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狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

新(7)貶められた旧日本兵、石原昌家氏「歴史捏造を恥じる」靖国合祀取消で原告証人/「自決軍命は虚偽」と証言

2021-06-28 11:08:59 | ★改定版集団自決
 

 

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■世界日報 7月15日掲載

【連載】貶められた旧日本兵 石原昌家氏「歴史捏造を恥じる」「援護法」に隠された沖縄戦の真実(7)

石原昌家氏「歴史捏造を恥じる」靖国合祀取消で原告証人/「自決軍命は虚偽」と証言


   集団自決は、沖縄だけではなく樺太や満州でも起きていた。それでは、なぜ沖縄の集団自決だけが大きく問題にされるのだろうか。

 理由の一つが「援護法」の沖縄県民への拡大適用。もう一つが沖縄タイムス社編「鉄の暴風」(朝日新聞)、大江健三郎著「沖縄ノート」(岩波出版)などの沖縄戦関連書籍による元隊長に対するいわれなき誹謗(ひぼう)である。

   集団自決で特に問題にはならなかった沖縄本島中部の金武村(きんそん)(現在の金武町)では、援護金申請の依頼を受けた村の指導者が、すべての申請書に「軍の命令による」と記入し、命令を発した軍人の名を「田中軍曹」という架空の名前を使用した。

   架空の軍人を申請書に書いて援護金の受給を受けた成功談は、戦後金武町教育委員会町史編纂(へんさん)室に務めた奥間俊夫氏が高橋秀美著「からくり民主主義」(新潮社)の中でこう証言している。

   <もらえるものはもらいなさい、という役所の指導があって病気や空襲で死んだ人たちの遺族も便乗して申請したんです。申請書類には誰の命令で行動したか、を記入する欄があるんですが、なぜかほとんどが“田中軍曹”でして、調べてみるとそんな人は実在しないんです。

   「援護金」を受給するために“田中軍曹”という架空の日本兵をでっち上げ、村民が「口裏合わせ」をしたことで金武村の場合は丸く収まった。

   しかし、この場合、「戦闘参加者概況表」で示された集団自決の地域(座間味村、渡嘉敷村、伊江村)には該当しない。援護法が拡大適用され、それが黙認されたことが分かる。

   一方、渡嘉敷、座間味両村の場合は、実在の梅澤裕氏と赤松嘉次氏を「軍命を下した日本兵」と明記したため、その後に大きな問題を残した。歪曲(わいきょく)・捏造(ねつぞう)された証言も一旦、公的刊行物に掲載されると公式見解としての「沖縄戦史」として独り歩きすることになってしまう。

   石原昌家沖国大名誉教授は、「沖縄靖国合祀(ごうし)取消訴訟」では原告(遺族)側の証人となって法廷に意見書を提出した上、証人にもなっている。石原氏は、沖縄戦で犠牲になった住民を靖国に合祀するため政府主導で「軍命による自決」などと「戦闘参加者」をつくって援護金を与え口封じした、という趣旨の意見書を提出した。

   ところが被告側弁護士の尋問で「歴史の改竄(かいざん)」について次のような証言をした。


 <被告弁護士 「事実と異なる内容の申請書を最初から出して、何の問題もなく適用された人も当然いますよね

 石原証人 「そうです。圧倒的ですよ」>

 
   「戦闘参加者」という援護法の受理条件を与えるため、「虚偽記入」を指導して援護法を適用させた事実を認めた。

   石原氏は、「大江・岩波集団自決訴訟」では被告側を支援し「軍命あり派」の論陣を張った一方で、「沖縄靖国合祀取消訴訟」では、「軍命は『戦闘参加者』を作るための虚偽記入」であると主張したのだ。

      (「沖縄戦の真実」取材班)

                ☆

 

沖縄メディアに登場する日本兵は、幼児を抱く母親を銃剣で威嚇する蝋人形(沖縄県平和祈念資料館)が象徴するように、米軍と戦うというより沖縄住民を虐殺するために沖縄に派遣されたかのような印象さえ与える。


 

実際はどうだったのか。

典型的な日本兵の暴状として頻繁に証言される「壕の追い出し」は、実際は一般住民を米軍の馬乗り攻撃から守るためだった。 

米軍の馬乗り攻撃とは、壕の上に米軍が馬乗り状態になり壕の中に潜む日本兵を火炎放射器、手榴弾などで攻撃し、日本兵の全滅を図る攻撃。

その際民間人が壕に留まったら、玉砕の巻き添えを食うことになる

昨年の6月、「沖縄靖国合祀取消訴訟」の原告敗訴が確定し、原告側証人石原昌家氏の証言が拙ブログ「石原教授の致命的証言!援護法申請で」などで、批判されるようになった。

■歴史捏造を恥じた石原氏

その後石原氏はジャーナリスト佐野眞一氏の取材に応えて「(自分らが歴史を)捏造した」「恥ずかしい」とまで吐露している。(佐野眞一著『僕の島は戦場だった』)

佐野氏の最新著『僕の島は戦場だった』から該当部分を引用する。

ーー「援護法」の適用にあたって最も多かったケースは何でしたか?

「壕の提供でした」

ーー壕の提供というと、自ら申し出たように聞こえますが、実際には軍の命令で強制立ち退きをさせられたわけですよね。

「ええそうです。一般の人の感覚で言えば、壕を追い出されたと感じたと思いますね。」

ーーでも、「壕を追い出された」では「戦闘参加者」にならず、「援護法」の対象にもなりませんよね。

「ええ、だから、マニュアルに従がって、”戦闘参加者”になるようにわれわれが代筆してあげたわけです」

ーー「つまり捏造した?」

「はい、そういうことです。 最初の通達では”戦闘参加者”は14歳までだったんです。 それが7歳まで引き下げられ、最後は0歳児まで認められるようになった」

零歳児が”戦闘参加者”に認められたのは、アメリカ軍が最初に上陸した慶良間での「集団自決」のケースである。

ーーそうしたことも”戦闘参加者”と認める業務をやってきたわけですね。 いま振り返ってどう思いますか。

まあ、恥を感じますよ。 おっしゃる通り、ゼロ歳児が”戦闘参加者”になるはずがありませんしね。 いまでも後ろめたく思っています(50頁~51頁、佐野眞一著『僕の島は戦場だった』)

       ☆

石原昌家沖縄国際大学名誉教授は、「沖縄靖国合祀取消訴訟」の原告側証人として証言台に立った。

そして「戦闘参加者」という援護法の受理条件を与えるため、「虚偽記入」を指導して援護法を適用させた事実を認めた。

石原氏は「大江・岩波集団自決訴訟」では被告側を支援し「軍命あり派」の論陣を張った。

その一方で、「沖縄靖国合祀取消訴訟」では、「軍命は『戦闘参加者』を作るための虚偽記入」であると白状したのだ。

石原氏は、同じ事案を同じ証拠物件で検証しておきながら、学者としての意見と、サヨク活動家としての意見が全く正反対であることを恥もなく法廷で証言してしまった。

学者の立場では、存在もしない「隊長命令」を援護金受給の方便として書いたと主張した。

イデオロギー活動家の立場では、国が援護法により歴史を捏造した主張する。

 しかし、いずれの場合も、結局は軍命は援護金受給のために「軍命による集団自決」と虚偽記入した事実を自供した結果になるのは皮肉である。

【追記】

下記引用の琉球新報は、タイトルは「歴史を政府が書き換えた、不実の記録」となっているが、実際は政府が援護法認定のために「軍命令があった」と申請すれば良いと示唆した内容である

結局、存在しなかった「軍命令」を政府が無理やりでっち上げて「援護法」の対象にしたというのだ。

したがって、そもそも軍の命令はなかったという証明にもなっている。

なお筆者の石原昌家教授は「集団自決」の「軍命あり派」の1人である。

学者の良心とイデオロギーの狭間に立たされる悩ましい論文ではある。

                     ◇

琉球新報 2006年12月7日(水)文化面

問われる「沖縄戦認識」 4  石原昌家 沖縄国際大学教授

不実の記録 政府が書き換え指導  援護法認定、「軍命」基準に

「援護法社会」の沖縄では、日本政府が琉球政府を介在して、沖縄戦体験者に「不実の記録」を指導していた。その構図は、「援護課」資料が浮き彫りにしている。

援護法」適用にのためという日本政府の「善意の外形」によって、一般住民の沖縄戦体験は「軍民一体の戦闘」という「靖国の視点」による沖縄戦認識として決定付けられることになった。「援護法」で一般住民を「戦闘参加者」として認定するにあたって、日本政府は軍命があったか否かを決め手にしていた。それでは沖縄県公文書館の「援護課」資料で、日本政府の「沖縄戦書き換えの指導」を具体的に見ていきたい。

▼軍命と積極的戦闘協力

1957年8月以降、一般住民の「戦闘参加者の申立書」の提出業務が開始されるや、「援護課」は、58年12月までには38,700件を受付して、厚生省に進達した。その後、5万件受付した段階で、那覇日本政府南方連絡所から61年6月30日で受付業務を締め切るよう通達を受けた。それで「援護課」としては4ヵ年で52、682件を受付処理したが、保留してあるのが12、241件にのぼった(61年7月14日援護課「沖縄戦関係戦闘参加者の処理について」)。

これらの援護業務の記録である「援護課」資料の1960年「戦闘参加者に関する資書類」の中に以下のような具体的「書き換え」指導文書が含まれている。

それは昭和34年10月12日付けで、厚生省引揚援護局未帰還調査部第4調査室長から、琉球政府社会局援護課長殿という宛書きで、「戦闘協力により死亡したものの現認証明について」というタイトルの文書である。

その内容は「別紙記載の戦闘協力者に対し、遺族より弔慰金の請求をされましたが、戦闘協力の内容が消極的に失すると審査課より返却されましたので、死亡者は、要請(指示)事項のみに終始したのではなく、当時の戦況から判断して現認証明事項の如きこともあったものと推定されるので、其の旨、審査課に回答した処、死亡の原因が回答のような積極的戦闘協力によるものであれば現認証明書を添付されたいとのことですが、現認欄記載の如き事項は、当時何人かが現認していると思われるがそうであったら然るべく御とりはからい願います」とある。ここで注目すべき点は、積極的戦闘協力が認定基準になっている、と窺われることである。

更に、62年1月、「戦闘参加者に関する書類綴」(援護課調査係)には、「戦闘参加者の申立書」に対して、厚生省から琉球政府への「要調査事項」として「昭20・5・10食料を求めるため部隊に行ったのは軍命令か、申立書の記述ではその点が不明確であるから解明されたい」と、軍命令の有無を重視しているその点については、「現認証明書を要する戦闘協力者氏名」の一覧表ではより明確な文言が記されている。

当時50歳の県庁職員が、「壕生活の指導並びに避難誘導のため麻文仁村に派遣された」が、「麻文村麻文仁で難民誘導の任務遂行中砲弾の破片により胸部に受傷戦死」したという現認証明に対して、「上記の理由では積極的戦闘協力とは認めがたいとの審査課の意見であるが、積極的戦闘協力の事実はないか 例えば軍命令により弾薬運搬又は食料の輸送の指導若しくは陣地構築の指導等の如きものとか、公務遂行中殉(職)というが、公務の内容はなにか 軍の命令により何か積極的戦闘協力はしたのか」などと具体的に書き方を指導しているのである。

▼0歳児の「準軍属」決定

同じく戦闘参加者についての申立書で未認定の当時9歳の学童のケースとして「壕」提供の記述例をあげよう。日本軍による住民に対する一般的な「壕追い出し」行為は、「艦砲弾が激しいため殆どの壕が破壊されたので作戦上壕を提供せよと命じられたので、軍に協力して他に避難場所を探し求めて彷徨している際、敵の小銃弾で頭部を撃たれ治療も出来ず出血多量で数時間後に死亡した」という表現パターンで、「壕提供」ということに書き換えが行われていった。

62年の同書類綴には、援護法の認定が保留になっていた座間味村の明治9年生が昭20年3月28日、「隊長命令による自決」という内容で「戦闘参加者」として認定されている。さらに66年「援護関係表彰綴」には、宮村幸延座間味村総務課長の「功績調書」に、「1957年8月、慶良間戦における集団自決補償のため上京す 1963年10月 集団自決6歳未満から0歳児まで(148名)準軍属に決定」と記されている。

「援護法で」で一般一般住民を「戦闘参加者」として認定し、「準軍属」扱いするには、6歳以上のもの対して「軍命令」によって「積極的戦闘協力」したものに限られていた。しかし、この「援護課」資料によれば、例外的に軍の命令を聞き分けられないと判断した6歳未満児でも、63年以降確定することになったようである。しかし、それは6歳未満への適用が一般化されるのが81年以降であるので、「戦闘参加概況表」の⑮集団自決に該当するケースのみであった

かくて、集団自決と認定されると、沖縄戦では0歳児でも「準軍属」扱いされ、軍人同様に「靖国神社」に祭神に祀られることになったのである。

                                 

           ★

以下に出典を記して、「援護法と軍命の捏造」の実態を列記する。

出典:那覇市史2-6 島尻郡旧真和志村戦争記 8頁(戦争と市民生活198頁)

証言者:金城 嘉味(明治32年生)

    金城 光順(明治26年生)

    比嘉 康進(明治20年)

内容: 

【金城 嘉味】空襲の時には区民は各自で掘った防空壕や墓などに入ったが、区民の大部分は戦車壕に避難した。私も戦車壕に入ったが、二十年三月二十五日にここを追い出された。その日壕の入口から海を見たら、一面米軍の艦船で埋まっていた。一緒にいた兵隊から「米軍はここに上陸するかもしれないから、一般民は出ろ」といわれて戦車壕から出された。それから私たちは国頭に行った。壕を出てからの行動は皆バラバラであった。夜は艦砲射撃がないとわかったので、昼間は寝て夜だけ歩いて四月一日に大宜見村の根路銘に着いた。

【金城 光順】私は戦車壕を出てからチブガーバル(壺川原)の親戚の墓に行った。そこに一ヵ月位住んでいた。そこにいる時には墓の入口に畳をたててあったので、それで爆風をまぬがれることもあった。米軍が勢理客に近づいた時に、軍命令によって玉城村に行けといわれた。

【比嘉 康進】私は戦車壕に入らず、石部隊の兵隊と一緒に協同で掘ったナーチュの壕にいた。壕には七家族,三十七人が隠れた。戦いが激しくなってからは、毎晩十人位の兵士が斬り込みに出かけたが、帰ってくるのはほとんどいなかった。斬り込み隊員が出かける時には、同僚たちは「斬り込みにいったらけがをしてはだめだよ、死んで帰ってこいよ」と励ましとも慰めともつかない見送りをしていた。

 石部隊が全滅したので、かわって球部隊がきた。彼らは壕に入ってくると私たちに「壕から出て行け」といったので、「出ない」といったら「殺すぞ」と脅迫した。―略

 

■優しかった兵隊さん

那覇市史第2巻中の6

114頁、公募原稿・市民の戦争体験沖縄戦32頁

8少年時代の悲惨な戦争体験    那覇市識名五 玉城秀時

昭和20年5月下旬頃、識名から西方凡そ六百米の大石森から機関銃の銃声が聞こえて来たので、私達は日本軍の機関銃の銃声だと思い込んでいたら日本の兵隊さんが、その銃声は敵だから君達は南部へ避難しなさいといって道順まで教えてくれた。識名東原を通り通称泊下橋を渡り現在の四十四号線に出た。そこに与那原へ向かっておよそ百米の地点で、日本の兵隊さん約三十人にであった。その際私達に向かってみなさん元気でなあ、と声をかけてくれた。その時兵隊さん達は鉢巻をしていたが、武器らしい物は持たず、なにか爆薬らしい小さな遺骨箱の様な物を持っていて、みんな歌を歌っていた。―略―

■その他、壕からの善意の追い出し

*6月18日 ひめゆり学徒の居た第三外科壕で比嘉軍医は、学徒に解散を命じ壕から出てゆくようにたしなめたが、なかなか出ようとしない学徒を追い出す為に日本刀を抜き、出なければ斬ると脅し出した。 出なかった者たちは米軍のガス弾で戦死した。

 

*沖縄第六十二師団 特設警備第二二三中隊 永岡敬淳隊長は、6月22日山城(旧喜屋武村)に集結したものわずか四名遂に負傷し戦闘する力尽き自決する。

岡隊長は暗い壕の中で手探りで一人びとり握手され「ご苦労さまでした。君たちは若い、死んではいけない!捕虜になりなさい。アメリカ軍は君たちをころすようなことはしないと思う。だから武器を(手榴弾)捨てて出なさい」と、「隊長さんは?」と訊くと、「私は、沢山の部下を失ったので・・」とおっしゃったあと、懐から数珠を出され、私たちの無事投降を祈られるように、「安子、生きて私の家族に巡り逢うことがあるはずだから、この数珠を預かってくれ。よろしく頼む」と私の首に掛けられました。それから、「だれも私の後について来るな」と言われ壕の出口方向に行かれました。多分そののち自決なさったと思います。(翁長安子)

*野戦病院長小池勇助隊長(少佐)は、6月26日真壁村糸洲の壕から積徳高等女学校の学徒に解散命令をだした。

「長い間、軍に協力してくださりご苦労だった」「・・・決して死んではいけない。必ず生きて家族のもとに帰りなさい。そして凄惨な戦争の最後を、銃後の国民に語り伝えてくれ。」と言われ看護隊一人一人と別れの握手をされた。

■壕の追い出しは、県民を救う為に行なったものであ

 

 1、 西平 守盛 元警視正(沖縄戦当時 警部補)玉城村付近一帯受

 

「銃突き付け日本兵は、住民を救うため」

 

 「ひらめき」14号21頁(国旗国歌推進沖縄県民会議会誌)平成12年2月11日

 

米軍の飛行機は「非戦闘員は、知念半島に避難せよ」という趣旨の「ビラ」を摩文仁方面で撒いた。それで、日本兵は、壕の中にいる住民に、「知念半島は安全だから壕を出て知念半島に行け」と言った。しかし、住民は聞き入れなかったから「銃突き付けたら聞き入れるだろう」と思って銃突き付け「出て行け」と言ったのである。・・・日本兵が自分の身の安全を図るために、沖縄住民を犠牲にしたと曲解して、「日本兵は悪者である」と悪宣伝しているのが、沖縄の現状である。

 

*ビラを拾った人は、壕の外に出て行動した人々であり、より勇敢な人たちだった*

 

【おまけ】

「白旗の少女」として有名な比嘉富子さんは、沖縄メディアが記録映画にでてくる自分の映像を利用し、「白旗を掲げる少女を盾に投降する卑劣な日本兵」などと日本兵を貶めている事実を知った。 

そしてその捏造記事に出てくる日本兵の汚名をそそぐ目的で、自著『白旗の少女』で、日本兵の壕追い出しについて次のように述べている。

 

(比嘉さんが壕に潜んでいたら、日本兵が入ってきた。)

以下引用。

5、6人の兵隊さんがやって来て、「どけどけ、ここでまもなく戦闘が始まるぞ!はやくほかえいけ!」とどなりました。わたしは夜になるのを待ちきれず、まだ日のあるうちにぬけ出し、あちこちのガマ(壕)からガマへとわたって、「ネェネェ、ネェネェ(オネーチャン・引用者注)」といいながら覗いては、先にガマに住んでいる人から、シ、シとまるで犬か猫のように追い出されるしまつでした。

(負傷兵がいる壕に逃げ込んだ比嘉さんに、日本兵が語りかける。)

『ねぇ、そこの」女の子。逃げるならいまのうちよ!もうすぐ、入り口をふさいで、爆弾でみんながしぬのよ。 それとも、わたしたちといっしょに死ぬ?』 わたしは、ぴくっと体をふるわせて、あわててガマをとびだしました。そしてできるだけ遠くへ逃げようと崖をおりました。 しばらくすると、うしろで大きな爆発音がして谷間にごうごうとこだましました。

 

別のアングルから撮られた写真

少女を盾に投降する「卑劣な日本兵」とは、はメディアによって捏造された真っ赤な嘘であることがわかる

(「卑劣な日本兵」を捏造したのは沖縄タイムスの新川明記者(後に社長)である)白旗の少女

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赤木俊夫氏の自殺、朝日らメディアと野党の不毛な追及が追い込んだ

2021-06-28 08:59:45 | マスコミ批判

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赤木俊夫氏を自殺に追い込んだ理由は、沖タイの親分の朝日新聞らマスコミが不毛なモリカケ問題を追求し、朝日の尻馬に乗った野党が赤木氏糾弾で国会を空転させたからだ。

赤木氏を自殺に追い込んだ犯人はマスコミと野党である。

そう、阿部岳記者らマスコミの「アベガー」の大合唱が赤木氏を自殺に追い込んだ。

盗人猛々しく何の反省もない阿部岳記者の関連コラム。

 
[大弦小弦]赤木ファイルというともしび
2021年6月28日 06:26有料

 ところどころに懐かしい筆跡がある。赤木雅子さんは亡き夫、俊夫さんが残した「赤木ファイル」を自宅でめくっている。「夫が帰ってきたみたい。いとおしい」

▼財務省は安倍晋三前首相や妻昭恵氏との親交をひけらかす森友学園に国有地を安く売った。ファイルにある通り「特例的」だった。政治問題化すると、近畿財務局職員だった俊夫さんはそうした文言を消す作業を強いられた

▼文書改ざんから4年、俊夫さんの自死から3年。雅子さんは国を相手にした訴訟でファイルを取り戻した。俊夫さんにとって改ざんの事実を記録に残すことが最後の抵抗であり、職業的良心の証しだった

▼生前、「私の雇用主は国民」と知人に語っていた。「国民のために仕事ができる国家公務員に誇りを持っています」とも。誇り高い公務員の存在は私たちにとっても誇りだ

▼上層部はどうだったか。俊夫さんは佐川宣寿元理財局長が「開示により新しい情報を与えることがないよう」改ざんを指示したと書き残した。ここで情報は国民の物ではなく、「与え」たり隠したりねじ曲げたりしていい私有物になっていた

▼腐敗したこの国の統治機構の中で、赤木ファイルは希望の象徴だ。俊夫さんが命懸けで守り、雅子さんの勇気が世に出した真実のともしびを、かき消させてはならない。再調査を。(阿部岳

 

赤木俊夫氏を自殺に追い込んだのは誰か

森友事件で自殺した元近畿財務局職員、赤木俊夫氏の遺した「赤木ファイル」が開示され、これについて安倍前首相がFacebookでコメントしている。

財務省が提出した関連文書は580ページもあるが、赤木氏が2017年3月に書いた「備忘記録 本省の対応(調書等修正指示)」は1ページだけである。

・本省において、議員説明(提出)用に、決裁文書をチェックし、調書の内容について修正するとの連絡受。本省の問題意識は、調書から相手方(森友)に厚遇したと受け取られるおそれのある部分は削除するとの考え。現場として厚遇した事実もないし、検査院等にも原調書のままで説明するのが適切と繰り返し意見(相当程度の意思表示し修正に抵抗)した。

◎本省の修正指示を受け、3月7日午前、速やかに部長に報告。本件事案は本省と協議し当初の定期借地契約を締結している過程等が調書から削除されることは今後の検査院への説明等に支障が生じるため、現場の問題認識として既に決裁済の調書を修正することは問題があり行うべきではないと、本省審理室担当補佐に強く抗議した。

→3月9日、近畿財務局管財部長から局長に報告。今回の対応(修正等)は、本省理財局が全責任を負う。近畿財務局長の責任で対応するとの発言(部長と本省幹部間で話をしたと思われる)。当局は一切修正作業は行わず本省が修正作業を行うとの説明受(納得できず)。

◎本省で、議員からの資料要求に対する佐川理財局長への説明過程や、同局長からの指示等の詳細が当局に還元(説明なし)されず、詳細が不明確なまま、本省審理室(担当補佐)からその都度メールで投げ込まれてくるのが実態。本件の備忘として、修正等の作業過程を下記のとおり記録しておく。

朝日新聞が火をつけ、野党が炎上させた

この後に一連の経緯を時系列で記したメモが続くが、赤木氏の事実認識を記した「備忘記録」はこれが全部である。後半の佐川局長が改竄を命じたところばかり報道されているが、安倍氏も指摘するように、最初に「現場として厚遇した事実もない」と書いている点が重要だ。

赤木氏が本省の指示に抵抗したのは、問題の国有地を森友学園に特別に低価格で払い下げる「厚遇」はしなかったから。その後の国会質問でも、売却価格が不当に減額されたという結論は出ず、刑事事件にもならなかった。もちろん安倍首相とも無関係だった。

公文書偽造は犯罪であり、それを命じた佐川元局長の責任は重いが、最初に森友事件に火をつけ、あたかも安倍氏が指示して減額させたかのような報道を続けたのは朝日新聞である。赤木氏は、それが誤報であることを当時から知っていたのだ。

では佐川氏は、なぜ問題のない記述を削除させたのか。それは安倍昭恵さんの名前を抹消するためだった。これは首相の「私や妻が関係していたということになれば、総理大臣も国会議員もやめる」という軽率な答弁(2017年2月17日)のあと、佐川氏が「交渉記録はなく、面会などの記録も残っていない」と虚偽答弁をしたのが原因だった。

野党は1年以上にわたって国会で森友問題を追及し、2018年3月6日には立憲民主党の杉尾秀哉議員と小西洋之議員が、財務省に乗り込んで「森友の決裁文書を出せ」と要求した。

杉尾秀哉氏のブログより

               ★

赤木氏が自殺したのは、この翌日(3月7日)である。理財局から決裁文書を出せという命令が出たため、それに抵抗して自殺したものと思われる。彼を自殺に追い込んだ直接の圧力は本省の理不尽な命令だろうが、野党の執拗な追及が引き金になった疑いが強い。

事実無根の「疑惑」を1年以上にわたって騒ぎ続けた責任に口をぬぐって、財務省の責任ばかり追及する野党とマスコミに対して、政府はきちんと反論すべきだ

 

【おまけ】

元NHK職員「赤木氏が自殺したのは、杉尾議員と小西議員が財務省に乗り込んだ翌日…その因果関係も調査が必要だ!」

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河野大臣に問う!国内の医師ら450人がワクチン接種中止を求めて嘆願書を提出

2021-06-28 07:59:16 | 医学・健康

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国内の医師ら450人がワクチン接種中止を求めて嘆願書を提出

ワクチン接種の中止を求める「新型コロナワクチンに警鐘を鳴らす医師と議員の会」(代表・高橋徳氏)は国会内で会見した=24日、東京都千代田区

嘆願書に同意したのは国内の医師390人と地方議員60人で、発起人の高橋徳・米ウィスコンシン医科大名誉教授(クリニック徳院長)は同日午後に国会内で会見。「死亡率が非常に低く、感染者の80%が軽症にもかかわらず、安全性もまだ分かっていない遺伝子ワクチンを国民全員に接種させる必要があるのか疑問だ」と説明。出席した他の医師からも「治験が終わっていない」「接種後に少なくとも356人の方が亡くなっている」などの発言が相次いだ。

この日は河野太郎ワクチン担当相が自身のブログを更新し、ワクチン接種を巡って「医師免許を持っているにもかかわらず、デマを流す人もいます」と批判。「長期的な安全性がわからない」などの意見も具体例に挙げたが、高橋氏は「情報の出所は厚労省のホームページ」と話し、他の医師からも「大臣がデマだと言い切る根拠は何か」と驚きの声が上がった。

               ★

厚労省がコロナワクチン「死亡事例」の詳細を公表しなくなった不可解

配信

日刊ゲンダイDIGITAL

ワクチン接種のペースは順調(C)共同通信社

 

ワクチン接種後に副反応疑い 2人死亡 7人重症

配信

沖縄ニュースQAB
 

QAB 琉球朝日放送

女子高生と医者

 

歴史的ビデオ

 

 

コロナワクチン3社 ファイザー 武田・モデルナ アストラゼネカ 厚生労働省のコメント 副反応がある 新しいワクチンのためわからない 劇薬

【おまけ】

沖縄タイムス紙面掲載記事

職員5人に兼務発令 県、ワクチン加速へ人事

2021年6月28日 05:00有料

 玉城デニー知事は24日、新型コロナウイルスのワクチン接種加速化計画を進めるため、池田竹州総務部長が保健医療部参事監を兼務する人事を発令した。

 保健医療部との兼務発令の対象は、池田部長ら5人。総務部の茂太強総務統括監が参事、山田みさよ行政管理課長は副参事、班長2人が主幹を兼ねる。計画の策定や速やかなワクチン接種に関する業務を担う。

 玉城知事は「広域的な立場から、迅速かつ柔軟に業務を進めてほしい」と訓示した。

 池田総務部長は「接種率が改善できるように取り組みたい」と抱負を述べた。

 保健医療部は高齢者接種の計画の主体である市町村のサポートを担っており、兼務の対象になった職員はその他の分野を担当するという。

(写図説明)池田竹州総務部長(左)に保健医療部参事監との兼務を発令する玉城デニー知事=24日、県庁

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