉砕したが、幸か不幸かこの手榴弾は不発が多く玉砕する事ができない人たちがいた。
 玉砕できなかった人たちが集まって、友軍の陣地に行って機関銃を借りて自決しようと言うことになって、自分たちで歩けるものは一緒に友軍の陣地に行ったが、友軍はそれを貸すはずがない。そこでガヤガヤしているうちにまた迫撃砲か何かが撃ち込まれ、多くの人たちがやられた。
 その時友軍に、「危険だから向こうに行け」と言われて、元の場所に帰ってきた。
 その頃は全員の頭がボーとして何も考える事ができず、死のうが生きようがどうでもいいと言う気持ちで近くの広場で寝ていた。
 その時自決するチャンスを失ってしまってそのままになった住民も多かった。

避難生活
 あの広場で玉砕してから2、3日は飲まず食わずでいたと思う。それから段々と集まってきた場所が、あの避難小屋を作ってあった恩納河原であった。
 それからは避難小屋での生活が始まった。山の畑を耕したり、芋を作ったり、ソテツで澱粉を作った りして食いつないでいたが、小さい離島なので、持っていた食料も底を尽き、山のソテツも取り尽くしてしまい、食料を探すのに必死だった。その頃船  が沈められて、海岸にはよくメリケン粉や缶詰などが流れ着いていたので、それを拾って食べたこともあった。
 渡嘉敷港の近くに友軍の食糧を積んであったので、私が赤松隊長に相談して防衛隊員などから力のある人を集め、その食糧を取ってきて友軍と民間で分けたこともあった。
 赤松隊長は、「私たちは兵隊で戦って死ねばいいが、皆さんは生きられるだけ生きて下さい」と言って、自分たちの味噌や米を住民に分けてあげたりしていたこともあった。
 米軍が上陸してからは、本島との連絡は全くできないので、私は赤松隊に行って情報を取りそれを住民に伝えていた。
 七、八月頃になったら米軍からビラがばら撒かれた。それには「もう戦争は終わったから山から降りてきなさい」と書いてあった。

 渡嘉敷島の住民の中にも、伊江島の住民の捕虜から情報を聞いて早く投降した人たちもいた。
 そのとき私も軍と一緒に投降した。(沖縄県警察史 平成5年3月28日 (1993.3.28)発行 第2巻第3章 警察職員の沖縄戦体験記より抜粋 P768)

(昭和63年2月8日採話)

                     ◇

この証言記録は戦後43年を経過した昭和63年に採話されている。

改めて説明するまでもなく、赤松隊長が自決命令を出したという主張が真っ赤な嘘であるということが、この証言からわかる。

何よりも、仮に、軍の命令による自決なら、自決に失敗した住民は当然「命令違反」で処刑の対象であったはずだ。 

ところが、7、8月ごろまで赤松隊長と食料の分け合いをしていた事実や、情報交換をしていた事実から、軍の命令による自決が、嘘であることは自明である。 

軍命説は、後年になってからの援護金申請のための方便であることが証明されているが、それを証明したのが、軍命説派である石原昌家沖国大名誉教授の調査によるというのは、いかにも皮肉である。

安里巡査の証言が、最重要だという理由は、安里巡査の当時の年齢と職務にある。

「集団自決」の生き残りは老人と子供が多かったため、既に物故した人が多かったり、当時幼かったため後の証言が他人の影響を受け信憑性にかける点が指摘され、それが真相解明の大きな妨げになっている。

更に問題を複雑にしているのは、「集団自決」の関係者が血縁・地縁で何らかの繋がりがありそれが証言者の口を重くしているという点である。

それに年金支給の問題が絡むと、今でも黙して語らないお年寄りが多数いると聞く。

その点、当時渡嘉敷島の巡査であった比嘉さんは信憑性のある証言者としての条件を全て具備していた。

安里(比嘉)巡査は本島から赴任したばかりで渡嘉敷島の血縁社会には無縁の「よそ者」であり、、島の血縁・地縁社会とはつながりの無い新任の警察官だった。 従って安里巡査に地域共同体の呪縛はない。

安里巡査は、親族に「集団自決」のいない証言者であり、赴任当時29歳という年齢的にも、村の指導的立場の警察官という立場からいっても、生存者の中で最も信頼のできる証言者のはずだった。

これだけの証言者としての条件を具備していながら、しかも戦後一貫して沖縄に在住しているのにもかかわらず、地元マスコミで比嘉(安里)さんに取材したものは1人もいないというのも不可解である。

その理由は?

比嘉さんが渡嘉敷島で起きた集団自決の「不都合な真実」を知っていたからである。

【追記】

新・沖タイの歪曲記事、故赤松大尉直筆の手紙を届ける2021-06-10

■沖縄タイムス 1983年6月8日付記事。

故赤松大尉直筆の手紙を届ける

衆議院調査室の徳嵩力さんが本社東京支社に

住民に「申し訳ない」

虐殺については否定?

【東京】戦時中、海上挺進第三戦隊の隊長として渡嘉敷島の守備につき、住民虐殺、集団自決のあの悲惨な「事件」に深く関与したといわれる赤松嘉次大尉(故人)が12年前、当時の陣中日誌とともに関係者に出した直筆の手紙がこのほど、沖縄タイムス東京支社に届けられた。渡嘉敷での数々の悲惨な出来事について赤松氏は「一部マスコミの興味本位な報道」と伝えられる事実関係については強い口調で否定。 敗戦の結果についてのみ「申し訳ない」とつづっている。折りしも、沖縄では三十八回目の「慰霊の日」をやがて迎える。

手紙を保管なしていたのは、衆議院外務委員会調査室に勤める徳嵩力さん(61)。復帰前、「鉄の暴風」(沖縄タイムス刊)を読み、そのなかで渡嘉敷島の住民虐殺、集団自決など悲惨な出来事を初めて知った徳嵩氏が、やっとの思いで赤松氏を探しあて、事実関係を尋ねたことに対する返書で日付は昭和四十五年十一月三十日。 
そのなかで赤松氏は「戦時中、現地の方々の献身的な協力にも拘わらず力足らず、あのような結果になったことは沖縄で戦った者として現地の方々に申し訳なく思っている」と敗戦の悔いを「つづっている。
ただ住民虐殺、集団自決への自身の関与については「一部マスコミの、現地の資料のみによる興味本位的に報道されているようなものでは決してありませんでした」と強く否定。 同時に沖縄を訪ねた際(四十五年三月)の渡嘉敷住民、民主団体の抗議についても“大規模な歓迎”を受けたと、抗議が意外だった心情を吐露している。
仕事上の関係もあって「沖縄に強い興味を持つ」という徳嵩氏は手紙と陣中日誌を読み返し「どうも後で理由付けした感があり、説得力に乏しい」と感想を語る。 さらに「赤松氏個人への感情は別として」と前置き、「住民の証言の方が、より重みがあるし、軍隊は、その特性から、いつでも物事を正当化するものです。 教科書問題にしても、やはり虐殺の事実は事実として歴史にとどめるべきだし、それが生き残った私たちの使命」とも。
中学、高校の教科書で沖縄戦で住民虐殺の記述も復活の兆しにある。 赤松氏がどのような胸中で手紙をつづったかは、確かめるよしもないが、日本軍による住民虐殺、軍命による集団自決という悲惨な出来事が渡嘉敷島で起こったことはまた歴史の事実である。

             ☆

 

ここに登場する徳嵩力氏は、1921年生まれ、長野県出身。戦後、国家公務員上級試験合格し1956年衆議院外務委員会調査になり、沖縄問題を担当。復帰の3年前の昭和44年(1969年)に衆議院職員初の沖縄調査団として沖縄視察をしたエリート官僚である。

徳嵩氏は戦後一貫して沖縄問題を担当した使命感から独自に沖縄問題の研究から発展し「鉄の暴風」、「秘録沖縄戦」(山川泰邦)、「沖縄ノート」(大江健三郎)などの沖縄戦の本を読み漁り、ついには赤松大尉を捜し当てて、ことの真相を問いただす。

ちなみに「鉄の暴風」が伝聞や噂の類を基に書かれた嘘まみれの本であり、「沖縄ノート」はその嘘のネタ本を下地にしたデタラメの本であることは、今では大方の知るところ。 「秘録沖縄戦」も、「鉄の暴風」の影響を大きく受けており、近年著者の故山川康邦氏のご子息が歪曲部分を削除した改定版を出したくらいである。

復帰前の沖縄戦の情報が少なかった当時としては仕方の無いことだが、徳嵩氏が沖縄戦を勉強した本が全て沖縄タイムスの偏向思想により歪曲された本だけだったのは徳嵩氏にとって不幸であった。

優秀で誠実な戦前の日本のエリート官僚の系譜を継いだと思われる徳嵩氏は、イデオロギーとは別の視点から、日本軍が沖縄に及ぼした被害の数々をこれらの「沖縄本」から勉強し、激しい贖罪意識に襲われる。 そして政府の沖縄担当の調査官としての使命感から赤松大尉を探し出して当時の状況を聞き取るのだが、赤松大尉がそれに対する返事を手紙にして送ったのが記事に出て来る昭和45年11月30日付けの赤松氏の手紙である。 

今年は沖縄の日本復帰の40周年だが、赤松氏が手紙を送ったのは復帰の2年前、今から42年前の出来事である。

徳嵩氏は沖縄担当の官僚という職務上、沖縄紙の東京支局の記者と知り合うことになるが、ある席上偶々隣の席にいた沖縄タイムス記者に赤松大尉の手紙のことを話すことになる。

徳武氏としては赤松大尉の存在を知ったのが沖縄タイムス刊の「鉄の暴風」だったのだから沖縄タイムス記者に話すことに何の躊躇も無かったのだろう。 当時の徳武氏としては「鉄の暴風」や「沖縄ノート」がイデオロギーまみれのデタラメな本と言うことを知る由もなく、沖縄戦史の解明の資料として沖縄タイムスに手紙を渡したのも仕方の無いことである。

沖縄タイムスが赤松大尉の直筆の手紙を入手したら、どのような行動にでるか。 

猫に鰹節とはまさにこのこと。

手紙の内容の如何に関わらず、イデオロギーによる歪曲した捏造記事を書くことは火を見るより明らかだった。

それが上記引用の記事である。

この記事は12面のトップを徳嵩氏の写真つきで大きく飾り。徳嵩氏の写真には「故赤松氏からの当時の手紙を見ながら住民虐殺について語る徳嵩氏」というクレジットが付いている。

沖縄タイムスの記事を見て、沖縄戦当時渡嘉敷島の駐在巡査を勤め集団自決の一部始終を目撃した比嘉(旧姓安里)喜順氏が記事のあまりにも酷い歪曲された内容に悲憤慷慨し、その日のうちに抗議の手紙を徳嵩氏に送った。

手紙の日付が沖縄タイムスの記事と同じなのは、それだけ比嘉氏が当時の生き証人として居ても立ってもおれなかった比嘉氏の心境を表している。比嘉氏はその日の午後3時頃記事を読み、すぐ沖縄タイムスに抗議すると同時に徳嵩氏の連絡先を問いただし、その日のうちに手紙をしたため郵送している。

その手紙はご子息から公開の許しを得ているので、集団自決の真相解明の歴史的資料として下記に公開する。

その前にタイムス記事が触れている「同時に(赤松氏が)沖縄を訪ねた際(四十五年三月)の渡嘉敷住民、民主団体の抗議」について事実を説明しておく。

当時の新聞には、沖縄県民や渡嘉敷住民が、赤松氏を空港に出迎えた抗議した、と報道している。(※【おまけ】に詳述

だが、実際に空港で抗議したのは僅か十数名の那覇市の市職労の組合員であり、渡嘉敷住民は慰霊祭に赤松氏が参加するのをむしろ歓迎していた。

1970(昭和45年)3月26日、赤松氏が那覇空港で、左翼集団に取り囲まれて渡嘉敷島には渡ることを阻止されたことは過去にも再三書いたが、親族関係者の話で次のことも判明した。

赤松氏は、空港で、抗議集団にもみくちゃにされ、背広のボタンも引きちぎられる酷い有様だった。

赤松氏はこのような激しい抗議に遭っては、普通の定期船ではとても渡嘉敷島に渡ることができないと判断し、渡嘉敷行きは諦めかけていた。

翌慰霊祭当日、伊礼蓉子氏(旧姓古波蔵、戦時中、渡嘉敷村女子青年団長)のご主人が、迎えに来てくれ舟を出してくれた。

たが、結局、赤松氏はさらなる騒動を避け、島には渡ることはせず、島の入り口まで行って、慰霊祭への花束だけを託したという。

渡嘉敷の住民は赤松氏の来島を大変歓迎していたが、マスコミや抗議集団との混乱を避けるため渡嘉敷上陸は断念した。

なお、伊礼蓉子氏の娘さんは、赤松氏宅にも訪問したことがあり、赤松氏の家族と今も交流が続いているという。 
     
この事件を、沖縄タイムスをはじめ全国の新聞、雑誌が騒ぎ立てて、これを機に赤松氏の悪評が一気に広がった。

赤松氏の地元では、地元紙である神戸新聞の記事を見た人が多く、赤松氏の長女は後にクラスメートからこのことを教えられたという。 

なお、赤松氏を渡嘉敷に送る舟を手配した伊礼蓉子氏(旧姓古波蔵)は、星雅彦氏の手記「沖縄は日本兵に何をされたか」(雑誌「潮」1971年11月号に掲載)の中で証言者として登場している。

《村の指導者たちやその家族や防衛隊の幾人かは、そろって無事で、その集団にまじっていた。みんなひどく興奮していて、狂人のようになっていた。村長は狂ったように逆上して「女子供は足手まといになるから殺してしまえ。早く軍から機関銃を借りてこい!」と叫んだ。その意志を率直に受けて、防衛隊長の屋比久孟祥と役場の兵事主任の新城真順は、集団より先がけて日本軍陣地に駆けこみ、「足手まといになる住民を撃ち殺すから、機関銃を貸してほしい」と願い出て、赤松隊長から「そんな武器は持ち合わせてない」とどなりつけられた。(注・比嘉喜順、伊礼蓉子らの証言。その点、米田惟好は米軍に決死の戦闘を挑むつもりだったと、異議を申し立てている)(雑誌「潮」1971年11月号・星雅彦)》

 

赤松氏は当時の渡嘉敷村長の了解の下に沖縄訪問をしたわけだから「“大規模な歓迎”を受けたと、抗議が意外だった心情を吐露している」という赤松氏の心情は事実であった。

赤松氏に罵声を浴びせる組合員の中には、歓迎のため赤松氏を出迎えにきた玉井喜八渡嘉敷村長がいた。

組合員の暴力的な実力行使で、結局赤松氏は慰霊祭に参加を断念するが、玉井村長は次のようなコメントを沖縄タイムスに伝えている。

「赤松氏は三年ほど前から慰霊祭に出席したいと連絡していた。ことしも村から慰霊祭のスケジュールを送ったらぜひ行きたいという返事があり、喜んでいたところだ。」 

集団自決論争が問題解決を困難にしている理由は次の点にある。

①「事件」が60数年前のことであり、体験者はほとんどが物故している。

②数少ない証言も、当時子供だった証人の曖昧な証言に頼らざるを得ない。

③物的証拠は一つもなく、証言あるいは証言記録のみを証拠としているの。

④意識的嘘の証言は論外としても、証言の「思い違い、記憶違い」等も考慮に入れなければならぬ。

これらに親族、地域社会などの人間関係、経済的要素の呪縛や、イデオロギーの呪縛が絡むと証言の信憑性の検証はますます難しくなる。

2007年の「11万人集会」の前後、沖縄紙は夥しい数の証言者を紙面に登場させ、連日「体験者証言」と大々的に報じたが、そのほとんどが、「毒おにぎり証言」の例のように客観的検証に耐える証言ではなかった。

卑近な例で、意図せざる「記録の過ち」を一つ例示しておこう。

玉井喜八渡嘉敷村村長がミニコミ誌に寄稿した『遺族会発足当時を想う』と題する手記の中に、玉井村長の記憶違いが見られる。

手記はここ⇒沖縄戦を歪曲した沖縄タイムスの大罪

同手記には昭和53年赤松夫人が三十三回忌の慰霊祭に渡嘉敷訪問したとある

だが、これは玉井村長の記憶違いで、赤松夫人が慰霊祭に参加したのは昭和53年ではなく、正確には昭和59年に戦隊員や遺族の方々に同行し、赤松氏の遺品を寄贈したという。

これは赤松氏の遺族関係者からご指摘を受けた。

玉井村長のような重要人物でさえこのような記憶違いを手記に書くくらいだから、故人が残した証言の記録が全て正しいとは限らず検証が必要なことは言うまでも無い。

実際に赤松夫人が渡嘉敷島を訪れたのは、手記にある昭和53年ではなく、昭和59年であるというから、赤松夫人は次の記念写真のどこかに写っているものと思われる。

渡嘉敷港で住民たちと和やかに記念撮影に収まる元赤松隊の一行

■比嘉喜順氏の手紙

 徳嵩様 謹んで申しあげます。

あなた様の東京支局によせられた故赤松大尉直筆の手紙を届けるの記事を読み、お便りを差し上げます。
私、当時(沖縄戦)昭和20年2月より昭和20年8月14日まで渡嘉敷村の巡査駐在所で勤務しておりました者であります。
それであなた様が「12年前より(まま)赤松大尉直筆の手紙」を届ける記事を6月8日の午後3時ごろ読みまして、早速沖縄タイムスに電話で貴殿の調査室の住所を知らして下さいと頼みまして、このお便りを差し上げます。 それで私は当時の最初から最後まで村民と共に行動し、勿論自決場所のことも一部始終わかっております。 あの集団自決は、軍命でもなければ赤松隊長の命令でもございません。
責任者として天地神明に誓ひ真実を申しあげます。 今までの戦争は満州、支那大陸で戦い、私達もその体験者の1人であります。 それが而も一番(不明)島、沖縄県、離島の自国内で連合軍の包囲を受け家族とも共戦争体験をしたのは、その人でなければ実際を語ることは出来ません。
「鉄の暴風」が発刊されてをるのも知らず、那覇の友人から聞かされ、それを見せてくれて驚いた程であります。 その時には既に遅く、全国に販売されていたようです。
それで一方的な言い分を聞いて実際に関与した責任ある私達に調査もされず刊行されたことは私の一生涯の痛恨の極みであります。
沖縄タイムスの記者が私を訪ね、渡嘉敷島について調べたことは今もって一度もございません。
私も戦い終わって昭和二十年八月二十七日、捕虜で金武村屋嘉の収容所に収容され、同年十一月三日そこを出て、家族をさがしあてたのが昭和二十年十一月十五日でした。 それで戦争の話、友軍の行動等を分かりました。 
それに比較して赤松隊長のとった行動は本当に良かったと思われました。 戦争中而も敵の海、空よりの砲撃のさ中で軍の食料(米、味そ等)調味品を村民にも二分し与えて下さったあの赤松隊長の志を、行動を、こんな隊長が大東亜戦争、沖縄戦の悪い代表扱いに掲載されることは本当に残念でなりません。 あの戦争は吾々日本人全体の責任と私は思って憚りません。 徳嵩さんがどう云う理由で十二年保存されて、然も赤松さんが故人となられた今頃にから沖縄タイムスに掲載されたか、私には理解に苦しむものです。
赤松隊の生存者もをられるし、当時の村民も尚健在者が多数残っています。 それでお願いですが曽野綾子著「ある神話の背景」沖縄、渡嘉敷の集団自決、文藝春秋社刊をお読みにお読みになられたらと思います。
真実と云ふのは両方の調査の上に立って表現するものでありまして、一歩的に出してそれで何も知らない人々がそれを信じることになり、大方はそんなものではございません。 私はそう思います。
歴史の事実も本当はそうであったかと、両方の調査をし、綿密に調べられてから、正しく報らすのが真の在り方と思われます。 私も貴方が出された「タイムス」の記事を見て、当時の沖縄戦の生々しい実態が甦り、本当に何とも言ひようのない悲憤慷慨と申しましょうか痛恨の念が一極です。
只々書かなければ止まない衝動にかられてこのお便りを書きました。
徳嵩様の重要な部所にお勤め鳴られてをり幸いと思います。
益々ご健康で、ご繁栄でありますと併せて我が国の繁栄に寄与なされますようご御祈りいたします。 乱筆で御免下さい。

                                                        敬具

昭和五十八年六月八日午後十一時三十分

沖縄県北中城字大城の自宅にて

旧姓 安里  比嘉喜順拝

徳嵩力 様

【おまけ】

タイムスの沖縄戦歪曲を象徴する報道が二つある。

一つは1950年(昭和25年)に出版された『鉄の暴風』。

もう一つは『鉄の暴風』発刊の20年後、1970年3月27日付沖縄タイムス社会面を飾った衝撃的記事である。

■梅澤・赤松両隊長が怒った沖タイ記事

戦後一貫して沈黙を守っていた渡嘉敷島、座間味島の両隊長が、「自決命令をしていない」と積極的に発言し始めるのは、実はこの1970年の記事以降のことである。

勿論梅澤氏は「鉄の暴風」の1980年改訂版発刊までは、死亡とされていたので、梅澤氏の発言と赤松氏の発言には凡そ10年のタイムラグがある。

『鉄の暴風』については、多くの研究者がそのデタラメな内容を論じ尽くしているのでここでは省略し、今から約40年前の沖縄タイムス記事について触れる。

1970年3月27日といえば、大江健三郎氏の『沖縄ノート』も曽野綾子氏の『ある神話の背景』もまだ発刊されておらず、『鉄の暴風』が沖縄戦のバイブルのようにいわれて時期である。

その日は渡嘉敷島で25回目の戦没者慰霊祭の当日で、沖縄タイムスは、前日の26日、慰霊祭に参列のため那覇空港に降り立った渡嘉敷島の元戦隊長赤松嘉次氏と空港で待ち受けた約40名の「抗議団」とのトラブルを大きく報じている。

その日の沖縄タイムス社会面トップを飾った大見出しはこうだ。

忘れられぬ戦争の悪夢

<赤松元海軍大尉が来島>

空港に“怒りの声”

”非難したくない”

出迎えの玉井村長語る

抗議のプラカードを掲げた抗議団。 それに取り囲まれた赤松氏の写真と共に、タイムスは約40名の抗議団の赤松氏に対する「怒りの声」を報じている。

I「忘れられぬ戦争の悪夢  <赤松元海軍大尉が来島>  空港に“怒りの声”」の画像検索結果

赤松元陸軍大尉のことを、「元海軍大尉」と大見出しで事実誤認で報じる沖縄タイムスの無知(実際は陸軍大尉)はさておき、その記事から「県民の声」を一部拾うとこうなる。

「赤松帰れ」

「今頃沖縄に来てなんになる」

「県民に謝罪しろ」

「300人の住民を死に追いやった責任をどうする」

慰霊祭には出てもらいたくない。 あなたが来島すること自体県民にとっては耐えがたいのだし、軍国主義を全く忘れてしまったとしか思えない。 現在の日本の右傾化を見ろ

この紙面構成を見ると、読者は「鬼の赤松の来県に抗議する渡嘉敷島の住民」という印象を刷り込まれてしまう。

わずか40名の左翼団体の抗議を、あたかも県民代表あるいは渡嘉敷住民であるかのように報じた沖縄タイムスは沖縄戦を歪めた首謀者であり、その罪はきわめて重い。

実際の抗議団は那覇市職労を中心にした左翼団体であった。

赤松氏に抗議文を突きつけたのも渡嘉敷村民ではなく那覇市職労の山田義時氏であった。

肝心の渡嘉敷村は赤松氏の慰霊祭出席を歓迎しており村民を代表して玉井喜八村長が出迎えのため空港に出向いていたくらいだ。

先ず記事の見出しに躍る”怒りの声”と”非難したくない”と言う玉井村長の矛盾を沖タイはどう説明するのか。

 

「うらそえ文藝」編集長の星雅彦氏は、偶々そのときの那覇空港の「騒動」の一部始終を目撃していた。

結局赤松氏は那覇に足止めを食い、赤松氏と同行の元部下たち一行は那覇市松山の大門閣ホテルに一泊し、翌27日、船で渡嘉敷に向かうことになるが、星氏は同じ船に便乗し慰霊祭にも参加したという。

星氏は偶然目撃した前日の空港での左翼団体の暴挙と、これを県民の意志であるかのように報道する地元マスコミの姿勢をみて、沖縄で流布する集団自決の「定説」にますます疑問を持つようになったという。

星氏は元赤松隊一行と共に渡嘉敷に向かうが、船の中で赤松隊一行は持参の経文の書かれたお札のようなものを広げてずっとお経を唱え続け、渡嘉敷港が近づくと持参の花束とお経のお札を海に撒いていたという。

慰霊祭の最中に「赤松が上陸する」との知らせを受け、マスコミと「民主団体」が現場に飛んで行った。

だが、赤松氏は個人で舟をチャーターして島に接岸し、結局島民に弔文と花束を託して上陸することなく、島を去ったという。

■沖縄戦史を歪曲した記事■

1970年3月27日のタイムス記事は、以後沖縄戦史を「タイムス史観」ともいえる歪な方向へ県民を扇動ていくマイルストーン的役割りを果たすことになる。

先ず、この記事を見た県民は、こう印象つけられた。

住民に自決を命じ、自分はおめおめと生き残った卑劣な鬼の赤松隊長を追い返す渡嘉敷住民

赤松元隊長は「鬼の赤松」といった印象を強烈に刷り込まれることになる。

またこの記事を見た大江健三郎氏は作家としての想像力を強く刺激され、本人の述懐によると『鉄の暴雨風』などによる沖縄戦の即席勉強と共に、新川明氏らタイムス記者のブリーフィングで得たにわか仕込みの知識で、現地取材もすることなく、作家としての想像力を駆使して「沖縄ノート」を書くことになる。

戦後起きた沖縄戦のセカンドレイプともいえる第二の悲劇は、まさに『鉄の暴風』に始まり、「1970年3月27日付タイムス記事」によって決定的になったいっても過言ではない。

そのときの記事には、金城重明氏が首里教会の牧師という肩書きでマスコミに初登場して証言しているが、

金城氏はその後、集団自決の証言者の象徴として、マスコミ出演や著書出版、そして全国各地の講演会などで八面六臂の活躍をするのは周知のことである。

■渡嘉敷村民の真意は?

それでは、当時の渡嘉敷村民の真意はどうだったのか。

そのとき赤松氏を迎えるため空港で待ち受けていた玉井渡嘉敷村長は、後にその心境を渡嘉敷村のミニコミ誌で吐露している。

以下は、『終戦50周年祈念「いそとせ」』(沖縄県遺族連合会 平成7年12月30日発行)に寄稿された玉井元渡嘉敷村長の随想の一部抜粋である。

遺族会発足当時を想ふ  

渡嘉敷村遺族会長 玉井 喜八

(略)
 遺族会発足当時は主として戦没者の援護法適用について、県当局や遺族連合会との連携をはかることが主な活動であった。
 幸いにして、国は島における戦闘状況に特殊事情があったとして理解を示し、戦没者全員が戦闘協力者として法の適用が認められたことは唯一の慰めであった。(略)
 渡嘉敷島の戦闘状況とりわけ自決命令云々については、これまで文献等に記述されたが、島に残った人々は各自異なった体験を語っており、当時の混乱した状況が偲ばれるのみである。
 おもふに戦争の残した傷跡は簡単に償えるものではないが、個人が心の安らぎを得る機会は与えるべきであるとして、当時の隊長が慰霊供養のため島を訪問したいとの希望があり、遺族会に諮ったところ、当時の国策遂行のためになされた戦争行為であり、個人の意に副ふようにとのことで受入れをすることで一致した。ところが意外に村民以外の民主団体に来島を阻止され、他の隊員は島に渡ったが隊長は目的を果たすことができなかった。
 後で聞いた話では別の船をチャーターして渡嘉敷港の軍桟橋で弔花を届けて引返したとのことである。本人は既に故人となり、今にして思えばその当時、故人の望みをかなえてやれなかった事に心残りもあるが、時の社会状況からして止むを得ないことであった。
 昭和53年の33回忌は隊員との合同で行われた。慰霊祭に隊長夫人が参加し、村民や遺族と親しく語り合ったことが何よりの慰めになったことと思われる。
 3戦隊戦友会は、本村に駐留した復員者で組織された会で、村や遺族会と緊密な連携がなされ村民との融和がはかられている。学校の記念事業等に積極的に協力すると共に戦跡碑の設置塔を実施し、村との信頼関係を確立している。(略)
 昨年、戦友会員や隊員の遺族が大挙して島を訪れ50回忌の慰霊祭が行われた。その際に会を代表して皆本義博会長から永代供養基金として一金三百万円が村遺族会へ送られた、想えば当時紅顔の少年たちも既に70の坂を越しており会員は減少するのみである。この基金の果実により戦友会として今後の供花費用に充て永久に弔って行きたいといふ心づかいである。

引用者注
玉井喜八⇒1921年10月生まれ1953年12月17日33歳で渡嘉敷村長就任。以後32年間1985年12月まで村長の職にあった。2000年8月79歳で没

3戦隊戦友会⇒赤松隊戦友会

赤松氏の慰霊祭参加を歓迎する村民を代表して、那覇空港に出迎えた玉井村長は「村民外の『民主団体』」が来島を阻止したことに驚きを隠せないようだが、33回忌には赤松夫人が参加し、村民や遺族と親しく語り合ったことを喜んでいるようである。

沖縄タイムスは村民と元隊員とは敵同士であるかのような報道をしたが、赤松隊員と村民の信頼関係が深いことが記述されているし、手榴弾証言の富山眞順氏は別のミニコミ誌で、本土旅行の際は元赤松隊員に連絡し、空港等に迎えに来てもらい、一緒に観光するといった元赤松隊員との和気あいあいとした交流の模様を寄稿している。

これらは沖縄タイムスには決して載ることのない村民の本音であり、村内で読まれるミニコミ誌にのみ掲載されている。

赤松氏がマスコミに初登場するのは、上記1970年の沖縄タイムス記事の二年前の1968年発行の週刊新潮4月6日号誌上であるが、

そのときは「部下を戦死させたのに生き残った卑怯な隊長」、あるいは「スパイ容疑で住民虐殺した残虐な隊長」という主旨の追及に答えている。

「住民虐殺」については、意外にもその事実をあっさり認めている。 

だが「集団自決の隊長命令」については記者の質問もなければ、当然赤松氏の言及もない。

ところが週刊新潮の記事を見た琉球新報の関西支局が、赤松氏を神戸市加古川の自宅を訪れ、そのインタビュー記事を同年4月6日付けで掲載した。

その琉球新報記事で、記者の「集団自決は命令したのか」との質問を受け、

赤松氏は「絶対に命令したものではない。自決のあったあとで報告を受けた」と答えている

ところが、前記1970年の那覇空港における「鬼の赤松vs渡嘉敷村民」という印象操作記事以降、赤松氏は「軍命は出していない」と自ら積極的に発言するようになる。

その後、奇しくも『鉄の暴風』が梅澤氏の「死亡記事」を密かに削除した1980年(昭和55年)の初頭、赤松氏は無念のまま没する。

実弟の赤松秀一氏がその意志を継いで梅澤氏と共に、「集団自決訴訟」を起こしたことは周知のことである。

⇒最後にクリックお願いします

 

コメント (4)

集団自決、「早く殺して」母は願った 棒で家族を殴り始めた叔父 75年前の悲しみ「誰も責められんさ…」

2021-06-24 08:21:10 | ★改定版集団自決

沖縄タイムス+プラス ニュース

「早く殺して」母は願った 棒で家族を殴り始めた叔父 75年前の悲しみ「誰も責められんさ…」

2020年3月29日 06:24有料

 米軍が渡嘉敷島に上陸した翌日の1945年3月28日、住民らは旧日本軍の命令で島北部の北山(ニシヤマ)に集まり、「集団自決(強制集団死)」で330人が犠牲になった。当時11歳で渡嘉敷国民学校6年生だった大城政連(せいれん)さん(86)も大けがを負い、幼い弟を失った。母は家族の死を懇願し、叔父は自分の家族の命を奪った後、大城さん一家にも手を掛け、「自決」した。(社会部・新垣玲央)

◆玉砕場

 米軍が沖縄上陸に向けて大空襲をかけたのは3月23日。沖縄本島攻略の足掛かりにするため、26日に阿嘉島、慶留間島、座間味島、そして27日には渡嘉敷島の渡嘉志久海岸と阿波連海岸に上陸した。

 阿波連に住む大城さんは空襲の日から、母と2人の幼い弟と共に山中へ避難した。大雨の中、山裾の恩納河原(ウンナガーラ)から北山に移り、たどり着いた「玉砕場」では泣き声や悲鳴が響いていた。

 「米軍に捕まれば、鼻と耳をそがれ、いたずらされ殺されると聞いていた。もうみんな、最後の場所を選んでいた」。

 家族ら数人で手りゅう弾を囲んで「自決」を図ったが、不発。母は「やっちー、わったーやーにんじゅー、へーくくるして!(兄さん、私たち家族を早く殺して)」と叔父にせがんだ。叔父は「まっちょーけ(待って)」と言って棒を手に取り、まず自らの家族を殴り始めた。

◆川の水

 「何が何だか分からない。まさか自分もそうなると思わなかった」。大城さん一家もうつぶせに寝かされ、大城さんは後頭部を打たれて意識を失った。気が付いた時には薄暗く、辺りを見渡すと、4歳だった三男邦夫さんは息絶えていた。叔父は首をつって自殺し、母と次男は大けがを負っていた。

 翌日、水が欲しくなり、近くの川の水を飲んだ。「自決で皆が死んだ血」だった。近くに落ちた艦砲の破片で足もやられたその日、米軍に捕まった。米兵の印象は、聞いた話とは違っていた。「全部うそだった」

 母は戦後、亡くなった邦夫さんが「子どもの中で一番頭が良かった」と繰り返した。それでも、あの「自決」を語ろうとはしなかった。

 「誰も責められんさ…」と大城さんは言葉を詰まらせる。「二度とあんなことはない方がいい。考えるのはそれだけよ」。75年前の悲しみを、静かに胸に抱え続ける。

コメント (1)

集団自決、星雅彦氏の証言、捏造された公的刊行物

2021-06-24 00:44:33 | ★改定版集団自決

プロフィール画像

NO!残紙キャンペーンサイト

⇒最初にクリックお願いします

貶められた日本兵、捏造された公的刊行物

2013-07-22

              ☆

世界日報に連載された『「援護法」に隠された沖縄戦の真実』シリーズは、援護法を拡大解釈して沖縄住民に適用させようとする国側の「善意」に目をつけた反日左翼勢力の陰謀を暴くことが目的である。

遺族が、国の指導に従って方便として記入した「軍命」を、あたかも「残虐な日本兵」が実際に軍命で壕を追い出したり、軍命で集団自決を命令したなどと歪曲して報道されてきた。これらの歪曲・捏造された沖縄戦史を正すことにある。

日本兵を貶めるためには聞き取り調査を捏造してまで、歴史を歪曲した例を、過去記事から紹介する。

                 ☆

集団自決、捏造された公的刊行物

沖縄縄戦を記した出版物が、一般刊行物から公的刊行物にいたるまで、虚偽の記述にあふれている事を再三指摘してきた。

 市中に出回っている雑多の出版物に記載してある証言より、公的刊行物にある証言の方が正しいと考える人は多い。

ところが一般的に信憑性があるといわれる公的刊行物が歪曲と捏造に満ちているのだ。

沖縄戦を綴った公的出版物の編纂・監修に、安仁屋沖国大教授やその弟子の宮城晴美氏といった「大江・岩波手段自決訴訟」の被告側応援団が加わっており、意図的に証言を歪曲・捏造していた事実が判明している。

集団自決訴訟の第2弾ともいえる「パンドラの箱掲載拒否訴訟」では、公的刊行物を歪曲・編集した左翼学者の犯罪も白日の下に晒らされることになるだろう。

日本兵と米兵を入れ替えた捏造の沖縄戦史

「残虐非道の日本兵」と「人道精神に満ちたアメリカ兵」というイデオロギーを強調するあまり、聞き取りした執筆者の主観で想像を交えた作文をした例は珍しくない。

だが、「日本兵」と「アメリカ兵」、つまり敵対した当事者そのものを、意図的に入れ替えて「残虐非道な日本兵」を作り上げた例は前代未聞である。

証言者が「(自分の父を射殺したのはアメリカ兵」であると二度も念を押したにもかかわらず、元琉球新報の記者の取材者は、公的刊行物である『那覇市史』に「射殺したのは日本兵」として記録しているのだ。

ことほどさように沖縄で発刊されている沖縄戦史はすべて眉につばして読む必要がある。

                           *

 沖縄県文化協会会長の星雅彦氏は、県の依頼を受けて県内の知識人として初めて、『鉄の暴風』の著者よりも早い時期に、集団自決の行われた座間味、渡嘉敷両村の現地取材をした人物である。

沖縄の文芸誌『うらそえ文藝』(15号)が、同誌編集長星雅彦氏の執筆による「『集団自決』 その真相を墓場まで」と題する論文でこの公的刊行物の捏造記事を紹介している。

例えば、次のような氏独特の婉曲な表現で、従来の沖縄戦史を批判し、集団自決の核心に迫っている。(引用文の太字強調は引用者)

隊長命令や軍命の有無について考えてみる。 すると思い付くことは、根拠がないのに当然あるかのような形を示し得るスタイルで、うまく誤魔化している場合があるということだ。また根拠や理由は不明瞭でも当然起きた筈だと言うような、妥当性の範疇の推量でもって真実性を想像させ得る背景もある。 たとえば軍命令の有無が裁判で争点になっていようとも、その背景や根本問題に真摯にむきあっていると受け取られることによって、賛同が得られる場合もある。 そしてそれらの間隙に、「捏造」が挿入され得るのである。

公的刊行物の記述に疑念を持った星氏は、その中から御存命の証言者を精力的に追跡調査し、改めてその証言を採録し、公的刊行物と実際の証言との矛盾点を指摘している。 

ということは、ほとんどの証言者が、自分の証言が捏造されている事実を知らないままに長年過ごしてきたことになる。 

そして今回の星氏の指摘によって初めてその事実を知ったというから驚きである。

本文中の「避難壕の自決とその謎」という章から例を挙げてみる。

去年(2009年)12月中旬に、筆者は那覇市の繁多川図書館で同地在住の知念勇(76歳)からミー壕(新壕)にまつわる話を聴かせてもらった。 そのいろいろ含みのある話の中には驚くべき事実が隠されていた

このような書き出しで始まるこの章には、当時国民学校6年生であった知念勇さんが、学校の授業はほとんどない毎日を壕掘り狩り出された様子が記されている。

そして昭和19年のいわゆる10・10空襲の時、警察署員と一緒に住民が逃げ込んだ壕に日本軍の将校が現れ、この壕は軍が使用するから民間人は移動せよと命ぜられた話を次のように記している。

将校たちが去ったあと、壕内は打ちひしがれたように悄然となったが、それでも住民たちの多くは、身の回りの品をまとめはじめた。 署長代理は「今出て行くと危険だから、様子を見てから署員の誘導に従ってください」と告げた。
数時間後にはミー壕から次々と住民は出て行き、民間人は具志堅夫婦とその息子の古康さんと勇さん(証言者・引用者注)と父親の五名が残った。(略)

突然、歩哨が駆け込んで来た。 とすぐ、那覇署員たちは移動し始めた。 その後、日本軍も間もなく撤退して出て行った。 米軍が押し寄せてくる予報があったのだろう。 小一時間後に、数人の米兵がどかどかと入ってきた。 彼らはすぐ合図しあって、具志堅古康さんと勇さんの父親を黙って引っぱって壕から外へ連れ出した。 
一人の米兵は残って勇さんたちを見張っていたかと思うと、2、3分もたたぬうちにカービン銃の音がバラバラと外から聞こえた。 すぐに米兵が立ち去った後、少し間をおいて勇さんたちは父親たちを探しに外へ出た。 一面瓦礫の空間には人影らしきものは見当たらず誰もいなかった。 勇さんの父親は50歳くらいで一般住民の姿をしていたが、古康さんの父親は軍服を着ていたからまぎれもなく日本兵に見られたのだろう。 二人は抵抗しようとしたのか分からないが、何かトラブルで射殺されたに違いない。 連れていかれた二人はその後永久に姿を見せなかった
・・・年老いた知念さんの話はここまでである。

■日本兵と米兵を故意に入れ替える悪質な歴史捏造■

この面談の後、星氏は公的史料である『那覇市史」に掲載された知念さんの聞き取り調査の記述に明らかな作為的捏造部分を発見し、確認のため再度知念さんに面談することになる。

その驚きに満ちた経緯を上記文に続けてを星氏はこう記述している。

ところが、筆者は『那覇市史 資料編弟3巻7』の中に「子どもと沖縄 繁多川の警察壕で」と題して知念勇さんの手記が載っているのを見つけた。 「《前略》父親はある日突然日本兵に連れ出された。 父親が連れ出された後、2、3発の銃声がしたが、父と共に連れ出された20歳くらいの青年と共に、再び壕には帰ってこなかった(後略)」(410頁)と記されている。 末尾に採話者「嘉手川重喜」とある。 筆者の知人であるがすでに鬼籍の人である。 
後日、再び知念勇さんに会って確かめてみた。 「自分も不思議に思っている。なぜ、米兵に連れ出されたということを、取材する人に2度も3度も言ったのに、どうして日本兵に入れ替わったのだろう?」と本人はいぶかしがるのであった

この部分を読んだ時、星氏が昨年、雑誌『正論』12月号に寄稿した『「鉄の暴風」はGHQの宣撫工作だった』と題する論文の次のくだりを、とっさに連想した。

沖縄戦の証言者がほとんど物故された現在、知念勇さんの例のようにご存命の方に証言を再確認して公的刊行物の意識的捏造を発見するのは奇跡に近い。

もし星氏の再調査が遅きに失し、不幸にして知念さんがなくなられていたら「知念さんの父親ら二人が、日本兵に壕から連れ出され射殺された」ということが、歴史の真実として刻まれることになる。

危うく沖縄タイムスが目論む「残虐非道な日本兵」の捏造の歴史に新たな頁が加わるところであった。

星氏はさらに、集団自決の史料として研究者なら一度は目を通したはずの『座間味村史』下巻の「村民の戦争体験記」を取り上げ、そこに記された20数名の体験記を「それらすべては伝聞であるが、隊長命令があったと記された証言が多い」として、各証言者の動きを検証している。 ここでその内容は省略するが、沖縄で集団自決を研究するに当たり異論を述べることが、いかに困難であるかを自分の経験を基に次のように述べて、論を結んでいる。

ここで、沖縄の新聞を代表する世相を端的に言えば、沖縄では一般的に、二人の隊長の命令によって、集団自決が決行され、惨たらしく多数の住民が犠牲になったという見解だ。 それでは、もっともらしいが、よく考えると奇々怪々にさえ思えてくる。 今や軍命に意を唱えて探求すると、変人扱いされるか、他人の傷跡を暴く悪趣味に過ぎないと批判されるのだろう。 しかし沖縄戦の真実は、隠蔽されない限り、見えてこないのであろうし、そのような視線にこそ重要な意味があるような気がしてならない。(了)

星氏は、沖縄で沖縄紙を代表する論壇に異論をそえ文芸』14号で沖縄タイムスと琉球新報を真っ向から批判して以来、それまで両紙から定期的にあった原稿依頼も全く途絶えたと聞く。 これは同時に沖縄二紙に反旗を翻した上原正稔氏についても同じことが言える。

全体主義の沖縄で軍命に異論を唱えるのは変人扱いされるに止まらず、文筆で糧を求める人にとっては死活に関わる大問題でもあるのだ。

集団自決といえば沖縄タイムスやサヨク出版社の高文研や岩波書店によって発刊された本しか読まない人々にとって、星氏の今回の論文は是非とも一読を薦めたい最新の「集団自決研究」の書である。

■安仁屋教授の歴史捏造■

私が同書に疑問を持つようになったのは、県資料編纂所が刊行する『沖縄県史第九巻 沖縄戦記録ー』の執筆のため、北谷村から南部・中部の集落を回って聞き取り調査をしたことがきっかけだった。

あれは確か1970年の暮れのことだった。 私は県資料編纂所の職員のAとBの訪問を受けた。 Aは私の書いた原稿について「なぜ日本兵の善行などを書き入れるのか」と詰問してきたのである。 取材は各区長の家に集まってもらい、これを記録するという形で行った。 取材は私一人ではなく資料編纂所の名嘉正八郎と一緒であった。 

この取材で日本兵が住民を助ける話も幾つか出たので「そういうものも記録すべきだと思った」とだけ答えた。 県資料編纂所のA職員は県史編纂時の検閲の役割りを担っていたことになる。

因みにAはマルクス主義で、一つのイデオロギーに全ての物事をはめて判断しようとする傾向があったのだ。
この取材を通して私は『鉄の暴風』は、日本軍を「悪」とするために創作された、ノンフィクションを巧みに交えた推理小説風読み物ではないかと考えるようになった。 そこには日本軍部と国民、また日本軍と沖縄住民を二極に分離させ対立させる仕掛けが巧みに織り込まれているのである。 まさしく江藤淳が『閉ざされた言語空間』で指摘したように、日本と米国の戦いを、日本の「軍国主義者」と「国民」との戦いにすり替えようとする米軍の底意が秘められているのである。(190~191頁)

これについて筆者はA氏の正体を続々・星氏が『鉄の暴風』を批判!県資料編纂所職員の正体のなかで次のように暴露しておいた。

1970年の暮れに星氏を訪問し、氏が提出した原稿に「なぜ日本兵の善行など書き入れるのか」と詰問したマルクス主義者の県資料編纂所のA職員のことである。

ご本人の星氏は「A氏はまだ元気で沖縄で活躍されている方なので・・・」と実名を語るのを憚っておられるが、沖縄は狭いところで調べればすぐ正体はばれるもの。

1970年当時に県資料編纂所の職員であり、しかもこのような過激な発言で星氏に詰問する人物は自ずと限られてくる。

安仁屋政昭沖国大名誉教授は、沖国大の前は1967年から5年間、沖縄県資料編纂所の職員であり、そのマルクス主義的発言は現在も衰えてはいない。

なお、安仁屋教授は「集団自決」訴訟の被告側応援団の理論的中心人物であり、宮城晴美氏の恩師であることは夙に知られたことである。

その後、星氏が聞き取りした「日本兵の善行」は、安仁屋氏により「沖縄県史」から削除された。

                        ◇

【おまけ】

「繁多川の新壕でも威張っていたのは、警察だった」

以下は琉球新報に掲載された知念 勇さん証言

[23 たった一人の生還(6)]昼は壕、夜食料探し

“収穫”たたり、地雷踏む

  昼は壕内に隠れ、夜は食料探し、時には浜辺で語らう瀬底正賢さんらの共同生活が1カ月余たった7月下旬のことだ。海岸を中心に求めていた食料も、そのころには戦闘もなくなったこともあり、かなり遠くまで行っていた。米軍のキャンプからの“戦果”や近くの畑からの“収穫”があり、食料事情もよくなっていた。

 その日も6人でイモ畑まで出かけ、袋に詰められるだけの“収穫”を得た。瀬底さんは月に照らされたみんなの顔に白い歯が浮かんでいたことを今でも覚えている。だが、“収穫”が大きなことが不幸につながった。重いので帰りは近道を選んだ。そこは敗残兵が出没するということで地雷が埋められている。

 地雷に知識のあるという知念1等兵が先端になった。「次に私、当間、上前、夫婦連れと続いた」。10メートル間隔で進むことにした。慎重にしばらく進んだ瞬間、ものすごい爆発音。瀬底さんがおぼえているのはそこまでだ。

 爆風で5メートルほど吹っ飛ばされ意識を失った。知念1等兵は即死、肉片しか残らなかった。夫婦連れの女性の方も死んだ。腹わたがはみ出していたという。

 意識不明の瀬底さんを左足に傷を負った学友が30メートル余の断がいを背負って下まで運んでくれた。「当間嗣冠が背負ったが、今見ても1人で上り下りするのも難しい場所を、よく運んでくれたと感謝している」。

 その当間さんも、地雷で受けた左足の傷がもとで亡くなる。死ぬ間際は顔が硬直、言葉もでない。体全体がけいれんする。けいれんを全員で押さえることぐらいしかできなかった。「生き残れば遺骨は渡してやるから」と瀬底さんが話しかけた時、目が安心した表情に変わったように思えた。

 遺体は米軍の毛布で二重三重に包み、壕内の割れ目に葬った。瀬底さんはすぐに、移動が割と自由だったCP(民警)を志願、遺骨を親元に手渡した。それとともにCPもやめてしまった。

 具志堅という工業生も8月上旬ごろ亡くなった。共同生活が始まって間もなく、傷を受けた腹部を三角布で巻き、さ迷っているのを瀬底さんが見つけ、一緒に行動するようになった。

 「140センチぐらいと小さく、目がパッチリしてかわいかった。首里の人で言葉もはっきりしており、親せきに議員だったか偉い人がいると話していた」。

 小さな工業生は「子どもと思って米軍は撃たない」と昼間から水くみに走った。しかし、3度目の昼間の水くみの時、丘の上の機関銃から狙われた。波打ち際に少年は倒れ、沖へ沖へとさらわれていく死体を目の前に見ながら、だれも壕から出ることはできなかった。瀬底さんは工業学校の戦没者名簿から具志堅という名を探してみたが見つからない。

   ◇   ◇

 瀬底さんらが捕虜になったのは終戦からかなりたった10月3日だ。6月下旬の司令部壕の落盤で負傷した上前寛市さんも、かなり弱っていた。瀬底さんも地雷に吹き飛ばされた時、30カ所に大小の傷を負い元気はなかった。

 南部の収容所に着いた時、元警察署長だった責任者に「上前君は弱っており、早く医者に見せてもらいたい」とたのんだ。だが、返って来た言葉は「学徒兵でも陸軍2等兵は陸軍2等兵。そんな言い訳は聞けない」と断られ、トラックで屋嘉収容所に運ばれた。2、3日して上前さんは傷口が悪化、死亡した。

 「軍部とともに威張り、私たちを戦場へ駆り立てていた警察幹部が、そのころには米軍の下で威張っている。たった1人生き残った学友も彼が奪った。今でも彼に対して怒り、うらみは消えない」―純心であるがゆえに、戦場での犠牲も大きかった学徒だけに、変わり身の早い大人たちの身勝手さは許せなかった。

(「戦禍を掘る」取材班) 1984年12月19日掲載

 

【追記】

沖縄戦記『鉄の暴風』、慶良間諸島の記述は嘘

 世界日報 2020/8/05  

終戦から75年 沖縄戦の真実を語る(上)

 今年は終戦から75年。戦争の生き残りや当時を知る証言者が少なくなり、歴史の風化も懸念される。中でも、沖縄戦については、沖縄の復帰前後から自虐的な論調が目立ち、軍の命令による集団自決という事実と異なる概念が定着した。集団自決が起きた慶良間諸島で戦争聞き取り調査をした作家の星雅彦氏と沖縄戦ノンフィクション作家の上原正稔氏に沖縄戦の真実について語ってもらった。2回に分けて掲載する。(聞き手・豊田 剛)

沖縄県文化協会顧問 星 雅彦氏
ノンフィクション作家 上原 正稔氏

記者は現地取材せず、左翼が広めた造語「集団自決」

 ――星さんは沖縄戦の聞き取り調査をしているが、どういういきさつで仕事を引き受けたのか。

沖縄県文化協会顧問 星 雅彦氏(豊田 剛撮影)

――星さんは沖縄戦の聞き取り調査をしているが、どういういきさつで仕事を引き受けたのか。

沖縄県文化協会顧問 星 雅彦氏(豊田 剛撮影)

  自分は那覇で生まれ育ったが、戦争で熊本に疎開し、その後、東京で暮らした。1965年に沖縄に戻り、美術の仕事をしている時、沖縄県史編纂(へんさん)所の名嘉(なか)正八郎所長に頼まれ、68年から1年半ほど聞き取り調査をした。

⇒最後にクリックお願いします

コメント (3)

新(4)貶められた旧日本兵、遺族会証言⇒集団自決者も準軍属に、

2021-06-23 09:19:46 | ★改定版集団自決

プロフィール画像

NO!残紙キャンペーンサイト

⇒最初にクリックお願いします

集団自決者も準軍属に、貶められた旧日本兵(4)2013-07-11 

 

【連載】貶められた旧日本兵-「援護法」に隠された沖縄戦の真実 (4)

遺族会幹部証言/集団自決者も準軍属に

 沖縄県遺族連合会のある役員は、同会が内部向けに発行した記念誌を提供してくれた。

 同誌に掲載されている座談会では、援護法の申請・適用に従事した遺族会幹部の苦労話がつづられている。その中で戦没者の処遇に関する発言のみを抜粋、引用する。ある幹部は語る。

 <就職十日目に「厚生省から係官が来るから座間味と渡嘉敷の集団自決を調べて来なさい」と言われて慶良間に行きました。援護法が出来たばかりで勉強もしていなかったので驚きながら、すぐ船で座間味に行き二泊して村役所で集団自決の話を聞き、船を用意してもらい渡嘉敷に渡り、渡嘉敷に二泊して集団自決の状況を聞き取り、事務所に戻ってレポートを提出しました。「大変な仕事を仰せつかったなあ」と思いましたが、のちに集団自決も戦闘協力で「準軍属扱い」処遇につながったのでいいことをした、と今ではおもいます。
 これが私の遺族会での初仕事です。>

 一人でも多くの県民に援護法を適用させるよう努力をしたことが証言で分かる。

 <戦没学徒の身分確定は、「十七歳以上は軍人」という規定があって四、五年生は十七歳以上で軍人なのですが「十七歳以下は軍属、女子は軍属」つまり一番戦死者が多い通信隊は二、三年生で十七歳未満で、肩章をつけていたのに軍属なんです。

 これには納得がいかず昭和三十年に「沖縄戦戦没学徒援護会」を作ってそこを中心に陳情や街頭での署名運動を展開しました。

 一万名の署名が集り、日本遺族会事務局長だった徳永正利先生が来沖された時にこれをお預けして、本土に持ち帰られ、国会で激論されて五年位かかって「男子学徒の戦没者は年齢を問わず全員陸軍上等兵にする」「女子は軍属とする」と身分が確定されました。

 17歳以下の学徒は誇りを持って日本軍と一緒に戦ったのであるから、「軍人」「軍属」として扱われるべきだとする遺族会の主張が認められた。戦後盛んに言われたように、沖縄県民、その中でも、学徒隊は「被害者」でも「哀れな乙女」でもないのである

 また、軍人軍属の戦死を証明する「死亡公報」も重要な事務処理のひとつだった。遺族の申し出を元に、戦没日時、場所、死亡時の状況、発見者を添えることが必要とされていた。

 <「沖縄戦で亡くなった軍人・軍属の死没処理」がありました。

 沖縄戦で戦没した沖縄本籍の軍人・軍属の数は約二万五千名なんですが、昭和二十九年の時点で死没処理された戦死公報の受領者は六千八百名。まだ約一万八千名が戸籍上は生きていて、「援護金の請求が出来ない遺族」が大勢いました。それで「戦死公報をとる」ため各市町村を回り、学徒は「現認書」(現認書類)、軍人・軍属は「申立書」を、遺族から聞いて代筆して書きあげました。>

(「沖縄戦の真実」取材班)

渡嘉敷島にある集団自決の碑

 

【おまけ】富村順一氏の独白

将校と自決した慰安婦

 実は私は約五年間、大阪の高島屋の前で路上生活をしながら沖縄戦を訴えてました。梅沢隊長は何十回も私の所へ来て下さいました。

 一番悲しいのは、慰安婦から従軍看護婦になった女性のことです。一人の将校が重傷を負い、慰安婦だった朝鮮人女性が野戦看護婦となり、看病に当たった。重傷の将校は意識が朦朧としたのか、「お母さん、お母さん」と叫ぶので、その看護婦は自分の乳房を将校の口に含ませたようです。すると二、三分は唸り声も治まるが、また繰り返す。その野戦看護婦はそばに居た衛生兵達に「外へ出て下さい。わたしがお伴します」と云って、自分の乳房を将校に含ませた儘、手榴弾を爆破させ、自爆したということです。この朝鮮人慰安婦は当時朝鮮は日本だったので、日本の皇民化教育を受け、日本の女性として誇りを以て、負傷した将校と共に自決したのだと思います。

沖縄人の見た沖縄戦② -座間味に咲けよ桜と木槿-      

 昭和史研究会会報130号 沖縄人の見た沖縄戦 ② 富村順一

 

 オモニーが語る木槿さん

 話は違いますが、私が高島屋の前の軒下で五年以上、雨の日も風の日も路上生活していた頃、月に二、三回私の所にホルモン焼きやキムチの漬物を持ってくるお婆ちゃんがいました。時々私が訴える話をじっと聞いていましたが、ある日のこと「実は座間味島に木槿の木を植えたい」という話がありました。「何故あなたは座間味島に木槿の木を植えたいのですか」と訊いたところ、「一年足らずであったが座間味に居りました。金木槿という友達が座間味島で戦死をしました。実は私は木槿さんと一緒にお仕事をしていました」と話されたのです。木槿と同じ釜山の出身で、座間味島に来たようです。金木槿さんとは隣近所で、朝鮮人に騙されて日本に来てくれと云われ、慰安婦にさせられたと云うことです。「木槿の家もよく知ってますが、名前と同じような木槿の木を彼女のお父さんが庭に植えていて、毎年その花は咲いてます。私はその木槿の花を見るのが辛くて、また日本にやって来ました。」

 余り詳しくは語りませんでしたが、座間味島で日本兵と共に自決した金木槿さんの友であり、戦場の慰安婦でもあり、また看護婦でもあった女性でした。

 朝鮮人に騙され慰安婦に 

 その女は釜山の中学校を卒業してます。木槿さんは大正生まれで、日本人として生まれて日本人として学校に行ったそうです。そうして朝鮮の病院で見習い看護婦をやっていたのですが、同じ朝鮮人に、日本に病院の仕事があるからと騙されて日本に連れて来られたのです。強制連行されたのではありません。これはそのオモニーの話です。

 そのオモニーは奥さんを亡くした韓国人の後妻になってホルモン焼き屋をしていたんです。難波にお店があったようで、一週間に一遍来てくれました。そして私が梅沢さんと相談して書いた座間味の看板を見て話しかけてきたのです。私はあんな達筆の看板は書けない。私が頼んで梅沢さんが公園で書いたんです。

 私が高島屋の正面玄関の前でそんなことが出来たのは、野村秋介さんのお蔭でもあるんです。野村秋介さんが山口組の南一家のヘンジャンテさんに頼んでくれたんです。東京でも野村秋介さんが、やくざ者に妨害されないように紹介状を書いてくれ、木刀まで貰いました。

 桜と木槿を座間味の島に

 私はその女性と約束したことがあります。いずれ一緒に力を合わせてあの座間味の島に木槿だけではなくて、日本の桜も植えようではないか。一緒に自決した軍人は桜に譬え、木槿は韓国の花であるから、二つ一緒に並べて植えれば、天国の二人も喜ぶのではないか、というような話をしたこともあります。 だがそれから私は高島屋の前に出られなくなって、その小母さんと会うことが出来なくなりましたが、たしか大阪の生野区にいらっしゃるという風に話してました。

 もし自決した慰安婦が日本人であったならば、大和撫子として誉め称えられたと思う。

 今度の裁判(集団自決冤罪訴訟―中村)は元部隊長を支援するだけではありません。元部隊長の無実を明らかにすることで教科書を正しく直すことも私の目的の一つです。

 また仮え朝鮮人慰安婦であっても、戦場で従軍看護婦となり、負傷した日本軍人のお供をして自決したとなれば、放っておいてはいけません。日本人として日本の教育を受け、少くとも大和魂があったからこそ、自決したと私は思ってます。私は大和魂には余り賛成しませんが、彼女はそう信じて日本軍人のお供をした訳ですから、私は日本政府だけでなく国民もその慰安婦に感謝すべきだと思います。

 自決した沖縄出身の大城明さんにとっては六十年経ってもまだ戦争は終っていなかった訳です。その自決に追い込んだのは『沖縄タイムス』、沖教組、関係者が捏造した本が原因です。これでは大城明君も報われない。また野戦看護婦として自決した金木槿さんも浮ばれない。いま私は、いずれ体が回復すればあの座間味島に木槿の木と桜の木を植えたいのが願望です。そのことについて協力して下さるという方々もいらっしゃいます。私は一日も早くそれが実現出来るようにいま努力しています。彼女は日本の教育を受け、私の想像では大和撫子の魂をもって自決し、お供したと思います。(完)

              ★

 沖縄タイムスなど沖縄メディアが担ぐ神輿にに乗った富村順一氏。

沖縄タイムス御用達の識者でいる限りは、沖縄メディアに文章を書いたり、講演活動などで、それなりの生活が出来たはず。

だが、富村氏が独特の動物的嗅覚で「集団自決の真相」を知ってしまってからは、それまでの生活は一変、極貧生活になる。 

富村氏の経済的基盤を支えていたサヨク勢力との付き合いを一切断ったからだ。

そしてサヨク活動家の暴力で、車椅子生活を余儀なくされても「大江・岩波集団自決訴訟」では不自由な体をおして原告応援に駆けつけた。

「人間、死ぬ前には嘘はつかない」という話しは、どうやら本当のようだ。

⇒最後にクリックお願いします

コメント (3)

笛吹けど踊らず!慰霊の日「知らない」75.5% タイムス・ヤフー 全国調査

2021-06-23 05:26:51 | ★改定版集団自決

慰霊の日「知らない」75.5% タイムス・ヤフー 全国調査 沖縄戦の知識 低い認知度

2021年6月23日 05:00有料

 戦後76年の「慰霊の日」に合わせ、沖縄タイムス社とヤフーは全国の人を対象に、沖縄戦の認識を問うアンケートを実施した。回答者2千人のうち、75・5%にあたる1509人が慰霊の日を「知らなかった」と回答した。

 「沖縄戦」について聞いたことがある人に誰から聞いたか、または何で知ったか(複数選択可)を聞いた質問では、全体の60・8%にあたる1216人が「テレビや新聞のニュース」と回答。「テレビドラマや映画」が43・3%(866人)、「沖縄戦について聞いたり見たりしたことがない」が18・3%(365人)と続いた。

 沖縄戦を学校で学んだ記憶については全体の28・2%(564人)が「学んだ記憶がない」と回答。「学んだかどうか分からない」が24・7%(494人)、「中学校で学んだ」が19・9%(398人)だった。

 今回のアンケートでは沖縄戦の体験者や、家族や親族、友人・知人から聞いたことがある人ほど、慰霊の日を「知っていた」と回答した人が多かった。また、沖縄戦関連の書籍で沖縄戦について知ったという人もいた。テレビや新聞のニュース、テレビドラマや映画で沖縄戦に触れていても、「慰霊の日」の認知度との関連性は低かった。

 沖縄大客員教授の新城俊昭さんは「(75・5%は)残念というほかない。沖縄戦に関する報道も沖縄と全国では差がある。全国の人たちが沖縄戦のことを目にしたり、耳にしたりする機会は少ないため、『知らなかった』という数字が大きくなったのだろう」と指摘した。

 沖縄タイムスは今回、ヤフーとの共同調査を実施。7~8日、10代以上のヤフーユーザーを対象にインターネット上で回答を募った。調査の詳細はQRコードから確認できる(23日午前5時10分から公開)。(デジタル部・比嘉桃乃)

(写図説明)慰霊の日だと知っていたか

(写図説明)学校で学んだ記憶はあるか

 

【おまけ】

沖縄タイムス紙面掲載記事

軍強制の記述 復活要求/教科書問題 11年目の報告集会

2018年10月7日 00:00有料

 沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」を巡り、高校の歴史教科書から削除された「日本軍の強制」や「軍命」の記述復活を求める「9・29県民大会決議を実現させる会」が6日、那覇市内で11年目の報告集会を開いた。教科書問題の経緯を振り返ったほか、沖縄戦で子どもがゲリラ戦に駆り出された「護郷隊」について学び、2007年の県民大会で決議した教科書検定意見の撤回と「強制」の記述復活を要求し続けることを確認した。

 教科書執筆者で、歴史教育者協議会副委員長の小松克己さんは「教科書検定の実態と沖縄」と題して講演。教科書検定基準などの改定以降、「政権の歴史認識に沿った内容を書かせる狙いが露骨になっていると感じる」と指摘した。

 教科書執筆者による琉球・沖縄史の研究が不十分である可能性に触れ、検定審議会の委員に沖縄近現代史の研究者を任命することなど、文部科学省への要請を強化することを提言した。

 名護市市史編さん室の川満彰さんは、北部地域を中心に10代の少年をゲリラ部隊に組織した護郷隊について、生き残りの元隊員から聞き取った戦争体験を紹介した。隊長がスパイと決めつけた隊員を殺すように別の隊員に命じたり、けがをして歩けなくなった隊員を軍医が殺したりといった証言を挙げ、日本軍による命令や虐殺があったことを説明した。

 琉球大学の高嶋伸欣名誉教授は、教科書から「日本軍による住民殺害」が全面削除されたことに県民が抗議し記述を復活させた1982年の出来事など、教科書問題の経緯を振り返り、要請を続けていくことの重要性を強調した。

(写図説明)県民大会決議の実現を求め、ガンバロー三唱する参加者=6日、那覇市古島

⇒最後にクリックお願いします

コメント (4)

手りゅう弾軍命説の破綻、日本兵に手りゅう弾渡す、 [戦後76年]秘した沖縄戦 

2021-06-23 05:02:44 | ★改定版集団自決

沖縄タイムス紙面掲載記事

戦後76年]秘した沖縄戦 今こそ 渡口彦信さん(94)読谷村

2021年6月22日 05:00有料

 【読谷】県内外で沖縄戦体験を語ってきた読谷村の渡口彦信さん(94)は21日、本紙の取材で、自責の念に駆られてこれまで語ってこなかった戦争体験を明かした。旧日本軍の同じ部隊の負傷兵に手りゅう弾を渡したこと、水を求めて懇願する女性の前を素通りしたこと。「人が人でなくなる戦争は二度としてはいけない」と言葉をつなぐ。

 1945年3月、当時18歳の渡口さんは高射砲隊に配属され、戦地で砲弾運びや水くみをしていた。米軍の機銃掃射や艦砲射撃などの攻撃に、上官や兵士が次々と死傷した。

 同じ隊員で奄美大島出身の桜田1等兵もけがを負った。「ほぼ毎夜、別の壕にいる彼におにぎり一つ渡しに行って元気づけた」。ある日、上官から命じられ、おにぎりの代わりに手りゅう弾を渡した。「自決用の手りゅう弾。渡す時はお互い、何も言わなかった」

 圧倒的な米軍の戦力を目の当たりにし、皆死ぬと思っていた。皇民化教育で「国のために死ぬもの」と信じ込んでいた。

 「私だけ生き残ってしまった」。胸につかえる思いを抱えながら、65年に奄美大島で桜田さんの兄弟を捜して訪ね、桜田さんの戦死を知った。自決したかどうかは定かではないが、遺族には「何と言っていいか分からなかった」。

 腰に水筒を掛けながら本島南部へ後退する道中、「水を下さい」と手を差し伸べてきた女性も忘れられない。視線は合ったが、そのまま通り過ぎた。なぜ、あのとき水を分けなかったのか。南部の道を通ると、女性のか細い声が聞こえてくるような気がする。

 戦後76年を迎え、戦争体験を語れる人が減る中、風化を懸念する渡口さん。生き残った者の宿命として「地獄よりひどい戦争を、後世に伝えていく」と誓った。(中部報道部・宮里美紀)

(写図説明)これまで語ってこなかった沖縄戦体験を語る渡口彦信さん=21日、読谷村内の自宅

                 ★

「手りゅう弾軍命説」の破綻!兵事主任富山真順の悲しい嘘2008-03-27

悲劇の日、「集団自決」犠牲者に史実継承誓う/座間味

 「集団自決(強制集団死)」訴訟の判決を前に、「沖縄戦の歴史歪曲を許さず、沖縄から平和教育をすすめる会」が二十五日、那覇市の教育福祉会館で集会を開いた。
 集会では、訴訟の経過や双方の主張、争点を分かりやすく伝えようと、模擬裁判が開かれた。同会会員が裁判官や原告、被告双方の弁護士に扮し、当時の戦隊長による直接の軍命の有無とその根拠、「集団自決」に使われた手榴弾の配布の事実や戦隊長の関与などをめぐり、法廷さながらの緊迫したやりとりを演じた。

 裁判官役が「なぜ『集団自決』が起きたと考えるのか」と問い掛けると、原告側役は「『戦隊長命令、軍命があったから死んだ』というのはあまりにも軽率だ。米軍に対する恐怖心や家族愛、狭い島での同調圧力が働いた」と主張した。

 被告側役は「当時は、戦陣訓や三二軍による『軍官民共生共死』の方針が徹底されていた。大変に貴重な武器だった手榴弾が戦隊長の許可なしに住民に渡されることは考えられない」と反論した。

 最後に、裁判官役が「沖縄戦では軍と住民の関係が如実に現れた。この教訓をどう学び、どう生かすかが問われている」と呼び掛けた。

                                                ◇

判決日(28日)直前になってこんなクダラナイ猿芝居をもっともらしく報じるところに沖縄タイムスの焦りが垣間見れる。

タイムスのベテラン記者が筆者の知人にふと漏らしたという一言が脳裏をよぎる。

「この裁判に負けたらタイムスは大変なことになる」。

大変に貴重な武器だった手榴弾が戦隊長の許可なしに住民に渡されることは考えられない

そう、「考えられない」のも道理で、「手りゅう弾交付説」自体が真っ赤な嘘だったのだ。

 

裁判の訴因は「名誉毀損」だが、最も注目を浴びるのは「集団自決」における「軍命の有無」だ。

これまで被告側がどこをひねくり回しても「軍の命令があった」という証拠は出てこなかった。

その結果出てきたのが、

「軍命の有無は問題ではない」、「タテの構造云々・・・」等の詭弁の数々。

これでは話にならない。

そこで被告側が唯一しがみつくのが上記記事でも出てくる「手りゅう弾軍命説」。⇒「大変に貴重な武器だった手榴弾が戦隊長の許可なしに住民に渡されることは考えられない」

「手りゅう弾配布」を証言したのが当時の役場の兵事主任をしていた富山真順氏(故人)。

この証言は裏づけの無いまま一人歩きして各メディアを流布し被告側唯一の物的証拠といわれた。

だが裏付け検証の結果富山証言は虚偽であることが立証されている。
   
富山証言の破綻の詳細は以下に引用。

3 富山(新城)真順
村兵事主任当時29歳。家永訴訟にのぞみ、《3月20日手榴弾交付説》を証言。(Ⅱ)
(1) 『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』(昭和28年)(乙10)
富山真順が、文献上初めて登場する。ここでは、《3月20日手榴弾交付説》に何ら言及していない。
(2) 『生き残った沖縄県民100人の証言』【昭和46年11月発行】(甲B21)
「3月23日夜、島は大空襲を受け・・・いよいよ決戦だという実感がこみあげてきたのはこのときでした(要旨)。特別幹部候補生も各船舶で特攻する準備を始めていた。顔見知りの学生に会うと、涙を流して『あなたがたは生きのびてください。米軍も民間人までは殺さないから』というのですな。若いのにしっかりした人でした。(中略)自決のときのことは、話したくないんですがね・・・いざとなれば敵を殺してから自分も死のうと・・・いつも二個の手榴弾をぶらさげていた。ところがイザ玉砕というとき、私の手榴弾は爆発しない。」
  ※ 《3月20日手榴弾交付説》は、この時点でも証言されていない
(3) 『ある神話の背景』曽野綾子著【昭和48年5月発行】(甲B18)
   『ある神話の背景』には、富山真順の話は出ていない。
    《3月20日手榴弾交付説》の証言は、《赤松命令説》とは何ら関係がないのである。
(4) 『渡嘉敷村史 資料編』【昭和62年3月31日発行】(甲B39)p369~372
   「兵事主任」の役割
「昭和十八年秋に、師団動員事務規程が改正になって、防衛召集は、市町村長に委任され、あっち(軍)から赤紙が来ていて、市町村長が、それを本人(召集者)に伝えて、それで市町村長の兵事主任との前打ち合わせがあって連隊区司令部の担当者(足立大尉)と、誰それは次の召集者と定めたりした。」(p369)
    しかし、《3月20日手榴弾交付説》にまつわる話は一切ない
(5) 小括
富山真順の《3月20日手榴弾交付説》は、金城重明の「誰も貰っていない」旨の証言、手榴弾の交付対象となる吉川勇助の陳述書においても何ら証言されていないこと等から、破綻していると言わざるを得ない。(沖縄集団自決冤罪訴訟最終準備書面http://osj.jugem.jp/?eid=28


                     ◇

このほかにも富山証言の「手りゅう弾交付説」が嘘であることは思わぬところから馬脚を現している。

「軍命あり派」側の「論客」である渡嘉敷島住民の源哲彦氏(61歳)の新聞投稿から発覚したのだ。

源氏とは、終始「軍命あり」の証人として沖縄紙のオピニオン面に活発に投稿している人物。

年齢から源氏は戦争体験はないようだが、重要証言者富山眞順氏から生前次の言葉を直接聞いていたというのだ。

「真実は今や私だけが知っている。 その真実は墓場まで私が持って行く」

以下に源氏の沖縄タイムス「論壇」投稿分を抜粋引用する。 

「論壇」

「真実」は消せない  軍命による集団自決

源哲彦 (渡嘉敷村、61歳)

(前略)

住民の「集団的な殺し合い」は一夜明けた3月28日に起こっている。
この事件について重大な事実が明らかになっている。 すでに米軍上陸前に、兵事主任新城真順(戦後改正して富山)を通じて「玉砕(自決)命令」が出されていたのである。 島の住民と軍との関係を知る重要な立場にいたのが兵事主任である。 兵事主任は徴兵事務を取り扱う専任の役場職員である。 
戦後、富山眞順(故人)は、軍から「自決命令」が出されていたことを明確に証言している(以下『渡嘉敷村史・通史編』。
①1945年3月20日、赤松隊から伝令が来て兵事主任に対し渡嘉敷の住民を村役場に集めるよ命令した。 兵事主任は、軍の指示に従って、「17歳未満の少年と役場職員を役場の前庭に召集した」。
②その時、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手りゅう弾を2箱持って来させた。 兵器軍曹は集まった20数人の者に手りゅう弾を2個ずつ配り、「訓示」をした。 「米軍と渡嘉敷島の玉砕は必至である。 敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になる恐れのあるときは、残りの1発で自決せよ!」。 このことを「軍の命令」、「軍の強制あるいは関与」がなかったとはいえまい。 当時の村長や兵事主任はすでに故人となり、生の声で、「証言」を聞くことはできないが、富山氏は生前「真実は今や私だけが知っている。 その真実は墓場まで私が持って行く」と言ったのを直接聞いた事がある。(沖縄タイムス 2007年9月2日)

 

わざわざ説明すまでもないが「真実を墓場まで持って行く」とは「死ぬまで真実を語らない」ということ。

富山氏は生前、同郷の後輩源哲彦氏に生の声で「真実は今や私だけが知っている。 その真実は墓場まで私が持って行く」と語っていたのだ

という事は戦後、重要証言として「軍命あり派」の唯一の証拠といわれた「手りゅう弾交付説」は富山氏が、何らかの理由でつかなければならなかった「嘘の証言」であった。

戦後、「集団自決」の真相がばれると「年金給付」が止められるという噂が村の長老の間に流れていた。 富山真順氏も宮城初枝氏もこういった噂を背に受けて嘘の証言をしなければならない悲しい立場にあった。

その「嘘と」と「真実」の狭間の心の葛藤が富山氏の「真実を墓場まで持って行く」という言葉に凝縮されている。

富山証言が嘘であることは下記エントリーでも詳述している。

 

「真実」は墓の中まで 「虚偽」と「真実」の戦い 「集団自決」訴訟2007-09-09 

「軍強制」を証言へ 廷岩波「集団自決」訴訟  

 沖縄戦中の1945年3月末、米軍が上陸した渡嘉敷・座間味両島で起きた「集団自決」(強制集団死)をめぐり、日本軍の隊長命令があったとする岩波新書『沖縄ノート』などの記述は誤りで名誉を傷つけられたとして、当時の戦隊長と遺族が出版元の岩波書店と作家の大江健三郎氏を相手に出版差し止めなどを求めている訴訟で、大阪地裁(深見敏正裁判長)は10日午後、福岡高裁那覇支部で出張法廷(所在尋問)を開く。 住民329人が「集団自決」で亡くなった渡嘉敷島で「集団自決」の当事者だった金城重明沖縄キリスト教短期大学名誉教授(78)=当時16歳=が証人として出廷。同島での「集団自決」について軍の強制や関与があったことや当時の状況などを証言する。法廷は非公開。訴訟は今後、11月に大江氏らの尋問、12月に最終弁論を行って結審し、来年3月までに判決が言い渡される見通し。金城氏の出廷で訴訟は大詰めを迎える。
 原告の元戦隊長側は「集団自決は住民の自然な発意によるもの」などと主張してきた。
金城氏は島で起きた「集団自決」に対する日本軍の強制や関与について、体験に基づき具体的に証言。原告側が隊長命令の有無だけを争点として主張しているのに対しては皇民化教育や日本軍の「軍官民共生共死の一体化」の方針など「集団自決」の背景にも触れながら、法廷で「集団自決」の実相を明らかにするとみられる。
 金城氏が「集団自決」の当事者として法廷の証言台に立つのは、1988年の第3次家永教科書訴訟沖縄出張法廷以来、19年ぶり、2度目。97年の最高裁判決は「集団自決」の原因として軍の存在や誘導を認定した。
 9日午後6時からは那覇市古島の教育福祉会館で前日集会、10日は午後一時から那覇地裁前で事前集会、午後4時半からは同市松尾の八汐荘で金城氏や弁護団による報告集会が行われる。

(琉球新報 9/9 9:51)

                     ◇

大阪地裁は10日午後、福岡高裁那覇支部で出張法廷を開き「渡嘉敷島集団自決」の生き残り金城重明氏の法廷尋問を行う。 

この裁判のハイライトとも言える金城氏の法廷証言でこの裁判も愈々大詰めを迎える。

これを受けて9日の琉球新報はまるで開戦前夜のような大騒ぎで紙面を「集団自決」関連記事で埋め尽くしていた。

                    

出張尋問は非公開なので当然証言内容を知ることは出来ないが、金城氏はいろんなメディアで証言しており、その証言の概略は本土新聞の記事から見ることが出来る。

2007年4月1日付の「筆洗」より。

東京新聞:六十二年前、目の前で起きたことが金城(きんじょう)重明さん…:社説・コラム(TOKYO Web)

以下引用。

 六十二年前、目の前で起きたことが金城(きんじょう)重明さんのまぶたには焼き付いている。村長の「天皇陛下万歳」の三唱を合図に、多くの家族が次々と手榴(しゅりゅう)弾を爆発させた。約一週間前、日本軍が一人に二個ずつ配った。一つは敵に備えるため、もう一つは自決用だったという▼沖縄県に属する慶良間(けらま)諸島最大の島、渡嘉敷(とかしき)島での出来事だ。当時十六歳の金城さんには手榴弾が回ってこなかった。だから二つ年上の兄と一緒に泣き叫びながら、石を持った両手を母親の上に打ち下ろした。次に九歳の妹と六歳の弟の命も絶った。どうやったのか記憶はない▼米軍が三月下旬に慶良間諸島、四月一日に沖縄本島に上陸して始まった沖縄戦は「軍民一体」の戦争だった。渡嘉敷島では軍の指示を受けた村長のもと、住民は日本軍の陣地近くに移動させられ「ともに生き、ともに死ぬ」と教えられた。手榴弾の配布は「自決せよという言葉以上の圧力だった」という▼文部科学省による高校教科書の検定では、集団自決を日本軍が強制したという趣旨の記述が修正された。例えば「日本軍のくばった手榴弾で集団自害と殺しあいがおこった」と▼同省は「近年の状況を踏まえると、強制したかどうかは明らかではない」と説明している。自由意思とでも言いたいのだろうか。金城さんは「歴史の改ざん。軍の駐留先で集団自決が起きている。本質はそこにある」と訴えている▼金城さんにとって、語りたい過去ではないはずだ。過ちを繰り返さないため、歴史の証言者になっている。耳を傾けたい。

(東京新聞 2007年4月1日付コラム 「筆洗」

                     ◇

偶然にも一週間前の9月2日の沖縄タイムス「論壇」に渡嘉敷在住の源哲彦氏が手りゅう弾に関する重要な発言をしていた。

その該当部分を抜粋次に引用する。

≪・・・戦後、富山真順氏(故人)は、軍から「自決命令」が出されていることを明確に証言している(以下『渡嘉敷村史・通史編』。

①1945年3月20日、赤松隊長から伝令が来て平時主任に対し渡嘉敷の住民を役場に集めるように命令した。 兵事主任は軍の指示に従って「17歳未満の少年と役場職員を役場の前庭に招集した。

②その時、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手りゅう弾を2箱持ってこさせた。 兵器軍曹は集まった20数名の者に手りゅう弾を2個ずつ配り、“訓示”をした。「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。 敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になる恐れのあるときは、残りの1初で自決せよ!」。

このことを「軍の命令」、「軍の強制あるいは関与」が無かったとは言えまい。 当時の村長や兵事主任はすでに故人となり、生の声で「証言」を聞くことは出来ないが、富山氏は生前「真実は今や私だけが知っている。 その真実は墓場まで私が持っていく」といったのを直接聞いた事がある。≫(沖縄タイムス

長々と源氏の「論壇」を引用したのには金城重明氏の証言に重大な関連があるからだ。

戦後、富山真順氏(故人)は、軍から「自決命令」が出されていることを明確に証言している(以下『渡嘉敷村史・通史編』。

奥茂治氏が実際に『渡嘉敷村史・通史編』の該当部分を確認したら、富山証言のいたるところに「軍命により」との書き込みが挿入され、その部分はインクの色、筆跡からいって後日書き込まれたことが明らかだったという。

>兵事主任は軍の指示に従って「17歳未満の少年と役場職員を役場の前庭に招集した。
・・・兵器軍曹は集まった20数名の者に手りゅう弾を2個ずつ配り、“訓示”をした。「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。 敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になる恐れのあるときは、残りの1初で自決せよ!」。

しかし、当時16歳の金城重明氏は「手りゅう弾は貰っていない」と証言している。 そのため二つ歳上の(18歳)の兄と二人で母や弟、妹を石で撲殺するという悲惨な体験をすることになる。

手榴弾を貰ってなかったから結果的に生き残ことになったのだ。

当時16歳の少年より、当時の実情を知っていたのは村長や兵事主任の富山氏だろう。

だが、金城氏が実際に手りゅう弾を貰っていない以上、「村史」に書かれた富山氏の証言は嘘ということになる。

源氏が富山氏の生前「真実は今や私だけが知っている。 その真実は墓場まで私が持っていく」という言葉を直接聞いたとすると

富山氏が今まで話してきた証言は嘘だということになる。

富山氏は(何らかの目的の為に)嘘を「村史」に残して真実は墓場の中まで持っていったことになる。

計らずも源氏は富山氏の生前漏らし言葉を直接聞くことにより富山氏の嘘を自ら証言する形になった。

してみると源哲夫氏の「論壇」の、「真実」は消せない 軍命による集団自決

というタイトルが妙に意味深に思える

⇒最後にクリックお願いします

コメント (1)

新(3)貶められた旧日本兵、「軍命自決」記述を手引き

2021-06-22 07:47:37 | ★集団自決

プロフィール画像

NO!残紙キャンペーンサイト

⇒最初にクリックお願いします

連載3、「軍命自決」記述を手引き2013-07-10

■7月10日付世界日報記事

【連載】貶められた旧日本兵 「援護法」に隠された沖縄戦の真実(3


戦闘参加者概況表/「軍命自決」記述を手引き

 当時、援護法の申請に関わった関係者の証言によると、当初は厳しかった申請書の受理条件が、関係者の熱心な折衝の結果徐々に緩和され、ついには「裏の手引書」とも言える冊子「戦闘参加者概況表」によって、一般住民に対する援護法の適用が容易になった。

 この冊子は、昭和32年7月頃、琉球政府が作成したとみられる門外不出の援護法適用申請の記載マニュアル。20項目を示した「沖縄戦の戦闘参加者処理要項」の発表に合わせて発行された。取材陣が入手したものは、昭和55年に沖縄県が再版したもの。沖縄県公文書館に保管され、表紙にはカク秘の印が押されている。

 「概況表」は、「沖縄戦の戦闘参加者処理要項」に該当する20項目について、地域と場所、そしてサンプル文が書かれており、援護法適用を申請する際に実際にマニュアルとして使用されたものだ。

⑥「食糧供出」 概況 戦闘開始後においても軍は食糧、馬糧の供出を要請していたため、各市町村長は区長に割当て、区長は壕長(の避難壕毎に指名された区長の分身者)に命じ砲爆撃、機銃掃射の危険を冒して食糧を収集(芋掘り、野菜取り、豚、牛、山羊の集荷等)して軍の戦力維持に協力した。>

対象期間は昭和20年4月上旬と指定、対象地域(協力市町村)は、「西原、浦添以南の地域各市町村、北部は本部、今帰仁、羽地、国頭、大宜味」となっている。

 <⑧「壕の提供」 部隊の配備変更による壕の不足或は前線から後退した部隊のため、或は患者収容所等を新設又は拡張するため、或は作戦上の必要から部隊の壕を交換するため艦砲砲爆撃又は機銃掃射、火焔放射、ガソリンによる焼払いに晒されて死亡した者が相当多かった。>。

この項目の期間と地域について、北部は昭和20年中旬から終戦まで、中部は同年4月初旬から終戦まで、南部は同年5月下旬から終戦と指定している。

 そして、日本軍のイメージを決定的に悪いものに仕立てたのが集団自決をめぐる記述だ。なお、この部分は、渡嘉敷村がホームページ「慶良間諸島の沖縄戦」で引用している。

 <⑮「集団自決」 狭小なる沖縄周辺において、米軍が上陸直前又は上陸直後に警備隊長は日頃の計画に基づいて島民を一箇所に集合を命じ「住民は男、女老若を問わず軍と行動を共に行動し、いやしくも敵に降伏することなく各自所持する手榴弾を以って対抗出来る処までは対抗し癒々と言うときにはいさぎよく死花を咲かせ」と自決命令を下したために住民はその命をそのまま信じ集団自決をなしたるものである。尚沖縄本島内においては個々に米軍に抵抗した後、手榴弾で自決したものもある。>。

「集団自決の地域」は座間味村、渡嘉敷村、伊江村に限定し、日付はそれぞれ昭和20年3月26日、同年3月28日、同年4月21日と定めている。

 この記述により「集団自決」した者は乳幼児までも「戦闘協力者」と認定する根拠となった。当時の厚生省が琉球政府による戦闘協力者の拡大解釈を黙認したため、後世の大きな悲劇を生んでいく。

集団自決」「壕の提供」「食糧提供」の事実は後に、左翼学者やマスコミによって「軍の自決命令」「食糧強奪」「壕からの追い出し」という言葉に変わり、極悪な日本軍のイメージを作り上げていったのである。

(「沖縄戦の真実」取材班)


                                    ☆

 

■富村順一氏の独白(2)

座間味との出会い

 私が座間味島に行ったのは
座間味戦記を書くことが目的ではありませんでした。

1960, 70年頃、私は東京の練馬区にいました。
当時私は、愛犬を連れて毎日、朝早く練馬の駅の前を散歩してましたが、
駅の前に『世界日報』という新聞が箱に入れられ、
「三十円を入れて、自由にお取り下さい」と張り紙がありました。
幼い時から余り良い人生を送ってないので、三十円の金を入れずに毎
日のようにその新聞を読んでいました。

ある日のこと、沖縄出身の宮平という牧師のことが記事になりました。
その牧師がインドネシアに於いてインドネシア解放、独立のために
日本軍から武器を譲り受け解放戦線に渡し、
その先頭に立ってインドネシア軍と共に戦ったという記事でした。

 私はそのような素晴らしい沖縄人がいたかと思い、連載されたその記事を
読み、いつかそのことを本に書いてみたいと思い、座間味島に行きました。

 役場に行き宮平牧師を捜したところ、親戚の宮平さんという方で島一番の
お年寄りの家を訪ねて行きました。
私が宮平牧師のことを話すと、そのお爺さんは「あゝ、あの中野無線〔注〕か。
あいつがインドネシアで日本軍から武器を引き取り、
解放軍と共に戦ったことはよく知ってる。
中野無線のことだからオランダ軍のこともよく知ってる。
だから彼は解放軍の一指揮官として戦った。

そのインドネシアのことよりは、この座間味戦記を書いてくれ」
と話しながら、お爺ちゃんは押入れから四冊の本を取り出してきました。

『鉄の暴風』『家の光』『沖縄県史』、沖縄県教職員組合が書いた『沖縄戦の真相』。
この四冊の本をテーブルの上に置き、手拳を振り上げて本を叩き、
「この四冊の本は嘘なんだ。
梅沢隊長が自決命令を出したというのはまるっきり嘘、
自決は我々村の有志が決めたものなんだ。
このようなことを書かれたのでは、お国のために日本の勝利を願い自決して
いった校長や村長郵便局長の魂が浮かばれない。

何とか真実を公表できないものか。
座間味戦記が小中高校の副読本になって嘘の教育をさせられてきた。
それが大きな問題だ。
君に頼みたいことがある。
賢い人が出来なくても、余り賢くない人が出来るものがある。
君は学校へも行ってない。が、失うものもない。
何でも云うことを云ってきた。書いてきた。
是非真実の座間味戦記を書いて欲しい。
そうでなければ死んだ人は浮かばれない。

梅沢隊長は慰安婦と爆死したとどの本にも載っているが、爆死した
梅沢隊長を見た人はいない。場合によっては生きているかも分からない。
ここに復員名簿がある。これをお前にやるから、これをもって暇のあるときには
訪ねて行き、島の戦記を聞いて欲しい」と頼まれました。
そうして封筒に足代として十万円ほどの金を入れて私に下さいました。

 あの宮平のお爺さんの、怒っているのか悲しんでいるのか判断のつかぬ
顔を見た時に、もしかしたら自決命令はなく、捏造された戦記ではないかと
考え、東京に帰ってから、暇な時には、復員軍人の名簿を頼りに
約30人の復員軍人の家を訪ね歩きました。

〔註〕中野無線・・・中野学校のこと。同校は「陸軍通信研究所」の
門札を掲げていた。宮平牧師が中野学校出身なのでこう呼んだ。(中村)



『梅沢隊長は健在だ』

 その中の一人、埼玉県大宮の関根清さんという衛生兵に出会うことが
出来ました。
関根さんは「家には妻や子もいるし、ここではそんな悲しい話は出来ない。
外で話そうじゃないか」と仰有ったので大宮の駅の前のお寿司屋さんに
入りました。お寿司が出ても席ねさんは二、三分、うつむいた儘
何も話そうとはしませんでした。溜め息をつきながら、

「実は富村さん、自決命令はなかったのだ。
梅沢隊長は自決命令を出して朝鮮人慰安婦と爆死したと沖縄戦記には
書いてあるが、梅沢さんはお元気である。自決命令は出てない」
と云ってまた溜息をつきながら、

「実は自決に関係しているのはこの私なんだ。
村の村長や校長先生、郵便局長、女を交じえた四、五人で梅沢隊長に
自決する手榴弾を下さいとお願いに行ったのだが、梅沢隊長に断られ、
そのため、よく部隊に出入りしていた女性がある衛生兵に顔なじみがいて、
その衛生兵に頼んだところ、当時島にいた従軍慰安婦が米軍上陸前に
梅沢隊長の命令によって、野戦看護婦になったようです。
その野戦看護婦が自決用として持っていたと思われる手榴弾を衛生兵が
取り上げて、宮城初枝さんに渡したということです。
その衛生兵が私です。
もしそのことが世間様に知られると、私の妻や子がどのような悲しい思いを
するかと思えば公表も出来ない」と云って涙を浮かべてました。

〔註〕宮城初枝や梅沢裕元隊長の手記によれば、隊長を訪ねた村の代表は
村役場助役兼兵事主任兼防衛隊長・宮里盛秀、同収入役・宮平正次郎、
国民学校校長・玉城政助、村役場吏員・宮平忠達、女子青年団長・
宮平(のち宮城)初枝の五人。
盛秀が隊長に要求したのは宮城初枝によれば弾薬。
梅沢元隊長によれば爆雷で殺して欲しい。
それが駄目なら手榴弾か小銃弾を頂きたいということであった。(中村)


宮城初枝さんの驚き

 梅沢隊長は生きていると聞かされた私は、
「では手榴弾を関根さんが渡したことは公表しないから、
梅沢さんの家を教えてくれ」
とお願いしても、
「すぐには出来ない。梅沢さんに断ってから教える」
と約束しました。

何日か後に電話で梅沢さんの住所を教えてくれました。
私は梅沢隊長に連絡し、関根さんと共に大阪に行き、食事をしながら
様々なことを話し合いました。

 死んだ筈の梅沢さんが生きていることを先ず最初に伝えるべき人は、
座間味島で是非正しい戦記を伝えて欲しいと私に頼んだ宮平のお爺ちゃん
であると思い、座間味島にお爺ちゃんを訪ね、梅沢隊長のお元気なことを
話したところ、お爺さんは「その話を一番知りたがってる人がいる。
一寸待ってくれ」と立って行かれ、宮城初枝さんを連れて来ました。

 宮城初枝さんは入って来るなり
「富村さん、梅沢隊長は本当にお元気ですか。それは本当ですか」
と云うので「間違いありません」と話したところ、
しゃがみ込んで泣いてました。

 「富村さん。私一人で勝手に文章を書いて『家の光』に投稿した訳では
ありません。
村の有志の方々に頼まれて仕方なく私は(隊長が自決を命じたと)書いたのです。
本当に梅沢隊長には申し訳ない。済みませんです。
今度会ったら、私がお詫びしていたとお伝えして下さい。そして島に来て下さい」
と話してました。

 このように謝る女性に話す言葉もなく、翌日、母の住む宜野湾市に
帰ったところ、宮城初枝さんの娘さんの晴美さんが、沖縄でたった一つの
月刊誌『青い海』の編集長をしていました。
お母さんから電話があったそうで、「梅沢さん、本当に生きていますか」
と私に訊くので「生きています」といったところ、確かめたいから
住所を教えてくれというので、私は晴美さんに梅沢さんの住所を教えました。

 この話がどのように伝ったのか、三日後に『沖縄県史』の編集長島力
(しまつよし)さんがまた私の家に来て、
「富村、梅沢さんは本当に生きているのか」と訊くので
「生きてます」と答えた。

 「もし梅沢さんが健在であれば確認したいし、自決命令も出てないとなれば、
『沖縄県史』も直さなければいけない。是非梅沢さんの住所を教えて欲しい」
という風に話がありましたので、私は『沖縄県史』の編集長である島力さんに
梅沢さんの住所を教えたので、梅沢さんと連絡が取れ、『沖縄県史』に
梅沢さんの手記が載るようになりました。


嘘の平和運動と訣別

 その何ヶ月か後、沖縄でアジアの平和集会という集会があり、
それを新聞で知って参加いたしました。
主催者は、中村先生も御存知の渡嘉敷島出身の方です。
大江訴訟の沖縄出張裁判で証人に立たれた金城重明さんです。
沖縄キリスト教短大の学長をなさって、現在は那覇の聖教会の牧師を
なさっている方です。
その方々が平和集会を主催したのです。
私も参加して、手を挙げて座間味戦記の話をいたしました。
そこには教職員組合、社会党、共産党といった錚々たるメンバーがいて、
多くの新聞記者もいました。

 私が沖縄タイムスの『鉄の暴風』や他の沖縄戦記の捏造した部分を
声張り上げて訴えたところ、ある知人に呼ばれました。
「お前みたいに本当のことを云っていたら平和運動は出来ない。
平和のためには多少の嘘は云ってもいいんじゃないか」
と云ったので私は「嘘を云って平和運動するなら、あんたなんかと共に
行動する必要はない。あんた達と平和運動するより犬をパートナーに一
人でいいから全国行脚をして沖縄の真実を訴える」と大衆の面前で叫び、
二匹のシェパードを連れてフェリーで沖縄を出発し、
鹿児島に着き、そこから歩いて全国を一周いたしました。

 私が沖縄戦記を訴える以前は、殆どの知人友人は左翼関係でした。
座間味戦記を捏造だと訴えはじめてからは、今までの仲間であった
運動家達は全部私の前から遠ざかり、私は一人孤立することになりました。

つづく

 

⇒最後にクリックお願いします

コメント (4)

集団自決、戦陣訓の神話-マスコミが作った戦後の後知恵

2021-06-22 05:34:53 | ★改定版集団自決

プロフィール画像

NO!残紙キャンペーンサイト

⇒最初にクリックお願いします

続・戦陣訓の神話2009-11-02

 

戦陣訓軍命説の神話の続編です。

◆「ビルマの竪琴」という映画を見た。

大戦末期のビルマ。

ビルマからタイへ逃れようとしていた井上部隊は、 そこで戦争の終結を知り、 イギリス軍に降伏し、 捕虜収容所へと送られることになる。

疲れきった隊員達の心を唯一慰めるのは、 水島上等兵の奏でる美しい竪琴の音色。そんな中、 未だに徹底抗戦を続ける友軍を説得する任務を水島が任されることになった。

しかし、 彼の説得は受け入れられず、 友軍部隊は全滅する。

1人生き残った水島はおめおめと原隊に戻る事が出来ず、そのまま姿を消してしまう。

やがて収容所に着いた井上隊は、 そこで水島とよく似た僧侶に出会う。

「水島、一緒に日本に帰ろう」と柵の中から呼びかける戦友達の声に寂しそうに顔をそむけて立ち去る僧衣の水島の姿が印象的。

彼は、 戦死した日本軍の霊を慰めるため故国への帰還を拒絶してビルマに残ったのだ。

彼が帰国を拒否してビルマに残った心境は何だったのか。

投降説得に失敗して友軍を全滅させてしまい、ただ1人生き残ってしまったことだった

そう、「恥ずかしながら」生き残ってしまったのだ。

 

◆横井軍曹や小野田少尉そして水島上等兵は「仲間」が全滅し自分だけが生き残ったことに「恥ずかしながら」或いは「申し訳ない」という心境だったと推測できる。

だが、彼らが一つだけ救われるのは「仲間」が全滅したのは、敵であるアメリカ軍の攻撃による戦死だったことである。

ところが「全滅」から生き残りながらも救われない人々がいた。

◆沖縄慶良間島の「集団自決」を生き残った人達である。

彼らの「仲間」は敵米軍の攻撃による戦死ではない。

敵ではなく、日本人同士お互いの手で親兄弟、或いは知人縁者を「全滅」させたのだ

「恥ずかしながら」生き残ったや「申し訳ない」では済まされない。

深淵な「贖罪意識」を胸に秘めて戦後を生き抜かねばならなかった。

例え戦時中で敵に取り囲まれ無差別攻撃を受けたパニック状態の出来事だとは言え、戦後の贖罪意識は消えることはない。

自分の手にかかって「全滅」した「自決者」のことを考えると、理由はともあれ集団自決体験者が「贖罪意識」に駆られるの当然のことだろう。

「集団自決体験者」の「贖罪意識」に巧妙に入り込んだのが、左翼学者集団の「反日思想」である。

「残虐非道の日本軍」という左翼の扇動に集団自決の生き残りの人々が引き込まれていくのは自然の成り行きであった。

結果として「集団自決軍令説」が形作られていく。

「体験者達」は「軍の命令で仕方なく」親兄弟、知人縁者を手にかけたと主張することで、心の奥に潜む「贖罪意識」は少しは緩和されたのだろう。

これに「援護法」の適用の問題が絡み、更に問題を複雑にしていく。

                      ◇

■戦陣訓に拘束力はなかった―司馬遼太郎

1972年4月、グアム島の生き残りの横井さんが帰国した時、マスコミは「恥ずかしながら生きて帰った」と言う発言に対し、

マスコミは、それまであまり聞かれることがなかった東条英機作「戦陣訓」という「点」と「横井さんの帰還」という点を強引に線で結んで一つの「面」を創造し報道した。

それは「生きて虜囚の辱を受けず」の精神に横井は縛られていたかのような報道だった。

集団自決の「戦陣訓神話」が誕生し瞬間であった。

ところが、自らも陸軍にいた司馬遼太郎氏は戦陣訓について、こうのべている。

戦陣訓という訓令があるとは知っていたが、どんな内容であるかは全く知らなかった。その程度のものだった」と。

司馬氏は、自らが理解できない出来事(横井氏の帰還)に明確な原因と結果を求めたがるマスコミの姿勢を批判した。

では、実際のところ、戦場での「戦陣訓」の拘束力はどうだったのだろうか。

学徒出陣し、戦車兵となった司馬氏が書き残している。

1972年のことだ。当時、元陸軍軍人の横井庄一が、グアム島で「発見」され、帰国した。 

司馬は横井について、いくつかの新聞社からコメントを求められた(大正生まれの『故老』=新潮文庫『歴史と視点』収録)。

同じ元軍人として、敗戦から27年間も潜伏していた兵士の心理を聞こうとしたのか、新聞社の質問者は司馬に「戦陣訓」の影響では、と問いかけた。 

問われた司馬は《なるほどそういうチャチな小冊子があったことを久しぶりで思い出した》。

しかし、それが兵士の意識を拘束したがために、横井のような人物が出たという見方には否定的だった。 《たかだか一省の大臣という役人が、法規を作るならともかく、孔子やキリストもしくは当時の天皇のように道徳をつくりだすような権能を持っていいものであるかどうかについては、これが刊行されたころすでに無言の批判があった》』、「司馬遼太郎」が「《なるほどそういうチャチな小冊子があったことを久しぶりで思い出した》。

しかし、それが兵士の意識を拘束したがために、横井のような人物が出たという見方には否定的だった」、と「戦陣訓」を軽視したようだ。

また司馬氏は戦陣訓について今でいえば生徒手帳の校則の記載があるように当時の軍隊手帳の戦陣訓は載っていたが、ほとんど読まなかったという。

同じく陸軍経験のある山本七平氏も戦陣訓については次のように明言し、戦陣訓の影響は戦争を知らない戦後の人々の後知恵であると喝破している。

たとえば横井さんが出て来たとき、すぐにその原因は戦陣訓ということになり、私自身も取材を受けたが、私は戦陣訓など読んだことはないし、部隊で奉読されたこともないと言っても、その人は信用しない。私は自己の体験を語り、その人は戦後生まれで軍隊を知らないのに信用しない。>(「私の日本軍」より)

陸軍経験のある多くの作家が戦陣訓について、司馬遼太郎氏と同じようなことを書き残しているが、安岡章太郎氏は前記山本氏を補足して次のように解説している。

≪ 戦陣訓に戻っていえば、私自身も一年半の軍隊生活で戦陣訓を強制的に講義されたりしたことは一度もない。それは軍隊内で、いわば体よく無視されていたと言えるだろう。
 しかるに現代のマスコミは、なぜ戦陣訓を重視したがるのか?それは山本氏も言うように、戦陣訓は実は当時のマスコミにかつぎ上げられてマスコミの中だけで拡まっていたものであり、それは現代のマスコミにも体質的に通い合うものがあるからではないか。

ちなみに戦陣訓は東条英機が首相になる前の陸軍大臣のころ公開されており、陸軍に反発する海軍には無視されていた。

戦陣訓を集団自決の「軍命説」の根拠にするのはNHKなど戦争を知らないマスコミが強引にこじつけた戦後の後知恵という山本七平氏の意見が正鵠を射ている。

陸軍や海軍に無視されていた戦陣訓に沖縄の民間人が縛られて集団自決をしたという説は、今では笑い話になっている。

                      ◇

◆「沖縄慶良間島の集団自決は軍の命令或いは強制によるものだ」と、主張する勢力は、これまでの論争の中で「軍命があった」という客観的証拠や、証言が無いと分かると戦術を変更し、「軍命の有無は問題ではない」と論点をすり替え始めた。

その論点すり替えの論拠が、

「軍官民共生共死」、「皇民化教育」、そして「戦陣訓」という三つキーワードであった。

ところが今回文科省が出したとされる指針によると、

日本軍だけが住民に「集団自決」を強制したと読み取れる表現を事実上、禁じている。 一方で「集団自決」が自発的な死ではなく、住民が「『集団自決』せざるを得ない状況に追い込まれた」ことは認め、その「背景・要因」を詳細に記述するよう促している。」(「軍だけが強制」禁止/文科省指針 全容判明 )

つまり、文科省指針は、これまで「軍命あり派」が「命令、強制」の根拠にしていた「軍官民共生共死」や「皇民化教育」といった左翼用語を使用しても(背景・要因)、日本軍だけが「集団自決」を強制したと読み取れる表現を禁じたのだ。

「軍命あり派」にとっては表現上非常に困難な立場に追い込まれたことになる。

>沖縄戦において「戦陣訓」は住民にも浸透していた。

沖縄在住の戦史研究家・奥茂治氏は「沖縄では戦時中といえども戦陣訓の『生きて虜囚の云々』は殆ど知られていなかった」と証言している。

「生きて虜囚の・・・」が初めて沖縄で知られるようになったのは、
昭和19年頃沖縄で放映された戦意高揚のニュース映画のアナウンサーの声で、初めてそんなものがあるのだと知られるようになったと言う。

そういえば、物故した筆者の父も生前、晩酌等などで御機嫌の時、戦時中に「教育勅語」を暗記した例は話していたが「戦陣訓」の話を聞かされた記憶は無い。

                    ◇

■横井庄一さんと共に戦陣訓は蘇った。

戦陣訓の「生きて虜囚の・・・」が亡霊のように甦ってきたのは戦後30年近くたって日本国民を驚かした横井庄一さんや小野田さんの帰還により、主として朝日新聞を筆頭にした左翼マスコミによって作り上げられた「後知恵」であり、捏造された歴史認識である。

そしてひとたびマスコミを通じて一人歩きを始めた「後知恵」は、一つの「歴史認識」として左翼学者の「歴史解釈」に多大な影響を与えた。

沖縄の左翼学者は横井さんや小野田さんの例と同じく、「歴史事実」である「集団自決」(点)と「戦陣訓」(点)の間を強引に線で結び、「沖縄戦において戦陣訓は住民にも浸透していた」という戦後の後知恵で次の結論をひねり出した。

「軍命による集団自決」、

つまり「嘘の歴史」をでっち上げたのである。

 

「付記」

戦陣訓の本訓その二 第八「名を惜しむ」項

恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜の辱を受けず、死して禍の汚名を残すこと勿れ。


【意味】
「恥を知る者は強いものだ。ふるさとの親類や家族の体面を考えて、(軍規に反して略奪や暴行などを行い)(憲兵に)捉えられてて収監されたり、死んでまでも罪人として扱われるような行動をしてはならない。」

「虜囚」は囚人であり、犯罪者の意味を持つ。

「俘虜」は捕虜の意味を持つが犯罪者の意味はない。

虜囚と俘虜という似た意味を持つ言葉を等式で結び、「犯罪を犯すな」と「捕虜になるな」とを同じ意味に捉えるのは捏造である。

確かに、「生きて虜囚・・・」と言ってはいるが「生きて俘虜・・・」とは言っては居ない。

【追記】

■五木寛之は軍人勅諭を暗記した

先日NHKラジオで聞いた作家の五木寛之のインタビュー番組で、戦時中の朝鮮の平壌の想い出話が出た。

その中で「小学校時代、教育勅語と軍人勅諭は必死になって暗記したので、今でも復唱できる」といった談話があったが、「戦陣訓」は話題にもならなかった。

当時の小学校には配属将校が軍事教育をしていたというが、軍人さえ良く知らないという「戦陣訓」が、教練の中にないのも当然だったのだろう。

戦時中の沖縄の学校で、将来軍人を目指す秀才達が必死になって「軍人勅諭」を暗記した逸話が県立ニ中(現在の那覇高校)の卒業生の文集に記録されている。

だが、ここでも戦陣訓の話は出てこない。

そもそも「教育勅語」も「軍人勅諭」も「勅」の字が付くので分かるとおり天皇陛下のお言葉(勅語)を文字化したものである。

従って当時の学生が「勅諭」や「勅語」を暗記しようと努力した気持ちは当時の時代背景から判断してもよく分かる。

ところが一方の「戦陣訓」は臣民である東条英機が発令したもので、軍人ならともかく、これを一般住民が必死に暗記したとは考え難い。

ましてや「戦陣訓」を自決命令と捉える「戦陣訓軍命説」は、戦後マスコミが作り上げた神話にすぎない。

沖縄の場合でも、当時のエリート高であった県立二中(現那覇高校)や県立一中の中でも当時の憧れであった士官学校への進学を希望する秀才達が競って暗記したのは「軍人勅諭」であった。

一般の小学校で「戦陣訓」を叩き込まれたという沖縄マスコミの論調は真っ赤なウソであることが分かる。

 

■那覇高校の大先輩も軍人勅諭を暗記した

以下の文は関東在住の「城岳同窓会(二中・那覇高同窓会)会報」よりの引用である。

城岳同窓会会報 第五号

座談会「素晴らしき青春―吾がニ中時代」を語る
日時:平成14年7月22日 場所:如水会館(東京・神田)

 
(略)

軍人勅諭を全文暗記したつわもの

北村:先生の話が出たところで、宮良(小宮)君関連のエピソードを一つ紹介しましょう。
 四年のとき教練の赤嶺先生(アカンミー)から「一週間以内に軍人勅諭を全文暗記して来い」との指示がありました。覚えてくる奴はまず居るまいと前文と忠節、礼儀の項だけを覚えて授業に臨みました。案の定、覚えきれた者はなくほぼ全員が失格。しかし、ここに居る宮良(小宮)君ただ一人が全文を正確に暗誦し遂げました。
 さすがのアカンミーもそこまでは期待して居なかったのでしょう、宮良君の熱意と頭の良さを口を極めて称賛していました。私は海軍に入ってからも軍人勅諭を全文暗記している人に出会ったことはありませんでした。

司会:皆さんの中には軍人学校に進学された方もおられますが、どう言う動機で受験されたのか。北村さんの場合はどうだったのですか。

北村:私の場合は、海軍の佐久間艇長殉職の記録に感銘を受け,どうしても潜水艦に乗りたいと思って、海軍兵学校を志望したのですが視力が0.3で駄目、結局は海軍経理学校を選択しました。入校して驚いたのは中学四年修了の"坊や"から3浪の"おじさん"までが混在しており、5歳の年齢差があったことです。訓育の標準は概ね一浪に合わせてあったので身体未成熟の四年修了や五年修了の連中は付いていけず随分苦労していました。幸い私は二中時代に柔道と「まちまー町廻い」で鍛えてあったので、カッター、陸戦、遠泳など、激しい訓練もそう辛いとは思いませんでした。

金城重栄氏をNHKが無理やり引っ張り出した印象の番組に関する過去記事NHK特番の感想 【重要付記】あり!を、補筆して以下に引用する。

2009年6月22日放映のNHK、「“集団自決”戦後64年の告白~沖縄 渡嘉敷島から」を途中からしか観てなかったので、コメントを避けていたが、知人の録画を見せてもらった。

予想通りとはいえ、過去に何度も登場した金城重栄、重明兄弟の手垢のついた「証言」を繰りかえしただけの陳腐かつ安易なな番組構成にコメンの必要もないと思ったのだが・・・。

保存記録として感想を記しておく。

全編を通じて、昨年8月29日放映の≪九州沖縄スペシャル“集団自決”~沖縄渡嘉敷島 兄弟の告白~≫の焼き直し番組で、唯一の変化は、兄の重栄氏が認知症になりかけて、現在は一人渡嘉敷を離れて那覇で入院生活を送っていること。

証言の主役は兄・重栄氏であったが、認知症で記憶を失いかけた重栄氏に、NHK担当者が無理やり用意した証言を言わそうとしているという印象であった。

同じ年の2月1日19時30分に放映されたNHK「渡嘉敷島の集団自決」も、金城重栄、重明兄弟が証言者として登場している。

実はNHKが渡嘉敷島の集団自決特集の為取材を始めた頃、渡嘉敷出身の知人から次のような連絡が入っていた。

NHK取材班は渡嘉敷島在住でで軍命があったと証言するのは、金城重栄氏と吉川嘉勝氏と数人の取り巻きしかいないが、また金城兄弟ではないだろうね>と。

予想は的中し、重栄氏が口にしていない文言も、ナレーションで勝手に「補作」していたし、戦陣訓の文章を画面にアップで映して「生きて虜囚の云々」の部分に光を当てて、アナウンサーが朗読し「これが重栄さんにとっての軍命だった」とナレーションを入れていたが、吉川嘉勝氏は何故か登場しなかった。

何のことはない。 これでは認知症の老人をNHKスタッフが取り囲んで予定した証言を言わそうとしているのが画面からミエミエではないか。 

それも上手くいかないので、戦陣訓の文言を画面に映し、「これが彼にとっての軍命だった」とは、NHKもとんだ猿芝居演出したものだ。

 

参考までに昨年6月放映ののNHK番組を見た感想引用するとこうなっている。

<同番組を見た感想ですが、特に目新しい証言はなかったが、

次の2点は、既知の事実とはいえ、天下のNHKが放映したということで重要な意味を持つ。

①父親殺害の告白

これまで金城重明氏は「親兄弟」という表現で母親と弟、妹を殺害したことは繰り返し告白してきたが、父親のことは逃避行中はぐれてしまい、どこかで不明死したと述べていた。

それが雑誌『WILL』増刊号でジャーナリストの鴨野守氏が、父親も殺害した事実をレポートしたため、隠せないと思ったのか今回の番組では父親殺しもカミングアウトした。

数ある集団自決の証言では、一家の主が年寄りや女子供を殺害したという例はあるが、壮年の父親をその子供が殺害したという例は未だないし、少なくとも筆者は知らない。

金城兄弟が、「親兄弟を手にかけた」といいながら、長いこと「父親殺し」を隠していた理由は一体なんだったのか。

勿論、番組ではこれには触れていない。

更に兄弟は、自分の親弟妹だけではなく、他の村人も数多く殺害している。

②金城重明氏は島で毎年行われる戦没者慰霊祭には一度も参加したことはなく、
島に住む兄の重栄氏は慰霊祭の日を避けて一人でそっと参拝していた

これも知る人ぞ知る事実ではあったが、今回NHKが本人たちに取材した結果、確実な情報となった。

この事実から、二人が渡嘉敷島では村八分状態であることがわかる。

遺族としては、敵である米軍の攻撃で死んだのなら諦めもつくが、同じ村の兄弟に自分の肉親が殺害され、しかも加害者が揃って生きている事実には耐えられないのであろう。

村人の突き刺さるような怨嗟の視線を背に受けると、金城兄弟としては、何が何でも「軍の命令だった」と言い続けなければ、戦後生きてはおれなかったのだろう。

すくなくとも、6人家族のうち、兄弟二人で、残りの四人を皆殺しにしたのなら、計算上は四人分の「援護金」が遺族である兄弟二人に支給されていることになる。(未確認)

自分の手で殺害した父母弟妹の「遺族援護金」を金城兄弟が受けているとしたら・・・・・・・・、

どんなことがあっても、軍に責任転嫁しなければ生きてはいけなかったのだ。

 
                    ◇
 
金城兄弟の「軍命あり論」は裁判でも否定されているので、ここでは詳しく述べないが、その破綻した「軍命あり論」を繰り返し放映しなければならないほど、軍命あり論派は追い詰められてきたのかと感じるような中身の無い番組だった・・・これが番組を見ての偽らざる感想である。
 
【付記】
 
渡嘉敷出身の知人から「NHK特番」を観た感想をいただきましたので、紹介します。
 
数少ない「軍命あり派」のなかでも出たがり屋といわれる元教師の吉川嘉勝氏が画面に出なかったのが不思議なようです。
 
やはり、早い時期に現地聞き取り調査をした星雅彦氏の告発が影響したのであろうか。
 
太字強調は引用者。
 
兄弟の周りにいる殺された人たちの親族、あるいは殺されかけた人たちが、あえて口からださなかったこと「惻隠の情」を加害者の側が無視して、呪縛から逃避し自己を正当化するためマスコミに登場(利用)したことは、地域においては受け入れられないと思います。
那覇で暮らす弟の方は創り上げた環境の中で生活できるからまだ良い方で、
島で暮らす兄の方は自己主張すればするほど、地域の人たちから離れていくことになると思います。

NHKはかなり前から2週間に1度程度は来島していたようですが、何をしていたのでしょうか?
あれだけ力を入れてあの程度の内容では、逆に驚きです。証言で登場した方達もでたがりで理由ありの人だけで、「あの人だったら言うだろう」と思います。
それにしても、吉川弟が画面に出なかったこと、あれだけの取材で彼らに都合の良い新しい証言が一つとして無かったことは、やはり命令なんて聞いた人はいなかったことの究極の
証明だと思います。

⇒最後にクリックお願いします

コメント (2)