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狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

沖縄紙が報じない金城重氏の闇の部分

2008-07-11 07:57:11 | ★集団自決

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雑誌『WILL』増刊号の内容はいずれも読み応えのある記事で埋まっているが、今日はその中から特に筆者が興味を持った記事を紹介したい。

集団自決問題の真相解明に精力的に調査活動を続けているジャーナリスト鴨野守氏の渾身のレポート「村民多数を手にかけた『悲劇の証人』金城牧師」である。

3月28日にの大阪地裁の判決文はA4で二百十九ページに及ぶ膨大なものだが、渡嘉敷島での集団自決の体験者で、

裁判長がわざわざ沖縄まで出張して尋問(非公開)した金城重明・沖縄キリスト教短期大学名誉教授への言及が全くなかった。

裁判前後から集団自決体験者の生き残りとして、県内二紙が絶えず金城の一挙一動を大きく報じ、

県内各地は勿論本土各県にも講演に出かける、いわば集団自決証言者のシンボルともいえる金城氏の、

わざわざ出張までして行った法廷証言が何ゆえ判決文では無視されなかったのか。

これに着目した鴨野氏は、彼のこれまでの証言などを掘り起こしながら、なぜ金城証言は無視されたかを検証し、金城氏がすでに語ったものとは違う「集団自決の真相」に迫った。

雑誌『WILL』増刊号に寄稿した鴨野氏の渾身のレポートはこのような動機で書かれた。

目下販売中の雑誌ゆえ、詳細は書店で購入のうえご購読願いたいのだが、

一言で要約すれば、

「沖縄のオジー(重要証言者)は、大ウソツキであった」

ということを鴨野氏は地道な検証・調査によって白日の下に晒したのである。

重要ポイントになる一箇所のみを引用する。(強調は筆者)

 昨年九月十日午後、福岡高裁那覇支部で行われた所在尋問(出張法廷)で、金城氏は証人として証言した。この尋問は非公開であるが、そこでのやりとりは反訳されて文書にまとめられている。自決の場面を、氏は次のように語っている。
  「
多くの家族がそれぞれ身内の者を殺していく。その主役を演じたのは父親です。しかし島では父親は軍隊に行ったり、県外、海外に出稼ぎに行ったりして数は少ない。したがって、そのかわり祖父がその役割を演じる。自分では死ねない幼い子供、女性、老人、そして最終はみずからも死んでいく。そういう手法でした。私たち家族に関しては六名家族ですけれども、父親は離れて、おりません
ですから手をくだす人はいないわけです。二つ上の兄と私は男性ですので、これは当然自分たちがやるべきことだと、・・・

金城氏は出張法廷で、他の家族は力のある父親や祖父が身内を手にかけていったが、自分の家族は父親は離れていたので、仕方なく自分と兄が家族に手をかけたのです、と“釈明”している。

ところが鴨野氏の調査によると、金城兄弟は父親も殺しており、その後沖縄紙の発言や講演などでも父親殺しは隠して発言している。

金城氏は何ゆえ一家の大黒柱の父親を殺害していながらそれを隠し続けてきたのか。

鴨野氏の迫真のレポートがその「不都合な真実」に迫っている。

沖縄のマスコミが決して報じることのない、鴨野氏のレポートを読んで、一番胸のつかえの下りた人たちは、渡嘉敷島の集団自決被害者の遺族の方々ではなかっただろうか。

彼らが言いたくてもいえない「真相」を、鴨野記者が代弁してくれた形になったのだから。

鴨野レポートを読む前に、関連の拙ブログを読んでいただけると、より興味深く真実が読み取れるのではないだろうか。

前に読んだ方も、ざっと以下再掲に目を通していただけると幸いです。

 

 

以下は過去ブログ「地獄を見た二人  雉も鳴かずば・・・」の一部抜粋引用です。

 裁判尋問「言葉失った」 「集団自決」で金城さん
<所在尋問で金城さんは被告の岩波書店の証人として出廷した。法廷は非公開だったが、金城さんは「あれは法廷なのか。法廷は公平と正義ではないのか。原告側弁護団は『ああしただろう、こうしただろう』と犯罪を吐かせるような形だった。私は腹が立ったというより言葉を失った」と、怒りを込めて振り返った。
 自らの体験を語りながら金城さんは「軍官民共生共死一体化」という日本軍の方針が住民を精神的に追い込んだと強調。「軍隊なしに集団自決は起こり得なかった。命令がなかったという意見があること自体おかしい」と述べた。>
(2/6 16:07)
 
                       ◇
 
>原告側弁護団は『ああしただろう、こうしただろう』と犯罪を吐かせるような形だった。私は腹が立ったというより言葉を失った」
 
金城氏のこの発言を見て思わず脳裏に浮かんだ諺がある。
 
金城氏には失礼だとも思ったが、あえて書かせてもらうと、
 
雉も鳴かずば撃たれまい。
 
悲惨な体験をした金城氏がその体験を語ることに異議を挟むものはいないだろうが、体験の事実を語るに留まらず、自己弁護とも思われる「軍命令」をかたくなに主張し、裁判の証人にまでなって「軍命」を主張すれば、原告側弁護団に厳しく追及されるのは当然のこと。
 
これに対して「私は腹が立ったというより言葉を失った」というのは、むしろ論理の矛盾を突かれ狼狽して「言葉を失った」というのが正しいのではないのか。
 
肉親に手をかけた贖罪意識で、論理を踏みにじるような「軍命」発言をしなければ、弁護団に追及されるような禍を招かずに済んだはず。
 
不謹慎ながら古い諺を想いだした次第。
 
金城重明氏の証言はこれまで地元紙は勿論本土大手紙でも幾度となく報道されている。
 
特に地元紙では肉親を手にかけた「悲劇の主人公」といった点を強調して紹介されているが、マスコミは彼が犯したもう一つの「原罪」については触れていない。
 
裁判ではその「原罪」について原告弁護団に追求された結果、狼狽して「言葉を失った」と想像される。
 
金城重明氏は当時18歳の兄重栄氏と二人で自分の親兄弟のみならず現場に居た他人の親子にまで手をかけていたのである。
 
                      ◇
 
■NHK特番「渡嘉敷島の集団自決■
 
2月1日19時30分に放映されたNHK「渡嘉敷島の集団自決」を見た。
 
「集団自決」の生き残り 金城重栄、重明兄弟が改めて証言した。

弟の重明氏は戦後島を出て本島に在住し「集団自決」の語り部として地元マスコミは勿論本土大手新聞でも再三登場し、証言を綴った著書もある有名人である。
 
一方、兄の重栄氏(81歳)は戦後も島に残り、農業に従事していたというが、少なくとも私の知る限り、これまで証言者としてマスコミに登場することはなかった。
 
弟重明氏の証言はこれまであらゆるところで発言しているので、主として兄重栄氏の発言を追ってみた。
 
6人妹弟の長男で当時18歳の重栄氏は病弱のため兵役に就けなかったが、その分だけ「日本軍の役に立ちたい」という気持ちが多く「島を守ってくれる」と信じる日本軍に親近感を持っていたという。
 
3月25日米軍の艦砲射撃が始まる。
 
その凄まじさは『鉄の暴風』と言われるが、
 
後の計算でいうと、砲弾の平方あたりの破壊力と島の面積からはじき出して、179発の艦砲射撃があれば島は全滅していたはずだが、実際は1250発の砲弾が島に打ち込まれている。 島の有効破壊率というのがあるとすれば実にその69倍の砲弾が打ち込まれたことになる。
 
金城一家は両親と弟妹の6人で壕で隠れるが艦砲射撃は朝から晩まで続き、米軍はついに3月27日上陸を開始。
 
その時軍服らしきものを着た二人の人物が現れ長老達に何か話していたようだが内容は砲弾の音で聞こえない。

その男は手りゅう弾を二個ずつ呉れたが、彼が兵器係であったことは 後で知った。

自分達兄弟には手りゅう弾はなかった。

3時過ぎ村長が「天皇陛下万歳」を叫び、次々「集団自決」が始まった。

「生き残ることへの恐怖」が自決を加速させた。

木の枝で作った木の棒で肉親に自ら手を下す、・・・それは家族への愛であった。  

このまま死ぬより1人でも敵を倒して死のうと切り込みに向かう途中、日本兵に遭遇し島がまだ玉砕していないと知った。 

番組では語られなかったがその後二人は日本軍の陣地で数日過ごすことになる。

                     ◇

重栄氏の顔が画面アップで「木の棒で肉親を手にかける」と言った時、一瞬表情がこわばって重栄氏の言葉が止まった。

その時彼の脳裏には肉親を自分の手にかけた地獄絵のほかにもう一つの地獄絵が思い浮んだと想像する。

重栄、重明兄弟は肉親の他に他人も手にかけていたのだ。

しかもそのうちの数人は生き残って島で生活している。

兄弟にとってこれ以上の地獄が他にあろうか。

弟の重明氏が戦後島を出て宗教の道に入った心境も理解できる。

だが、肉親どころか他人まで自分が手にかけた重明氏は自分達の取った行動を自責の念で「家族への愛だった」と弁明する。

その一方、責任転嫁で「軍の強制だった」と言い続けなければ生きてはいけなかった。

「集団自決」とは何だったのか。

追い詰められた末の、閉鎖空間における極限的な状況が生み出した「狂気」のなせる業であり、その「狂気」は元々人間の内部に潜む。

この解明には歴史家はもとより心理学者の検証研究が不可欠と考える。

                     ◇

 
曽野綾子さんが『集団自決の真相(ある神話の背景)』を出版する1年前の1971年。
 
沖縄在住の作家星雅彦氏が、渡嘉敷村の村長や駐在巡査や村民から「集団自決」の取材をし、それをまとめて雑誌「潮」(1971年11月号)に発表した。
 
雑誌「潮」1971年11月号
特別企画・沖縄は日本兵に何をされたか
星雅彦(作家) 
               (略)

修羅場と化した西山盆地
一方、西山盆地では、ほとんど無傷でいた阿波連の人たちの間から、無残な殺し合いが始まっていた。それは三百人の集団がアラシのように立ち去った直後だった。遠くで、迫撃砲が激しく炸裂するのを、生き残っている多数の村民は上の空で聞きながら、ある人たちはナタやガマを借りて生ま木を切って棍棒を作っていた。その側で、母や妹や弟を、青年になった息子が、ベルトでつぎつぎと締め殺していた。また手榴弾で死にそこなった渡嘉敷の人たちの間では、持ってきた農具がそのまま凶器に変わって、血縁へ向かって理解しがたい怨念を打ち出すように、妻子を惨殺しはじめた。
(略)
ウシが気が変になったように、「クルチ、クミソウリ」(殺してください)と小声で繰り返し言っているとき、七歳になる二女は「死にたくない、死にたくない」と泣き叫んだ。長女は妹を腹の下に隠すように押えつけ、ただ恐ろしさのあまりじっとしていた。そのとき、阿波連の青年たちがワイワイ騒ぎ立てながら走ってきた。血の気のない顔で、彼らは何やら奇声をあげ、まだ生きている人を探し出しては、持っている梶棒で撲殺するのだった。 
 
その中の金城重明(現牧師)という十六歳の少年がウシの側へ近寄ってきた。学校で成績がよいと評判の少年だった。彼は立ち止まった。と、いきなり直径十センチぐらいの棍棒を振り上げ、「まだ生きているのか!」と叫び、妹を抱き押えて後込みしている長女の頭へたたきつけた。ギャツという声が短く走り、頭から血が流れた。少年はもう一度たたきつけた。娘たちは動かなくなった。それから少年は血走った目をむいて、ウシを見た。ウシは祈るように、「重明……」と小声でいって目を閉じた。ガーンと頭が割れるような音がした。ウシは額の上を二度叩きつけられるのを感じた後、意識を失った。 
 

                        ◇

以下は金城氏証言「集団自決は家族への愛」よりの抜粋です。


金城氏「軍命出た」 岩波「集団自決」訴訟

 渡嘉敷島で「集団自決」を体験し、生き延びた金城重明沖縄キリスト教短期大学名誉教授(78)が岩波側の証人として出廷。「(島に駐留していた)赤松嘉次隊長が指揮する軍の命令なしに『集団自決』は起こり得なかった」として、日本軍の強制を証言した。
(略)

当時16歳だった金城さんも母と妹、弟を手にかけた。 軍の命令で陣地近くに集められていた金城さんら住民の下に軍の自決命令が出たようだとの話が伝わり、村長の「天皇陛下万歳」の号令で「集団自決」を始めたと具体的に証言した。
 「『天皇―』は玉砕の掛け声。村長が独断で自決を命じるなどあり得ず、軍命が出たということ」とし「集団自決」の直接の引き金に軍の強制があったと明言した。
 金城さんは家族を手にかけた時の気持ちについて、「米軍が上陸し、(惨殺されるかもしれないという思いで)生きていることが非常な恐怖で、愛するがゆえに殺した」と語った。
 (略) 原告代理人は会見で「村長が自決命令を出すはずはなく、軍命だったという金城氏の証言は推論にすぎない」などとして「金城氏は集団自決の隊長命令を語る証人として資格がないことがはっきりした」と述べた。

(琉球新報 9/11 9:38)

                      ◇

(9)防衛隊員、耳打ち「それが軍命だった」

 

★『WILL』緊急増刊号

特集<狙われる沖縄>の目
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19 コメント

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私見ですが・・・ (てぃんがーら)
2008-07-11 10:55:01
戦後60年経ち、戦争経験者も少なくなる一方です。
未だに詳細が解明されない集団自決、その最大の原因は長いこと臭いものに蓋という態度をとってきた国の責任であるような気がして仕方ありません。
今となっては、赤松氏や梅澤氏が「軍命」を発したのかどうか、また軍と民が一緒に戦闘に巻き込まれた混乱の中でどこまでが軍の関与と言えるのか、正直分かりません。確かに、軍の貴重な武器であった手榴弾を、民間人に配ったということは関与なのかもしれませんけど。
で、徹底した皇民化教育で国の為に命を捨てることを洗脳され、捕虜になれば男は戦車に轢かれ女は強姦されると教えられ、方言を使えばスパイとして処刑される、という環境の中、見たことも無かった米軍が大挙して上陸してくれば住民はパニックになったことは必至です。
多分、家族愛とか殉国とか尊厳死とか、そんなことは吹っ飛んで、狂気に支配されたのでしょうねえ。
大体、国と国との戦争の最中に、一隊長の命令があったかなかったかが問われる自体が意味があるのかと思ってしまいますねえ。
集団自決の本当の責任は、大本営と天皇にあると思いますよ。
あと、琉球は植民地視されていました。今でもそう思えますが、当時は琉球は中国と一緒に見られていたような気がします。日本軍は琉球人のことを土人と表現し、方言狩りし、大和の文化を徹底して押しつけました。反面、琉球の人も早く日本人として認められたいという気持ちもあったのでしょうねえ。そこを日本軍は利用したのではないかと。なんか、平頂山事件に通じるところも感じますなあ。
以上、私見です。
ただ、最も大事な事は、戦争は絶対に繰り返さない、ということ。戦争美化、戦争のできる国づくりには絶対に反対です。
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てぃんがーらさんとはちょっと違う意見 (ヒロシ)
2008-07-11 13:02:09
私の父は70過ぎですが、方言狩りをしていたのは日本軍ではないそうですよ。
捕虜になれば男は殺され女は嬲られるというのは教育というよりも、事実報道ですね。当時は通州事件の事が記憶に新しいがために、みんなが連想したとしても不思議ではないでしょう。
戦争を美化してはいけませんが、国を守るために命をかけた方々に感謝の気持ちを忘れてはいけないと思います。
戦争を起こす事はいけませんが、国を守る気持ちを捨ててもいけません。
先日も韓国が竹島は韓国のものだとアメリカの新聞に広告を出していますが、我が国の領土を侵略してきているのです。
中国がやってきたらどうするのか?尖閣諸島を狙っています。
Noとはっきり言わない日本は「いいカモ」です。
世界中からしてみれば日本人は「ゆすりたかられている金持ちのボンボンです」
このままでは日本は滅びてしまいます。

長文失礼しました。
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Unknown (涼月)
2008-07-11 13:16:48
金城重明は「自決命令が出た」と伝え聞いて、複数の人間を殺害→自決に失敗→その後赤松隊と遭遇し薬が置いてある場所を教えてもらう

本当に命令が出ていたのなら、赤松隊に遭遇した時点でこの人は死んでいなければおかしいんですよね。
生きているということは自決命令に反していたということになるのですから。
そこでまだ自決となるか、赤松隊が直接手を掛けるかのどちらかで。
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おしえを守った愛国少年に罪を転嫁するのか (ni0615)
2008-07-11 13:22:58
狼魔人さん
こんにちわ

鴨野守さんと言う方は、大日本帝國陸軍のうわべの尊厳を守ることに必死のあまり、ついに、大日本帝國の尊厳を赤松嘉次以上に忠実に守ろうとした当時の少年愛国者たちに、罪を着せて逃げ出すという究極のトカゲの尻尾切りをはじめたのですね。

少年たちは、<玉砕命令=戦いの足でまといになってはならぬ、決して捕虜になってはならぬ>という軍の訓示(おしえ)を、あの北山盆地で忠実に実行しようとしたのですよね。それとも通り魔的犯行に及んだとでもいうのですか?

鴨野守さんとはどの程度常識を弁えることができるご年齢の方かは知りませんが、軍の教えをまともに受けて行動した少年たちを非難して、<玉砕命令>の進行をあるがままに任せた現地部隊長の、プロとしての責任を問題にしない。

こりゃあ最高のトカゲの尻尾切りです。軍人や役人たちのトカゲの尻尾切りは、こうして今に至るまで何の恥じらいもなく連綿と続いていたのですね。

赤松大尉は決して末端の兵士ではありません。渡嘉敷島駐留部隊の最高指揮官です。そして同時に最高官位の国家公務員でもあったのです。臨戦態勢における最高指揮官です。

もちろん指揮官としてあの修羅場できちんとした判断を下す力がなかったことは同情します。だれが隊長になってもそんな力はなかったでしょう。恨むなら、そんな人間を惨い方針の実行責任者にした、戦争と戦争指導者を恨むべきです。

<玉砕命令=戦いの足でまといになってはならぬ、決して捕虜になってはならぬ>、この至上命令は、事後、捕虜になったことを理由にした数々の住民処刑で、赤松隊長自らの意志、命令で貫らぬかれました。<処置せい>という処刑命令は打ち消しようがありません。

赤松大尉は、こうした軍人である為のおぞましさ、悔やんでも悔やみきれなかったでしょうね、生きている間は。生き残った金城兄弟の罪責感に対しても、知っていれば、隊長である自分が代わりに背負ってあげたいと思っていたに違いありません。あの悪名高いアイヒマンですら、元ドイツ愛国小国民のためにそうしようと申し出たのですから。


鴨野守氏がしていることはまさに、罪責感をぬぐってあげようとしたアイヒマンの良心さえ罵倒する、恥ずべき行為ではないでしょうか。赤松大尉はそんなことを望んでいたでしょうか?
返信する
承前 (ni0615)
2008-07-11 13:30:32
<処置せい>という赤松隊長はくだした処刑命令は打ち消しようがありません。

赤松大尉は、こうした軍人である為のおぞましさ、悔やんでも悔やみきれなかったでしょうね、生きている間は。生き残った金城兄弟の罪責感に対しても、知っていれば、隊長である自分が代わりに背負ってあげたいと思っていたに違いありません。あの悪名高いアイヒマンですら、元ドイツ愛国小国民のためにそうしようと申し出たのですから。


鴨野守氏がしていることはまさに、罪責感をぬぐってあげようとしたアイヒマンの良心さえ罵倒する、恥ずべき行為ではないでしょうか。赤松大尉はそんなことを望んでいたでしょうか?

=======
すいません。字がこぼれてしまいました。
どうしても申し上げたいことだったので長くなってしまい、ごめんなさい。
返信する
争いは軍命の有無 (戦後教育を悲しむ)
2008-07-11 23:14:28
ni0615さん

あなたはいわゆる集団自決について、「軍命あり」を絶対の前提としておいでのようだが、今そこが争われているのではありませんか?
年齢のことを言えば、私は金城重明さんとおっつかっつの、戦争経験者です。(あなたがお幾つか知れないがね)ただ、私は沖縄人ではないから、いわゆる「鉄の暴風」は体験しておりません。しかし本土空襲は何度も体験しております。
大体、攻撃してきた相手は「米軍」じゃないの。日本人は、国を護る為に軍に協力したのが当たり前だったんでしょう。
今になって何故「日本軍」を敵にしたいんだろう?
私にはサッパリ分からないな。
返信する
承前 (戦後教育を悲しむ)
2008-07-11 23:24:46
沖縄の実際は知らないものですが、本土でも、軍の防御態勢に協力する民間人って、沢山いらっしゃいました。但し軍命を受けていた人は恐らくいませんね。
「鉄の暴風」を受けた沖縄と、本土とでは違いがあると思うから、私はこれまで余り口出ししなかった。
敗戦後、身近にいた戦争協力者があっという間に「民主主義者にも変身した例はいくらでも。私の「言論には懐疑を」という今に至る姿勢は、あれからでしょうね。
返信する
金城氏 (沖縄の憂鬱)
2008-07-11 23:28:26
狼魔人さま こんばんは

金城氏の辛い過去には同情します。が、愛するがゆえ
殺したのならなぜ軍命ありなのか,本来ならば彼は原告側の応援をするべき人物であるはずなのに・・。宗教やっても意味のない人ですね。
それから、なんか変なのがうろついてますね。憑依されないことをお祈りいたしております。



返信する
戦後教育を悲しむさんにお答えします (ni0615)
2008-07-11 23:51:49
>あなたはいわゆる集団自決について、「軍命あり」を絶対の前提としておいでのようだが、今そこが争われているのではありませんか?

32軍「戦闘指針」は立派な命令書です。「死んでも捕虜になってはならん」は、秘密特攻基地座間味、阿嘉、渡嘉敷の住民にとっては絶対命令でした。わたしはそう理解していますが、戦隊長応援団の皆さんからはそれに対する反論はありません。

>大体、攻撃してきた相手は「米軍」じゃないの。日本人は、国を護る為に軍に協力したのが当たり前だったんでしょう。

そうですよ。沖縄の人々の体験を読めば、ほとんど100%にの方々が「お国の為に」けなげに戦いに協力しました。集団自決も、そのけなげな協力の一つです。「戦えるものは戦え、戦えないものは足手まといになるな」という軍命のもとで。

そうした健気な住民を切羽詰って裏切ったのは、残念ながら「友軍」だったのです。軍という組織は「戦う」ために、「軍組織の維持」を最優先されるのが常なのでしょうか? そのために、赤ん坊の口を封じさせたり、壕から追い出したり、スパイ容疑で惨殺したり・・・

友軍の裏切りは、沖縄だけでなく満州でもありました。日本人開拓民を置き去りにして、関東軍は逃げてしまったのです。「祖国を守るため」といういいわけで。
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ni0615さんへ (戦後教育を悲しむ)
2008-07-12 00:14:01
あなたは、60年前の戦争を何処までご存じなのかな。

関東軍の主力は、敗戦直前、日ソ不可侵条約に頼って既に他方面に転進しており、満州には僅かな戦力しかなかったんですよ。手榴弾を渡し「自決しろ」とも言えなかったんですよ。

金城さんには、個人的に、心情に同情するところがあるが、曾野さん自身が自分のルポに「聞き書き」という形を取らず彼の当時の手記をそのまま「買い取り原稿」とするよう出版社に頼んだという経過を見れば、賢明な人にはなにか異常なものを感じたんでしょうな。

Y・KやS・I 何れもイニシアルだけにして置くが、戦時右翼、戦後派左翼の典型的な学者。

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