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「集団自決(強制集団死)」訴訟の判決を前に、「沖縄戦の歴史歪曲を許さず、沖縄から平和教育をすすめる会」が二十五日、那覇市の教育福祉会館で集会を開いた。
集会では、訴訟の経過や双方の主張、争点を分かりやすく伝えようと、模擬裁判が開かれた。同会会員が裁判官や原告、被告双方の弁護士に扮し、当時の戦隊長による直接の軍命の有無とその根拠、「集団自決」に使われた手榴弾の配布の事実や戦隊長の関与などをめぐり、法廷さながらの緊迫したやりとりを演じた。
裁判官役が「なぜ『集団自決』が起きたと考えるのか」と問い掛けると、原告側役は「『戦隊長命令、軍命があったから死んだ』というのはあまりにも軽率だ。米軍に対する恐怖心や家族愛、狭い島での同調圧力が働いた」と主張した。
被告側役は「当時は、戦陣訓や三二軍による『軍官民共生共死』の方針が徹底されていた。大変に貴重な武器だった手榴弾が戦隊長の許可なしに住民に渡されることは考えられない」と反論した。
最後に、裁判官役が「沖縄戦では軍と住民の関係が如実に現れた。この教訓をどう学び、どう生かすかが問われている」と呼び掛けた。
◇
判決日(28日)直前になってこんなクダラナイ猿芝居をもっともらしく報じるところに沖縄タイムスの焦りが垣間見れる。
タイムスのベテラン記者が筆者の知人にふと漏らしたという一言が脳裏をよぎる。
「この裁判に負けたらタイムスは大変なことになる」。
>大変に貴重な武器だった手榴弾が戦隊長の許可なしに住民に渡されることは考えられない
そう、「考えられない」のも道理で、「手りゅう弾交付説」自体が真っ赤な嘘だったのだ。
裁判の訴因は「名誉毀損」だが、最も注目を浴びるのは「集団自決」における「軍命の有無」だ。
これまで被告側がどこをひねくり回しても「軍の命令があった」という証拠は出てこなかった。
その結果出てきたのが、
「軍命の有無は問題ではない」、「タテの構造云々・・・」等の詭弁の数々。
これでは話にならない。
そこで被告側が唯一しがみつくのが上記記事でも出てくる「手りゅう弾軍命説」。⇒「大変に貴重な武器だった手榴弾が戦隊長の許可なしに住民に渡されることは考えられない」
「手りゅう弾配布」を証言したのが当時の役場の兵事主任をしていた富山真順氏(故人)。
この証言は裏づけの無いまま一人歩きして各メディアを流布し被告側唯一の物的証拠といわれた。
だが裏付け検証の結果富山証言は虚偽であることが立証されている。
富山証言の破綻の詳細は以下に引用。
3 富山(新城)真順
村兵事主任当時29歳。家永訴訟にのぞみ、《3月20日手榴弾交付説》を証言。(Ⅱ)
(1) 『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』(昭和28年)(乙10)
富山真順が、文献上初めて登場する。ここでは、《3月20日手榴弾交付説》に何ら言及していない。
(2) 『生き残った沖縄県民100人の証言』【昭和46年11月発行】(甲B21)
「3月23日夜、島は大空襲を受け・・・いよいよ決戦だという実感がこみあげてきたのはこのときでした(要旨)。特別幹部候補生も各船舶で特攻する準備を始めていた。顔見知りの学生に会うと、涙を流して『あなたがたは生きのびてください。米軍も民間人までは殺さないから』というのですな。若いのにしっかりした人でした。(中略)自決のときのことは、話したくないんですがね・・・いざとなれば敵を殺してから自分も死のうと・・・いつも二個の手榴弾をぶらさげていた。ところがイザ玉砕というとき、私の手榴弾は爆発しない。」
※ 《3月20日手榴弾交付説》は、この時点でも証言されていない。
(3) 『ある神話の背景』曽野綾子著【昭和48年5月発行】(甲B18)
『ある神話の背景』には、富山真順の話は出ていない。
《3月20日手榴弾交付説》の証言は、《赤松命令説》とは何ら関係がないのである。
(4) 『渡嘉敷村史 資料編』【昭和62年3月31日発行】(甲B39)p369~372
「兵事主任」の役割
「昭和十八年秋に、師団動員事務規程が改正になって、防衛召集は、市町村長に委任され、あっち(軍)から赤紙が来ていて、市町村長が、それを本人(召集者)に伝えて、それで市町村長の兵事主任との前打ち合わせがあって連隊区司令部の担当者(足立大尉)と、誰それは次の召集者と定めたりした。」(p369)
しかし、《3月20日手榴弾交付説》にまつわる話は一切ない。
(5) 小括
富山真順の《3月20日手榴弾交付説》は、金城重明の「誰も貰っていない」旨の証言、手榴弾の交付対象となる吉川勇助の陳述書においても何ら証言されていないこと等から、破綻していると言わざるを得ない。(沖縄集団自決冤罪訴訟最終準備書面)http://osj.jugem.jp/?eid=28
◇
このほかにも富山証言の「手りゅう弾交付説」が嘘であることは思わぬところから馬脚を現している。
「軍命あり派」側の「論客」である渡嘉敷島住民の源哲彦氏(61歳)の新聞投稿から発覚したのだ。
源氏はとは、終始「軍命あり」の証人として沖縄紙のオピニオン面に活発に投稿している人物。
年齢から源氏は戦争体験はないようだが、重要証言者富山眞順氏から生前次の言葉を直接聞いていたというのだ。
「真実は今や私だけが知っている。 その真実は墓場まで私が持って行く」
以下に源氏の沖縄タイムス「論壇」投稿分を抜粋引用する。
「論壇」
「真実」は消せない 軍命による集団自決
源哲彦 (渡嘉敷村、61歳)
(前略)
住民の「集団的な殺し合い」は一夜明けた3月28日に起こっている。
この事件について重大な事実が明らかになっている。 すでに米軍上陸前に、兵事主任新城真順(戦後改正して富山)を通じて「玉砕(自決)命令」が出されていたのである。 島の住民と軍との関係を知る重要な立場にいたのが兵事主任である。 兵事主任は徴兵事務を取り扱う専任の役場職員である。
戦後、富山眞順(故人)は、軍から「自決命令」が出されていたことを明確に証言している(以下『渡嘉敷村史・通史編』。
①1945年3月20日、赤松隊から伝令が来て兵事主任に対し渡嘉敷の住民を村役場に集めるよ命令した。 兵事主任は、軍の指示に従って、「17歳未満の少年と役場職員を役場の前庭に召集した」。
②その時、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手りゅう弾を2箱持って来させた。 兵器軍曹は集まった20数人の者に手りゅう弾を2個ずつ配り、「訓示」をした。 「米軍と渡嘉敷島の玉砕は必至である。 敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になる恐れのあるときは、残りの1発で自決せよ!」。 このことを「軍の命令」、「軍の強制あるいは関与」がなかったとはいえまい。 当時の村長や兵事主任はすでに故人となり、生の声で、「証言」を聞くことはできないが、富山氏は生前「真実は今や私だけが知っている。 その真実は墓場まで私が持って行く」と言ったのを直接聞いた事がある。(沖縄タイムス 2007年9月2日)
わざわざ説明すまでもないが「真実を墓場まで持って行く」とは「死ぬまで真実を語らない」ということ。
富山氏は生前、同郷の後輩源哲彦氏に生の声で「真実は今や私だけが知っている。 その真実は墓場まで私が持って行く」と語っていたのだ。
という事は戦後、重要証言として「軍命あり派」の唯一の証拠といわれた「手りゅう弾交付説」は富山氏が、何らかの理由でつかなければならなかった「嘘の証言」であった。
戦後、「集団自決」の真相がばれると「年金給付」が」止められるという噂が村の長老の間に流れていた。 富山真順氏も宮城初枝しもこういった噂を背に受けて嘘の証言をしなければならない悲しい立場にあったと推察する。
その「嘘と」と「真実」の狭間の心の葛藤が富山氏の「真実を墓場まで持って行く」という言葉に凝縮されている。
富山証言が嘘であることは下記エントリーでも詳述している。
「真実」は墓の中まで 「虚偽」と「真実」の戦い 「集団自決」訴訟
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http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-130429-storytopic-1.html
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200803231300_01.html
たかが「仮名」を書き忘れただけで人権侵害だと騒ぐ沖縄マスゴミは異常者か言論弾圧でもしたいのでしょうか。
恵さんも(本当に謝罪したとして)軽率な所はあったのかもしれませんが、まずはそのビラの内容がどんなものかわからなければ話にならないので両新聞に問い合わせてみたのですが、けんもほろろの対応です。
狼魔人さんがそのビラを入手しておられるのであればエントリー立ててもらえないでしょうか。
ここのところやられっぱなしのサヨクブロガーが鬼の首を取ったかのように騒ぐ様も気に入りません。
どうかよろしくお願いします。
そのチラシ私も見たいのですが、残念ながらは入手しておりません。
タイムス、新報が騒がなければ気がつかないのに反ってみんなの関心を引いてしまいましたね。
そのうちプレミアムが付いたりして。(笑)
どなたかお持ちじゃないでしょうかね。
メールで送ります。
国旗国歌推進県民会議
で、今検索してみたら、出るわ出るわ。今までがあまりにかっこつかなかったからですかね、ほんとに鬼の首とったみたいに騒いでますね。
惠忠久会長の沖縄左翼の愚挙に対する憤りがなせる業でしょう。ミスと言えばミスだが、上記の謝罪で済むことだと思いますがね~
確かに「国旗国歌推進県民会議」で検索するといっぱい出てきます。雨後の竹の子ならぬ、雨の県民大会後の鬼の首ですな。